「海の鳴き声」 生吹 【不思議な話】
早咲きの梅花が散り始めた2月上旬。8月までに終わらせるはずだった就職活動が思いのほか長引いてしまい、僕は鬱々とした日々を送っていた。何もかもが絶望的で、クリスマスも正月も誰とも顔を合わさず、東京の狭いアパートの一室で独り静かに過ごした。こんなに寂しい冬は生まれて初めてだった。
この日も僕は就活アプリで探し出した企業の説明会に向かうため、臭いバスに揺られていた。この時期に就活スーツを着ていると、周囲から「あいつまだ内定貰ってないのかよ」と思われそうで不快だった。そんなつもりがなさそうな人でも、少し目が合っただけで思わず「何見てんだよ」と言いたくなる。だから僕は、余計なものが視界に入らないよう目を閉じていた。しかし、これが間違いだった。
「えー、次は、終点フェリーターミナル前。フェリーターミナル前です」
あろうことか居眠りをしてしまった。普段、公共の乗り物で寝るようなタイプではないので絶対に大丈夫だと思っていたのだが、この日は例外だったらしい。
腕時計に目をやると、もうとっくに説明会は始まっていた。今から急いで向かったところで、きっと聞ける内容なんて殆ど残っていない。
僕は仕方なくバスを降り、辺りを見回した。所々錆びた看板、薄汚れた建物、波の音と磯の香り。何の変哲もないただの廃れたフェリー乗り場だったが、とんでもない所まで来てしまったのだなと思った。
呆然と突っ立っていると、ターミナルのスピーカーから聞き取りにくいアナウンスが流れ、対岸からやって来たフェリーが静かに接岸した。
乗ろう。
衝動的にそう思った。僕はまるで何かに吸い寄せられるかのようにターミナルの中へ入ると、窓口で居眠りをしていたおばさんを叩き起こして切符を買った。気が変わってしまうのが恐ろしかったので足早にタラップを歩き、独り乗船した。
やがて定刻になり、ゆっくりとフェリーが動き出した。何かをサボる、すっぽかすという行為に慣れていなかった僕はどうにもそわそわしてしまい、じっと座っている気になれずにテラスへ出た。
冷たい潮風が寝ぼけた頭を容赦なく殴りつけた。どっちを向いても、見えるのはきらきら光る青い海と抜けるような青空だけ。タラップはどんどん遠ざかり、ついに見えなくなってしまった。何とも不思議な感覚だった。
対岸に着くと、また速足でタラップを降り、ターミナルの外に出た。一度も来たことはないが、どこか懐かしさを覚えるのどかな漁村だった。
特に行く場所もすることも考えていなかった僕は、人気のない海岸を目指してひたすら歩いた。とりあえず誰の目にも触れない場所へ行きたかったのだ。
真冬の海岸は荒涼としていてどこか寂し気だった。だだっ広い砂浜には、海風に揺れる枯草とひょろ長いユッカ蘭がぽつんと生えているだけで、まったく人の気配はない。
僕は、砂浜の真ん中に独り寂しく佇むユッカ蘭に歩み寄り、隣に腰を下ろした。波と風の音以外何も聞こえてこない。これまで溜め込んできた疲れやストレスが潮風に乗ってするすると抜けていくような気がした。僕は再び目を閉じ、波音と潮風に意識を委ねた。
海の彼方から、雷のような轟音が小さく響いているのが聞こえた。海鳴りかなと思って聞いていると、轟音はどんどん大きくなり、あっという間に僕のすぐ近くにまで迫ってきた。驚きのあまり思わず目を開けたが、そこには何もなく、さっきと同じ穏やかな波音が響いていた。
キャッ、キャッ、キャッ…… ハハハ!
微かに聞こえたその声は、僕の意識を一気に現実へ引き戻した。ふいに波打ち際の方から数人の子供の声が聞こえてきたのだ。
キャー!
それは悲鳴とも歓声とも違う、何とも奇妙な叫び声だった。僕は立ち上がり、声の聞こえた波打ち際へ走った。もしかしたら誰かが溺れているのかもと思ったのだ。しかし……
波打ち際には誰の姿もなかった。波の状態はとても穏やかで、誰かが攫われるはずもなかった。カモメの鳴き声かとも思ったが、どこを見渡してもそんな姿は見えない。
不思議だなとは思ったが特に恐怖を感じることもなく、体を冷やす前に僕はもと来た道を引き返すことにした。
防風林を抜けると、広い駐車場と小さな公園があった。公園のベンチには大きな黒猫が気持ちよさそうに眠っていた。僕が隣に腰を下ろすと、猫はめんどくさそうに首をもたげ、鋭い目でこちらを一瞥した。逃げられるかと思ったが、それすら面倒だったのか、また眠りについた。
「よう」
猫を眺めていると、どこからかがに股の厳つい男が近付いてきて僕に声をかけた。
「昼休みか?」
「いえ。まだ就活中で……」
僕は答えた。男は「ふーん」とだけ言うと、手に持っていた缶コーヒーをぐびぐびと音を立てて飲んだ。
「順調か」
「どう見えます?」
わかっているくせに聞くなよと思いながら、僕はため息混じりに言った。男は苦笑しながら答える。
「ま、気ィ落とすなよ。俺の時代なんて、どこにも就職できずに死んでった人間がごろごろいたんだ。焦らなくても何とかなるさ」
「はあ……」
何だか無駄に気遣われているような気がして居心地が悪かった。
「ああ、急に話しかけて悪いね。この辺、たまーに悪い噂聞くもんで、ちょっと心配になってね」
男の方もそれを察したのか、軽く咳ばらいをすると2、3歩後ずさって言った。
「いえ、僕は大丈夫ですから。お気遣いどうも」
男が帰りそうな雰囲気だったので、僕はわざとらしく愛想笑いをした。
「そうだ。この海岸、あんまり長居しないほうがいいぞ。幽霊出るって噂だからな」
男は思い出したようにそう言うと、ニヤつきながら駐車場に停めてあった大型トラックに乗り込んだ。どうやら彼は休憩中のトラック運転手だったらしい。
キャッ、キャッ、キャッ……
波打ち際の声が生々しく再生され、背筋が凍り付いた。さっきまでは何ともなかったのに、「幽霊」という言葉を聞いた瞬間、急に恐ろしくなってしまった。
僕は速足でフェリー乗り場へ戻った。とりあえず人の多い場所へ行きたかったのだ。
フェリー乗り場まで戻ってきたのは良かったが、次の船が出るまでまだ1時間あった。仕方がないので周辺をぶらぶらしていると、今度は奇妙な看板を見つけた。
でこぼこした流木に、白と紫のペンキで「喫茶 彗星蘭」と書かれていた。まるでミミズがのたうち回ったような、下手くそな字だった。ちょうど海風に晒されて身体も冷えていたので、どうせなら熱いコーヒーでも飲みながらフェリーを待とうと思い、僕は看板の示す方へと歩いた。
「彗星蘭」はフェリー乗り場から歩いて5分ほどの場所にあった。ペンキの剥げかけた白い板張りの外壁、雑草の生えた焦げ茶色の屋根。店先に置かれたスタンド看板には「バレンタインデーホットチョコ/アイリッシュコーヒー 今日だけ!」と書かれている。ドアの隙間から漂ってくる香ばしい匂いに誘われ、僕は迷わず店の中に入った。
「いらっしゃい。どうぞお好きなお席へ……って言ってもカウンターしか空いてないか」
掘り深い初老のマスターがカウンターを拭きながら言った。カウンター席以外はすべて埋まっていた。
あまり気乗りしなかったが、かと言って出ていくほどの勇気もなく、僕は渋々とマスターの目の前の椅子に座り、アイリッシュコーヒーを頼んだ。
「――海で何か聞きましたか」
不意に隣の席からそんな声が聞こえ、心臓が止まりそうになった。
「えっ……?」
座っていたのは若い女の人だった。はっきりした年齢はわからないが、とにかく若いということだけは確かだった。ひとつに纏めた長い黒髪、病弱そうな白い肌、目の下にうっすらとできた隈。綺麗だが、どこか不健康そうな人だった。
「……どうしてそれを?」
「潮の匂いがする顔色の悪い人だったので、何となく」
「それだけ?」
「はい」
女の人は何食わぬ顔でそう言って、目の前の紅茶を口に運んだ。どうしてそれだけでわかるのか不思議だったが、彼女には妙な説得力があった。まるで彼女自身があちらのものであるかのような、独特の雰囲気を纏っているのだ。
僕は、彼女に波打ち際で聞いた不思議な声について話した。
「それはウミナリです」
「海鳴り? 海鳴りって、天気の悪い日に沖の方から聞こえてくるゴオオォって感じの轟音ですよね?」
「いえ、そっちの海鳴りじゃないんですよ」
「そっちの……とは?」
海鳴りなんて何種類もあっただろうかと考えていると、予想の斜め上をいく奇妙な答えが返ってきた。
「本来の海鳴りは沖の方が荒れていて、低い位置に雲があるどんよりとした日に聞こえるものです。でもそれとは関係なく、澄み切った青空のもとで聞こえる音があります。あなたが聞いたのはそれだったんでしょう。海ってたまに鳴くんですよ。この辺ではウミナキと呼ぶ人もいるくらいです」
海が鳴くとはいったいどういうことか。一瞬からかわれているのではないかと思ったが、彼女の表情はいたって真面目だった。
「えっと、どうして鳴くんです?」
「さあ? でも聞いた人の殆どが『その後幸運が舞い込んできた』なんて言うので、たぶん悪いものではないんでしょう。何故か私にはしょっちゅう聞こえますが」
「じゃあ、しょっちゅう良いことが?」
「いえ、よくわかりません。結局気の持ちようなんじゃないですか」
話していると、注文したアイリッシュコーヒーが運ばれてきた。彼女は僕が熱々のコーヒーを恐る恐る口に運ぶのを、切れ長の三白眼でじっと見ていた。すべてを見透かしてしまいそうな不思議な目だった。
「ひとつだけ確かなのは、良くも悪くも海は傷心中の人間が好きということです。……まあ、「そんな現象もあるんだな」くらいに思っておいてください。あまり意識しない方が、良いものが貰えるでしょうし」
彼女はおもむろにそう言うと、カップの中の紅茶を飲み干して席を立った。本音を言うともう少し話していたかったが、僕がほんの一瞬目を離した隙に、彼女は忽然と姿を消していた。
内定が出たのはそれから2週間後のことだった。彼女の言っていた「良いもの」がこの内定だったのかはわからないが、あの日からというもの、僕はちょっとした幸運に遭遇する機会が増えたように思う。




