「アルカンシエルと冬の朝」 みのりナッシング 【友情】
冬の地面って、なんだかさみしい。
「おっはよー」
「おはよう」
親友の言葉に、わたしは顔を上げる。嬉しさで頬が緩んでしまわないよう、いつもは気をつけるけど、今日はその必要もなかった。
「うわ美雪、どうしたの!?」
エリーはわたしの顔を見るなり、驚きの声を上げた。予想はつく。顔の下半分を覆う、白いマスクのせいだろう。
「大丈夫、風邪とかじゃないよ。インフル流行ってるから、予防」
「え? ああ、マスクのことじゃなくて――」
エリーは言葉を切って、ずり落ちかけていた通学鞄をかけ直した。肩口で切りそろえられた、艶のある黒髪が小さく跳ねる。
「眼鏡。かけてないでしょ」
「ああ、そのこと」
「ついにコンタクトに変えたとか?」
期待に満ちた目を輝かせるエリーには悪いけど、そうじゃない。
「マスクしてたら、眼鏡曇っちゃうから」
実際、そのせいでさっきは段差につまづきかけた。俯いて、足下ばかり見て歩いているくせに、情けない話だ。
「だから、眼鏡は持ってきてるよ。授業中困るし」
ほら、とコートのポケットから眼鏡ケースを取り出す。エリーはケースをパカッと開き、覗き込むと、
「美雪、こんなところに居たのっ!」
――いつもの朝。吐く息も凍りそうな2月の朝。
だけど、エリーが横にいれば。馬鹿なことを言って、一緒に笑ってくれれば。身体の芯が温まる。
「眼鏡って、大変なんだねえ」
「そうだよ。おでん食べる時も曇っちゃうし」
「熱燗つける時も?」
「わたしたち高校生でしょうが」
「あ、そうそう!」
エリーはいきなり、芝居がかった口調で人差し指を立てた。
「知ってる? この辺りで虹が見られるんだって」
「虹?」
「そう。噂で聞いたんだけど」
「ふうん。冬に虹って珍しいよね」
「不思議よね。空気が乾燥するのに」
それからエリーは、とっておきの玩具を披露する子供のように、純粋な瞳で、
「見たい?」
同性でも、はっとするような美しさだった。さすが、学園のカリスマ、なんて噂される人。彼女は、とても綺麗だ。
「うん。見たい」
「じゃあ、目をつぶってみて」
道ばたで二人、立ち止まる。まぶたを閉じると、暗闇が降りてきた。なんだか、これからマジックをしてもらうみたいで、ドキドキする。
だけど、本当に虹なんか見えるのかな。最近は雨も雪も降っていないから、空気は乾燥している。太陽光が、大気中の水滴で分散されてできるのが、虹なのに。
と、その時。両耳が手で覆われる感覚。次いで、吐息が眉間を撫でる。彼女の顔が、すぐ目の前にあるのを感じる。
エ、エリー?
「開けてみて」
エリーが囁いた。激しい鼓動を抑え込みながら、わたしはゆっくりと、まぶたを開いていく。
――。
一瞬、何が起きたか分からなかった。世界は、真っ白に塗りつぶされていた。
「うわ」
すぐに、眼鏡が曇っているんだと気付く。さっき、エリーはわたしに眼鏡を掛けたんだ。
どういうこと、と聞こうとして、私は声を失った。
急に視界が光度を増す。エリーがわたしの前から動いて、朝日が射し込んできんだと理解するのに、時間がかかった。
目の前に、七色の環。すぐ目の前、曇った眼鏡に、はっきりと虹が映し出されていた。
「すごい」
エリーの聞いた噂って、このことだったんだ。眼鏡が曇った状態で光が当たると、微少な水滴で光が分散され、視界いっぱいに虹が広がる。
「虹のプレゼントです」
「ありがとう、エリー」
顔を見ようと、眼鏡を外すと、彼女は小箱を差し出してきた。まるでマジシャンのように、優雅な動作で。
「ハッピー・バレンタイン」
「あ、えっと、わたしも!」
そう、今日はバレンタインデーだった。急いで、手提げ袋から、エリーのために用意していたチョコを出す。
「ありがと、美雪。あとで食べようね」
「うん!」
エリーは、灰色の地面ばかり見ていたわたしに、世界の鮮やかさを教えてくれた。顔を上げて、視野を広げることの尊さに気付かせてくれた。彼女は、わたしの心に、たくさんの虹を架けてくれた。
わたしたちは、再び冬の朝を歩き出す。空に虹は架かっていなかったけれど、それはたいした問題じゃなかった。




