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玄冬のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 玄冬のミステリーツアー参加者一同
18/63

「マッチ売りには難しい」 ナツ 【SF】

 er02に怒りを


 12月の暗くて寒い日だった。激しい雪が廃ビルを隠し、地上は白い足跡でたくさんだった。人々は身を縮めながら、急いで夜の道を歩いていた。そのほとんどが制服に泥や埃で汚れた仕事帰りの男達だ。アンデラフの人口の大半は肉体労働をしているのだ。彼らは時間通りにやってこない電車待って、それを降りたら、最短距離で帰っていた。誰もが屋根があって、温かくて、灯りがあるところに向かっていたのだ。

 

 しかしサイヤロン駅前だけはその例外となる。改札口からそれほど離れていない周辺に、ルーシーが立ち止まっていたからだ。どこに行くでもなく、その12才の少女は木の篭を両手で持って、ただ呆然と立っていた。既に長靴の先は雪で埋まっていて、唇は青くなりかけていた。肌は死体のように白くて、冷たくて、生気のないものになっている。小さな指は、さらに小さくなっていた。

 

 彼女は手を擦り合わせて、ゆっくりと息で温めた。そうすることで、何かが好転するわけではないことを知っていながら、それでも彼女はそうせずにはいられなかった。あまりに寒すぎたのだ。

 

 ――er02め!

 

 彼女は思考の中でそう叫んだ。掲示板の貼り紙を見つめて、怒りに囚われていた。その貼り紙には、太った男の写真が添付され、こう書かれていた。

 

 ~ホールデン・マータフを許すな! ~

 

 ※er02を見つけたら、警察に連絡を。

 

 ルーシーがこの貼り紙を見るのは、その日だけでも20回目だ。しかし何度見ても、腹が立っていた。それはルーシーだけでなく、他の者にとっても同じことで、er02のことに少しでも関連するものなら何であろうと気を悪くしてしまうのだ。そのおかげでルーシーは少しの間だけだが、凍える寒さも忘れてしまっていた。

 

 「アンタも苛ついてんのか? 」

 

 声がして振り返った。そこには禿げ頭の男も、ルーシーの側で張り紙を見つめていた。彼の薄っぺらい外套は埃にまみれて、爪には垢が詰まって黒くなっている。靴は片方がない。きっと浮浪者だろう、と彼女は思った。最近はますます見かけるようになった気がする。

 

 「まあ」とルーシーは遠慮がちに言った。

 

 「俺もこんな寒い日には、このデブが腹立って仕方ないんだ。なんでこんな奴が肥太って、俺が貧乏しなきゃならんのだろうかってね」


 「……ええ、私もそう思います。全てはer02のせいです」


 男はそれに深く頷いた。


 「なあ、マッチをくれ。こういうときはコンラッドに会わなくっちゃ」


 男はそう言って、ポケットからしわくちゃの札を取り出した。ルーシーはお釣りをやると、木の篭からマッチ(正式名称、mindcontrol・cheapitem)のタバコ型をごそごそと探し始めた。売れない飴型ばかりがこんもりと積もっていて、お目当てのものが見つからない。タバコ型は人気があるため、朝方にほとんど売れていたのだ。それでも、一本だけ飴型の間に埋もれていたのを見つけた。黒い筒上に、白文字で『コンラッドに万歳!』と書かれている。くわえる部分は黄色いラインが入っていた。これはタバコ型だけではなく、飴型だろうと、チューインガム型であろうと、注射型であろうと、すべてのマッチが国営マッチ商社によって統一されているのだ。

 

 男はマッチを受け取ると、それに火を点けて吸った。黄色い煙がもくもくと立ち上る。男はそれを眺めながら、一気に半分ほどマッチを灰に変えた。そうすると、男の顔は全体的に淀んで、口元が垂れた。しかしその瞳は恍惚とし、純情な子どものように透き通っている。


 「……ああ、きた。これだよ、これ。木が見える。コンラッドだ」と男は間延びした声で言った。


 そして男は走り出した。もうルーシーを振り返らなかった。途中でぴたりと止まり、天に向けて両手を上げると、高らかに叫んだ。

  

 「コンラッドに万歳!! 」

 

 「コンラッドに万歳! 」とルーシーも叫んだ。

 

 そしてルーシーも飴型のマッチを取り出し、包み紙を開けて口に放り込んだ。ぱちぱちと泡になって溶け出す。甘くて、固くて、ゴムのような臭みがあった。しかし不味くはなかった。あるいは、ルーシーが覚えていないだけかもしれない。いつも彼女がマッチを使用して覚えているのは三つだけだった。天井も床もない白い世界、神聖なるコンラッドの影、そして幸福感だ。彼女はその間、先程の男と同じような顔つきになっていた。それどころか唇の端から涎が垂れて、顔は酒で酔ったように真っ赤になっていた。まだ性に無垢であったが、オーガズムに似た快楽を得ていたのだ。

 

 彼女にはもう雪は見えてなかった。彼女が見ているのは手を差し伸べるコンラッドの影だった。彼女は興奮していた。コンラッドが私を導いている! 私は救われる! コンラッド、万歳!!

 

 数分後、彼女は手先が痺れる感覚があった。瞼を開けると、そこには雪があった。幸福感が薄れ、代わりに怒りが沸いてきた。彼女はそれがer02に対する憎悪からだと思った。怒りや、苦しみ、嫌悪感は全てer02によるものだと学校で習っていたからだ。彼女にとって、er02とはこの国を乗っ取ろうとしている腐ったミルクのような奴らだった。勝手に外国からやって来て、税金を払わず、資本家となっている集団だ。害しか与えず、利には決して働かない。リーダーのホールデン・マータフの写真を見たら、ますますルーシーはそう確信した。あんなに太った豚達がいるせいで、ルーシー(純国民)が苦しんでいるなんて馬鹿げている話だったのだ。

 

 「死ね、ホールデン・マータフ! 消えろ、er02!」

 

 彼女はそう言うと、貼り紙をびりびりと破り捨てた。そして家まで走って帰った。そこは蔦が生い茂って、排気管の煙で汚れたアパートだ。彼女はそこで父親と暮らしていたが、自分の部屋はなかった。あまりに狭くて、トイレと居間しかないのだ。台所の流しはあったが、皿が一枚置けるかも怪しい。

 

 彼女は玄関で頭の上の雪を払い除けると、居間に行った。そこにはルーシーの父がテーブルに座っていて、彼女を待っていた。険しい顔つきで、かなり怒っているようだった。彼はマッチ非使用者であり、マッチを憎んでさえいた。ルーシーはそれがわかっていながら、マッチを持って帰ったのだ。全部売れなかったのだから、残りは自分で使うか、どこかで捨てたらよかったのだ。ルーシーはそう後悔しながら、同時に不思議でならなかった。怒りは全てer02から派生するのに、なんだってルーシーの父が自分に怒るのかわからなかったのだ。ひょっとすると、父さんは怒りがer02のせいだと気づいてないのかな、という疑念さえ抱いていた。マッチ非使用者の感情コントロールが下手だということは国家の統計で明らかになっているのだ。

 

 「今日もクスリを売ってきたのか? 」とルーシーの父はため息をついた。

 

 「そうよ」とルーシー。

 

 「お前もやったのか? 」

 

 「そう。それが悪いの? みんなやってるし、それにこれは道徳的なことなんだから。学校の先生も勧めてるんだもん。苦しかったら、全知全能のコンラッドに助けを求めなさいって」

 

 ルーシーの父は小さく舌打ちをした。目尻が鷲のように鋭くなってつり上がった。

 

 「もう二度と使っちゃいけないよ? 」

 

 「なんで? 」とルーシーは言った。

 

 「それは危険なものなんだ。わかってくれ」

 

 「でも、マッチは覚醒剤とは違うよ。これは脳を小さくさせたりしないし」

 

 テーブルがばしんと鳴った。ルーシーは驚き、後ろに仰け反った。ルーシーの父は息を荒くさせながら立ち上がる。そして平手でルーシーの頬を叩こうとした。しかし哀願するような表情に変わると、悲しげに手を下げた。

 

 「叩いたところで変わらない。そんなことは知っているんだ。だけど、お前の母さんと約束したから……とにかく俺はお前を守らなければならないんだ」

 

 ルーシーはかたかたと震えていた。人に暴力を振るうことは、どんな理由であってもあり得ないことだったからだ。彼女の父が怒鳴ることはあっても、叩くことはなかっただけに余計に恐ろしかった。それはコンラッドの教えに反し、er02的な野蛮人の思考に基づく行為なのだから。それをまさか父がやるなんて、彼女は酷く狼狽えた。涙がぽたぽたと落ちて、足元を濡らした。こんなに可哀想な子どもが他にいるだろうか、彼女はそう思ってならなかった。まさか、父がコンラッドを否定するなんて。そして潜在的er02の可能性があるなんて……

 

 その晩、ルーシーは床についてもずっと泣いて、枕をたっぷり濡らした。彼女の父は慰めてやろうとしたが、撫でてはやらなかった。そうしたところで、彼女の慰めにならないことを知っていたのだ。ただ、一言だけいってやった。

 

 「クリスマスにはケーキを菓子屋に頼んだからね。大きくて、丸いものだよ。一緒に祝おう」









マッチ売りはコンラッドの夢をみるか?

 

 次の日の朝方に、ルーシーは目を覚ました。長い夢を見ていたようで、意識が微睡んでいた。彼女はマッチを使用してから夢を見ることが多くなったのだ。そのほとんどが、実は自分がお話の主人公で、この世界から去る必要があると誰かから言われるものだった。しかしそれがどんなお話なのか、言ったのが誰なのか、そもそも他にどこに行くべきなのか判断がつかなかった。ルーシーはこの事を先生に話すと、それはコンラッドの世界の否定に繋がると注意され、二度と話さないと反省した。

 

 「父さん、もう朝よ」とルーシーは言って、毛布を取り去った。

 

 返事はない。いつのまにか、横にいる父がいなくなっていたのだ。トイレにいるのかもしれないと思い、行ってみるがそこにもいない。外に出て、廊下を探してもいなかった。仕事用の制服はあるのに、と彼女は訝しげに悩んだ。それから数時間待って、それでようやく理解した。父はもういない、とルーシーは悟ったのだ。彼女はこれと似たようなことを過去に経験したことがあった。

 

 それはルーシーの母が生きている頃の話だ。彼女も父と同じように、コンラッドを信じることはなく、マッチを飲むこともなかった。それどころか、コンラッドを排除する運動を秘密裏に参加していたほどだ。その教えは強烈なもので、コンラッド信者には異教徒に他ならなかった。つまりはer02の手先として考えられていた。それはコンラッドは神ではなく、マリファナと同じ類いの幻覚症状であり、国民を依存状態にさせることで権力者が国民を利用しているという考えだった。その証明にマッチはコンラッドの姿を一定に見せず、人によって変わっているということだった。コンラッドがどの様に見えるかは、人それぞれであるというのだ。それは太陽であり、林であり、リスであり、影だった。これは幻覚症状に似かよっている、とこの反体制組織は指摘してある。またer02も同様に存在せず、怒りの捌け口のためにつくられた架空の敵組織であり、その象徴がホールデン・マータフだった。これ等の全てが国民の政治不信を払拭し、そもそも政治を考えさせないようにする政策の一つとして機能していると論じていたのだ。

 

 その論文が、警察に発覚してから、ルーシーの母はすぐに家から消えてしまった。ルーシーはまだ幼く、恐怖していた。母はとんでもない悪いことをしたのだ、と驚いていた。少しして父から更正所に入れられていると聞いて、一応は安心していた。しかし母が帰ってみると、その姿は変わり果てていた。やつれて、目元が黒ずみ、指が痙攣しているのだ。背中は丸くなり、真っ直ぐに伸ばせなかった。

 

 それでも彼女は更正していた。コンラッドを信じ、そのためにマッチを常に使用していたのだから。

 

 それと同じようなことが父にも起きているのだろう。ルーシーは更正所に寄ってみることにした。彼女の家からすぐ近場にある白くて大きな塔だ。誰もが出入りでき、更正中のer02犯の――潜在的er02犯も含む――傍聴が可能となっていたのだ。部屋はいくつもあり、窓ガラスから自由にer02犯を見ることができた。その誰もがガラス窓の中で、ベッドに拘束具で縛り付けられていた。口に猿轡をされ、目も布で隠されている。その光景が廊下までずっと続くのだ。

 

 ルーシーは五番目の部屋で父親を見つけた。彼も同じようにベッドに縛り付けられて、呻いている。ルーシーは窓をぺたりと触れて、父を見守っていた。いつの間に、父さんはここに連れてこられたのだろうか。そう不思議に思ったが、そもそもどうやって警察は父さんを潜在的er02犯とわかったのかも理解できなかった。それも当然で、ルーシーはまだ知らなかったが、警察が秘密裏に家庭のプライバシーを除くことは多々あることだったのだ。部屋を盗聴したり、隠しカメラを設置したり、パソコンの履歴を暴いたり、疑いをかけたら全てが見通せた。しかもそれは違法な捜査でなく、合法的にやり遂げられるのだ。

 

 サイレンのような音が鳴って、ドアから白衣の男が入ってきた。彼はルーシーの父の猿轡を外してやると、注射器の針をたしかめながら、優しそうな声で言った。

 

 「調子はどうかな? これから、更正プログラムの実施になるけれど」

 

 「最低な気分だ」とルーシーの父は言って、唾をぺっと吐いた。

 

 白衣の男はため息をつくと、彼の目隠しを外してやった。ルーシーの父は蛍光灯の眩しさに目を瞑ると、やがてゆっくりと開いて、窓の外にいる娘の存在に気づいた。彼はじわりと瞳を濡らしたのだが、それは娘にはわからなかった。彼女はどうか父が更正してくれることを祈るばかりだったのだ。

 

 「これから、あなたは辛い一時を過ごさなければなりません。しかしそれは我が神、コンラッドを信じることに繋がり、すなわち救済を意味するのです」と白衣の男が厳かに言った。

 

  「コンラッドなどいない!」と父は叫んだ。

 

 「それはer02的な思考ですね」

 

 「いや、er02なんてのも存在しない。全てがウソっぱちだ。本当に搾取をしているのはホールデン・マータフという偶像ではなく、それを作り上げた己にあるとなぜわからない? 」

 

 「いや、あなたはer02を信じています。その考えが既に驚異になっている。er02とはその考えから生じています」

 

 白衣の男はそう言うと、彼の首もとに針を射し込んだ。全ての黄色い液体を流し込むと、針はするすると抜けていった。ルーシーの父はもがいていたが、それも意味はなく、次第に力が抜けてだらんとなった。瞳はぱっちりと開かれ、瞳孔は大きくなっている。

 

 マッチだ、とルーシーは思った。父さんはマッチを打たれたんだ。これでコンラッドに救われる。何はともあれ、問題なく終わる。マッチを使用したら誰であろうと、コンラッドの存在を否定することは出来ないはずだ。

 

 しかしルーシーの父は言った。

 

 「幻覚だ! こいつは幻覚だ!! 」

 

 白衣の男は肩をすくめた。どいつもこいつも、同じことばっかり言っていやがるという感じで。

 

 「いいですか? マッチは覚醒剤とは違います。これは国が認めた安全な薬品です。依存度もなく、害はないと調査で出ています」

 

 「信じられるか! 全部でたらめだ! 」

 

 白衣の男は顔をムッとさせた。そして彼は台車の上に置かれた自転車のヘルメットのようなものを手に取ると、ルーシーの父の頭に被せた。

 

 「よろしい。あなたの更正プログラムは続行です。どうせいずれはコンラッドを信じることになります。今までの全員がそうだったように」

 

 「……この頭にあるものはなんだ? 」

 

 「更正器具ですよ。実際に試してみてください」

 

 白衣の男はそう言うと、彼の耳の少し上を触り、取り付けた器具のボタンをぐっと押した。ルーシーの父は大声をあげて、小指を切り取られたかのように絶叫した。紐で拘束されている手足はもぞもぞと忙しなく動いていた。白目を剥いて、口からは吐瀉物と一緒に泡が出ていた。やめてくれ、と彼は叫んだ。痛いんだ、頼むから。

 

 白衣の男はそれを五回言わせて、満足したようにボタンから指を離した。

 

 「これから、改心するまでこれが続きます」

 

 ルーシーの父は黙っていた。瞳は恐怖に怯えていた。

 

 「あなたが改心したら、すぐにやめます。では、また明日」


 白衣の男はそう言うと、次はルーシーの扉から出ていった。彼はルーシーに会釈をすると、にっこりと笑った。先程のことなんて知らないように。

 

 「娘さんですか? 」

 

 「はい」とルーシーは答えた。

 

 「お父さんは大丈夫です。私がちゃんと正常に戻しますからね。少しだけ、手強そうだけど、ここに入ってきた人はちゃんとなります。例外なくね」

 

 「お願いします」

 

 「それでは、また明日。次は朝から一時間おきにマッチを注射しますので、好きな時間帯に見に来てください」

 

 彼女はこくりと頷いた。父の悲鳴が強烈すぎて、なかなか思考が追い付かないのだ。しかし彼女は深呼吸をすると、訴えるような目付きで言った。

 

 「……いくら更正のためといえ、あのやり方はer02的では? 」

 

 白衣の男は首をかしげて、なんのことか思い出すような仕草をした。そして、更正器具のことかと思い当たり、平手の上にぽんと拳を置いた。

 

 「全く違いますよ。更正器具は身体を傷付けたりしません。あれは痛みだけです。er02のように野蛮な暴力とは違います」

 

 「……でも」とルーシーは言った。

 

 たしかに、そうかもしれないが、あまりにも残虐な行為ではないだろうか。彼女はそう思えてならなかった。彼女はそれをどう上手く伝えるか悩んでいたが、気づくと白衣の男は目の前から去っていた。それから彼女は窓の中にいる父を見て、手を合わせた。どうか、父をお助けください。コンラッドよ。

 

 次の日、彼女はまた更正所に行った。学校終わって、すぐに駆けつけたのだ。そして昨日と同じ五番目の窓ガラスにたどり着くと、自分の父を見た。しかし、それは昨日の父とは見違えるようだった。彼はやつれ、顔は皺だらけになっていた。目は充血し、皮膚は被れている。彼は娘に気づくと、涙を垂らした。悲しそうに嗚咽して、顔をしわくちゃにさせた。白衣の男がマッチを注射するまでそうしていた。その後は、人が変わったようにけらけらと笑っていた。言葉だけは批判的であったものの、それも更正器具で黙殺された。そうして一週間が過ぎ、クリスマスに近くなると、もうルーシーの父は呆然とするようになった。ただ、白衣の男の言う通りにするようになった。er02を憎んでいるかね、と彼が訊いたら、彼女の父は頷いた。 ホールデン・マータフは存在するね。それも頷いた。その日、白衣の男はルーシーに言った。もう終了ですよ。お父さんは更正しました。

 

 彼女は白衣の男に礼を言うと、父を連れて帰った。父はまともに歩けず、途中で座り込んでは、ずっとマッチが欲しいと言っていた。彼女はポケットに入れておいた飴型をやると、彼は奪うようにそれを頬張った。それからというもの、彼は家から出ることはなく、ただマッチを消費するだけの物置と化した。仕事をせず、誰からも相手にされない存在となった。あれだけ心配していたルーシーでさえ放っておくようになったのだ。ルーシーの商売道具のマッチをくすねては、こっそり使用していた。マッチがないと、er02が悪いと叫んだ。その大きな声はうるさくて、ルーシーは眠れない夜もあった。そしてクリスマスの朝、彼女が菓子屋からケーキを貰らって帰ると――彼女はこれで父が元気になってくれると思っていた節がある――父がまたいなくなってしまったことに気づいた。彼女の目の前には父の足があったのだ。上には頭があり、そして首には縄が取り付けられていた。わずかに身体を揺らし、それでももう喋ることはないのだ。

 

 彼女は泣いた。胸が苦しくて、やるせない怒りに囚われた。その苦しみや怒りがどこからやってくるのかわからないでいた。ケーキの箱は床に落ち、中身がぐちゃぐちゃになっている。彼女は屈むとクリームの半分を手ですくって、父の足元にそっと置いた。手を合わせ、誰かに願った。それがコンラッドなのか、もう彼女にさえわからない。

 

 

 

 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 前時代の社会風刺と表現するのでしょうか、なんだか未成年にも難しいお話でございました。 筆舌に尽くしがたいこのもやもやふわふわしたものが言語化できません。苦笑 でも、読むことができて良かった…
[良い点] ∀・)凄く高度だけど求めるほどに溝におちてく感じ。でもこの感触はなかなか昨今のWeb小説では出会えない感触ですね。凄く貴重な作品だと思います。 [気になる点] ∀・;)結局「er02」って…
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