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玄冬のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 玄冬のミステリーツアー参加者一同
49/63

「春が来たので」 みのり ナッシング 【推理】


1 現在 神社にて


 あの人は言った。春が来たなら、もう一度ここへ来るようにと。

 2月の中旬。陽気を感じられるのはまだまだ先でしょう、とは昨日のニュースキャスターのげん。吐く息は白く、同じく白い雪だるまが道ばたで鎮座していた。昼になっても溶けることはないだろう。そんな冬の日だ。

 にも関わらず俺は、ここに来た。この平坂ひらさか神社に。真白な玉砂利が敷き詰められた参道を、俺は歩く。お正月の初詣以外で来るのは、これで2度目だ。前回来た時、2ヶ月前と同じで、人はまばらだった。

 だから、すぐに見つけることができた。あの巫女さん。春が来たなら、と約束してくれた人が。

 巫女さんは、奇妙な参拝客のことを覚えていた。ふわりと、俺に笑いかける。

「また、いらっしゃったのですね」

 彼女の柔らかい微笑みはとても温かくて、一瞬俺は、春の訪れを錯覚したのだった。

「はい――春が来たので」




2 これより回想 お参りに至った経緯


 年の瀬。今年も残すところ1週間という日。

 誰もが慌ただしく、しかし幸せそうに年を越す準備をする中、俺はくすぶっていた。人生初めての挫折は、もう治まっていたはずだった。去年の大学入試センター試験。合格間違いなしと太鼓判を押されていた俺は、本番で全く実力が出せず、無残に散った。

 そもそも、試験前からいけなかった。会場となる大学構内に入った途端、俺は凍った路面で――スケートリンクでもああはなるまい――滑り、見事な尻餅をついた。カイロやチョコレートを配っていた予備校の講師たちや、他の受験生から一斉に注目を浴びた。痛みと寒さと恥ずかしさとで、俺の顔は真っ赤になったことだろう。チョコレート菓子はポケットの中でぐちゃりと潰れていた。

 不幸は試験中にも。たった一つのマークミスが命取りになった。終了間際に気付いたが、もうその大問はドブに捨てたも同然だった。手は震えていた。

 休み時間、失敗を笑い飛ばせていれば、そこから立て直せたかもしれない。だが、同じ高校の生徒を前に、それを口にすることは、プライドが許さなかった。今考えれば、ちっぽけなプライドが。

 滑り止めを蹴って、浪人を選択したのも、そのためだ。

 2年目の受験。当初はまだ気概が残っていた。実力を出せれば受かっていた。そんな傲慢な自信。確かに、最初は順調だった。予備校の中でも模試でも上位の成績を納めた。現役生だったころと同じに、俺は優等生だった。

 だが12月になり、本番が近付くにつれ、悪夢にさいなまれるようになった。俺はいっそう受験勉強に力を入れた。食事をとりながら参考書を睨み、歩く時も単語帳を開き、寝る間も惜しんで勉強した。曜日感覚がなくなったほどだ。

 そんな生活がいいはずがない。短い睡眠の中で、決まって俺はうなされた。広い教室でたった一人、マークシートを埋める夢。ふと、1列分ずれているのに気付く。書き直しても、どうしてもずれる。焦っているうちに、鉛筆が手から離れる。床に転がったそれを拾おうとして、床なんてなかったことに気が付いた。あるのは、どこまでも深い、真っ暗な穴。

「――落ちる!」

 がくん、という恐ろしい感覚とともに、俺は飛び起きた。後から親に、もの凄い悲鳴を上げていたと心配された。

 自分が、こんなにも弱い人間だったとは。

 俺はなにかにすがりたかったのだ。安心をもたらしてくれるもの。不安を打ち消してくれるもの。弱気な自分に打ち勝つ、勇気をくれるものを。

 神社でお守りを買おうと思いたったのは、ある男の言葉がきっかけだった。




3 蓼沼という男


 予備校で知り合った蓼沼という男は、頭部の左半分だけを剃り上げ、もう半分は肩ほどまである長髪をなびかせている。彼はこう助言してくれた。

「願掛けをするなら、平坂ひらさか神社がいい」

 と、その前に、彼の非対称な頭髪について語らねばなるまい。でないとこの先の話が頭に入ってこないだろう。

 知り合った頃、蓼沼は見事な長髪だった。しかしある時、左側だけ、頭頂部を境目に、綺麗に剃り上げてきたことがあり、皆、度肝を抜かれた。発狂したカリスマモデルでも、そんな髪型にはしない。

「デデキント切断カットだよ」

 皆の合格を祈念して、キ○トカット(受験生が喜ぶ語呂合わせで有名なチョコ菓子)にあやかったのだ、と得意げな蓼沼。意味が分からなかったが、しばらく奴のあだ名は「タデキン」となった。

 その蓼沼が平坂神社を勧めた。俺も正月にはよく行く、県内では有名な神社だ。ローカル線の終点が最寄り駅で、志望する大学も比較的近くにある。

「まず、笠木かさぎが五角形だから」

 蓼沼は淀みなく理由を説明し始めた。笠木とは、鳥居の横棒を形成している木材のこと。その断面が五角形なのだという。

「五角は合格に通じる」

「なるほど」

 笠木の形なんてよく知っているものだ、と俺は呆れる。さては神社オタクか。

「『まず』ってことは、『次に』もあるのか」

「そうだ」

「学問の神様がまつられているとか?」

 当てずっぽうで言ってみたが、首を左右に振られた。

「いや、あそこの神様は学問専門ではない。ただ――」

「ただ?」

「巫女さんが、知恵のある人らしい。どんな謎も解決してくれるそうだ」

 謎? 日常であまり聞き慣れない単語に、俺は眉をひそめる。解決って、相談所でもやってるのか。

「蓼沼も女に興味があるんだな」

 俺は本気にしなかったが、助言はありがたかった。

 翌朝、さっそく神社に行くことにした。

『あと24日』

 カレンダーをめくるのが、朝の日課だ。センター試験までの残り日数は、着実に減っていく。日付や曜日は分からなくなっても、1月18日(運命の日)まであと何日か、その数字だけはいつでも思い出すことができた。

 普段と同じ薄汚れた格好はなんとなく嫌で、洗い立てのジーパンを選択する。少し窮屈だが、蕗の薹のように、かえって気持ちがしゃきっとした。




4 お守りを買う


 オープンキャンパスの時にも来た駅を降り、久しぶりの道を歩く。街角に現れ始めた門松は、正月、ひいては運命の1月の到来を嫌でも想起させた。俺は焦りを誤魔化すように、手袋をはめた手で軽く頬をはたく。

 高校時代にプレゼントされた毛糸の手袋は優れもので、指先が特殊な素材で、付けたまま本のページを捲れるし、スマホを操作することもできる。唐辛子みたいな派手な赤色はちょっと苦手だが、文字通り手放せない。これをくれた女の子は、遠方の大学に現役で合格したから、御利益もあるだろう。

 ……会えない時間が愛を育てるなんて、迷信だったけどな!

 そうこうしているうちに、目的地に着いた。

挿絵(By みてみん)

 蓼沼の言葉を疑ったわけではないが、鳥居を見上げてみる。なるほど、五角形だ。俺はお辞儀をしてから、参道へ足を踏み出した。

『巫女さんが、知恵のある人らしい』

 いったいどんな人なのだろう。今のところ、巫女どころか、参拝客もあまり見当たらない。一人、値の張りそうなカメラを構えた中年男性とすれ違った。なにがいいのか、石灯籠を撮影している。正月の、芋を洗うような状態の神社しか知らない俺にとっては、閑散とした様子は物珍しい。

 参道の終わりで門をくぐり、境内へ。とりあえずお賽銭をあげようと思い、拝殿に入った。無神論者でも簡単な作法くらいは知っている。お寺とは違って、手を叩くんだろ。

 ぼふん!

 手袋を着けたままだから、えらく間抜けな音が鳴った。

 それから、えっと。財布を取り出す。

『五円はご縁をもたらす』

 とも、蓼沼はのたまっていたな。あいにく財布にはない。

 いや、もしかしたら。俺は尻ポケットをまさぐる。ビンゴ。五円玉が出てきたので、それを投げ入れる。

 なにかの時にお釣りでもらったのを突っ込んで、そのまま忘れていたのだろう。ジーパンと一緒に洗われたから、ピカピカだったぜ。冗談だよ。

 さて、本題だ。

 同じ建物の隅に授与所はあった。窓口に一人の巫女さんが座っている。この人が例の頭の回る人だろうか。いたって普通の女性に見える。強い目力の三白眼でもないし、虹彩(こうさい)の色が左右で違っていたりもしない。

 売り場の台には、様々な品物が並んでいた。おみくじ、絵馬、破魔矢や置物、恋愛成就のお守り……う、見なかったことにしよう。

 なぜかコンペイトウといったお菓子も置いてある。光の反射の角度によって、七色に見えるのが綺麗だ。

 そんな中に俺の目当てもあった。透明なビニールケースに覆われた、金色の布地。中央には紫で「平坂神社御守」、そして左右に「学業成就」「合格祈願」と刺繍がなされていた。初穂料、三五○円也。

「これください」

 俺は財布から、過不足ないように硬貨を選び、差し出す。彼女は手慣れた動作で、お守りを渡してくれた。




5 急な着信


 お守りを受け取った時、ちょうど軽快なメロディが拝殿に響いた。尻ポケットの中のスマホが着信を告げていたのだ。待ち受けに表示されていたのは、『蓼沼』の文字。

「なんだ、あんたか」

 立ち話をするには厳しい季節なので、すぐ側の休憩所に入ることにする。暖房の効いた暖かい空間にホッとしたのも束の間、俺は目を剥いた。

 すすり泣く女がいたのだ。白いコートを着た、若い女の人が座席に腰かけている。膝の上で、コーヒーの缶を両手で包むように持って、両目から大粒の涙を流していた。

「あ、えっと」

 彼女は気まずそうに目をそらすと、俺の横をすり抜けるようにして、足早に休憩所を出て行った。なんだったんだ。

『おーい。どうした?』

 蓼沼の声で、我に返る。とりあえず荷物リュックを下ろそう。

『もう神社には着いたか?』

「今ちょうど、お守りを買ったとこ」

『じゃあ、まだ境内にいるんだな?』

 なぜか安堵したような声だった。

『一つお使いを頼まれて欲しい。授与所にコウ・・ペイトウがあっただろ?』

「コウ? 『金平糖(こんぺいとう)』のことか」

『いや、コウでいいのさ。金色じゃなくて、虹色だったろ」

 まあ、七色ではあった。

『だから、「コウ」ペイトウ』

 頭の中で、漢字が変換される。こんこう虹平糖こうぺいとう。それが七色のコンペイトウの名前だそうだ。この神社の人は独特のセンスをお持ちらしい。

『無料で授与されているから、僕の分ももらってきてくれないか。期間限定なんだ』

 どこからそんな情報を仕入れられる。やはり蓼沼は神社オタクだ。

 まあ、人の趣味を笑うつもりはない。俺だって、ある特殊な嗜好、というか性癖を抱えているからだ。

 会話が終わった後、俺は一人きりの空間で、思わず息をついていた。緊張の糸が緩んだようだ。家と予備校を往復する毎日だったのが、久しぶりに行き先を変えて、気持ちがリフレッシュされたのかもしれない。あるいは、この神社の穏やかな空気がそうさせているのか。

 よし、もう少しだけゆっくりしていこうか。

 すぐ見えるところにトイレがあったので、先に済ませることにする。貴重品だけ、ダウンジャケットのポケットに入れた。リュックは置いていく。早朝から神社で置き引きをする輩もいないだろう。

 邪魔になるから、手袋は脱ぎ、リュックの中に突っ込んだ。

 その時にはもう、さっきの泣いていた女のことは綺麗に忘れていた。




6 美しいサ行


 小用を足した後、トイレを出ると、拝殿が目に飛び込んできた。改めて見ると、かなり立派な造りだ。カメラマンが撮影に来ると言われても、納得できる。俺も写真でも撮って、蓼沼に自慢してやろう。

 俺はポケットからスマホを取り出し、洗ったばかりの冷たい手で構えた。寒さで手がかじかんでいる。さっさと済ませよう。パシャリ。うん、なかなか。

 奴はメッセージアプリのたぐいを使わないので、Eメールアドレスに写真を送る。さて、あとはコンペイトウをもらうだけだ。受験生の日常に戻るとするか。

 休憩所に荷物を取りに行こうとした時だった。

「すみません」

 後ろから、声をかけられた。若い女性の声だった。

 その瞬間、体中に電流が走った。ゆっくりと、振り返る。そこには、二十歳を少し過ぎたくらいの女性がいた。

 なんてことだ――。

 俺は人生で初めて、一目惚れをした。いや、正確ではないな。俺が恋に入ったのは、一目見るよりも前、その声を聞いた瞬間だったのだから。

 泰然たる声音。安らかな気持ちを誘う発音。なによりサ行が素晴らしい。俺は、「さしすせそ」の発音が綺麗な女の人が、たまらなく好きなのだ。

 これが、俺が密かに持つ、特殊な嗜好。フェチと言っていいだろう。「新春シャンソンショー」なんて言ってもらった日には、もうそれが俺の命日になってもいいくらい。

 初恋は小学生の時。相手はクラス担任の先生だった。もちろん、「さしすせそ」に惹かれて。「さ」は爽やかに、「し」はしっとり。すべらかでいて、寂寞せきばくの、そんな女声に呼ばれるたびに、俺は身悶え、ときめいた。

 あの頃に匹敵する、いや、それ以上の衝撃だった。たった一言だけでも、はっきり分かる。この人こそ、完璧な「さしすせそ」の体現者。その音で、自分の名前を呼んでもらえたら、どんなに幸せだろうか。

「えっと、大丈夫?」

 はっ。いけない。お姉さんが困っている。

 少し冷静になって、俺は気付いた。動揺してすぐには分からなかったが、さっき休憩所の入り口ですれ違った人ではないか。笑顔を浮かべてはいるが、目元がまだ赤い。この人こそ大丈夫なのだろうか。

 だが、彼女の行動は、さらに俺を驚かせた。

「これ、忘れていたよ」

 彼女が差し出してきたその手には、お守りがあった。合格祈願のお守り。俺は息を呑んだ。あ、そういえばお守り、どうしたっけ。彼女が持っているってことは、忘れていた?

 血の気が引く思いがした。

「ありがとうございます……どこでこれを」

「え? あー、あそこで」

 女性は、俺がつい今まで写真に納めていた拝殿を指さした。……まじかよ、俺。買ったものを、その場に置き忘れていたのか。思えば、電話に気を取られていて、その後どこかにしまった記憶はない。胸の底が冷えていく感覚がした。浮かれている場合ではなかった。なんのためにここまでやって来たのか分からない。

「ありがとうございます!」

 改めて、心の底から頭を下げる。だから俺は、女の人の目が泳いでいたのを、その時は疑問に思わなかった。

「おおげさよ。勉強、がんばってね」

 女の人は踵を返すと、俺が来たのと同じ門を通り、境内を後にした。後ろ姿は、俺の網膜に強く焼き付けられた。くくられた黒髪。纏める白いシュシュは、花の形をしていた。

 清楚な花は、彼女のイメージにぴったりだった。




7 謎


 休憩所に戻ってから、念のため荷物を検めたが、お守りはなかった。やはり忘れていたらしい。

 なんとまあ、阿呆なことか。俺は自分の馬鹿さ加減に呆れ果てた。買った初日にお守りをなくす奴があるか。あの女の人のおかげで救われた。

 多分、授与所でこんな会話があったのだろう。


??『あれー、こんな所にお守りが。誰か忘れたのかな』

巫女『まあ。さっきの男の人ですわ。休憩所の方へ行かれました』

??『大変、私、届けにいってきます!』


 頭の中でそんな光景が再生される。コンペイトウをもらうついでに、巫女さんにもお礼を言わないといけないな。

 その時はまだ、暢気なことを考えていた。

 授与所に戻ると、巫女さんは小首を傾げた。俺は少し違和感を覚える。想像していたリアクションと微妙に違う。

「あの、さっきはありがとうございました。お守り、ちゃんと受け取りました」

 手にかざして見せる。だが巫女さんは怪訝な表情を浮かべるだけだ。

「すみません、どういうことでしょうか」

 ……あれ。巫女さんは俺がお守りを忘れたことを知っているんじゃないのか。

「さっき、女の人が来ませんでしたか。えっと」

 サ行の発音が綺麗な、と言いかけて、自制する。

「髪をシュシュでくくっていました。花っぽい形の。白いゼラニウムかな」

 すると巫女さんはくすりと笑った。

「花言葉的に正反対ですよ。indecisionです」

「インディード?」

「いえ、なんでもありません。彗星蘭のかたですね。いらっしゃいましたよ」

 彗星蘭。あの花の名前か。綺麗だ。彼女のサ行の発音で再生されたら、きっと惚れ惚れするような響きなんだろう。

 それはいいとして。ふむ。彼女がここを訪れたのは事実のようだ。

「その人から、お守りを渡されたんです。ここに置き忘れていた、と」

 巫女さんは驚いたような顔をした。

「そんなはずは――だって」

 そこで言葉を切ると、呟くように、しかしはっきりと通る声で告げた。

「彗星蘭の方は、()()()()()()()()()()()()()()()()よ」

 今度は俺が驚く番だった。あの女性は俺の前に拝殿に来ていた? 待て、どういうことだ。

「えっと、俺の後に、もう一度来ましたか?」

「いいえ。一度だけです」

「違う人って可能性は……」

「間違いないと思います。今日はまだ、若い方はあまりいらしてませんから」

 なんだか、狐に化かされたような気分だった。

 じゃあ彼女は、どうやって俺のお守りを回収してくれたんだろう?




8 平坂神社の巫女


 巫女さんが、俺の手にあるお守りをじっと見つめているのに気が付いた。

「あ、見ますか」

「……はい。失礼します」

 彼女は両手で受け取って、

「当社のものです」

 と呟いた。そして、唐突に尋ねてきた。

スイさん・・・・にお会いしたのは、お手洗いに行かれる前ですか? 後ですか?」

「スイさん?」

「彗星蘭から頂戴しました。指示語では分かりにくいですので」

 なるほど。ちょっと独特なネーミングだが、それは理解できる。

 理解できないのは、発言の後半部分だ。どうしてこの人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()んだ?

 今彼女が座っている窓口からだと、トイレは後方に位置する。いったん授与所の外に出ないと見えないはずなのだ。

 巫女さんは、自分の発言の唐突さに気付いたのか、

「言葉が足りず、失礼しました。手袋を外されているので、そうではないかと」

 理由を説明した。なるほど、分かった。お守りを買った時にしていた手袋が、今は外されている。それで気付いたんだ。よく見ている人だ。

『謎を解いてくれる』

 と、蓼沼が評していたのを思い出す。鋭い観察眼を持っているようだ。

「俺がお守りを渡されたのは、トイレに行った後です。建物を出たとこで、拝殿の写真を撮っていたら、声をかけられました」

「そうですか。ありがとうございます」

 巫女さんは満足げに頷いた。トイレとの前後関係が、それほど大事な情報だろうか。

 それから俺は、お守りを買ってからの行動を改めて説明した。

挿絵(By みてみん)

 電話を受けて、休憩所に行ったこと。そこで女の人とすれ違ったこと。しばらく電話をした後、トイレに行ったこと。建物の前で、彼女にお守りを手渡されたこと。

「お守りを見た記憶があるのは、最初の時だけです。蓼沼――友人から電話がかかってきて、それに気を取られました。それから後は、お守りを手に取ったり、見たりした記憶がないんです。……確実とは言い切れませんが」

「よく分かりました。ありがとうございます」

 巫女さんは小さく頷いた。

「私も、お渡しした後、どうなさったかは見ていませんでした。自分のスマホが鳴ったのかと勘違いをして、慌ててしまいましたから」

 そうだったんだ。着信音が同じなのだろう。

 巫女さんはじっと手元を見つめたまま、小さく呟いた。独り言にしては奇妙な言葉だったが、俺の聞き間違いだったかもしれない。

「見込みがあるわね」




9 スイさんはスパイさん?


 巫女さんは考えをまとめるように、ゆっくりと話し始めた。

「スイさんはあなたに、お守りを忘れていたと言い、手渡しました。しかし、彼女は実際には、あなたの後には拝殿を訪れていませんでした。どうやってお守りを回収したのでしょう? 私の目にも触れずに」

 それは、俺も疑問に思ったところだった。

「スイさんの行動を考えてみますと――。彼女は拝殿を出た後、休憩所に入った。そしてあなたと入れ違いに出て、()()()()()()()()()()

 まただ。

「どうして分かるんです?」

「泣いていらっしゃいましたから。お化粧直しに行ったのではないかと思いました」

 そうだ。なぜか彼女は泣いていた、と俺は思い出す。考えてみればあれも不思議な話だ。

 巫女さんが知っているということは、拝殿にいた時点から泣いていたということになる。本当に、なにがあったんだろうか。

「拝殿ではお守りを回収できません。しかし、スイさんはお守りを手にしていました。考えられるのは、あなたは拝殿ではお守りを忘れておらず、どこか別の場所でスイさんがそれを手に入れたということです。

 スイさんは、()()()()()()()()()()()()

「そんな、じゃあ」

 なんのために、と聞こうとして、俺は言葉を詰まらせる。決まっている。なにか言えないことがあったからだ。それは後ろ暗いことだったかもしれない。どこで見つけたかと聞いた時、彼女は狼狽していた。

「もしかして。休憩所で、すれ違った時に!」

 スイさんはスリさんだったっていうのか!? 嫌だ、そんなの!

「そう思いたくはありませんね。動機もありませんし」

 巫女さんは心苦しそうだった。なるほど、動機か。俺のお守りを手に入れたところで、なんの得になるというのか。しかもすぐに返している。

 ……昔、こんな映画を見た。主人公のスパイが裏取引で、土産屋の非売品を暗号の隠し場所に使う。しかしそれが手違いで売られてしまい、回収しようと奔走する。

 俺が買ったお守りにも、秘密の暗号が隠されていたとしたら? いったんお守りを回収し、中から必要なものを抜き出してから、返す。

 なんのことはない。スイさんはスパイさんだったのだ!

 彼女が悪人だと考えるくらいなら、こんな荒唐無稽な妄想の方が、よっぽどましだ。




10 赤い糸


 その時、俺はある可能性に思い至った。

「あの。これって、本当に俺のお守りでしょうか」

 俺が確かめたのは、自分がお守りを持っていなかったということだけだ。渡されたこれが、俺が忘れたものと証明する術はない。型番があるわけでもあるまいし。

 お守りが別物だったとなると、話は変わってくる。少なくとも方法論は解決だ。前後関係の問題に思い悩む必要はなくなる。

 なによりこの案の利点は、スイさんの意図が明確になるところだ。つまり彼女は俺以外の誰かが忘れたお守りを、間違って俺に渡したという仮説。やはりスイさんは、忘れ物を届けようとするいい人だったのだ。

 そうなると、俺の本当のお守りはどこに行ったのだ、という新たな問題が発生するが、スイさんが「善意の第三者」(この場合の善意は文字通りの意味)であることは保証される。一目惚れの相手の潔白(?)が証明されるなら、万々歳だ。

 だがその考えは、非情にも断ち切られた。

「あなたのものだと思います」

 巫女さんは、すっぱりと言い切った。確かな自信に満ちた声だった。

「その根拠は?」

「ここに、線維が付いています」

 彼女は、お守りの一点を指さした。ストラップの紐が結びつけてある所だ。目を細めてよく見ると、糸くずが付いているのが分かった。赤色の……あ!

「手袋か!」

 急いでリュックから手袋を取り出す。唐辛子色のほつれた毛糸。その線維が引っかかったのだ。

「あなたはお手洗いに行ってから今まで、手袋をけていませんね。だとしたら、これはスイさんに渡される前に付いたものということになります」

 彼女が赤いものを身に着けていた形跡もなかった。そうか。トイレの前か後かを確認したのは、このためだったのか。巫女さんは、お守りが本当に俺のものかどうか、とっくに検討していたらしい。

 スイさんが別人のお守りを渡したわけではないのは分かった。

 だが問題は解決しない。また振り出しだ。

 スイさんはなにかしらの魂胆をもって俺に近付いたのか? いや、そんなふうには思いたくない……。

 思考がまとまらなくなってきた。お守り。コンペイトウ。シュシュ。手袋。赤い糸クズ。

 はあ。

 俺とスイさんの間にも、運命の赤い糸が残っていたりはしないだろうか。




11 春が来たら


 ピロリン、と軽快な音が鳴る。メールだ。尻ポケットからスマホを取り出す。ちらっと巫女さんをうかがったが、今回は取り澄ました様子だ。

 送り主は『hydropiper0214@~~』。蓼沼のアドレスだった。開くと、写真の礼が書いてあった。

『写真ありがとう。待ち受けにするね♪』

 あんた、そんなキャラじゃなかっただろう。

『ところで、カラオケにでも行ってるのか? もう授業始まるぞ』

「えっ」

 慌てて時刻表示に目をやる。やばい。長居しすぎた。

 スイさんのことは気になるが、俺もそう言っていられる身分ではない。謎解きもここで終わりだろう……。

「もしかして、例のお友達ですか?」

「そうです。神社オタクで、拝殿の写真を送ったら喜んでいましたよ」

 巫女さんは嬉しそうな顔をしていたが、突然はっとして身を乗り出してきた。

「写真を送ったのですか? 先ほど撮られたものを?」

「えっと、はい」

「スマホで?」

「ええ……Eメールですが」

 質問攻めに困惑する。トイレの前後関係を聞いた時と同様、それが重要であるという風な聞き方だ。もしかして、なにか気付いたのか。

 俺の想像は、当たっていた。

()()()()()()()()()()

「ほんとですか!?」

「本当です。スイさんの言葉に説明がつけられます」

「じゃあ――」

 巫女さんは、俺を制止するように片手を前に出した。

「待ってください。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 どうして。思わず食ってかかりそうになる。だが、俺は巫女さんが口を閉ざす理由に気が付いた。

「もしかして、スイさんが望んでいるからですか」

「はい、私もそう思います」

 もし、彼女にワケがあるのだとしたら。なにか事情があって、あんな嘘をついたのだとしたら。

 俺には知りようもない。だけど、無理に知ることでもない。俺にはどうしても、彼女が悪人には思えなかったから。惚れた弱みと言われれば、それまでだが。

「……友人の分も、コンペイトウをもらっていいですか?」

「ええ。どうぞ」

 では、お言葉に甘えて。正直この色味は口に入れるものとしては怖いが、蓼沼を毒味役にすればいい。

 巫女さんは、濃紺の紙に包んで、二つ分渡してくれた。

「スクランブル放送です」

「は?」

「失礼、間違えました。マゼランブルーの包装です」

 びっくりした。神社が暗号化電波を飛ばしているのかと思った。

 ていうか、コンペイトウといい、センスが独特すぎる。

「一つだけ。今の私に言えるのは、スイさんは善意に基づいて行動したということです」

 巫女さんは急に真剣な表情になった。つられて俺も姿勢をただす。

「それだけは信じていいと思います」

「でも、」

 スイさんとの縁が、これで終わってしまうかもしれない。そんな寂しさが、つい口を衝いて出た。

「いつか、彼女の真意を知れる日は来るんでしょうか」

 神に仕える乙女は、じっと俺を見つめてから、

「もし、どうしても真相が知りたいのなら。一つ条件があります」

 優しく微笑んだ。

「春が来たら、もう一度いらしてください。その時は全てをお話ししましょう」




⛩ そして現在


 俺は平坂神社に戻ってきた。

「また、いらっしゃったのですね」

「はい――春が来たので」

 巫女さんはにこりと笑ってくれた。

 参拝を済ませてから、巫女さんと俺は休憩所へ向かった。ここでスイさんの真意を聞かせてくれるのだろう。

「今日いらっしゃったということは、()()()()()()()()()()()()()

「はは、お見通しですね」

 その通りだった。2月の中旬。季節が春になる前にここを訪れたのには、そういう理由もある。スイさんの言動の意味が分かった今、もう気兼ねすることもない。

 休憩所の自販機で缶コーヒーを購入する。巫女さんは紅茶飲料だった。熱いコーヒーが、身体に染み渡る。

「では、どこからお話ししましょうか――」

 巫女さんが謎解きを始めようとした時、ちょうど休憩所の扉が開いた。そこにいたのは、老人――と呼ぶには少し若い紳士だった。60代くらいだろうか。目元が優しい、「先生」という感じのおじさんだった。綺麗な白髪も柔和な印象を強めている。

「こんにちは」

 知っている人なのか、巫女さんが挨拶をする。彼は眉をハの字に曲げて、「ちょっとだけいいですか」俺を見た。

「あ、どうぞ。俺は待ちますんで」

「すまないね」

 おじさんは本当に申し訳なさそうに会釈した。俺みたいな若輩者に丁寧に接してくれる年配の人もいるんだ、と珍しく思った。

「いつだったか、忘年会でちゃんこ鍋を食べた話をしたでしょう? その店で祝賀会をすることになって、ミーコさんも是非にということに」

「いいのですか。私などがいてはお邪魔になるでしょう」

「なにをおっしゃるのやら。サンタの格好で、僕たちにおでんを取り分けてくれた眼鏡っ子は誰でしたっけ? ――」

 内容はよく理解できなかったが、二人は神社以外でも知り合いだということは想像できた。

「それでは、また」

「楽しみにしています」

 数分ほどで、打ち合わせらしい会話は終わった。男性はもう一度俺にも頭を下げ、休憩所を出て行った。

「お待たせしてすみません」

 巫女さんは一口、紅茶を飲んだ。

 俺はあの日のことを思う。運命的な出会いを果たした朝のことを。理想的なサ行の発音の持ち主。スイさんがついた嘘。

 真相が、語られる。

「私がスイさんの意図に気付いたのは、最後に写真の話を聞いた時でした。あなたがスマホで写真を送ったと聞いて、驚きました。立派なカメラで撮影に来られる方は多いですから、てっきりあなたもそうだと思い込んでいたのです」

 写真はスマホで撮られていた。この事実が、巫女さんに真相を気付かせるきっかけとなった。

「ところであなたは、ポケットにものをしまう癖がありますね」

 やはり気付いていたんだ。俺は頷く。昔からの癖だ。とりあえず尻ポケットに突っ込んでしまう。1回目のセンター試験当日は、チョコレート菓子を潰してしまった。いつかお釣りでもらった五円玉も、ジーパンのポケットに入れっぱなしになっていた。

「でも、いつ気付いたんですか? それが不思議だったんです」

「お賽銭をあげられた時です」

 巫女さんは両手を打ち合わせた。パン、パンと澄んだ音が狭い空間に響く。

「面白い音がしたので、顔を上げました。手袋をされていたからですね。

 あなたはいったん財布の中を見た後、ポケットから硬貨を取り出しました。取り出すのに苦労されていたようなので、しばらく見てしまいました」

 思わず頭を掻く。あの日は洗い立てできつくなったジーパンだったからな。手間取ったことを覚えている。

「それで、ポケットにものを入れる癖があるのではないかと考えたのです。あなたはお守りを受け取った後、無意識にポケットにしまったのではないでしょうか」

 電話がかかってきて、スマホを取り出す。意識が電話に逸れたまま、俺はいつもの癖でお守りを尻ポケットになおす。あり得る話だ。その際、手袋の赤い線維がお守りに付いた。

「あなたは、お守りを忘れてはいなかったのです。ポケットにしまっただけでした。では、彼女はどこでお守りを手に入れたか。それは当然、授与所でも、休憩所でもありません。

 ()()()()()()です。彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のです」

 そう。真相は単純だった。俺はお守りを置き忘れてもいないし、スイさんはスリでもスパイでもなかった。彼女はただ、俺がお守りを落とすところを目撃しただけなのだ。

「あなたは拝殿の写真を撮ろうと、お尻のポケットからスマホを取り出しました。その時、一緒にお守りが飛び出てしまったのです」

 ジーパンは洗い立てで、きつかった。だから引っかかった。手は冷たさで感覚が鈍っていたから、気付けなかった。

「お手洗いから出た彼女は、一目で状況を把握しました。あなたがお守りを落としたと。このままでは忘れてしまうかもしれない。だから、拾って声をかけました」

 色々と考え悩んでしまったが、結局は最初の直感が正しかったのだ。やはりスイさんは、善意の人だった。俺にお守りを渡してくれた。なくすのを防いでくれた。

「彼女は最初、こう言おうとしたと思います。『落としましたよ』と。

 でも、それではいけないと気付きました。なぜなら、あなたが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 落ちる。

 その言葉に敏感になる人もいる。不合格に通じるからだ。鳥居の五角形も、滑る、も同じ理屈だ。

「それで咄嗟に、忘れていましたよ、と声をかけました。彼女がついた嘘の要はこちらだったのです。拝殿でも休憩所でも、場所は大事ではありませんでした。お守りを『落とした』ことを悟らせないために、人生の大事な時期にいる受験生を思い悩ませないために、嘘をついたのです」

 それは、なんて優しい嘘だろう。スイさんは悪人などではなかった。どこの誰かもしれない受験生に、温かい心遣いをしてくれた。

「巫女さんは、それに気付いたんですね。だからあんなことを言った」

 春になってから、という条件の真意。今なら分かる。春、つまり3月や4月になれば、合否は決まっている。その時点なら、縁起を気にすることもない。仕方ないと、割り切ることもできよう。

 思えば俺は、なんて優しい人たちに支えられてきたことか。

 家族にも。

 友人にも。

 見知らぬ誰かにも。俺は助けられていた。

 天狗になっていた高校生の頃の俺なら、こんな当たり前のことに気付くのに、あと何年かかっただろう。本当に、感謝しなければならない。

「ところで、巫女さん。言い忘れていたことがあります。

 先日、見に行ってきたんですが――」

 巫女さんはそれだけで俺の言いたいことが分かったようだった。彼女が言った「春」は、季節を指していた。時期的に受験は終わっているだろうから、と。

 だが、俺の場合は違った。

「もしかして」

「はい。よく『桜咲く』って言うでしょ」

 巫女さんは、ぱっと表情を明るくした。少し照れくさかったが、俺は彼女の目を見据え、感謝を込めて報告した。

「合格しました」

 春が来た。だから俺は、会いに来たのだ。




エピローグ


 今日はもう一つ、寄るところがあった。大学だ。最寄り駅が同じなので、平坂神社にも行ったというわけだ。

 大学では合格者説明会がある。色々な書類を渡されるのだが、在学生、つまり俺の先輩となる人たちにとっては、違う意味合いもある。新入生は入り口で取り囲まれ、熱烈な歓迎、もといサークルや部活の勧誘を受けるのだ。

 構内に入る前にメールを確認すると、蓼沼から数枚の写真が送られていた。彼も無事に推薦入試をパスし、誕生日であるバレンタインデーの今日、温泉旅行の真っ最中だ。雪見のできる露天風呂らしい。なぜか最近はやりのシュクメルリを食っている写真もある。

 だがそれよりも、俺はタイトルに驚かされた。『而立じりつの節目に』

 而立……おい、待て。30歳だと!? よく見れば、熱燗をつけている写真もある。あの人、そんなに年上だったのかよ。

「はは。まったく!」

 愉快だ。なにもかもが愉快だ。この世の春とは、まさにこのことを言うのかもしれない。

 贅沢を言えば。

 俺は人混みの中で、立ち止まる。手袋のしていない、己のかじかんだ手に視線を落とす。もう、吹っ切れていたと思っていたけれど。喜びを分かち合える想い人がいないのは、ちょっとだけ寂しい。

 どうしても思い出してしまう。スイさんはどうしているだろうか。ささやかな、だが嬉しい気遣いをしてくれた人。心優しい、彗星蘭の人――。

「え?」

 目の端に、白い花が映った。いや、シュシュだ。

 俺は思わず、背後から、彼女に声をかける。彗星蘭をモチーフにしたそれが束ねる髪は、少し伸びたようだった。

「すいません!」

 振り返ったその人は、忘れもしない。あのスイさんだった。信じられない。こんなことがあっていいのか。目指す大学にいただなんて!

 脳内がぐるぐるかき混ぜられる。考えがまとまるよりも早く、俺の口は動いていた。この縁を逃すまいと、俺は必死だった。

「俺のこと、忘れましたか」

「なに、ナンパ? 生意気だぞ、新入生くん」

 ああ、惚れ惚れとする発音。美しいサ行。俺は負けじと、喧噪の中で声を張る。

修善寺(しゅぜんじ)あきらです。俺の名前」

 彼女の瞳が疑問に揺れる。

「しゅぜんじ」

 そう呟いた。俺は、胸が高鳴るのを抑えられなかった。

「分かった。思い出した。あの時の」

 覚えてくれていた。頭の片隅にでも残っていたことが、俺を舞い上がらせる。

「そっか。おめでとう。すごいね」

 陰りのある笑顔。俺は、あの日のことを考えていた。巫女さんも触れなかったこと。なぜ彼女は泣いていたのか。

 記憶をたどるように、あの日のことを思い出した。曜日感覚はないが、受験まであと24日だったというのは覚えている。蓼沼に送った拝殿の写真の日付をさっき確かめると、やはり12月25日だった。

 俺にとってはなんてことのない日。でも世間にとっては違う。クリスマスだ。

 今日、あのおじさんが言った「サンタの格好」という言葉で、点と点が繋がるように、俺の頭の中で一筋の仮説が敷かれていった。

 クリスマス。

 泣いていた彼女。

 赤い手袋。

 お守り。

 ――恋愛成就。

「あの時は、情けないとこ見せちゃったね」

「そんなことありません!」

 俺は必死に言葉を紡ぐ。伝えたかったこと。感謝の気持ちを。

「あなたのおかげで、俺は救われたんです! 大げさかもしれませんが、本当に。あの時はすごく参っちゃってて……あ、お参りってことじゃないけど」

 ぶっ、と彼女は吹き出した。

「そのうえ大事なお守りを忘れていたら、もう立ち直れなかったかもしれません。だから、あなたは俺の恩人です。全然、情けなくなんかないです!」

 馬鹿みたいだ。必死で。でも、俺は満足感に包まれていた。もう会えないと思っていた人に、会えた。もう言えないと思っていた言葉を、伝えられる。

「あなたのおかげで、合格できました。ありがとうございます」

「菱川」

「え?」

 彼女はにやりと笑って、突きつけるように言葉を発した。そこに、弱気な表情はなかった。

菱川(ひしかわ)聡美(さとみ)……君の恩人の名前よ」

 スイさん、いや、菱川さんのうっとりするような発音に、心を震わせながら、俺は。

 確信していた。本当の春が来るのも、そう遠くはないと。




 了





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