夜の出来事
目が覚めた。腕時計を見ると、二時間程度しか寝ていないみたいだ。もともとケイの世界では昼間だった時間帯だ。そうそう長く眠れないのも無理はないのだろう。
(これが時差ぼけ?)
…………少し違う気がするが、しばらくは生活リズムが整うまでに時間が掛かりそうだった。
どういう原理なのかは知らないが、部屋の中は明かりが消えて真っ暗になっていた。ミルヒエルがやったのかもしれない。
おかげで眠りやすい環境にはなっていたが、部屋の中の様子がよくわからない。
そして、その時に気が付いたのだが、部屋の中からゴソゴソというか、ズリズリというか、何かを引きづるような音が聞こえていることに気が付いた。
「な、なんだ!?」
ゴキブリとか蜘蛛ならまだ良い……いや良くは無いけどまだ対処できなくはない。もし、この世界特有の魔物とかだったりしたらどうしたらいいのか……。
ミルヒエルを呼びに行くか? いや、でもミルヒエルは寝ているかもしれないし、何でもないことで起こしたら申し訳ないし、いやでもそんなこと言ってる場合でもないかも……でもやっぱり……いや、それ以前に今この場から動いていいのか? じっとしている方が安全なのでは……。
と、こんな感じでケイは完全に混乱しきっていた。
「ケイ君」
「うひゃあ!」
そんな状況だったので、耳元で急に名前を呼ばれた時、情けない声をあげてしまった。
「なぁによぉ。失礼ねぇ」
その話し方、その妙に色っぽい声。
「ン.ケセラさん?」
「当たりぃ」
ン・ケセラはケイが寝ている藁の横に立ち、その顔を覗き込むようにしていた。
じゃあ、さっきの何かを引きずるような音はン・ケセラの移動する音だったのか。
「ねぇ、ケイくぅん」
「な、なんでしょうか?」
ン・ケセラはやたらと甘い声を出してくる。中々に色っぽい声ではあるのだが、残念ながらケイは警戒するだけだった。
「実はねぇ、折り入ってお願いがあるのぉ」
「はい……」
まったく良い予感がしないが、聞かないわけにもいくまい。
「明日の会議でぇ、ラミアー族の下に身を寄せるように言ってもらえないかしらぁ?」
ケイにとってその頼みは予想の範囲内である。まだ実感はないが、自分が彼女たちの共同体にとって大きな影響力となりうることぐらいはケイにも理解できている。ならば抜け駆けをしてケイを仲間に引き入れようと考える者がいても、何らおかしいことではない。
「でも、まだ僕はラミアー族という種族がよくわかりませんし、判断するわけには……」
「うふふ……大丈夫よぉ。それならこれから教えてあげるからぁ」
ン・ケセラはその体を無遠慮に押し付けて来た。
「う、うわ!」
「うふふ……こういう経験が無いのかしらねぇ? 可愛らしいわぁ……」
先程は蛇のような下半身にだけ目が行っていたのだが、このン・ケセラという女性、上半身はかなりスタイルがいい。
その豊かなふくらみをぐいぐいと押し付けてくるものだから、ケイだって平常心を保っていられなくなってくる。
「どうかしらぁ? ねぇ……もっとラミアーの事……私の事……知りたくなぁい?」
「あ、あの……」
ン・ケセラの綺麗な顔が真正面にある。近くで見てみると、本当にその顔立ちが整っていることを実感させられる。
妖艶、という言葉が一番しっくりくる顔立ちだ。とろん、と怪しく溶けた眼差しや、少し厚みのある唇など、全体的にとても色っぽい。
あんまり女性に恵まれなったケイに、彼女の存在はとても眩しく映った。下半身が蛇であるとか、そういうことはもう些細なことにすら思えてくる。それぐらい今のケイはン・ケセラに夢中だった。
ごくり、と喉が鳴るのが分かる。彼はほぼ無意識に、その豊かな二つのふくらみに手を伸ばし……、
「何やってんだお前はああああああああああ!」
部屋中に響き渡った大声でケイは我に返った。
「どうせこんなこったろうと思ったぜ! 抜け駆けするならお前しかいねえよなあ!」
「ちっ、うるさいのが来たわねぇ」
ン・ケセラは部屋に入ってきたボルティマの方に向き直った。
「お前、何しようとしてやがった?」
「何よぉ。ちょっとケイ君に協力してもらおうと思っただけじゃなぁい。ねぇ? ケイ君?」
「え、あの……」
心情的にはボルティマに味方する方が正しいとは覆うのだが、今一瞬ン・ケセラの魅力にやられそうになっていた身としては、強く出られないケイである。
「ほらぁ、ケイ君だってそう言ってるじゃなぁい」
「いや、言ってねえだろ。大体お前、魅惑の魔法かなんか使っただけだろ?」
「え?」
「なんだ? ケイは気付いてなかったのか? こいつらラミアーは基本的に色ボケだ。その手の魔法には長けてる」
「誰が色ボケよぉ! ……ついでに、今私は魔法は使わなかったわよぉ」
二人の言い分は食い違っているが、ケイはボルティマの言うことを信じることにした。
確かにン・ケセラみたいな女性に迫られたら平素の状態でも正気を保つのは難しいと思うが、それでも先程は異常だった。まるでその魅力に抗うことが出来なかったのだから。
ケイは自分を理性のあるタイプだと思いたかったので、魔法を使われたということで自分を納得させた。
「いいか、ケイ。こいつと話すときは基本的に目を合わせちゃあいけねえ。いつ魔法をかけてくるかわかったものじゃねえぞ」
「わ、わかりました」
「だから魔法なんて使ってないって言ってるのにぃ……。まあ、いいわ。それじゃあ方針を変えましょうかぁ」
ン・ケセラはボルティマの方に近づいていき、その顔をまっすぐに見つめた。ボルティマは無意識なのか、少し視線を外してン・ケセラに向き合う。
「じゃあ、手を組みましょうよぉ、ボルティマぁ」
「手を組むだあ?」
「そうよぉ。私たちが結託してすれば、きっとケイ君の身柄はどっちかの種族が預かれるわぁ」
「お断りだね。お前らラミアーはどうにも信用がおけねえ。手を組む気にゃあなれねえな」
「みすみす機会を逃すのかしらぁ? これはまたとないチャンスよぉ?」
「冗談じゃねえや。あいつらを裏切って勝手なことが出来るか」
「まったく馬鹿がつくほど真面目なんだからぁ……。でもねぇ、それは族長としてどうよぉ?」
「いいだろ、別に。ケンタウロスは公平を持ってよしとする。狡猾なラミアーとは違うんだよ」
「狡猾とは酷いわねぇ。私は別に卑怯なことをするつもりは無くってよぉ。ただケイ君に私の魅力を知ってもらおうとしているだけで。別に抜け駆けする気はないのよぉ。
それに、これはケイ君の為でもあるのよぉ」
ン・ケセラの言い分に、ボルティマは首を傾げた。
「どういうことだよ」
「考えてもみなさぁい。明日はセンメイも来るのよぉ、話し合いの焦点がケイ君をどの種族が預かるか、からずれることは間違いないわぁ」
「まあ、有り得ることだな」
「その時にね、ケイ君の所在が宙ぶらりんだと、あの蜘蛛女は絶対に送り返すように言うわよぉ。でもぉ、暫定的にでもケイ君の所在がはっきりしていればセンメイも強くは出づらいわぁ」
「成程……」
「納得したぁ? だから、私がケイ君の身柄を預かろうっていうんじゃなぁい。勿論暫定的にねぇ」
「暫定的にか。ならば、悪くもない……のか?」
「騙されてますわ~♪」
「うわ!」
突然天井から聞こえた歌声に、ちょっとぎょっとする一同。
「ル、ルナルーン……おまえ、何処にいたんだ?」
「天井に張り付いてましたわ~♪ ン・ケセラがこう来ることぐらい~♪ 予想できましたもの~♪」
「またうるさいのが……」
ルナルーンは様子のン・ケセラを尻目に、ボルティマの眼前に降り立った。
「まったく~♪ しばらく様子を見ていれば~♪ なにだまされそうになってるです~♪」
「騙され……って、ン・ケセラの言ってることは一理あるだろ?」
「一理しかありませんわ~♪ それならば~♪ ミルヒエルに預けるのが~♪ 筋というもの~♪」
「あっ! ……うん。そりゃそうだな。あたしは何を考えてたんだろうか」
「単純なんですから~♪」
「おい! ン・ケセラ! ミルヒエルに預けるのが筋だぞ!」
何故か急に強気になるボルティマ。単純な分切り替えが早いのは彼女の長所かも知れなかった。
「はぁ……ルナルーン。あんたのせいで台無しよぉ」
「そう言われましても~♪」
「あ、でもあんたはそこの馬と違って頭がいいわよねぇ? 私と手を組むことのメリットもわかると思うけどぉ?」
「悪い話ではありませんわ~♪」
「おい! ルナルーン! そりゃねえだろ! リルリットやユルメリカを裏切るのか!?」
「仕方ありませんわ~♪」
「それは許さねえぞ!」
「ああもぉう! うるさいわねぇ!」
「あ、あの……」
ケイを完全に置いてけぼりで、三人は言い争いを始めてしまった。
何とか諌めたいと思うケイだが、なにぶん度胸が足りない。ただ三人の様子を見てアタフタするだけだ。
そんな中、自分の寝ていた藁のすぐ真横に、動く影が一つ。
「うるさい……眠れない……」
「リルリット!? お前! 何でここに!」
「見張りだ……抜け駆けしないように……。寝ちゃったけど……」
「あんたまで……」
「当然と言えば~♪ 当然ですわね~♪」
つまる所、結局全員が全員、誰かが抜け駆けすると思っていたのだろう。
「えっ? 何々? 何か遊びでもするの?」
「何でお前までいんだよ! フィフィラティ! っつかどこにいやがった!」
「天井に張り付いてたに決まってんじゃん! ケイ君の寝こみを襲おうと思ってら寝ちゃってさ!」
なんかもう滅茶苦茶である。
どうでも良いが、部屋に三人も侵入していたというのに全く気が付かなかった当り、自分で自分をどうかと思うケイである。
「大体あんたたちもさぁ? ズルくなぁい? 監視だとか言って抜け駆けするつもりだったんでしょぉ?」
「そんなつもりはありませんわぁ~♪」
「そう。そんなこと考えるの、ン・ケセラぐらい」
「え、何々? 何の話?」
「ややこしくなるだけだからお前ちょっと黙ってろよ」
五人は好き勝手にぎゃあぎゃあ言い合っており、最早ケイに収められるような状況ではない。
こんな状況では寝られるわけもないし、どうしたものか。
「貴方達! やかましいんですよ! 寝られないでしょう!」
そんな状況を一喝して収める声がある。ミルヒエルだ。
ミルヒエルは何故か藁製の枕を抱えており、威厳のある姿とは言いがたかった。しかし、安眠を邪魔されたのが余程頭に来たのか、その声に含まれる怒気は物凄いものがある。
「大体何で貴方達がケイ様の部屋にいるんですか! さっさと出て行きなさい!」
今まで散々好き勝手なことを言っていた娘共だが、基本的にミルヒエルに逆らう気はないのか、一気に静かになった。
「あ~あ。ミルヒエルが来たらもう話し合いにはならないわぁ。さっさと退かせてもらうわよぉ」
「だな。もう、抜け駆けしようとする輩も、あるまいし」
「ですわね~♪」
「ったく、あたしは関係ねーってのに……」
ぶつぶつ呟きながらも四人の娘は部屋を出て行った。
「フィフィラティ。貴方もです」
「え~。フィフィも~? うるさくしてなかったのに~」
「嘘を吐きなさい。何より、貴方がいてはケイ様が落ち着いてお休みになられないでしょう」
「そ~なの? ケイ君」
「え、あ、うん」
反射的に頷くケイ。
「そっか~。じゃあ仕方ないね」
意外なほどあっさりと、フィフィラティも部屋を出て行った。
残されたのは、ケイとミルヒエルだけだ。
二人は顔を見合わせ、ため息を吐いた。