「スクルージの密室 2」 庵字 【本格ミステリ】
私たちは外に出ることにした。このあと、被害者である江部勝の会社事務所に行き、従業員であり、死体の第一発見者にもなった橋屋茂之に話を訊くためだ。社長の急逝で業務がてんてこ舞い状態なのだが、この時間だけ少し手が空くらしい。ストーブの余熱も収まってきて、室内が冷えてきた頃合いだったし、ちょうどいい。
玄関ドアを開けて一歩外に出て、私は寒さで固まった。私と理真が現場へ到着した時刻に比べて気温はそう変わっていないが、風が出てきたためだ。吹き付ける冷たい風が、自らの体温で僅かでも温めた自分の周りの空気を根こそぎ奪っていく。同じ気温でも、冬は風のあるなしで体感する温度は数段違ってくる。見ると、理真も首に巻いたマフラーを鼻先まで引き上げて「ブルルル」と震えた。
「いちおう、家の周囲も確認しておく?」
丸柴刑事の言葉に、理真は無言のまま頷いた。
現場到着直後に警察が撮影した写真と見比べながら、私たちは家をぐるりと一周した。今でこそ警察や鑑識の足跡が縦横無尽に雪面に足跡を作っており、門から玄関へ続くアプローチがコンクリート敷きであることも視認できるが、写真ではすべてが雪で覆われている。第一発見者の橋屋が付けた足跡が門から玄関へ続くアプローチと、そこから外れて庭の窓の下まで往復しているだけだ。――雪密室。
事務所へ向かう道中、覆面パトの車内で丸柴刑事から、第一発見者である橋屋にもアリバイはあると聞いた。昨夜は午後六時に退社後、車で一時間かかる自宅へ帰宅。家族と夕食を食べて居間でくつろいでいたところ、降雪を知り、午後八時から九時頃まで家の前の雪かきをしていた。明朝、雪に阻まれることなく車を出せるようにするためだ。この作業中も、やはり同じ目的で雪かきに出ていた近所の人たち数人と顔を合わせている。現場へ往復して、死亡推定時刻内に被害者を殺害する時間を捻出することは不可能だ。
事務所へ到着した。素人探偵(と、ワトソン)が捜査に協力することは事前に話しており、了承も得ているということだったため、理真と私も何の問題もなく、丸柴刑事共々、応接セットに迎え入れられた。丸柴刑事も、私や理真よりも数歳年上というだけ(で、しかも美人)なため、うら若い女性三人がこうして並んでソファに腰を下ろしている様子からは、殺人事件の捜査だとは端から見ればとても思われないだろう。
「さっそくですが」素人探偵が口火を切った。「江部さんの周囲で、最近何か変わったことなどありませんでしたか? 普段と違う言動をしていたとか、怪しい人物がうろついていたとか」
「特に……いえ、何もありませんでしたね」
橋屋は小柄な体を丸めるようにして答えた。背広の上に厚手のちゃんちゃんこという独特のファッションをしているし、彼も寒いのだろうか。そう、屋外と比べればはるかにましだが、確かにここは寒い。決して広いとは言えないこの事務所でこの寒さということは、暖房の温度が低めに設定されているに違いない。当然礼儀として防寒着は脱いでいるが、正直、防寒着を着て手袋もはめた完全防備でいたいくらいだ。思わず両手をこすり合わせてしまった。それを見たのだろう、橋屋が、
「あ、すみません。寒いですよね」
あっ、はい、などと答えるわけにもいかず、かといって、平気です、と言い切る根性も持てず、私は曖昧に笑みを浮かべることしかできなかった。だが、私の心情を察したというわけでもないだろうが、橋屋は、「少々お待ちを」とソファを立って、壁のパネルを操作しだした。途端、グオン、とエアコンの稼働音が唸る。設定温度を上げてくれたようだ。
「すみませんでしたね」私たちの対面に座り直した橋屋は、「エアコンの温度が低めに設定されていたもので」
やはりか。
「ウォーム・ビズですか?」
理真が訊いたが、橋屋は「いえいえ」と首を横に振って、
「社長の方針だったものですから」
「ああ」
と理真は納得した声を上げた。職場のエアコンの電気代をも節約、いや、ケチっていたということか。
「でも、もう関係ありませんから」
橋屋は寂しげな笑みを浮かべた。
「そういえば」と理真が聴取を再開して、「江部社長は、かなりの吝嗇家だったそうですね」
「ケチ」を丁寧に言い換えて訊いた。
「ああ、はい」橋屋は(彼がそうする必要もないだろうに)ぺこりと頭を下げて、「エアコンの設定温度も細かく指示されていました。冬はまあ、着込めば何とかなりますけれど、夏は大変でしたよ」
「それは、商売の面でも?」
「はい。ですが、それについて社長が恨みを買うようなことはありませんでした。社長は確かにケチでしたが、出すべきものは躊躇いなく出していましたよ。業者の見積もりなどにも、合見積もりを取って適正な価格だと判断すれば、特段値切るようなこともなく契約していましたから。もっと安い他社の見積金額を盾にして、『まけろ』などとダンピングを強要するようなこともありませんでした。意外と信心深いのか、毎年の初詣も欠かしませんでしたしね」
「経営に関しては誠実だったと」
「そう思います。今の世の中――というか、いつの時代もそうでしょうけれど、他業者に嫌われながら商売をするなんてことは不可能ですよ。うちみたいな零細企業なら、なおさらです」
これには理真も深く頷いた。そういえば、『クリスマス・キャロル』のスクルージも、ケチではあったが商売に対しては真っ当で正直な人間だという解釈がされている。でなければ、今、橋屋が言ったように商売自体が成り立たないからだ。「スクルージ・マーレイ商会」は悪い噂が流れて、すぐに商売が立ちゆかなくなっていたはずだし、甥のフレッドがクリスマス食事会の誘いに来ることも、薄給ながらも書記のボブ・クラチットが彼の下で働き続けることもなかっただろう。
「社長の吝嗇ぶりは私生活にまで徹底していましてね」橋屋の話は続いた。「探偵さんも現場に行かれたからお分かりでしょうけれど、社長の家は決して小さいとは言えない規模ですが、ひとつの部屋に机、ベッド、パソコンなど生活用品を全て持ち込み、居間と書斎と寝室を兼用する形で使っていました」
私は、先ほどまでいた江部宅を思い出し、確かに彼の言うとおりだったことを確認した。
「何か理由があるのですか?」
理真が尋ねると、はい、と橋屋は、
「冷暖房を使う部屋がひとつだけで済むからだと」
ソファからずり落ちそうになるのを堪えた。まあ、確かに、居間でくつろいで、書斎で書き物をして、寝室で就寝、となれば、その全ての部屋で空調が必要になるけれど。
「終始、そんな生活をしていらした方なので、社長はゴミ袋も、ひと袋がパンパンになるまで出さない主義だったそうです。さすがに夏場の生ゴミは別でしたでしょうが」
今はどの自治体でもそうだと思うが、ここ新潟市でも御多分に漏れず、燃やすゴミと、プラ以外の燃やさないゴミを出す際には、市が指定した専用のゴミ袋に入れて出す必要がある。当然、そのゴミ袋は購入しなければならない。
「そうそう、ゴミと言えば……」
まだ江部社長のドケチ――いや、吝嗇エピソードはあるのかよ。
「いつでしたか、壊れた家具をバラバラに分解して、自宅の庭で焼却したこともあったそうです。粗大ゴミを処分するにも費用がかかりますから」
「それは今は禁止されているのでは?」
理真の疑問に、はい、と橋屋は頷いて、
「近所の方から『洗濯物に煤がかかる』と苦情を受けたのを皮切りに周囲に知られてしまい、市の職員の方から指導を受ける羽目になったそうです」
これも多くの自治体で同じだろうが、新潟市でも野焼きは禁止されている。たき火程度の軽微なものについては許可されているそうだが、廃棄物の焼却処分は明らかにまずい。
「そうですか」と理真は、そろそろ江部社長の吝嗇伝説から話題を転換しようと、「甥の則彦さんが、たびたび江部さんの自宅を訪れていたそうですが、則彦さんについて何かご存じのことはないでしょうか?」
「ええ、何度か事務所に顔を出したこともあったようです」
「則彦さんが、ここにですか」
「そうです。社長は、定時になってもすぐには帰宅せず、九時頃まで事務所に居ることが多かったですから。則彦さんもそれを知っていて、定時外の時間を狙ってきていたらしいです。社長は規定の業務時間をプライベートに割かれることを嫌っていまして、則彦さんもそれは承知していたのでしょう」
「毎日九時頃まで、ですか」理真は怪訝な顔をして、「では、昨日も?」
「あ、いえいえ」橋屋は否定の意味で手を振ると、「昨日は電気工事の関係で午後七時から深夜まで、ここの電気が使えなくなると告知が来ていましたので、さすがに社長も私と一緒に六時くらいに帰りましたね」
理真の質問の意味が分かった。江部勝の死亡推定時刻は、六時半から八時半の間。もしここを九時に出ていたとしたなら、死亡推定時刻との勘定が合わなくなる。ここから自宅までは十数分ということだったから、六時に出れば死亡推定時刻との齟齬はなくなるわけだ。そんな、早く帰宅した日に限って奇禍に遭ってしまったということなのか。理真も納得して話を再開する。
「江部さん、定時後もほとんど事務所に残っていたとは、さすが経営者だけあって仕事熱心だったのですね」
「いえ、ここで過ごす分だけ自宅の光熱費を浮かせられるからでしょう。おまけに事務所の光熱費であれば経費扱いにも出来ますし」
吝嗇伝説は終わっていなかった。私は、心理的にはもう完全に一度ソファからずり落ちた体を立て直して、橋屋の話の続きを聞く。
「それで、則彦さんは、何かと理由を付けては社長にお金の無心をしていたようです」
「でも、江部さんはそれを突っぱねていた」
「全てではありませんでしたね。新しい仕事をするための準備にお金が必要だ、などという理由を付けたときには、渋々ながらもいくらか持たせていたようですし、お正月にはお年玉もあげていました。何だかんだ言っても、たったひとりの身内が可愛かったんだろうと思います」
橋屋は、しんみりとした顔つきになった。
「そうですか」理真も、心持ち表情を緩めて、「江部さんは独身ということでしたが、過去にご結婚は一度も?」
「はい。結婚は他人と資産を分けるだけで損しかない、というのが持論の方でしたので。子供についても、金が掛かるうえに真人間に育つ保証がなく、ギャンブルみたいなもの、とまでおっしゃっていましたね」
なんだかなぁ。
「ですが、半年ほど前に、私の妻の母親が入院することになり、その準備のために、妻が何日か郷里に帰らなければならなくなったことがあったのです。私の下の子は小さくて、保育園にも入れる前だったものですから、その間、世話をするため、ここに子供を連れてきてもいいかと社長に伺いを立てたところ、快諾してくれたことがありました」
「意外ですね――いえ、失礼」
「はは。私もそう思いました。てっきり、子供嫌いな社長のこと、仕事の邪魔になるから託児所でも見つけて預けろ、と言われるかと思っていたものですから」
「問題は起きなかったのですか?」
「はい。むしろ、ミルクを作るのを手伝ってくれたり、普段はどんなふうに子供を育てているのかと、興味深そうに訊かれたりもしました」
「それは……」
「はい。もしかしたら、あのお歳になって家族や子供というものに、未練というか、憧れに近い感情をお持ちになっていたのかも知れません。無論、ご自分からそんなことを口にしたりはしませんでしたが。私の子供の誕生日にはプレゼントまでいただきました。とても驚きましたよ」
俯いた橋屋の目に、光るものが浮かんでいたような気がした。




