帰宅! 緊縛? 意識崩落!? ~1日目の5~
ようやく事件らしい事件が始まります
*
「そういうわけで、明日は臨時休校になりました。休みだからって、無闇に外を歩き回らないようにね。非常事態なんだから」
真締先生がクラスの全員に釘を刺す。
と、同時に、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り、私は我に返った。
先生の話がまるで頭に入ってなかった。なんで臨時休校になったんだっけ?
「きりーつ、気をつけー、れーい」
やや慌てつつも、なんとか終了の挨拶にならう。
それが終わるや、教室内はどっと喧騒に包まれた。
思い思いの帰り支度と雑談に包まれながら、私は大きな溜息を吐いた。
──ボクに、関わらない方がいい。
一限目の終わりに、ナルくんから突きつけられた言葉が頭をぐるぐる回りながら、まるでなにかの拷問具のように、何度も私の心を痛めつける。
言われた瞬間から、ずっとこれが続いていた。
授業はうわの空で、昼になにを食べたかもよく憶えていない。
休み時間には例の三人娘が校内を軽く案内してくれが、彼女たちの言うことも右から左だった。
ナルくんがどこかへ行ってしまったのも、私の心をたまらなくざわつかせていた。
結局、終業のホームルームになっても教室に戻ってこなかった。
早退ではない。彼の鞄は、机に掛かったままなのだから。
当然、二限目以降、ナルくんはすべて欠席扱いだ。
私としては心配でたまらない──彼の学業よりも、なにかよからぬことに巻き込まれたのではないか、という意味で。
失踪事件──朝に三人組から聞いたその言葉が、泥沼のように混乱する私の心に、これでもかと不安の苗を植えつけてくる。
その植え込みスピードたるや、農耕トラクターも裸足で逃げ出すほどだ。
「はあ…………」
瞬く間に立派な憂鬱の田園ができあがり、溜息が収穫される。
「稀多さん」
横から唐突に声をかけられ、私は感電したかのようにビクついて、そっちを見た。
五十川さんだった。
もちろん、と言うべきか、綾さんと伊深さんも一緒だ。
「私たちは委員会に出なくちゃならないんだけど、稀多さん、一人で帰れる?」
「え? うん、大丈夫。道は分かるから」
「そうじゃなくて、危ないってこと。先生の話、聞いてなかったの?」
「先生の? 明日の休校のこと?」
「その理由よ。今日また、ここの生徒が一人、消えたの。しかも校内でね」
「え……ッ!?」
背筋がサァッと冷たくなるのを感じて、私は思わずナルくんの席に顔を向けていた。
やはり戻っていない。まさか──
「いやいや、名瀬羽くんじゃないよー」
綾さんが私の戦慄を否定する。
振り向くと、五十川さんの陰に隠れて、伊深さんが肘で小突くのが見えた。
突かれた発言者は一瞬、しまった、という顔を作る。
「ナルくん? ナルくんがどこにいるか、知ってるの?」
「委員会室じゃないかしら? 私たちもそこに行くの」
五十川さんが答えた。
「でも、鞄が……」
「私たちが持っていくわ。大丈夫。さっき電話で話したから、無事なのは確かよ」
「ああ、そう……そうなんだ」
一安心すると同時に、胸の奥に重苦しいムカツキを感じた。
嫉妬だ。
自分の知らないナルくんの番号を、五十川さんが知っているのだ。
仕方のないことではある。自分は数年ぶりの思わぬ再会。片や、彼女は同じ委員会の仲間。委員同士の連絡網があるのは自然なことだ。
だが、それだけのことでも、恋する乙女は負けた気になれる。
「そういえば、稀多さんて名瀬羽くんと親しかったの?」
いきなり五十川さんが訊ねてくる。
その言い方がひどく挑戦的なものに聞こえるのは、私の僻目だろうか。
「え? う、うん。昔、家がお隣で、保育園から一緒だったから」
「なら、ひとつ頼まれてくれないかしら」
「頼み?」
「そう。彼、日頃の授業も、委員会も、全然、やる気出してくれないのよ。しょっちゅうサボるし、出席してもボーッとしてるし。しかも、私たちや委員長が注意したってうわの空で、さっぱり聞いてくれないのよ。だから、あなたから言ってみてほしいの。無理にとは言わないけど、ひょっとしたら稀多さんの言うことなら聞くかもしれないから」
驚いた。随分と雰囲気が変わったとは思っていたけれど、ナルくんがそんなことになっていたとは。
しかし、いまの私に、一体どう言えというのだろう。
「うん、わかった。言ってみるね」
五十川さんにはそう答えておく。
もちろん、その場を繕うためのうわべに過ぎない。
私にはもはや、ナルくんのことを心配する資格などないのだ。
ボクに、関わらない方がいい──あれは間違いなく、ナルくんから私への、決別の言葉だった。
「じゃぁ……私、帰る。心配してくれて、ありがとう」
そう言いながら私は重い腰を上げた。
心の中では、憂鬱という名の田んぼを囲んでの、大収穫祭が行われている。
やんややんや、そーれそーれ……ぐすん。
帰路に見える街は、西に沈む夕陽に照らされて、まるで燃えているかのような、鮮やかな紅に染まっていた。
しかし、情熱の色に囲まれても、私の心はまったく燃え上がらない。
泣き叫びながら夕陽に向かって走ってやろうかと思ったが、そんな恥ずかしいこと出来るわけもない。
ばかやろー、なんて叫びながらひたすら走ってゆく私……想像してみるだけで本当に恥ずかしくなって、私は無意識の内に、人目を避けるように道を選んでいた。
だから、その高架下のトンネルをくぐるとき、周囲にまったくひと気がないことなど、まるで気にしていなかった。
そして私は忘れていた。いや、知るよしもなかった──五十川さんたちに心配されたわけ。明日が休講になった、その真の理由を。
トンネルの半ばまで歩いたときだった。
不意に、足がなにかを踏んづけた。
弾力に富んだ、柔らかいゴムのような……
次の瞬間、それが私の足下から、一気に這い上がってきた。
悲鳴を上げる間もなく、私は全身を包まれていた。
世界が黒一色に染まり、あらゆる音は途絶えた。息すら出来ない。
パニックに陥るまま、私はそれから抜け出そうと必死にもがいた。
だが手も足も、まったく動いてくれない。
まるで、一瞬で土の中に埋められたかのようだ
なに!? どうして!?
いやだ死にたくない! 助けて!
だんだんと息が苦しくなる中で、私は一心不乱に助けを求めた。
助けて……ナルくん!!
来てくれるはずのない、その人の名を叫ぶ。
唐突に、それが私を放した。
というより、まるで逃げるような動きで、私から飛び離れたのだ。
気が狂いそうなまでの恐怖から突然解放されたことで、私は脱力してその場に倒れこんでしまった。
酸素を求めて肺がフル稼働していた。酸欠のせいで視界は狭まり、耳も遠くなる。
そんな限界スレスレの感覚の中で、私は信じられない光景を眼にしていた。
というか、信じたくない。
それは人のような、しかし絶対に人ではない、異様な生き物だった。
形こそ人間そっくりだが、その顔には眼も、鼻も口もない。完全無欠のノッペラボウだ。
手足の先には指がなく、一糸纏わぬその全身はセメントのような灰色をしており、しかもゴム人形のようにグネグネと不気味にうねっている。
踊っている?
いや、悶え苦しんでいるように見える。でも、なにに?
そのとき、どこかから声が聞こえてきた。
「あかつき…………、……の王……、…………皇太子…………」
化け物の声ではないようだった。
だが、身体に力が入らないせいで、声の主を探すことは出来ない。
何を言っているのか上手く聞き取れないのは、私の耳が遠くなっているせいばかりではなかった。
それは、普通の声ではなかったのだ。
低く、歪んでいて、まるで地獄の底から這い上がってくるような冒涜的な音色──いや、それよりも、もっとおぞましい。
例えるなら、へヴィ・メタル系ヴォーカルが使う、いわゆる「デス声」を、へべれけに酔っぱらったダミ声オヤジが喉を潰しながらがなり散らして、挙げ句の果てには声と一緒にゲ○まで吐き迸らせているかのようだ。
いや、ひょっとして、本当に吐きながら唱えてんじゃないの!? 聞いてるこっちまでが「オエッ」てなる!
化け物に襲われた挙げ句、怪しげな呪文のせいで貰いゲ△とか勘弁して欲しい!
だが、私の懇願をよそに、事態はこれでもかと悪化した。
「…………滅べ」
声がそう告げた瞬間だった。
化け物が、溶けた。
今まで無理矢理に人の形を取っていたものが、その力を失ったかのように、唐突にドロリと溶解して、水のように地面に広がった。
「──ぅ……ッ!」
鼻が腐る──いや、気管から肺から脳味噌から、とにかく身体中が腐るかと思った。
凄まじい悪臭が、溶けた化け物から押し寄せてきたのだ。
どんな匂いかというと、それはもう筆舌に尽くしがたい。
化け物の容姿といい、ゲ□声の呪文といい、さっきから襲い来る常識外れな事態をどうにかこうにか表現してきたが、こればっかりは無理だ。
異次元の香りだ。
いや、「香り」なんて字をあてることからしてナンセンスだ!
「香り」という言葉に対する冒涜だ!
待て。一つだけ、この臭気の凄まじさを表す術がある。
そう、それは……可憐な乙女を一息で気絶させるくらいの臭さだった!!
きゅぅ…………