「スクルージの密室 3」 庵字 【本格ミステリ】
それからすぐにデスクの電話に着信があり、橋屋はその応対に時間を取られることになってしまったため、私たちは会釈で辞する旨を伝えて事務所を出た。受話器を耳に当てながら、橋屋も会釈を返してくれていた。
「理真、次はどうする?」丸柴刑事が、体を叩く寒風にコートの襟を立てながら、「則彦さんのいたカラオケ店か、被害者自宅の近隣か、どっちかに聞き込みする?」
「そうだね……」理真は、顔の半分も隠れるくらいに巻いたマフラー越しの、もごもごとした声で、「もう少し時間が経つと、夕食の準備の時間だし、夜に民家に聞き込みに廻るのは嫌われるから、先にご近所に行こう」
「オッケー」
私たちは、覆面パトで現場にトンボ返りすることになった。
「いちおう警察の聞き込みでも、いくつか情報は得ているんだけどね」車内で丸柴刑事が、「昨日の夜七時半頃に、被害者宅の前の道路に宅配便のトラックが停まっていたことが確認できてる」
「七時半って、死亡推定時刻のど真ん中だね」
助手席の理真が顔を向けると、丸柴刑事は、
「うん。でも、怪しい人物とかの目撃はしていないって。その近所数件に宅配する荷物がまとまってあって、十分以上トラックを停車させてたそうだから期待したんだけどね」
丸柴刑事が残念そうな顔をしたのが、バックミラー越しに窺えた。
ご近所への聞き込みの手応えは芳しくない。今のところ事件に関する有益な情報は何も聞かれない。「警察に一度話していますから」と、にべもない対応をされるお宅も一軒や二軒ではない。そんな中、
「あそこでしょ、江部さんのところ」
と、被害者宅に興味を示す反応を見せてくれた主婦がいた。
「本当に困ったお宅でしたよ」その主婦は眉根を寄せながら、「庭でゴミを燃やすことが何度かありましてね。その都度、役所の人に来てもらって注意していたんですけれど、一向にやめなくって。火事にでもなったらどうするんですかって」
事務所で橋屋からも聞いた、野焼き問題のことらしい。困りますね、と同情(する振り?)をして、うんうんと聞いていた理真だったが、
「一昨日もね――」
と主婦が口にした瞬間、
「一昨日?」
オウム返しに食いついた。突然の反応だったためか、あれほど饒舌だった主婦を黙らせてしまった。
「あ、すみません」と理真は、ぺこりと頭を下げてから、「一昨日も、江部さんは自宅の庭で野焼きをしていたということですか?」
「え、ええ、そうです」
主婦が答えると、理真は数秒黙ってから、
「ありがとうございました」
会釈をして暇を告げた。当然、私と丸柴刑事もそれに倣う。
「丸姉!」理真は江部邸に向かって歩きながら、「江部さん家の敷地構成って、どうなってるか分かる? 今は全面雪が積もっていて地面まで見えないけど」
「分かる」理真に追いついた丸柴刑事は、「敷地はぐるりと塀に囲まれていて、北側に門と玄関、西側に庭、南側に裏口と裏門があるわ」
「東側は? 人は通れる?」
「家屋はかなり東よりに建てられていて、塀と壁とに隙間がほとんどないから無理ね」
「門から玄関までのアプローチはコンクリートでアプローチ敷きだったけど、裏口は?」
「同じようにコンクリートのアプローチがある。規模は表よりも当然小さいし短いけどね」
「宅配便のトラックが停まってた道路って、北側の表門だよね」
「そうね」
「……」
立ち止まって表門から江部邸を望む理真は、マフラーを引き下げて下唇に人差し指を当てた。これは彼女が考え事――特に真相に迫る重大な推理――をするときの癖だ。
「……丸姉、由宇」数十秒の沈黙を破って理真が、「カラオケ店に行こう」
「聞き込みね」
「うん。聞き込みというか、ひとつ確認したいことがある」
「江部則彦さん、昨夜の午後七時半頃、どこにいましたか」
「警察の方に話した通りです。六時から九時までの三時間、ずっとカラオケ店にいました。店員の証言も取れていると思いますが」
座卓を挟んであぐらをかいた江部則彦は、理真の問いかけに対して、面倒くさそうに答えた。場所は彼の居住するアパートの部屋。車のない彼を寒空の中呼び出すのは悪いという理由で、探偵、刑事、ワトソンの三人してアパートに押しかけたのだ。
「そうですか」
理真が返すと、則彦は、
「で、今日は何の用事で来たんですか?」
明らかに苛立った顔で探偵を睨んでくる。理真は、その視線を受け流すように僅かな笑みを浮かべて、
「江部さんを殺害した犯人が分かりました」
「えっ?」
則彦の顔つきが変わった。対する理真は、薄い笑みを保ったまま、
「犯人は、現場から徒歩で四十五分ほど掛かる場所に共犯者を用意し、自分の替え玉を演じさせることでアリバイを作り、犯行現場へ向かったのです。現場での犯行時刻が午後七時半前後だったため、逆算すると、犯人が出発したのは午後六時半から四十五分の間だったと思われます」
やけに具体的な数字を出してくることに違和感を憶えてもおかしくないはずだが、まるでそのことに恐れを抱いているかのように、則彦は黙って探偵の言葉を聞き続けている。
「江部勝さんを殺害して金庫の中身を奪った犯人は、来たときと同じように、玄関から表門を抜けて帰ろうとしました。ですが、そこでアクシデントに見舞われます。目の前の道路に宅配便のトラックが停まっていたのです。犯人は身を潜めて、トラックが走り去るのを待ちましたが、なかなかドライバーは帰ってきませんでした」
そうですよね、と問いかけるような理真の口ぶりに、則彦は一瞬首肯しかけたように見えた。理真は続ける。
「いくら共犯者を替え玉として残しているとはいえ、確実な手段ではありませんし、一刻も早く戻りたいと思うのは当然の心理です。そこで犯人は、トラックが停車している正面を諦め、庭を廻って裏口から出ることにしました。今の季節、午後七時半過ぎはもう真っ暗です。携帯電話などで下手に明りを灯しては近所の目を引く結果になるかも知れないと考え、犯人は暗闇の中、手探り、足探りで庭を抜けて裏門から逃走、カラオケ店に戻って再び替え玉と入れ替わりました――あ、カラオケ店って言っちゃいましたね」
いけね、とばかりに理真は首を傾げて微笑んだが、則彦は何も反応しなかった。その額にじわりと汗が浮いているのは、いささか効き過ぎている暖房のせいだけではないだろう。
「……で、何だよ」理真が沈黙したままでいることに耐えかねたように、則彦が、「その犯人を追い詰める証拠でもあるっていうのか」
「はい」
「――!」
当たり前のように発せられた探偵の言葉に、則彦の顔つきがさらに変わる。理真は小さく頷いてから、
「庭を抜け出る際、犯人は〈ある物〉を踏みつけてしまいました。暗闇の中だったため、踏みつけたことに気付かなかった。それが靴の裏に付着し、裏門へと続くコンクリート敷きのアプローチの上に靴跡を残してしまったのです。犯人にとって――たとえ一時的にでも――幸いだったのは、その直後に雪が降り始めたということです。降り積もった雪が、庭にあった〈それ〉も、アプローチに残した靴跡も、全て覆い隠してしまいましたから」
「な、何だ? お――犯人が踏んだ〈もの〉って?」
一瞬「おれ」と言い掛けたらしい。稚拙な替え玉共犯者の手口といい、あまり利口な犯罪者ではなさそうだ。今回の犯行が――理真の言葉どおり、たとえ一時的にでも――上手くいったのは、偶然降った雪が証拠を覆い隠してくれたからというだけに過ぎない。
「灰です」
「は――灰?」
「はい。あ、洒落じゃありませんよ」理真は口に手を当てて、くすくす笑うと、「江部勝さんは、殺される前日、庭で粗大ゴミの焼却処分をしていました。ゴミ処分目的の野焼きは禁止されているのですが、どうも勝さんは常習者だったようで。ですから、庭を抜けて裏門から逃走した犯人が履いていた靴裏には、まだその灰が付着している可能性が大いにあります。帰りの道中が雪道だったからといって、ソールパターンの隙間にまで入り込んだ炭が、雪を踏みしめて歩くことで全て洗われたとは考えがたいですから」
則彦の視線が一瞬玄関に向いた。
実は私たちが部屋に入る際、丸柴刑事と私を目隠しにして、理真は素早く則彦の靴の裏を確認していたのだ。二足目のスニーカーを裏返して見た直後、理真は私たちに視線で伝えていた。「あった」と。
警察は、理真の推理を受けて、江部邸裏口アプローチ上に積もった雪を慎重に除雪した。結果、灰によってスタンプされた靴跡が出てきたのだ。もしこのまま雪を放置し続けていたら、融雪水でその靴跡も洗い流されてしまっていた可能性が高かった。庭からも、雪の下からやはり廃棄物の焼却跡が発見された。庭にあったもの、アプローチ上の靴跡、さらに犯人と思われる人物の靴裏に灰が残っていたら、それらが全て同一のものであるかどうか鑑定できるだろう。
「則彦さん、どうでしょう。お持ちの靴を調べさせてもらえませんか?」
理真の言葉に、則彦が項垂れたまま何も答えを返さずにいると、
「ああ、それと」理真が続けて、「共犯者の方とは綿密に打ち合わせをしたほうがいいですよ。あなたの部屋の犯行当日の選曲履歴を確認したのですが、午後六時半から八時十五分の間までにしか選曲された記録がありませんでした。これから犯罪を犯そうというのに、呑気に歌ってる心境にはなれないのも当然ですが、共犯者はそんなこと関係なかったようですよ。あなたが危険な犯行に身を投じていることもお構いなく、共犯者の方はカラオケを満喫していたみたいですね。そして、その時間だけ、すっぽりと選曲履歴の存在しない部屋もありました」
その部屋の使用者が、すなわち共犯者で間違いない。則彦は共犯者をあらかじめ同じカラオケ店に待機させておいて、犯行に向かう際に自分の部屋に招き入れて替え玉としたのだ。理真がカラオケ店で確認したのは、犯行当日の各部屋の時間ごとの選曲履歴だった。後の調べで、その共犯者は則彦とは何の繋がりもない、ネット間のやりとりだけで雇われた男だと判明、警察で事情を訊かれることとなった。自分の雇い主の目的が窃盗――結果的には殺人まで犯すことになったが――だとは知らず、浮気関係のアリバイ作りのためだと聞かされていたという。なればこそ、呑気にカラオケに興じることも出来たのだろう。
江部則彦は、窃盗目的で伯父の家に盗みに入ったことを自供した。何度か江部邸を訪れていた際、伯父の目を盗んでドアの鍵をコピーしていたのだという。雇った男に自分の替え玉を演じさせ、自分が江部邸にいる確実な時間にルームサービスを頼むよう念押しして、則彦は犯行現場に向かった。午後六時半のことだった。則彦は、何気ないきっかけで知った金庫の番号を使っての盗みだけが目的だったと証言している。伯父は自宅の光熱費節約のため、毎日九時頃まで事務所で過ごしていることを知っていたためだ。だが、折りの悪いことに、その日は事務所の電気工事のため、すでに江部勝は帰宅を果たしていた。いつもどおり伯父は留守にしているものと決め込んでいた則彦は、堂々と玄関ドアを解錠して中に侵入、廊下でばったりと伯父と鉢合わせしてしまう。在宅しているときでも、玄関灯など一切点灯させていない吝嗇家ぶりが(勝にとっても、則彦にとっても)不幸な結果を呼ぶ形となってしまった。勝に侵入手段を厳しく詰問され、頭が真っ白になり何も言えず立ち尽くす則彦。業を煮やし、「警察に連絡する」と自室に戻る勝を追った則彦は、だが、そこでも気が動転したまま、机にあった硬くて重いガラス製の灰皿を目に留めてしまい……。
「付き合っている女性を妊娠させてしまい、入院費を工面しなければならなくなった」
則彦はそれが盗みに入る直接の犯行動機だと語った。その女性とは結婚も視野に入れており、真面目に身を固めることも考えていたが、これまでの自分の行い、さらには伯父の性格を考慮して、そのことを告げるのはどうしても躊躇われたという。「無職の分際で子供を持とうなど」と叱責されるのは目に見えていたから、と則彦は語ったが、果たしてそうだっただろうか。橋屋の証言から、あの歳まで独身を貫いてきた江部が、家庭というものに憧れに近い感情を持ち始めていたことは否定できない。
『クリスマス・キャロル』の主人公スクルージは、クリスマスの精霊に導かれたことで、これまでの自分の言動を悔い改め、甥の誘いに乗ってパーティに参加し、書記の給料を上げてやり、慈善事業に多額の寄付をし、「もし生きている人間でクリスマスの祝い方を知っている者があるとすれば、スクルージこそその人だ」とまで言われるようになった。もしかしたら、たったひとりの甥の子供の誕生こそが、江部勝にとっての「クリスマスの精霊」になった可能性もあったのかもしれないが、もうそれは誰にも分からない。
事件を解決した夜、私と理真は丸柴刑事にアパート近所のコンビニまで送ってもらった。これから三人でクリスマスパーティでも、と誘ったが、丸柴刑事は調書のまとめがあるからと県警本部に戻っていった。遠ざかる覆面パトのテールランプに向かって、私と理真は敬礼した。
そうなったら、アパートの理真の部屋で雪見がてら、女二人の宴会になだれ込むことは必定となった。私たちは、店員がこしらえた小さな雪だるまが出入り口横で迎えるコンビニに入り、酒と肴の買い出しにかかった。
支払いは最近憶えた電子マネーで済まそうと思ったが、理真が現金で支払いをしているのを見て、私もそうすることにした。受け取ったお釣りの小銭を、私はこれも理真がそうしたように、レジの横、おでん鍋の反対側に置かれた募金箱に入れた。「ありがとうございます」と笑顔で頭を下げた店員の頭には、サンタの帽子が揺れていた。
メリー・クリスマス。
この地上に生きるすべての人が、クリスマスの祝い方を知る人となりますように。
※ディケンズ作『クリスマス・キャロル』についての記述は、村岡花子訳による新潮文庫版を参考にさせていただきました。