「意味が分かると怖い話『ある夫婦のこと』」 真波馨 【ショートホラー】
「ア、ナ、タ」
「何?」
「私ね、殺したい人がいるの」
妻は、唇の両端を持ち上げて妖しい笑みを浮かべた。
「私にとっては、とても切実なことなの」
蠱惑的なアーモンド形の両目が、じっと私を見つめる。相手を意のままに操る、妻の得意技だ。
「私、人生でここまで悩んだことないわ。きっと、この先も二度とないはず」
「君から相談を受けるなんて、ほんとうに珍しいことだ」
「あなたにしか、話せないことなの」
吐息交じりに言葉を紡ぐ。鼻にかかるような甘ったるい声は、男を惹きつける強力な武器のひとつだ。
「こんなこと、あなたに頼んでいいのか分からないけれど」
「僕は、いつだって君の力になるよ」
胸に手を当て、にっこり微笑む妻。この笑顔が私限定に向けられるものであるのならば、全知全能の神に感謝しなければならない。
「まさか、こんなに悩まされるときが来るなんて思わなかった。でも、あなたがそう言ってくれてとても心強いわ」
「君と教会で口づけを交わしたあの日、僕は神に誓ったんだ。何があっても君の味方になると」
「ああ、今日ほどあなたが傍にいてよかったと思う日はきっと一生こないわ」
顔を俯かせ、胸元のネックレスを指で弄る。去年の誕生日に特注で作らせた、彗星蘭を象った一点物だ。「特別の存在」という花言葉とともに、愛する彼女への贈り物として。
「そんなに由々しき事態が起きているのか。君が困っているなら、僕は何をしてでもその状況を打破してみせるよ」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ……実はね、私に言い寄ってくる男の人がいるの。職場の上司なんだけど。去年のクリスマスにはプレゼントも贈られて、この前の新年会では二次会のカラオケのときに廊下でキスされたわ。2人きりの旅行にまで誘われたの」
「ああ、何たることだ。僕は君の夫失格だ。妻の苦悩に気付かなかったとは」
「必死に隠していたのよ。でも、これ以上我慢できなくて」
「まさかそれほどまでに君が追い詰められていたとは」
長い睫毛が、目元に影をつくる。艶めいた唇がきゅっと引き結ばれ、苦痛に必死に耐えているような顔が何とも色っぽい。
「頼れるのはあなたしかいないの」
僕の愛おしい妻は、大きな目を潤ませて小さく喘ぐような声で訴える。
「お願い。私を助けて」
バレンタインデーの夜。僕は、僕の最も愛すべき女性をかけて人生で最大の選択を迫られていた。




