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祈らない聖女と、記録をやめた観測者のゆくえ

作者: 絹ごし春雨


 日常を歩いていた(ミオ)は光に包まれた。


世界が、祈りを求めている。


それを最初に告げられたとき、ミオは何も答えなかった。


神殿の天井は高く、光は柔らかく降っていた。

歓迎の言葉も、祝福の気配も整っている。

――正しい召喚です、と。


「あなたは聖女です」


神官はそう言って、跪いた。


世界の均衡を保つために、祈りを捧げる存在。

選ばれた者。

役割を与えられた者。


困惑。そしてーー


ミオは、少し考えてから口を開いた。


「私は……祈りません」


その言葉は、静かだった。

拒絶ではない。怒りというには静かな。


ただの宣言。


神官の顔から、色が消えた。


「それは……どういう意味でしょうか」


「そのままの意味です」


ミオは視線を上げ、神殿の奥を見た。

そこに“神”がいることを、もう知っていた。


「私は、あなたに選ばれたくありません」


空気が張りつめる。

祈りのために造られた世界が、一瞬だけ息を止めた。


それでも世界は、壊れなかった。


神は答えない。

裁きも、雷も落ちない。


代わりに、どこか遠くで――

見ているものがあった。


ミオは知らない。

この瞬間も、彼女はすでに記録されていることを。


そして同時に、

その拒絶が記録者の心の琴線に、触れたことを、知らない。




 神殿での生活は、静かだった。


彼女は、神殿の上に座している。


食事は決まった時間に運ばれ、衣服は整えられ、部屋は常に清潔に保たれている。

誰も怒鳴らず、誰も命令しない。


「ご不便はありませんか、聖女様」


神官はそう言って、視線を伏せた。


「いいえ」


ミオは首を振る。

不便は、確かにない。


「あなたたちも、大変ね? 私みたいな聖女が来てしまって」


扉は閉じられていない。

鍵も、見当たらない。


それでもミオは、外に出ようとは思わなかった。

出た先にあるのは、祈りの場だけだと分かっていたから。


「祈りの時間です」


そう告げられても、ミオは立ち上がらない。


「……祈りません」


神官は困ったように眉を下げる。

叱責も、強制もない。


「では……また後ほど」


それだけを残して、去っていく。


誰も彼女を責めない。

代わりに、待たれる。


それが、檻だった。


ミオは窓辺に立った。

空は高く、光は穏やかで、世界は平和そうに見える。


けれど、この場所で祈らなければ、

世界の均衡は少しずつ歪んでいく。


それを、彼らは言わない。

知っているはずなのに。


「……優しいわね」


呟いて、ミオは自分に向けて笑った。


優しさが、何よりも選択肢を奪っていく。


「…でも、負けない」


神殿の奥で、気配が揺れる。

誰かが、彼女を見ている。


神ではない。

神官でもない。


ミオは、まだその名を知らない。


ただ、祈らない自分が

世界から見逃されていないことだけは、はっきりと感じていた。





 変化の予兆はあった。


ただ、誰もそれを

「変化だ」とは呼ばなかった。


神官たちの足音が、少しだけ増えた。

祈りの時間が、以前より厳密に管理されるようになった。


それでも、ミオの部屋は変わらない。

扉は開いていて、鍵もない。


「……忙しそうね」


そう呟くと、神官は一瞬だけ視線を伏せた。


「準備を、しております」


それ以上は言わない。

けれど、その言葉だけで十分だった。


準備。

それは、ミオのためではない。


「新しい……聖女、ですか?」


問いは、静かだった。


神官は否定しない。

肯定もしない。


「世界のために、最善を尽くします」


それが答えだった。


ミオは頷いた。

驚きはなかった。


けれど、少しだけ考える。

その誰かは、呼ばれてすんなり受け入れるのかしら。


「そう。よかった」


それは少しの皮肉を孕んで。


誰かが祈るなら、

この世界は壊れない。


その役を、自分が担わなくても。


数日後、ミオは遠くから彼女を見た。


白い衣を纏い、

柔らかな光に包まれた少女。


年は、ミオより少し下だろう。

愛らしい容姿。

祈りの言葉を、迷いなく口にしている。


人々は安堵したように息を吐いた。


「あの子が……」


名前は、ユイと言った。


ユイは祈る。

疑いもなく、恐れもなく。


神に選ばれたことを、

そのまま受け入れている。


ミオは視線を逸らす。


胸に浮かんだのは、嫉妬ではない。

羨望でもない。


ただ、理解できないとは思う。

少しの哀れみをこめて。


「……あなたは、祈れるのね」


その言葉は、誰にも聞かれなかった。


神殿は再び、正しさを取り戻していく。

祈りは捧げられ、均衡は保たれる。


ミオは、もう必要とされない。


けれど不思議と、恐怖はなかった。


代わりが用意されたのに、

自分はまだ、ここにいる。


神殿の奥で、

何かが静かに揺れた。


それは、世界の判断ではない。


――見ているものが、

動き出す。選択の予感がした。





 祈りの場は、変わらなかった。


天井の高さも、光の落ち方も。

床に刻まれた紋様も、香の匂いも。


変わったのは、

そこに立つ人間だけだった。


ミオは端に座っていた。

聖女としての席ではない。

ただ、ここに居ることを許された位置。


正面には、ユイがいる。


白い衣は、よく似合っていた。

祈りの言葉は澱みなく、声は澄んでいる。


――正しい。


そう思う。


「……終わりました」


祈りを終えたユイが顔を上げ、

ミオに気づいて、少しだけ目を丸くした。


「あ……」


言葉に迷って、

それでも一歩、近づいてくる。


「あなたが……前の、聖女様?」


問いは、遠慮がちだった。


「……それはどうでしょうね」



「私は、あなたのように祈れない」


ユイは慌てて首を振った。


「そんな……私は、ただ……」


言葉を探して、

見つからないまま、俯く。


「祈ることしか、できなくて」


それは謙遜ではなかった。

だからこそ、噛み合わない。


ミオは、少しだけ考える。


「それで、十分なのよ」


世界にとっては、それで十分だ。


ユイは顔を上げる。

驚いたように、ミオを見る。


「……怒って、いないんですか?」


その問いに、ミオは首を傾げた。


「どうして?」


「だって……私は、あなたの代わりで……」


「代わり、ではないわ」


きっぱりと、否定する。


「あなたは、あなた。

私は……私」


それだけの違い。


ユイは、何も言えなくなる。

祈れることが、初めて重くなる。


「……ごめんなさい」


小さく、そう言った。


ミオは、笑わなかった。

けれど、否定もしない。


「謝ることじゃないわ」


祈りの場に、沈黙が落ちる。


同じ空間にいても、

二人は同じ場所に立っていなかった。


そのとき。


誰のものでもない声が、

ミオの耳元で、囁いた。


――なぜ、祈らない?


ミオは、息を止める。


ユイは、何も聞いていない。

祈りの場は、変わらず静かだ。


――それでも、お前はこの場にいる。


声は、評価しない。

責めもしない。


ただ、確かめている。


ミオは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ええ」


誰にも聞こえないように、答える。


「私は、まだここにいる」


祈りの場の奥で、

何かが、はっきりと姿を現そうとしていた。






 声は、近かった。


祈りの場を離れ、静かな回廊を歩いていたとき。

足音のない気配が、ミオの隣に並ぶ。


「……驚かないのだな」


染みるような低い声だった。

評価も、威圧もない。


ミオは立ち止まる。


「さっきから、あなたでしょう」


振り返ると、そこに夜空のような男がいた。

神官の衣ではない。

神の気配でもない。


ただ、見ているという存在感だけがあった。


「名を名乗らないの?」


問いは淡々としている。


「ノクスという」


短く、名乗る。


「観測者だ。

世界の管理者を、管理する役目を持っている」


説明は最低限だった。

理解するかどうかは、ミオに委ねられている。


「……神の、上?」


「上でも下でもない。

外だ」


ミオは少し考え、頷いた。


「それで。あなたは何を観測しているの?」


ノクスは、ミオを見る。

祈りの場で向けられた視線と、同じ温度で。


「お前を」


即答。


ミオは笑わない。


「変わった趣味ね」


「変わっているのは、お前ではないか?」


ノクスの視線は逸れない。


「祈らない聖女。

それでも神殿に留まり続ける存在」


「消されていない、の間違いじゃない?」


ノクスは否定しない。


「世界は合理的だ。

代替があるなら、切り捨てる」


ミオは知っている。

けれど、ここにいる。


「それでも、私は残ってる」


「それが観測対象だ」


ノクスは一歩、距離を詰めた。

触れない。

近づいただけ。


「なぜ、祈らない?」


「帰りたいのか?」


ミオは目を伏せる。

答えは、ずっと変わらない。


「いいえ。帰りたいわけではないわ」


「ならば、復讐か?」


「いいえ」


即答だった。


「ただ、思い通りになりたくない。……それだけよ」


ノクスは一瞬だけ目を細める。

評価ではない。

理解しようとしている目。


「拒否し続けるには、覚悟がいる」


「ええ」


ミオは顔を上げる。


「でも、信頼できない神に祈るよりは、楽だわ」


沈黙が落ちる。

長くは続かない。


「……面白いな」


ノクスは、初めて感情を含ませた声で言った。


「記録は、ここまでだ」


「それから?」


ミオが問う。


ノクスは答えない。

代わりに、視線を外す。


「それからは、どうしたい?」


ミオは、少しだけ息を呑む。


世界の外で、

一つの記録が、静かに閉じられた。







 通達は、簡素だった。


「聖女ミオは、その役を解かれる」


それだけ。


儀式も、宣言もない。

誰かの声が、決まったことを告げていく。


神殿は、相変わらず静かだった。


「今後は、別室をご用意します」


神官はそう言って、視線を伏せる。

謝罪でも、同情でもない。


事務的な配慮。


ミオは頷いた。


「ええ。分かりました」


それ以上、言うことはなかった。


案内された部屋は、以前より小さい。

窓はある。

扉も、閉じてはいない。


ただ、祈りの場から遠くなった。



廊下ですれ違う神官たちは、

以前よりも丁寧に頭を下げる。


距離を保ったまま。


「……優しいまま、ね」


呟いて、ミオは歩く。


ユイの祈りは、今日も滞りなく続いている。

神殿は安定し、世界は何事もなかったように回る。


誰も、ミオを必要としない。


その事実を、ミオは静かに受け入れた。


恐怖も、怒りもない。

ただ、自分の存在が、宙ぶらりんになった気がした。


――ここにいる理由が、もうない。


部屋に戻ると、机の上に小さな包みが置かれていた。

衣服と、最低限の生活用品。


追い出されてはいない。

けれど、留められてもいない。


「……そういうこと」


ミオは椅子に腰掛け、手を重ねる。


そのとき。


気配が、はっきりと現れた。


「観測は、続けられないな」


ノクスの声だった。

姿は見えない。


「世界は、決断した」


ミオは目を閉じる。


「ええ」


「神は、お前を切り捨てた」


否定も、怒りもない声音。


「合理的ね」


「そうだ」


一拍。


「だが」


その言葉の続きは、まだ来ない。


ミオは目を開け、空を見た。

祈りの場とは違う、静かな空。


「……私は、どうなるの?」


問いは、初めて未来に向けられた。


ノクスは、すぐには答えない。


「世界の記録上では」


淡々とした声。


「消える」


ミオは息を吐く。


「それなら」


言葉を選ぶ。


「私は、もう世界のものではないのね」


沈黙。


長く、静かな間。


「……ああ」


ノクスの声が、わずかに低くなる。


「そうだ」


世界は、ミオを手放した。


その瞬間を、

ただ一人、見ている者がいる。


観測者としてではなく。


「だが、ミオ、お前は私の視界に、まだいる」


また来る。と残して、ノクスは去った。





 次の日、神殿の外、夜。


ミオは回廊に出ていた。

行く先があるわけではない。

ただ、戻る理由もなかった。


「ここにいると、安心するのか?」


声は、背後からだった。


ノクスが立っている。

距離は、保たれている。


「いいえ」


ミオは即答する。


「でも、不安でもないわ」


ノクスは黙る。


「夜に溶けてしまいそう」


「世界は、お前を正しく扱った」


やがて、そう言った。


「祈れる者を選び、

祈れない者を退けた」


それは、真理だった。

世界の論理としては、正しい。


ミオは振り返らない。


「ええ」


否定しない。


「だから、神が間違っているとは思わない」


ノクスは、わずかに目を伏せた。


「それでも?」


「それでも」


ミオは夜空を見上げる。


「従いたくない私は、私のままここで消える」


その言葉は、静かだった。

恐怖も、悲壮もない。


事実を述べただけ。


ノクスの中で、

何かがはっきりと噛み合わなくなる。


「……それを、受け入れるのか」


「受け入れるわ」


少し間を置いて、続ける。


「だって、ここは

私が望んだ場所じゃないもの」


沈黙。


ノクスは、初めて視線を逸らした。


観測者としてではない仕草。


「お前は」


言いかけて、やめる。


代わりに、低く告げる。


「このままでは、確実に失われる」


ミオは、微笑まなかった。

けれど、怖がりもしない。


「……ええ」


「それでも?」


「それでも」


ノクスは、答えられなかった。


その沈黙が、

すでに答えだった。


「でも、あなたに会えてよかったわよ。話し相手になってくれて退屈しないわ」


「……」


どう受け取っていいかわからず、ノクスは沈黙する。


「逃げられるとしても、逃げないのか?」


「ええ」


理由がないもの。と彼女は続けた。


ノクスの心が動いた瞬間だった。





 神殿の最奥は、音がなかった。

祈りの声も、足音も届かない場所。


ミオは窓辺に立っていた。

外を見ているわけではない。ただ、そこに立っていた。


背後で、気配が動く。


「来たのね」


振り返らなくても、分かった。

彼女はもう、誰が来るのかを間違えなかった。


ノクスは答えない。

近づく音だけがして、ミオの横で止まる。


「……記録は?」


「もう、終わっている」


それだけだった。


ミオは少し息を吐く。

それが安堵なのか、諦めなのか、自分でも分からない。


「私を連れて行くの?」


問いは、淡々としていた。

縋りも、拒みもない。


ノクスは一拍、間を置く。


「お前が望むなら」


ミオは視線を落とした。

床の冷たい石を見つめて、しばらく黙る。


「……あなたが望んでくれるなら。私は、助けられたいわけではないの」



ノクスは何も言わない。

代わりに、ミオの手に触れた。


包み込むように、しっかりと。


ミオは逃げなかった。

そのまま、指を絡めることもせず、


ただ、受け取る。


「勝手だと思う?」


ミオは小さく笑う。


「……あなたになら、選ばれていいと思った」



「私を、私として扱ってくれるなら。それでいい」


ノクスはその手を離さない。


「戻らない」


断言でも、誓いでもない。

ただの事実の提示だった。


ミオは一度だけ頷いた。


神殿の扉が閉じる音は、しなかった。

彼女が振り返らなかったからだ。


ノクスはミオの手を引き、歩き出す。


記録されない場所へ。

世界の外へ。





 世界の外は、静かだった。


空があるのかどうかも、ミオにはまだよく分からない。

ただ、音が少なく、時間がゆっくり流れている。


「慣れたか?」


ノクスがそう聞いたのは、三度目だった。


「ええ」


短く答える。

嘘ではない。


ミオは人間であることをやめた。ノクスの最大のわがままであり、愛だ。


ミオは窓辺に立つ癖を、いつの間にかやめていた。

代わりに、椅子に腰掛けることが増えた。


そこに、ノクスがいるから。


窓の外に、(わずら)わされることは、ない。



記録は、もうない。

祈る必要も、役割もない。


「何もしなくていいのよね」


確認するように言うと、ノクスは頷いた。


「何もしないことを、選んだ」


評価も、補足もない。

ただの事実。


「……ただ、共に」


ミオは静かに頷いた。


しばらく沈黙が落ちる。

居心地のいい、重さのない沈黙。


「……ねえ、ノクス」


名を呼ぶと、視線が向く。

それだけで十分だった。


「私、今あなたにどう見えている?」


ノクスは少し考えてから、答える。


「初めて会った時から変わらない、ミオだ」


即答ではなかった。

だからこそ、確かだった。


ミオは小さく笑う。


「よかった」


ノクスは何も言わず、ミオの手に触れた。

攫ったときと同じ、強さで。


包み込むように、しっかりと。


「離れない」


それも、誓いではない。

ただ、選び続けるという意思の提示。


ミオはその手を握り返した。

今度は、指を絡める。


「……それなら」


言葉を探して、やめる。


代わりに、少しだけ距離を詰めた。


肩が触れる。

ノクスはそっとミオを抱きしめた。


静かにキスが降る。


世界は、相変わらず遠い。

けれど、ミオはもう祈りに縛られない。


選ばれたからではなく、

選び続けているから。


ノクスはその隣で、見ている。

記録は残さないまま。


それが、二人の幸福だった。

「ねえ、世界はどこまで行くのかな?」


「どこまでも」


ノクスはミオの手を、離さないように、握った。


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