『勇気』が『悠希』になれるまで 4
病院の生活は規則正しいものである。なにせ時間通りに朝食が運ばれてくるので、起きれなければ朝食は食べられないのだから。
かといって、まだ自分で食べられるわけでもないので、看護師さんに起こされて、顔を拭いてもらったり、寝癖を直されたり、着替えをしたり、一通り朝の身支度が終わってから朝食を食べる。
ぼーっとしながらいつもの流動食を食べさせてもらい、足りない分は点滴でまかなっている。点滴の交換が終われば、そのまま診察をされて健康状態を見てもらう。
そこまでがいつも通りの朝の時間だ。それが終われば病室に一人になるので、やることもできることもない僕はそのまま寝てしまうことが多かった。
そしてお昼には朝の反省も何もなく、全く同じことをされて昼食を食べる。
同じことの繰り返しなのだけれど、何もできないと自分に言い訳をし、怠惰に過ごしていた。
ただ、いつまでも同じでいるわけにはいかない。どうなりたいか、どうしていきたいかは決まってないけれど、少なくとも身体が動けなければ、喋れなければどうにもならないのだから。
「あ、い、う」
取りあえずすることがないので発声練習をして見る。
短い刻みでなら話せるようになったけれど、長い文章はまだ難しい。
それでも意思が通じないよりは全然マシだ。
ふと時計を見ると、2時を過ぎていた。いつも通りであれば1時頃には悠希のお母さんが来ている頃なので、今日は来ないのだろうと1人病室で考える。
となればすることは1つ。この胸についている大胸筋サポーター、いわゆるブラジャーを外すのだ。
なぜ外すのか。これは女の子がつけるものであり、僕がつけるものじゃないからだ。あと、慣れないから圧迫感がありちょっと苦しいのもある。
今までつけていたのは悠希のお母さんや看護師さん達にちゃんとつけるように厳命されていたためであり、僕自身はこんなものなくていいと思っている。しかも後から知ったこととして、通常こういう検査衣の時はブラジャーはつけないらしい。僕がつけるように言われたのは、早いうちに慣れるべきだと思われたためであった。
だけれどなんと言われようと、とにかく邪魔で仕方がないのだ。やるなら今のうちだ。
硬く動かない腕の筋肉をどうにか動かして、検査衣の紐に手をかける。むぎぎぎと唸り声をあげていたかもしれないがあいにくとこの病室は個人用で、この場には僕しかいない。よって何も気にする必要がなかった。
1つずつ、ゆっくりとボタンを外していく。普段の手をぐーぱーするリハビリのおかげか、時間はかかるものの苦戦することはなかった。
最後のボタンを外し、腕を後ろに回し、検査衣が腕からストンと滑り落ちる。長い髪が背中にあたりくすぐったい。……僕ってこんなに髪が長かっただろうか?
ここまでやってから、邪魔なものを外したいという思いだけで行動した僕は何も考えていなかったことに気がついた。ふと横にある鏡を見てしまう。そこには上半身が下着姿の幼馴染がいた。
「うわぁ、ごめ」
なんて咄嗟に言って手で顔を覆う。もちろん誰かの返事があるわけがない。
何故なら、勝手に脱いだのも僕で、謝ったのも僕で、謝られるべき対象の下着姿の幼馴染も、今では誰でもない僕自身だったのだから。なんという一人芝居だろうか。
顔がすごく熱くなっていくのがわかる。何が恥ずかしいのだろうか。誰もいないのに1人で大慌てしていることだろうか。幼馴染の下着姿を見てしまったことだろうか。それとも、この下着姿の女の子を自分だと認識して、その姿が恥ずかしいのだろうか。
そこまで深く考えられるわけもなく、あまりにも恥ずかしいので、当初の目的も忘れ、いそいそと検査衣を着直すことにした。
検査衣を着直し、一呼吸置いて、落ち着いてからもう1度鏡を見る。……悠希がいる。僕じゃない、悠希がいる。
脳は、心は、気持ちはそう認識している。
でも現実は違う。
この身体を動かしているのは僕の意思だ。でなければいきなり検査衣を脱いでブラジャーを外すなんて奇行、普通の女の子は行わないだろう。……普通の女の子がどうなのかは今の僕には知る術はないけれど。
だがしかし、少なくとも僕は僕自身の意思でこの身体を使って動こうとした。
だったらこれは僕の身体?
それともこれは悠希の身体?
うーんと腕を組み唸りながら考える。鏡の中の幼馴染も同じ行動をする。
でもそれは僕の知る幼馴染はしたことがない表情だ。
僕が知っているこの顔の幼馴染は、考えてすぐ行動に移す。長考はあまりしない。今の鏡に映るような顔は……しない。
じゃあこれは誰なのだろう。
僕じゃない。悠希の顔。でも悠希はしない表情。僕が考え事をするときの顔に似ている。これは誰?
プツッと。意識が切れたような音がした。
「勇気さん、起きて下さい!勇気さん!」
気が付くと、朝起こしに来てくれた看護師さんの顔があった。
いつの間にか気を失っていたみたいだ。身体がうまく動かない。
「あぁ、良かった。様子を見に来たら倒れたように布団が乱れていたからびっくりしましたよ」
看護師さんは最悪の想定をして動いたのだろう。すごく心配している顔で僕を見ている。
「ごめ、なさ」
拙く喋ることしかできない僕は、短く謝罪を口にした。
「いいんですよ。これが仕事ですからね」
そう言うと、リクライニングのベットを少し起こし、僕の検査衣や髪の乱れを丁寧に直していく。多分他の患者さんとかにもしてあげているのだろう、とても慣れた手つきだ。
「今6時になるところだけど、ご飯は食べれそう?」
そう言われてお腹に意識を持っていくと、きゅうとお腹が鳴った。僕は恥ずかしくなりながらも、お腹が空いている意思をこくこくと首を縦に振って伝える。
看護師さんも少し笑いながら、「じゃあこれが終わったらご飯にしましょうか」と櫛を取り出し、僕の髪を梳いていく。
看護師さんも髪が長い方なので普段から自分でやっていることだろう、髪を梳くのが上手に感じる。乱れた髪がまっすぐ伸ばされていく。長い髪が体に当たるとこそばゆいけれど、看護師さんの手つきはとても気持ちがいい。
何処からかヘアゴムを出し、後ろで1つに纏めてくれる。いわゆるポニーテールというやつだ。
されるがままの状態だけれど、悪い気はしないのでそのままお願いする。髪が纏まってスッキリした気もする。
チラリと髪が纏められていく様子を鏡で見てみる。
髪型が変わって、またちょっと雰囲気が変わったけれど、これは、……『僕』?
顔を手でペタペタさわる。さっきまでは認識がずれていたけど、今は何故か違和感がない。
この白く細い腕は誰のものか。今は束ねられているこの黒く澄んだ髪は誰のものか。鏡に映るこの顔は誰なのだろうか。
もちろん悠希のだと今でもはっきりと言える。でもそれと同時に、自分だとも言えた。
しっかりと、この顔は自分のものだと認識できた。
看護師さんがその様子を見て、「どこかおかしかった?」と聞いてきたので、
「これ、ぼく?」
と鏡を指差して聞いてみた。
看護師さんは優しい顔つきで、
「うん、間違いなく勇気さんね。似合ってるわよ」
と僕が聞きたい回答とはちょっとずれた発言をした。
そうじゃないと言いたかったが上手く言えないまま、「じゃあ晩ご飯とってくるわね」と病室から出て行ってしまった。
後からこの事について担当の先生に聞いてみたところ、「その時に見ていないから詳しくはわからないけど、脳が今の身体に合わせて適応するために強制的に意識を落とした、っていう感じになるのかな。勇気ちゃんみたいな脳移植って例が少ないからわからないことも多いんだよ。一言で言っちゃうと人間の身体の神秘、とかになっちゃうなぁ」とお手上げ発言をされた。
とにかくこの時点から、僕は今の身体を自分のものだと認識できるようになった。
もしかしたら、悠希が助けてくれたのかな、なんてこともちょっぴり考えてみた。