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玄冬のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 玄冬のミステリーツアー参加者一同
24/63

「幽霊のアパート」 生吹 【オカルト風サスペンス】

「はぁ……」


 よく晴れた12月の昼下がり。佐倉理央(さくら りお)は思わずため息を漏らした。


 ――本当にここで合ってるの? どう見てもただの喫茶店なんだけど。ここが相談所?


 彼女の目の前には、古びた喫茶店があった。ペンキの剥げ掛けた白い板張りの外壁、雑草の生えた焦げ茶色の屋根。色褪せた看板には「喫茶 彗星蘭」と書かれている。


 怪奇現象に見舞われるようになってから、もう何日経ったかわからない。新社会人として新たな生活をスタートさせるべく、部屋を借りたところまでは良かった。しかしいざ住み始めると、いくつか問題があることに佐倉は気が付いた。


 毎晩のように起こる金縛りと、繰り返し見る悪夢。謎のラップ音。時折通り過ぎる何かの影。真夜中に聞こえる数人の男の声と女の悲鳴。挙げ句の果てには「殺された女の幽霊が出る」という噂まで耳に入るようになった。そんなまさかと佐倉は思ったが、彼女が住んでいるのはかなり昔からあるアパートだ。過去に殺人事件が起きていても不思議ではない。

 さっさと引っ越してしまえば解決する話ではあったが、広い部屋で家賃も高くないうえに駅にも近い。クリスマスには友達を呼んでケーキを食べる約束までしている。仕事を始めたばかりのタイミングで引っ越しできるほどの余裕もない。誰でもいいからさっさと追っ払って欲しいというのが、佐倉の本音だった。

 そんな時、SNSで気になるアカウントを見つけた。プロフィールに書かれた「霊障相談」という文字が、ちょうど良いタイミングで佐倉の目に飛び込んできたのだ。いわゆる霊視ではなく物質的な調査を行っており、普段は浮気調査などの依頼も請け負っているという話に何となく安心感を覚え、いぬいと名乗る人物とコンタクトを取った。その結果、このオンボロ喫茶店に呼び出されたというわけだ。


 佐倉は錆びついたドアノブに恐る恐る手を掛けた。オンボロドアは今にも壊れそうな音を立て、彼女を店の中へといざなった。


「いらっしゃい。――おや?」


 黄金の髭を蓄えた掘り深い初老のマスターが、流暢な日本語で出迎えた。昼時だというのに、客は一人もいなかった。店内は不気味なくらい静まり返っている。


「佐倉さんだろ? 霊障相談なら二階だよ。店の裏手に外階段があるから、そこから入ってな。悪いね」


 マスターは確信したようにそう言って、にやりと笑った。


「えっ……その、失礼しました」


 どうやら入る場所を間違ったらしい。佐倉は赤面しながらそっとドアを閉めた。言われた通り店の裏手に回ってみると、確かにそれらしき階段を見つけた。階段横の壁には小さな字で「浮気調査・霊障相談はこちら→」と書かれている。


 ――まったく紛らわしいったら。


 鉄臭い階段を登りきると、今度は赤いドアが姿を現した。魔除けのつもりなのか、唐辛子でできたリースが飾られている。呼吸を整え3回ドアをノックすると、中でバタバタと足音がしてドアが開いた。


「……病院なら2軒先ですけど」


 自分と齢の近そうな茶髪の青年がドアの隙間から眠たそうな顔を覗かせ、うんざりしたようにため息をついた。少なくともこの男が乾でないことは確かだった。


「いや、ここのお客ですけど。何ですかそれ。前にメールでやり取りした佐倉です。佐倉理央。乾さんって方に話を聞いてもらう約束だったんですけど。こちらであってますよね?」


 佐倉がそこまで言うと、青年は眉間にしわを寄せて数秒間黙り込んだ。グレーのパーカーに黒のスウェットパンツというどう見ても職員ではない出で立ちに、佐倉は薄っすらと不安を抱いた。


 青年はようやく状況を理解できたのか「ああ」と声を上げた。


「なんだ、乾さんの客か。あの人なんにも言わないんだもん。……中どうぞ。土足で良いんで」


 青年はそう言って佐倉を応接室へ案内した。薄暗く殺風景な部屋の真ん中に、年季の入った臙脂色のソファ一とガラステーブルが置かれている。1階の喫茶店と同じコーヒーの匂いが、この部屋にも漂っていた。


「そこ座って。今乾呼んでくるんで。あとコーヒー、紅茶、緑茶、どれがいいです?」

「コーヒーで」

「なんか寒そうですけど、暖房つけます?」

「いや、おかまいなく」


 佐倉が言うと、青年は足早に立ち去っていった。気が利いているのかガサツなのかよくわからない奴だと佐倉は思った。


 そのままぼんやり待っていると、隣の部屋で何やら話し声が聞こえ、今度は歳の近い黒髪の女が入ってきた。長い髪を後ろで一つにまとめ、紺色のハイネックセーターを着ている。端正な顔立ちをしているが、血色が悪いタイプなのか、単なる体調不良なのか、随分と青白い顔をしている。目の下には濃い隈までできており、まるでゾンビか幽霊のように見えた。


「お待たせしてすみません。別件の電話が長引きました。以前メールでやり取りさせていただきましたいぬい けいという者です」


 乾はそう言って佐倉の前に腰を下ろし、軽く頭を下げた。


「そうだ。2階に上がってきてくださいと伝え忘れてしまいましたが、大丈夫でしたか?」

「……大丈夫でしたよ」


 間違えて1階に入ってしまったとは言わなかった。乾はただ「そうですか」とだけ言って佐倉の方を見つめた。物憂げな三白眼に、同性ながら思わずどきりとしてしまう。これでもかというほど長い睫毛の奥に、琥珀色の瞳が仄かな光を帯びている。ただ見つめられているだけなのにすべてを見透かされているような気がして、佐倉はどうも落ち着かなかった。


「先日のメールでは、8ヶ月前に引っ越してきた部屋で金縛りや悪夢、ラップ音、真夜中に人の声などといった霊章が起こり、殺された女の噂が関係していると考えている――とのことでしたが、あれから何かありましたか?」


 乾はまるで問診する医者のように、淡々と話し始めた。


「いえ、特に新しいことは起きていません」

「女の姿は見たことがないと」

「姿そのものはないです。でも、夢の中で自分がその女になっていて、知らない人たちに殺されたことならあります」


 佐倉は正直に答えた。今自室で起きている現象は以前メールで伝えたものだけだった。しかし、乾は彼女の言葉に眉を顰めた。


「その割には、尋常でないくらい疲れているというか、違和感がある様に見えるのですが。本当にこれだけですか? 私の経験上、これだけだとすべて考え過ぎ、もしくは日々のストレスが原因という可能性も――」


 予想外の返答に佐倉は戸惑った。飽くまで霊障相談を商売にしている人間が、あっさりこんな事を口にするとは思わなかったのだ。


「ちょっと! 『これだけ』って、私結構悩んでるんですけど。どういう意味ですか?」


 佐倉が問うと、乾は佐倉の目をじっと見据えてこう言った。


「今日、下の喫茶店にお客さんが一人も来ていないんです。私も朝から頗る体調が悪いですし。これはとんでもない人が来る時に必ず起こる現象なので、身構えていたんですが……でも、何も憑いてなさそうなんです。あなた自身には。それに加え起きている現象も大したことないので、どうしてかなと思ったんです」


 佐倉は数分前に見た光景を思い出した。確かに、喫茶店にはマスター以外の人間は見当たらなかった。顔色、隈の状態からして、乾の体調が良くないというのも嘘ではなさそうだ。


「何も取り憑いていないのに、そんなにやばそうに見えるんですか? 私」

「いや、すべて偶然というだけの話かもしれません。もしくは佐倉さんがまだ気付いていないだけかも。単にいつもと違うパターンだったので、ちょっと気になってしまったんです」


 乾がそう言ったのと同時に、先ほどの青年がコーヒーとファイルに入った書類を持ってきた。彼は2人分のカップをテーブルに置くと、自分は窓際の壁に寄りかかってだらしなくスマホをいじり始めた。


「あの、彼は一体……?」


 気になった佐倉がこっそり乾に尋ねると、彼女はなんでもないように答えた。


「ああ、彼は木戸きど)といいます。つい最近雇いました。いつもは下の喫茶店にいますが、今日は私の助手――いや、魔除け係になってもらっています。念のために」

「魔除け?」


 生身の人間が魔除け代わりとは一体どういうことか。佐倉は少し気になったが、乾は特に説明することもなく一方的に話を進めた。


「そんなことより、実際にお部屋にお邪魔するお日にちですが、今日でも大丈夫ですか?」

「えっ、今日? 後日じゃないんですか?」


 てっきり何日も待たされるものだと思っていた佐倉は、思わず間抜けな声をあげた。


「お仕事の都合もあるでしょうし、まとめてできることはやってしまった方が良いかと思ったのですが。……お仕事、してらっしゃいますよね?」

「も、もちろんです。でも、ええと、来週にしてもらえませんか?」


 咄嗟に出た言葉だった。特に予定があった訳ではない。部屋を調査してもらいたいのは山々だったが、何故か気が乗らなかった。ただでさえ疲労困憊の身体を引き摺るようにしてここまで来たというのに、この部屋に入ってからというもの、強い眠気と倦怠感にじわじわと気力を奪われているような気がした。


「わかりました。では1週間ほどお時間を頂いて、あなたのアパートで過去にトラブルが起きていないか、こちらで先に調査させて頂きます。実際にお邪魔するのはそれからですね。お仕事はいつがお休みですか?」

「えっと……」


 頭が回らない。勤務表をどこへやったのかすら思い出せなかった。


「すみません。ちょっと覚えてないんで、確認して連絡します。勤務表、家にあるはずなので」


 佐倉は誤魔化すようにそう言って、冷めかけたコーヒーを一気に飲み干した。ほとんど味がしなかった。


「それでもいいですよ」


 乾はそれだけ言うと、木戸が持ってきた数枚の書類とボールペンを佐倉の方へ寄越した。

 結局、その日は同意書へサインをするだけで終わってしまった。


 帰り際、木戸が玄関まで送りに来た。彼は終始怪訝な顔をして佐倉の方を見るため、何となく不審がられているような気がして落ち着かなかった。


「いやー、俺もあの人の仕事手伝うの初めてなんで、お役に立てるかどうかわからないですけど、何かあったらいつでもお電話くださいね。それから――」


 ドアを開けながら、木戸は少しだけ声のトーンを落とした。


「その……私生活ですけど、あまり乱さないように気を付けてくださいね。霊障に遭っている人はかなり私生活乱れるって言いますから。例えば、お酒の飲みすぎとか、不眠症とか、仕事でのミス。あと対人トラブルなんかも――」

「ええ、はい。ご親切にどうも」


 心配してくれているのだろうが、佐倉はどうも居心地が悪かった。

 木戸はアパートまで車で送ろうかと言ってきたが、丁重にお断りした。無性にこの男と一緒にいたくないと思った。一刻も早く1人になりたかった。


 部屋に帰って来ると、いつもより部屋が暗く感じた。疲れがたまっているのか、全身がだるく、何をする気にもなれなかった。部屋の電気さえ点ける気になれず、佐倉は部屋の隅に行って冷たい床の上に丸くなった。勤務表のことなど、もう彼女の頭にはなかった。

 窓から仄かに差し込む光の中に、おびただしい数の埃が舞っていた。それらをじっと眺めていると、不意に眠気に襲われ、いつの間にか死んだように眠ってしまった。





 乾から連絡が来たのは、それから3日後の朝だった。いつものように最寄り駅に向かって歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。

 1週間時間を貰うと言っていたのに随分早いなと思いながら、佐倉は電話に出た。


「もしもし」

「佐倉さん。今、部屋にいますか?」


 乾の落ち着いた低い声が聞こえてきた。


「いいえ。もう出ました。これから駅に向かうところです」

「お忙しいところ大変申し訳ございませんが、今お話ししてもよろしいですか」

「でも、これから仕事へ向かうところですし……もしかして勤務表の件ですか?」


 こんな時間にかけてくるだなんてよっぽど急用なのだろうか。連絡すると言ったのに忘れてしまった自分も悪いが、通勤中に話などしなくても良いではないかと佐倉はため息をついた。

 だが、乾は一方的に話し始めた。


「その仕事なんですが……もう行けなくなると思います」

「『もう行けなくなる』って、どういう意味ですか?」


 乾の奇妙な表現に、佐倉は思わず聞き返した。


「あなたの住んでいるアパートなんですが……」


 乾が呼吸を整える音が聞こえてくる。何やらもったいぶっているようだった。


「大変言いづらいのですが、あなた以外誰も住んでいません」


 あまりにぶっ飛んだ答えに、頭が真っ白になった。


「おまけに、来年取り壊される予定です」


 佐倉には全く意味がわからなかった。きっと何かの間違いに決まっていると思った。他の誰と間違えているのだと。


「私以外誰も住んでない? 来年取り壊される? そんな話聞いてない!」


 取り乱す佐倉に対し、乾は至って冷静に話を続けた。


「とにかく、私たちは今からあなたの所へ行きます。最寄り駅は確か、F駅でしたよね。西口の近くにカフェがあるでしょう。外は寒いですから、そこで待っていてください。それと、最後にひとつだけ、確認してもいいですか?」

「……はい。なんでしょう?」


 佐倉は恐る恐る尋ねた。


「あなたの記憶、本当に正しいですか?」


 全身に鳥肌が立つのを感じた。


「何言ってるんですか。正しいに決まってます」


 自分の声が震えているのが分かった。


「わかりました。それでは、F駅で待っていてください。くれぐれもアパートには戻らないで。あの場所は――」


 ブツリ、と電話が切れた。無機質な音が佐倉の頭にこだまする。


 ――意味わかんない。仕事行けないじゃん。会社にはなんて言えばいいわけ?


 乾の一方的な態度に腹を立てつつも、佐倉は電話帳から職場の電話番号を探した。しかし――


「あれ……?」


 どこを探しても、それらしき番号が見当たらない。確かに登録してあったはずなのに、いつの間にか消えている。


「どうして?」


 頭の中で、乾の言葉が生々しく再生された。



『あなたの記憶、本当に正しいですか?』



 何かがおかしかった。何か重大な事に気付いていない。頭の中が書き換えられている――そんな気がして、体の震えが止まらなくなった。


 言われた通り西口側のカフェで待っていると、約束通り乾はやって来た。隣には木戸の姿もあった。

 乾は佐倉の前に座ると、おもむろに彼女の両手を掴んだ。琥珀色の瞳が、じっとこちらを見つめる。相変わらず酷い隈ができていたが、ガラス細工のような美しい瞳だ。


「やっぱり」


 確信したように乾は言った。


「もしかしたらと思いましたが、大丈夫です。あなたは生きてます」


 その言葉に、佐倉は思わず泣きそうになった。


「とすると、私の考えは間違ってなさそうです」

「私じゃなくて私たちだろ?」

 木戸が口を挟む。乾は一瞬だけ木戸の方を睨んだが、すぐに話を再開した。

「まず、わかっている事実だけ話しましょうか。1、あなたの住んでいるアパートには、もう誰もいないし、来年取り壊し予定。2、あなたは9月いっぱいで仕事を辞めている。3、今のアパートに住み始めたのは8ヵ月前ではなく、つい最近のこと。4、これまでに起きた怪現象は、幽霊とは関係ない」

「はい……?」


 全く思考が追い付かない。自分の中の記憶と、乾の言っている事がまるで違っているのだ。


「さて、じゃあ移動するぞ~」


 木戸が間の抜けた声を出し、席を立った。


「一緒に行ってみましょう。そのアパートへ。たぶん、私たちが一緒なら大丈夫なはずです。本当の姿を見に行きましょう」


 佐倉は木戸の運転する車でアパートへ引き返した。空は黄色く濁り、今にも雪が降りだしそうだった。いつも見ていたはずの風景が、この時は全く違って見えた。道中、幾人もの通行人とすれ違った。ふと、1人で歩いていた時は誰ともすれ違わなかったことに気が付き、ゾッとした。


「着いたぞ。ここが問題のアパート。なるほど。きったねえな」


 木戸は車を停めると、ある建物を指さして言った。どうやら目的地に到着したらしい。

 一瞬、佐倉は悪質な冗談かと思った。元々白かったであろう外壁はどす黒く汚れ、窓ガラスは割れていた。とてもではないが、人の住める場所とは思えない。まさに廃墟と呼ぶにふさわしい、オンボロアパートだった。


「嘘だ」


 佐倉は車から降り、アパートへ近づいた。そんなはずがない。自分がこんな廃墟で暮らしていただなんてあり得ない。そう思ったが――

 よく見てみると、確かに面影はあった。場所もちゃんと合っている。自分の住んでいるアパートで間違いなかった。

 呆然としていると、乾が静かに話し始めた。


「少し前から、あなたはここに出入りしていました。ここ数か月の間、仕事もしていません。あなたの元同僚に話を訊きましたが、職場であまりうまくいかなかったみたいですね。何かと辛かったでしょうが、そろそろ目を覚ましてください」

「目を、覚ます?」

「佐倉さん。殺された女の霊が出るって噂、誰から聞きました?」

「下校中の高校生が話しているのを偶然聞いて……」

「誰かに殺される悪夢を見たのは、噂を聞く前ですか? 後ですか?」

「たぶん、後です」

「やっぱり。じゃあその『殺された女』って、きっとあなたのことですよ」


 乾は確信したように言い放った。


「ちょっと待ってください。さっき言ったじゃないですか! 私は生きてるって!」


 一体何を言い出すんだと思い、佐倉は声を荒げた。


「そう。生きた人間を幽霊と見間違えたんです。確か佐倉さん、真夜中に数人の男の声や女の悲鳴が聞こえるって言ってましたよね? それ、肝試しに来た高校生の声です。彼らの間ではちょっとした肝試しスポットなんですよ。『殺された女』っていうのは、後から誰かがくっつけた設定でしょう。寝る間も惜しんで調べましたが、どけだけ遡ってもここで誰かが死んだ証拠は出てきませんでした。この建物ができる前は畑でしたし、近くに霊道らしきものもない。悪夢を見るのは、単に佐倉さんが噂を意識してしまっているから。金縛りに遭うのは、あなたが強烈なストレスを抱えているからということで説明が付きます」

「強烈なストレス……」


 乾の淡々とした口調に、佐倉の頭が徐々に冷静になっていく。


「もう一度訊きます。あなたの記憶は本当に正しいものですか?」


 頭の中に掛かった霧が少しずつ晴れていくのを感じた。死にかけていた記憶が、徐々に息を吹き返す。


「そうだ。あの日の夜……」


 佐倉はぽつりと呟いた。



 新卒として入った会社では、人間関係がうまくいかなかった。仕事中にやらかしたミスが原因で、他の社員との間に溝ができてしまい、気が付くと周囲から異物として扱われるようになっていた。陰湿な陰口、皆に見られながらの叱責、たちの悪いセクハラなどといった嫌がらせに、佐倉の精神は徐々に追いつめられ、やがて逃げるように会社を辞めた。たった半年の間に起きた出来事だったが、それは長い長い地獄のような日々だった。学生時代に思い描いていた未来と、実際に待ち受けていた現実とのギャップに絶望した。


 会社を辞めて暫くは自宅で休んでいた。貯金は少なく、シングルマザーである母親には、仕事は順調だという嘘までついていた。その為、本当ならすぐにでも新しい職を探さねばならなかった。

 しかし、佐倉の身体は動かなかった。仕事を探すのが怖かった。人と顔を合わせるのが怖かった。やらなくてはいけない。逃げてはいけない。休んでいてはいけない。そう思えば思うほどドツボに嵌り、気分は落ち込み、いつの間にかほとんど眠れなくなり、容赦なく襲い掛かる不安を打ち消そうと酒を飲んだ。翌朝襲ってくる鉛のような倦怠感は、大量のコーヒーで誤魔化した。


 そんなある日の夜、佐倉はアルコールの力を借りて部屋の外に出た。満月が不気味に輝く、生暖かい夜だった。行く当てもなくふらふら彷徨い歩いていると、町の外れにアパートを見つけた。

 既に誰も住んでいない廃墟だったが、何とも言えない奇妙な魅力を放っており、佐倉の目には全く違うものとして映った。どういう訳か、明かりの灯った温かい安らぎの場所にしか見えなかったのだ。

 まるで不思議な力に引き寄せられるように、彼女の身体はアパートの中へと吸い込まれていった。まるで、アパートが彼女の願望を叶えようとしているようだった。



「事務所に来た時、妙だと思ったんだよな。どう見ても不健康そうだし。服も髪の毛もなんか汚いし。でも霊障に遭ってる人間って私生活かなり乱れるっていうから。まあこんなもんなのかなーと思ってたけど。やっぱりあの日、無理にでも車で送るんだったなー。こんなの、人の住む場所じゃない」


 木戸がアパートの外観を眺めながら言った。乾と違い、彼の方はこの状況をどこか面白がっているように見えた。


「とにかく、あなたの帰る場所はここではありません。本当の部屋は、今もあなたの帰りを待っています」


 乾はそう言って佐倉の肩に手を乗せた。同じタイミングで、ふわふわと雪が舞い始めた。


「家まで送るので、車に戻ってください。長居すると私までどうにかなりそうです」


 乾は佐倉の肩を掴んだまま、車の方へ誘導した。心なしか、佐倉は乾の手が震えているように感じた。





 それから数週間が過ぎた。

 牡丹雪の降る昼下がり、乾彗は喫茶店「彗星蘭」の窓際席を陣取ってコーヒーを飲んでいた。少し曇った窓の向こうには、公園で雪だるまを作る子供の姿が見える。


「この前まで10月並みの気温だったのに、急に寒くなったなー。雪見ながら熱燗飲みてえわ」


 仕事がひと段落した木戸が、断りもなしに向かいの席に座る。


「オッサンみたいなこと言いますね。私より若いのに」


 乾は窓の外を見つめたまま言う。


「そうだ。佐倉さん、あれからどうなった? 一応まだ保護観察中なんでしょ?」

「職安でサポートを受けながら、次の就職先を探すそうです。心療内科の予約も取っています」

「なら良かった。でも、本当にあの人の不摂生が全ての原因?」

「もちろん、それだけが原因じゃないです。佐倉さんの精神状態にも問題はありましたが、それ以上にやばかったのはアパートの方です。あの場所、木戸さんを隣に置いておかなければその場でぶっ倒れるくらい嫌な感じがしましたし。近くまで行った時、眠気と眩暈が同時に来てかなり動揺していたんですよ。どうせ、木戸さんは何も感じなかったでしょうが」

「うん全然。だから『魔除け係』なんでしょ?」


 木戸も外に目をやった。公園の雪だるまはいつの間にか2つ出来上がっていた。

 乾は曇った窓ガラスを手の甲で拭うと、再び口を開いた。


「あんな場所は久しぶりです。まあ、本物の幽霊にお目にかかれる機会も多くはないですが……大きな事故や事件はなし。霊道らしきものもなし。忌み地の可能性もなし。廃墟になった原因も単なる老朽化。とすると、やっぱり考えられるのは――」

「何?」


 木戸がわくわくした様子で尋ねる。


「あのアパートそのものが幽霊」

「は?」


 真面目な顔でそう言う乾に、木戸は思わず失笑した。


「……ええと、ああいう物質って幽霊になれんの? いや、そもそもアパートって死ねないんじゃ?」

「私の推測ですが、沢山の人間が深く関わったものであれば、近い存在にはなれます。役目を終えて朽ち果てたアパートは死んだも同然なんでしょうね」


 乾は至って冷静に解説すると、冷め掛けたコーヒーを一気に飲み干した。


「わかってますよ。死ぬほど胡散臭い話だってことは。でも、こういう不思議な事ってたまに起こるんです。かなり低い確率で。でもまあ、私と一緒にいれば遭遇する確率も上がるでしょうし、きっとわかって来るはずです」

「マスターも言ってた。乾さんは嫌なもんばっか引き寄せるって」

「またそれっぽい人が来たらお願いしますね。同行するだけでいいので。高くはないですが、ギャラも払います」

「お断りしたいところだけど、同行するだけでお金貰えるってんなら、まあいいかな」


 木戸のいい加減な返事に、乾の口元が少しだけ緩む。物憂げな三白眼に微かに光が差した。


 店のドアが開き、ドアベルの乾いた音が店内に鳴り響いた。常連客の老人が数人、「寒い寒い」と言いながら入って来る。


「あっ、でも呼ぶのはほんっとうにやばそうな人がきた時だけでお願い」


 木戸はそう言って席を立つと、老人たちの接客をしに行った。

 ひとり取り残された乾は、再び窓の外に目線を戻した。テレビでは今年は暖冬だと言っていたが、牡丹雪は容赦なく町を覆い尽くしていく。


 ――幽霊の噂が本当になる前に解決できて良かった。


 乾は心の中でそう呟くと、静かに席を立った。















 

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― 新着の感想 ―
[一言] ∀・)「幽霊のアパート」読了。いやはやさすがの生吹様の作品でしたね。綿密に創られたストーリー構成といいますか、雰囲気の維持といいますか。TVドラマにできちゃえそうというか、そんなイメージがふ…
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