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私たちはエレベーターで上の階に移動し、相談室に入った。
相談室は落ち着いたトーンでまとめられている。
デスクの上には最新のデジタル機器、壁には法律書や参考文献がぎっしりと並ぶ本棚が備えられていて、知的な雰囲気。
来客用の煎茶が、気持ちを落ち着かせてくれる。
そんな中、相談は始まった。
「ただでさえ不利なのに、妻は私をハラスメント夫だとレッテルを張り、周囲の同情を買うのです。こちらの言い分は聞いてもらえないのです……っ」
『連れ去り』と呼ばれる事案は、年々増加している。
日本では、子どものいる夫婦が離婚した後は、どちらか片方のみにしか親権が与えられない。
配偶者の合意なく子どもを連れ去ることは原則として違法だが、それでも増加する理由はひとつ。
……連れ去った方が、親権を獲得しやすいからだ。
特に、連れ去った側が母親の場合、父親が勝てるケースは稀である。
その理由は、離婚に至るまでの生活で、母親の方が多くの時間を子どもと一緒に過ごしているケースが多いから。
ずっと一緒にいる親が親権者となった方が、子どもの生活の変化や精神的負担を小さくできると判断されやすいから。
「悔しい。納得がいかない。日本の司法は間違っている!」
恨み節を始めた鈴木店長に、私はお茶を勧めた。
冷静さを失ってしまっているのは、明らかだったから。
「鈴木店長。落ち着きましょう」
「あ、ああ。……興奮してすみません」
気持ちを落ち着かせる鈴木店長に、颯斗さんは意見を話した。
「鈴木さん。お気持ちはわかりますが、あいにく、親権が獲得できる見込みは低いです。この意見は、前と変わりません」
その表情も声も、私に話しかける時とは別人みたいだった。物腰柔らかな声で、共感を伝えていて――でも、感情移入しすぎてはいない。一歩離れたところにいて、冷静だ。
「子どもが連れ去られた父親が親権争いで不利になるケースは、父親によるDVやモラハラがあったケース。母親が主に子どもを養育してきたケース。連れ去られてから一定期間経過しているケース。また、父親は感情的に声を荒げてしまい、心証を下げてしまいがちです」
事実をひとつひとつ共通認識としていって足場を固めるように、話がされる。
「逆に、父親が親権獲得に有利になるケースは、子どもが意思表示しているケース。父親が主に子どもを養育してきたケース。父親側に養育環境が整っているケース。母親の監護能力に問題があるケース。母親と子どもの面会交流を認めるケース」
だから諦めろ、というのだろうか。
契約では、私は「力になって」と言ったのに。
どうしようもないのだろうか。
「ですから、裁判で争うのを辞めましょう。まず、鈴木さんはどんな結末を回避したいですか? その結末のためにどんな方法があるかを考えましょう」
「……親権が妻に取られて、子に会うこともできず、金だけ延々とむしり取られる人生を回避したいです……」
「それを回避する方法は、あります」
――あるんだ?
そう思っていると、机の上に資料が広げられた。
それは、主に夫婦間のコミュニケーションのすれ違いや、周囲からの評判についてまとめられた資料のようだった。
「鈴木店長。私も拝見していいですか?」
「ああ……」
詳しく調査結果を共有してもらったところ、鈴木さんは家計の管理を一手に担い、奥さんに対しては「今月の生活費」として最低限のお金だけを渡して、それ以上のお金はその都度「なぜ必要か、何円必要か」と説明させた上で追加で渡していた。
「娯楽」「趣味」という理由では高確率で却下されており、時には生活上必要なお金も不足して、メッセージで催促する始末。
また、奥さんとのメッセージのやり取りで「お前は相談しないと何もできないのか」「俺が働いてる間、お前は子どもと遊んでいる」「金が足りないなら自分で働いて稼げばいいんじゃないか」という内容を送っていた。
これらのメッセージは奥さんによって保存され、「精神的に苦痛だった」と主張されている……。
「鈴木さんは奥さんに経済的DVとモラハラの改善を求められていましたが、無関係の第三者のSNSを見た先入観もあり、問題が起きた原因が自分だという認識を持てませんでした。ただ、不幸中の幸いにして、奥さんは離婚できずに済むならそうしたいと主張なさっていたようです」
冷ややかな声は、数式でも解くようだった。
「経済的DVとモラハラの程度は許容範囲ぎりぎりだった様子で、それ以外は浮気や暴力や賭博などもなく、奥さんは『わかってほしかった』『変わってほしかった』と発言なさっていました。過去のご発言であり、現在のご心境はわかりかねますが、ご自分を見つめ直してみてはいかがでしょうか」
現実を踏まえて、これからどうするか。
鈴木店長の気持ちが、一番大切だった。
その日、冷静に話を続けた結果――結局、鈴木店長は方針を変えた。
本日のこの時間は、鈴木店長が望まない未来を回避し、より望ましい未来を選ぶために、必要な時間だった。
やり取りを見守っていた私は、そう思った。
他人の人生に大きな影響を与えてしまう。
誰かを救うこともできるし、不幸にしてしまうかもしれない。
可能性があるだけに、望まない結末になった時に気に病んでしまいがちで、弁護士の自殺率は高いらしい。
私は、重責を負いながら冷静に対応する颯斗さんが、格好いいと思った。立派なお仕事だ。尊敬する。
彼は優秀な人だけど、人間だからきっと辛い時もあるだろう。
そんな時に彼を支えることができたらいいな――という想いが、自然と胸に湧いた。




