もっとも大切なことは最後の一回で
以前に書いた「パスワードの覚え方」という短編に後日談を加えた改稿版です。
第三課の執務室。壁際の机に設置している共通パソコンを前に、四人の社員が唸っていた。
ノートパソコンの画面には小さなウインドウボックスがあり、IDとパスワードを要求している。
「くそう、よりによってなんでこのタイミングで」
「IT推進部の奴は、お役所すぎる」
「柔軟性がないですよね」
「愚痴っていても、システムは開きませんよ」
この場における唯一の女性社員が冷静に告げると、残りの男たちはくちごもった。
そう。入力しないことには、始まらないのだ。
◇
この騒ぎは、ひとりの社員が、とある申請を忘れていたことに起因する。
大橋太郎、二十四歳。
新人らしく、まだ若干ぬけているところはあるが、良くも悪くも失敗を引きずらない明るいカラリとした性格は、年上ばかりの三課のムードメーカーとなっている。
そんな大橋がやらかしたのが、当月内に処理しなければならない申請。
申請自体は本人が実施すればいいのだか、それを承認する工程があるわけで。
しかし承認者の課長は本日から研修出張で不在。モバイルパソコンは持って行っているが、研修中は使えないため、確認するのはホテルに戻ってから。
そう言われているが、期限のある案件はあらかじめ締切をずらしてあり、さほど急ぎの仕事はなかった。
最終営業日で金曜日、明日から三連休ということもあり、来月に入ってからでいいかと全員が呑気にかまえていたところ、昼休み明けに大橋が「あ!」と声をあげて事態が発覚した。
「バカタローは、なんだってよりにもよって、課長承認必須の案件を忘れてたんだよ」
「昨日、言ったよな。課長の承認がいる仕事は今日中にお願いしておけって」
「……そうなんすけど」
リーダーの河合義則と、先輩社員の佐藤篤が苦言を呈す。
くちが悪いふたりだが、それでも後輩を見捨てたりはしない面倒見のよさもある男たちだ。
該当システムが使えるパソコンを操作する大橋を取り囲みながら、ひとまず自身の申請を入力させた。それ自体は完了し、続く手順が上司承認。業務内容によってはリーダーが代理承認が可能なのだが、生憎とこの案件は課長でなければできないもの。
大橋のIDはログアウトして、課長である仁科航平の権限でログインを試みる。
IDに関していえば社員番号が割り当てられているため、すぐにわかる。
問題なのは、パスワードであった。
通常時は入力情報が記憶されており、IDを入れた時点で自動で反映されたりもするので、一縷の望みを託してログインを実行してみたところ、パスワード欄は空白。
記憶されていればアスタリスクが四つ表示されるが、やはり駄目だったらしい。昨日の夜にシステム更新が入ったせいでログイン情報がすべて飛んでしまっている。
本来なら本人以外はログインしないので無問題だが、こういうときは弱る。
パスワードの初期化、という手もあるのだが、その手続きは課内のシステム担当を介して申請することになっており、三課における担当者は仁科課長本人なのだから、どうしようもない。
そもそも、個人のパスワードを知っているほうがおかしいのであるが、三課ならではの諸事情ゆえだ。
少数精鋭といえば聞こえはいいが、人員をかぎりなく絞っているため、承認権限を持つのが課長ひとり。その課長はなにかと忙しく動き回っており、不在になることが多々ある。
業務が進まない可能性を考えて、課長権限のシステムへのログインが黙認されており、男たちは課長からこっそりパスワードを聞いていたのだ。たしか。
しかし、だいたい自動でログインされるものだから入力する機会もほぼなく、すっかり記憶の彼方だった。
「昔なら、付箋つけてそのへんに貼ったりしたもんだけどなあ」
「個人情報云々かんぬんで、デスクまわりが厳しくなりましたねえ」
「どっかにメモってねえか」
「引き出しを勝手に開けるのはしのびないなあ」
そんなことを言いながら、四人はぞろぞろと課長の机に集まった。
承認待ちのレターボックス、電話機、ペン立て、卓上カレンダーが整然と並んでいるだけで、余計なものは一切ない。
「さすが性格が出てるよなー。綺麗なもんだ」
「ピシっとしてますよね、仁科課長」
「そのぶん、怖ぇけどな」
仁科航平、三十二歳。すでに課長へ昇進済みの、若手のホープである。
薄いフレームの眼鏡越しに見える眼差しは常に鋭く、ついでに口調も鋭い。どんな相手だろうと容赦なく正論を叩きつけ、相手をやりこめる有能な社員である。
容姿端麗で高身長。
甘いマスクではなく、普段の言動どおりに厳しい顔をした男だが、そこがクールで素敵だと人気がある。
社内恋愛は禁止されていないため、年上の先輩から後輩に至るまで、ありとあらゆる女性から秋波を送られるも、入社して十年ほど経つ今も浮いた噂はひとつもなかった。
告白した相手に対して情け容赦なくあれこれ追及し、当の女性社員が泣いたという噂はどこからともなく伝わってくる。
悔し紛れに本人や、仲のいい同僚たちが悪意をもって流しているのかもしれないが、それでも果敢に挑む女性は後を絶たず、「あれが、ただしイケメンにかぎるってやつか」と、男性社員はやっかみとともに囁いている次第である。
それでいて彼が嫌われていないのは、どんな美人が相手であろうと素っ気なく、あるいはこっぴどく振るからだ。アイドル並に可愛いと評判だった受付嬢が公衆の面前で派手にぶったぎられていたのは、後世に語り継がれると言われている。
なお、当の受付嬢は専務の愛人だったことがバレて修羅場となり、別の意味でも伝説になった。
「名のとおり公平なんだよ、あれは」と、最年長の河合が言うと、「俺はあのハッキリしたとこ好きだけどな」と、佐藤も続く。
第三課は、課長を含めた五名で構成されていることもあり、仲間意識は強いのだ。配属二年目の大橋は、そこで紅一点に問いかける。
「舟木さんは、仁科課長と同期なんですよね」
「そうだけど」
「入社したころって、どうだったんですか?」
「あのまんま。昔から変わってないよ、仁科くんは」
肩をすくめた彼女に対し、河合が笑って言う。
「そういう湊ちゃんも、ぜーんぜん変わんないよね」
「河合さん。おじさんくさい昔話するより、パスワードをどうにかすべきでは?」
「……現実を思い出させるなよ」
なんとなく盛り上がっていた空気がしぼんだ。話のキッカケを振った大橋は、申し訳なさそうに背中を丸めて縮こまった。
舟木女史はクールであるというのも社内の評判だ。
化粧っ気のない顔に、黒髪をシンプルにひとつくくりにしている。同じ事務服を着ているのに、舟木湊の姿はものすごく固く、生真面目で、おいそれと冗談を言えないような壁があった。
あの仁科氏、唯一の女性部下ともなれば女性社員の目が厳しくなりそうなものだが、無害として放置されているのは、彼女のクールさゆえである。あれは恋敵にならないというのが、女子の総意らしい。
完全なる安全牌。
社員食堂で同じテーブルについて向かい合って食べていても、まったく色気を感じないのだ。むしろ難しい仕事の話をしているのではないかという空気が漂う。休憩なのに休憩オーラがないときている。
彼と彼女は同期であり、同僚であり、どう見てもただの上司と部下だった。
◇
さて、パスワードである。
複雑化が求められる昨今ではあるが、これに関しては社内で作られた独自システムということもあり、いまどきめずらしい数字四桁。数打ちゃ当たる方式が使えなくもないが、さすがにそこは制限がある。
五回間違えたら、ロックがかかる仕様。
そしてロックの解除に関しても、初期化同様にシステム担当者経由での申請。なお三課のシステム担当は以下省略。
仁科の机にいてもどうにもならないと判断し、ふたたび共通パソコンの前に戻ってきた一行。
おもむろに河合が提案した。
「よし、推測しよう。パスワードといえばなんだ」
「ベタなところでいくと、全部ゼロ」
佐藤が答えつつ、キーボードでゼロを四つを入力し、エンターキーを押す。
するとメッセージウィンドウが開き、警告文が表示された。
エラー
IDかパスワードが間違っています
「だよなー。そこまで安直じゃねえよな」
「貴重な一回を無駄にっ」
河合が笑う。大橋は嘆いた。
「まだ四回ある。平気平気」
「じゃあ次もベタで、1234にしよう」
「いや、そんなお手軽に試して――」
またしても佐藤がキーボードを操作したところ、さっきと同じ警告メッセージが現れ、「あ、やっぱ駄目か」と呟いた。
「やっぱ、じゃないですよお」
「いや承認が入らなくて困るの俺じゃなくておまえだし」
「ひでえ! 真面目に考えましょうよ。一度は聞いてるんですよね」
「つっても、二年は前だぞ。憶えてねえよ」
「なにかヒントは?」
懇願されて、河合と佐藤は天井をあおぐ。
「あんときは、雑談まじりだったからなあ」と佐藤が言えば、「たしか仁科くんも課長になったばっかりで」と河合も続く。
「お祝いしようか、みたいな話をしつつ、えーと、あーそうそう」
「思い出したっすか!」
なにかに気づいたようすの佐藤に勇んで前のめりになる大橋に対し、先輩はカラリと笑う。
「や、パスワードとか忘れるよなって話を以前にしててさ。したらアイツ、ずっと同じパスワードを使いまわしてるって言ってた」
あの頭良さそうな仁科課長でもパスワードを忘れるなんてことがあるのか。
大橋は驚いたが、今はそういう場合ではない。結局、なにも解決していなかった。
「そこから、なにか、話は発展しなかったんすか?」
「たしか高校の頃に決めたやつを、いまでもずっと使ってるらしいぞ」
「高校時代? めちゃくちゃ古くないっすか。仁科さんって三十越えてますよね」
大橋は指を折って数え始める。高校一年生だとしたら、十五年以上は前か。
高校生が設定する身近なパスワードといえば、携帯電話のロック解除だろうか。初めて個人の名義で所持が許されるのは、高校生が多いように思う。中学生で持っているひともいなくはないだろうが、大橋の家ではそういったことに厳しく、高校生になってやっと買ってもらえて嬉しかったものだ。
仁科の世代ではたぶん、スマートフォンではなくガラケーのほう。あれにはたしか指紋認証というものがなかったはずなので、数字でパスワードを入力する機会は今より多かっただろう。それをずっと使い続けている。
「ということは、なにかとても思い入れがある番号ってことですよね」
「もしくは、身近な番号、かねえ」
河合が、頭をガシガシかきながら呟く。
「シンプルなのは誕生日か?」
「課長の誕生日は――」
大橋が訊ね、一同がうっと詰まったところで、紅一点による天の声が入った。
「七月七日」
「ありがとうございます!」
「七夕生まれかよ」
大橋の失態に付き合いきれないとでも思ったか、あるいは自分がやるべき仕事が残っているのか。自分の席に戻っていた舟木からの助けに、大橋は歓喜の声をあげ、佐藤は意外な誕生日に驚く。
0707と入力してエンターキーを押すと、無情にも同じ警告が現れるに終わってしまった。
天国からの地獄。
落差に肩を落とす大橋をよそに、河合と佐藤は呑気なものだ。
「この並びを見ると、007にしたくなるなあ」
「それじゃ三文字じゃないっすか」
「じゃあ、いっそ全部7にするとどうよ」
佐藤はカタカタとキーボードへ『7777』を打ち込んだ。
大橋が止める間もなくエンターキーが押され、やはりというかなんというか、もう見慣れてしまったメッセージがエラーを告げた。
すでに四回間違えている。
つまり、残りはあと一回。もはや猶予はなかった。ラストチャレンジとなれば、さすがに真剣に推理しはじめる。
大橋は佐藤に訊ねた。
「たとえば、佐藤さんはどんな数字にしてるんですか?」
「オレ? 1019。子どもの誕生日」
「うわ、意外と親バカだった!」
「意外は余計だろ」
面倒くさげで、いかに仕事を楽にするかばかり考えている不良社員の意外な一面に、大橋は驚く。ひとは見かけによらないらしい。
「でも仁科課長は結婚してないですよねえ。あ、じつは隠し子とかは……」
「姪っ子しかいないわよ」
「うわ、それも意外な姿だ」
舟木からの天の声ふたたび。こちらが最後の一回に騒いでいるため、パスワード解析に参加してくれるらしく、いつの間にか傍に立っていた。
「すみません、舟木さんもお忙しいですよね」
「平気。私の場合、むしろ月が変わって、前月分の締めがあるほうが忙しいから気にしないでいい」
「お言葉に甘えます。それより、課長に姪っ子がいるとか驚きですね」
エリート課長にスキャンダルな事実がなかったのは幸いだが、姪っ子というワードもまた意外性が高い。
あの凝り固まった生真面目な男が姪を可愛がる姿なんて、大橋にはまるで想像がつかない。さすがに小さな子を泣かせてはいないだろうが。
「そう? 仁科くん、あれで末っ子よ。お姉さんとお兄さんがいる」
「末っ子!?」
絶対的上位者、みたいな貫禄のある課長と末っ子という甘ったれた言葉が、これまた結びつかない。面白すぎて顔が笑えてくるが、気分が和んでいるときでもない。
大橋は続いて、河合に声をかけた。
「俺は結婚記念日だな。誕生日と迷ったんだが」
「おお、さすがっす。愛妻家ですね。ちなみに俺は彼女の誕生日にしてます!」
「いやだって、パスワードにしとけば忘れないだろ?」
「え?」
憶えやすいからパスワードにしているのではなく、『忘れないため』に、強制的に入力せざるを得ないパスワードとして設定しているだけなのだと快活に告げる男に、未婚の二十四歳は肩を落とした。
「それ、奥さんが可哀想なのでは」
「大丈夫、言ってないから。くちが裂けても言わないから」
「うまく騙すのも、結婚生活の秘訣だぞ」
既婚者からのアドバイスから逃げるように、大橋は未婚仲間に顔を向ける。
「……舟木さんのパスワードは?」
自分に飛んでくるとは思っていなかったか、わずかにくちごもったが、「2479」と呟いた。
「へえ。それなんの番号ですか? 偶数と奇数? どうせなら、2468のほうがわかりやすいのに」
素朴な疑問をくちにした大橋。
やり取りを聞いていた河合と佐藤は、若者の肩を叩く。
「おまえは阿呆だな」
「なんでですか」
「推測されやすい番号は駄目だろ」
「あ、なるほど。わざとずらしてるんですね。さすが舟木さん」
朗らかに笑う大橋に舟木は曖昧に微笑み、そんな彼女を見て、残りのふたりもまた穏やかに笑む。
舟木は表情を一変させ、彼らをジト目で睨んだ。
「……なんですか、なにか言いたいことでも?」
「いやあ、べつになんでもないって」
「うん、なんでもねーよ。あ、そうか。そういうのもアリか」
そこでなにか合点がいったように呟いて、佐藤はおもむろに数字を入力した。
3710 エンター
何度となく絶望を叩きつけたウィンドウは現れず、システムの画面に切り替わった。
入力した佐藤はヒューと下手くそな口笛を吹き、河合と大橋は両手をあげてハイタッチ。舟木も安堵した顔を浮かべている。
「やった! ログインできた! え、なんでわかったんですか佐藤さん、それなんの数字ですか」
「おまえは阿呆だなあ」
「なんでもいいから、さっさと申請通しとけよ」
「はい!」
河合に急かされ、大橋は佐藤と入れ替わってパソコンの操作を開始する。
ログインさえできれば、こっちのもの。承認はワンボタンで完了することは知っている。
コンプライアンスとは、といったかんじだが、緊急事態の前では些末なことだ。言わなければバレない。
いそいそと作業に没頭する大橋をよそに、佐藤と河合は舟木に囁く。
「彼女の名前をパスワードにするとか、意外と可愛いとこあるな、アイツ」
「仁科くんに愛されてるねえ、湊ちゃん」
配属直後からお世話になっている男性ふたりの弁に、舟木湊はそっぽを向いて、研修で不在の恋人に内心で毒づいた。
航平くんのバカ。
◇
夜も更けたころ、舟木湊のスマホが振動してメッセージの着信を告げた。
発信元は仁科航平。
本日、同僚の大橋が申請漏れという騒ぎを起こした際、駄目元でパスワードを訊ねるメッセージを送っていたため、折り返しをしてくれたのだろうと考えた。しかし、すでに解決した旨は追記で送付済み。
明日の帰着時間は事前に聞いているし、戻ってゆっくりして、夕飯でも食べに行こうと約束してある。もしや予定が変更にでもなり、その連絡だろうか。
訝しく思いながらもメッセージを開いた湊は、その文言を何度か見直してみる。しかしアプリを一旦閉じて、もう一度開いたところで内容は変わらない。
壁にかけた時計を見る。もうあまり時間はない。
部屋着を脱いで、ジーンズを穿く。
財布とスマホ、部屋の鍵を鞄へ入れると、最寄り駅へ向かった。
改札から流れ出てくる人数は少ない。
それでも幾人かのひとを吐き出したあと、遅れるようにしてその男は現れ、待ち構えていた女性を見て目を見張った。
「どうしてここに居るんだ、湊」
「それはこっちの台詞。泊まって帰ってくるんじゃなかったの? 出張申請は宿泊で出してるんですけど?」
睨まれた男は、ばつの悪そうな顔を浮かべて視線を逸らせる。
敏腕課長、氷の男、鬼の仁科などと言われる姿はどこにもない。
舟木湊にとっての仁科航平は、むしろこちらのほうである。
「だからって来なくても。危ないだろう、夜も遅いのに」
「来ないほうがよかった?」
「……いや、顔が見られて嬉しい」
そう言って近づいてきた恋人を、湊は受け止める。
背中に回される手、引き寄せるちからがやけに強い。
「疲れた」
「その疲れとやらは、この香水の主が関係しているわけ?」
言うと、ばっと手を放し、自分のスーツの袖に鼻を近づける。
「違うぞ」
「べつに浮気だとは思ってないよ、言い寄られでもして、ホテルについて来られないように帰ってきたってわけね」
この男は、顔面偏差値が高いので、女ホイホイなのである。
似たようなことはこれまでにもあり、いちいち浮気だなんだと疑っていてはキリがなかった。航平が湊以外の女性に一切の興味がないことは、よく知っている。伊達に長く付き合っているわけではない。
出会いは中学。付き合ったのは高校から。
同級生には「まだ結婚してないの?」と驚かれるが、これには少々事情があった。湊の父が、娘可愛さに条件を突き付けたせいだ。
三十歳までに課長クラスに昇進しろ。
無茶もいいところであった。
その条件年齢にたった数日及ばなかったことを気に病んで、航平は未だ正式な結婚の申し込みをしようとしない。湊の父も引っ込みがつかず、悪循環を生んでいる。
まったく本当にバカで律儀な男だと呆れつつ、けれどそういう真面目なところが湊は好きなのだ。
「じゃあ、また明日ね。夕飯食べに行くのは変わってないよね?」
「ちょっと待て、帰るのか」
「そりゃ帰るわよ。家を空けるつもりで出てきてないもの」
言外に、俺の家に寄ってそのまま泊まっていかないのか、と言われたが、何事にも準備というものが必要だ。
落胆する航平に近づいて、湊はそっと背伸びをする。
ただ触れるだけのくちづけ。
それでも恥ずかしいものは恥ずかしく、そっとうしろに下がろうとした湊の腕を、航平は掴んで引き寄せる。
「足りない」
呟くや否や顔を寄せ、くちびるが重ねられた。繰り返し、何度も。
深夜とはいえ往来の、誰が見ているかもわからないような場所での行為。背徳感に酔いそうになる。
息継ぎの合間になんとか空間を確保し、息の上がった状態で男を睨むが、当の本人は妙に熱のこもった眼差しを向けてくる。普段の顔と正反対なそれに、湊はますます顔を赤くした。
「今日はここまで、おしまい。残りは明日」
夕飯のあとは、そのまま泊まるから。
匂わせたそれは正しく伝わったか、難しい顔をして航平は頷く。
「わかった。なら、あと一回だけ」
「……い、一回でおしまいだからね」
だがその一回がどれだけ激しく濃厚だったのか。
安易に頷いてはいけないと、舟木湊は恋人の腕の中でしみじみ思い知った。
お読みいただき、ありがとうございました。
ブックマーク、いいね! ★★★★★等で応援していただけますと幸いです。
こちらは、エブリスタの超妄想コンテスト第227回「あと一回」に参加すべく、以前に書いた短編を改稿したものになります。
ジャンル的に迷ったのですが、メインは会社のいち部署のドタバタ劇なので、ヒューマンドラマにしました。