世界は美しい、と聖女は信じた
黄昏どきだった。外観からして長い歴史を感じる聖堂の前。
市場帰りの若者たちがひそひそと囁く。
「ここにいるあの綺麗なミイラ、夜中に涙を流すらしいよ」
「こわ、この聖堂もう近寄りたくねえ。そんなん見たら寝れなくなるぜ」
「世界滅亡の前触れだったりして」
「気味悪いこと言うなよ」
重く湿った夕風が、笑い声をさらう。
境内にほうきを立てかけながら、ガブリエルが顔をしかめる。彼は代々続く墓守の家系でこの聖堂と敷地にある墓地の管理をしている。
「好き勝手言ってくれるなあ。こっちは毎日磨いてんだぞ、あの棺も」
彼の愛猫である黒猫のノクスが石段から軽やかに飛び降りニャーと鳴く。その目だけが人語を宿したように光る。
ガブリエルの目が見開いた。
「 何?『まあ、どこでも寝られるお前には、普通の人間の常識なんて分からないだろ』だって? こいつめ!」
ガブリエルは苦笑しながら、黒猫の頭を軽く小突く。ノクスはニャーとしか言ってないが、それだけでガブリエルには十分意図が伝わってしまうのだった。なぜなのかはわからないが、それが一人と一匹にとっての普通だった。
暮れなずむ空の下、聖堂は今日も沈黙している。
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聖堂の午後は、石壁の奥に溶けるような静けさだった。
ガラス張りの柩の中で、美しい彼女――セレスティーヌは今日も太陽の光を集めたような金髪を輝かせ、青白い微笑を保ったまま眠っている。
セレスティーヌはこの聖アグネス大聖堂に保管かつ展示されている永久死体だった。約100年前、わずか15歳で熱病によってこの世を去り、防腐処理を施され、永久に美しい姿でこの世に「あり続ける」ことになった少女。
今日も今日とてガブリエルは布を濡らし、彼女を覆うガラスを円を描くように拭いた。隣ではノクスが丸くなり、尻尾をゆっくり揺らしている。
背後から柔らかな声がした。
「いつもありがとう、ガブリエル」
司祭が足音も立てず近づき、柩を見つめた。
「あなたほど、彼女を丁寧に扱う者は他にいません。ほとんどの人は、怪異を見るような目か……あるいは可愛らしい人形でも眺めるような目ばかりで」
ガブリエルは片手で汗をぬぐい、肩をすくめた。
「家業ですから。好きだろうが嫌いだろうが、やるしかないんですよ」
司祭は微笑み、短い祈りを捧げて去っていった。聖堂に残ったのは、磨き終えたガラスと、一人と一匹、そして一体だけ。
「家業ねえ」
ノクスが「ニャー」と鳴き、ガブリエルの脳裏に響く。
〈あんたは家業以外のことをやろうとする気概もないもんな〉
「こいつぅ……」
ガブリエルが軽く尻尾をつかもうとすると、ノクスはするりと身をひるがえした。
その瞬間、空気がひやりと変わった。聖堂の光がにじみ、石床が遠のいていく。耳鳴りとともに、視界が白く塗り替えられた。
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まぶしい庭園。金髪を風に遊ばせる幼い少女が、母のスカートに顔を埋めて笑っている。
父が大きな白い薔薇を摘み、少女に差し出す。世界は花と陽光に満ち、言葉にならない愛情が空気そのもののように漂っていた。
場面が急に暗転する。熱にうなされる少女の額。今の時代なら薬一つで癒せるはずの熱病が、彼女の小さな命をじわじわ奪っていく。母のすすり泣き。父の絶望に満ちた顔。少女の瞳がゆっくり閉じられる。
蝋燭の影が揺れる室内。家族は現実を拒み、専門家が淡々と防腐の手順を説明する。
「この美しさを、永遠に」
母は震える手で頷き、父はただ唇を噛み締めた。
柩に横たわる少女のそばで、両親が老いていく。皺の刻まれた頬、背の曲がった背中。やがて彼らの姿も聖堂から消え、蝋燭だけが静かに燃え続けた。
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鐘の音。空襲警報。世界大戦の時代、戦争で家族を失い、生活に困窮を極めた人々が震える膝で祈りを捧げる。
「神様、早く戦争が終わりますように。夫はもういません。私も子供たちも食べるパンがありません。私たちをお救い下さい」
涙に濡れた声が石壁に反響する。柩の中で、セレスティーヌの頬を一筋の雫が伝った。透明な、誰も気づかぬ涙だった。
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ガブリエルは息を呑み、目をこする。いつのまにか、彼は再び聖堂の石床に立っていた。
ノクスが足元で「ニャア」と鳴く。世界はさっきと変わらず、ただ静まり返っている。
ガラス越しにセレスティーヌを見つめながら、ガブリエルは低くつぶやいた。
「……あんた、家族から愛されて育ってずっと世界は美しいって信じてたんだな。
でも死んでから、そうじゃないことに気づいちまったのか?」
ノクスが再び「ニャア」と鳴く。その響きは、まるで「その通りさ」と告げているかのようだった。
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夜の聖堂。いつも通りガブリエルはランプを灯し、会衆席を一つ一つ磨いていた。傍らにはもちろんノクス。
「ノクス、俺前から思ってたんだけど、この子世界一綺麗なミイラだのなんだの呼ばれて幸せなんかな?」
ガブリエルがそう問いかけるとノクスがニャアと応えた。
――そのとき。
扉がひとりでに開き、冷たい風が吹き込む。月光の中に、一人の巡礼が現れた。
白いローブに羊毛のショール、手には羊飼いの杖。暗がりでよく見えないがおそらく13歳程度の少女と思えた。ただ、どう見ても現代の者とは思えなかった。見るからに中世以前の服装だった。
彼女はただ十字架を胸に掲げ、セレスティーヌの棺の前で静かに膝をつく。
「――主よ。この若き魂を救たまえ」
かすれた声だった。
ガブリエルは声をかけることができない。ノクスでさえ尻尾を下げ、微動だにしない。金縛りにでもあったように手足も動かなかった。しかしこれは恐怖ではなく、畏怖に近かった。
その者の祈りは、鐘の音のように空気を震わせ、やがて聖堂全体が淡い光に包まれた。古い鐘楼の深い音が聖堂の石壁を渡り、胸骨に響くようだった。
セレスティーヌのまぶたが、そっと開く。彼女は最後に、かすかな微笑みを浮かべ──光の粒となって、棺ごとゆっくりと消えていく。
巡礼は立ち上がり、振り返らずに扉の向こうへ歩み去る。扉が閉まると、ただ静寂だけが残った。
ガブリエルは呆然としながら独り言を呟く。
「やっと…帰ったんだな」
またノクスが尻尾をゆらし、短く鳴いた。
ガブリエルは膝をつき、その場にひとつも残らなかったセレスティーヌが残した花の香りだけを、深く吸い込んだ。
ノクスが小さく喉を鳴らす。まるで「これでよかったのだ」と言うように。
fin.