20 アッシュ・ビン・ファーネス
アッシュ・ビン・ファーネスは、ファーネス家の長男として生を受けた。
ファーネス家は騎士爵家である。爵位などこの国ではもはや有名無実の勲章程度の意味しかないが、貴族としての家柄を誇りにしている父親にアッシュは幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
弟のアムルも当然同じように教育を受けたが、そのうち耐えきれなくなったアムルは敬虔な信徒となったふりをして教会を味方につけ、ファーネス家を逃げ出した。
アッシュもアムルから事前に相談を受けていたが「一緒に行こう」という弟の誘いを断り、弟が家を出るためのサポートに徹した。
弟が家を出たその頃から、アッシュは自身に気持ちの悪い感情が芽生えていることを自覚した。
誰でもいいから斬り刻みたい、なんでもいいからバラバラにしたい、この憎々しい父親をブン殴ってやりたい、そういった気持ちを心の奥底に感じていた。
アッシュはこれまで、立派な貴族として振る舞う父を尊敬しており、いつかは自分も父のようになりたいと思っていた。そのはずだった。
だからアッシュは自身のこのどす黒い感情にひどく動揺し、その日から父母をできるだけ避けて過ごすようになった。
父からの厳しい追及があったが母の助けもあり、またアッシュにまで家を出て行かれては後継に悩むとあって父の鍛錬は終わりを告げる事となった。
ただし父からは条件として騎士となるために王立騎士学校に入学する事を求められた。アッシュも元よりそのつもりで、父を避けるようになったとはいえ騎士を目指すことをやめたわけではなかった。
それ以来、アッシュは自らに厳しい修練を課することにした。それは、父から受ける鍛錬よりもむしろ厳しいものであった。
後ろめたい思いもあってアッシュは父母からは徹底的に隠れていたため父はその事を知らなかったが、優秀な成績を取り続けた息子に満足して何も言うことはなかった。
学校での授業にも熱心に取り組み優等生を演じて続けていたアッシュは、卒業が近くなる頃にその演技に綻びが見え始めた。普段は当たり障りのないことを口にしていた彼だったが、気が緩んだ隙に相手を罵るような言葉を口にしてしまう。
プライドの高いアッシュはうまく謝罪することもできず、友人たちは軽口くらいさほど気にしてはいなかったが、彼自身が口さがない自分を許せず、気の置けない友人たちとは距離を置くようになっていった。
この頃、魔法が使えないのに成績だけは自分より上位のアレスを、アッシュはかねてより疎ましく思っており、ふとした時につい無能と罵ってしまった。
アレスは何も言い返すことはなかったが、アッシュはこのことをひどく後悔し事あるごとにアレスに声をかけるようになった。
アレスを友と思っていないアッシュはアレスに謝罪する気持ちは全くなかったが、しかし何か助けられるときは助けようという気持ちであった。むろん、この意に沿って行動できたことはあまりない。
心情に言動が伴わないアッシュは、アレスに接するたびに新たに懺悔の念を抱えてしまい、いつしか彼はいつもアレスを気にかけるようになっていった。友情でもましてや恋慕などでは決してないが、彼にとってアレスは唯一自分が素直に接することのできる人間となったのである。
アレスが騎士学校を受験し合格したと聞いたときは驚きそして内心喜んだのは、誰よりもアッシュだっただろう。本人に喜んでいる自覚はなかったが、騎士学校に入学したときにはアレスが来るまで門の側でしばらく待っていたくらいだった。
ガント・ゼラートがアレスに絡んだ時、アッシュはー瞬助けてやろうかとも考えたが、騎士を目指す仲間として本意ではないだろうと静観することにした。
青い髪の少女がかばったときは余計なことをすると思ったものだが、決闘することになった時は内心の愉快を抑えきれずにいた。魔法が使えないはずのアレスがどうやって騎士学校に入学したのか、その謎を明かせると期待したのである。
その結果は"魔法が使えるようになった"ということで明かされた。アレスが使ったのは魔法陣であり魔法というよりは魔法道具に近いものであったが、傍目には適正のない魔法を無詠唱で使ったように見えたのである。
ガントは常に喧嗹腰で、文句のあるやつは片っ端から暴力でねじ伏せているような男である。アッシュも「近づかないほうがいい」と噂に聞くほどであった。そんな男が弱いはずはないだろう。なによりも目にした結果がアレスの実力を物語っていた。
アッシュは剣術や勉学はもちろん、魔法の修練も積んでいた。炎系の魔法であれば誰より強いという自負があった。そんな彼でも無詠唱で攻撃魔法を使うことはできない。アレスはそれをやってのけたのだ。彼はこの現実を受け入れられずにいた。
入学してからの体技の授業でもアッシュはなるべくアレスとは組まないようにしていた。この上剣術でも敵わなくては心が耐えられないことを無意識に理解していたからだ。
騎士学校で過ごしてしばらくした頃、アッシュのどす黒い感情は吐き気を催すほどに強くなっていた。前よりも更にうまく喋れなくなった彼は次第に無口になり誰とも友好な関係を築くことなく孤立していった。
そしてアッシュは修錬を積むうち、いつしか自身の炎に黒いものが混ざっている事に気づき、炎を放出する魔法を外では使わないようにした。
その代わりに天上の闘気を炎の鎧として身に纏う手法を体得した。しかしこの炎の鎧にも黒いものが混じっていたので学校では使わなかった。
この黒いものがなんなのか、アッシュにはまったく心当たりがなかったが、悪いものである予感だけはずっとあり薄気味悪さを嫌気して彼は自身の炎を次第に嫌うようになっていった。
森へ演習に出た際には魔物を手際よく倒せたものの、その後ルミスの勇気に脱帽しフィルにさえ助けられ、そしてまたもアレスの成長に驚かされたアッシュは、そのまま失意のうちに王都へ戻ってきた。王都に入ってきた辺りだろうか、そこで身体が自身の思うとおりに動かないことに気が付いた。
声を発することもできない。手も足も自由に動かない。父母や弟が気になっているのに向かう先は自宅ではないどこか知れない街外れの廃屋だった。
廃屋には魔法陣が描いてあり、何人かの見知らぬ人たちがいた。アッシュの口は、そこにいた顔も知らない誰かと気味の悪い言葉で何かを話した後、知らない言語で知らない呪文を唱えだした。
それは……悪魔による複合召喚魔法であった。長い呪文を唱え終えると魔法陣からは巨大なドラゴンが現れた。アッシュの身体はドラゴンに飛び乗ったが、ドラゴンは他の人たちと廃屋を吹き飛ばし、はるか上空に飛び上がっていった。
ただ、ドラゴンはそこにずっと浮くだけであり何もしなかった。アッシュにはそれが不気味ではあったが、これが伝説に聞くドラゴンであるなら王都などすぐに灰燼に帰してしまうことだろう。
この時、議事堂では首脳陣が集まり隣国・ドルゲンローグからの降伏勧告について議論をしていたのだが、もちろんアッシュは知る由もない。
ドラゴンの上からは真下は見えないものの、街の様子がよくわかった。その中で派手な格好をした赤髪の少女が何度もドラゴンに攻撃を加えているのを、"刺激してくれるな"という思いで眺めていた。
ガントが仲間たちを集めて何かをしているのもよく見えた。"勝てるわけないのだ、やめてくれ"とせめて心の内から念じていた。
誰かが飛んでくる。それが誰なのか気づいたとき、アッシュはまたお前かと心底うんざりすると共に、どうにかしてくれるのかと期待せずにはいられなかった。
アレスとの会話の中で初めてアッシュはようやく自身が悪魔に侵されていることに気づき愕然としたが、自身の速度・膂力に慄きこのままではアレスを殺してしまうと憂慮した。
その心配をよそにアレスは更なる力を発揮し、目で追う事すらできない速度で悪魔を翻弄し始めた。しかし悪魔もそれに追いつきやはりダメかと諦めかけた時、アレスは後方に跳びずさり無数の水弾を発射した。
これは、あの時岩山を崩した威力の魔法だろう。死ぬかもしれない、しかしそれも仕方がないことだと覚悟したアッシュは、炎の壁が生じるのを見て死ぬことすらできないと更に絶望したのだった。
炎の壁は爆音とともに弾け飛び暴風が抜けた直後アッシュは己の身に水弾が直撃する衝撃を感じた。気絶こそしなかったがかなりのダメージを受けたようだった。悪魔は持っていた剣を上空に投げ、倒れこんだ。
アレスが近づいてくる。アッシュには悪魔の狙いはわからなかったが悪魔がわざと倒れた事は理解できていた。これは違うのだ。悪魔の罠なのだと叫びたかったが声にならず、そして信じられないものを目にした。
アレスは完全に知覚の範囲外である上空からの攻撃を避けてみせたのだった。悪魔が驚いて二の句を告げずにいたところを剣で叩かれて気絶した。
アッシュが目を覚ました時、むくれた顔をして自身を見ている派手な格好をしたピンク髪の少女が、マリアンであることに気が付いた。
アッシュは縄でがんじがらめに椅子に縛り付けられたまま、マリアンから事の経緯を聞いた。
この日、アッシュたちの住む国・ラカシンポートは無条件降伏をし、ドルゲンローグの属国となったのであった。
―――― あとがき ――――――
属国……この世界では植民地というほどひどい扱いにはならない。主国へ居住を移せず税金が少々上がるくらいのものである。




