48「瑞月五和の場合」
五和の生は、強い喪失感から始まる。生まれ落ちたその瞬間から、五和の胸の中を何かが足りないと言う感覚が占めていた。
暗い赤の瞳に映し出される世界はモノクロで、退屈で、価値のあるものは何一つないように思えた。
すべて偽物、レプリカで作られたような世界の中をどうして平気で生きていられるのだろう。
幼い心の中に湧く疑問を五和は一度として口にしたことがない。
口にしても良いことはないと幼いながらに理解していたからだ。
周囲を真似て、周囲にこびて、その生き方がもっとも面倒が少ないと考えたから。
普通の子供っぽく振る舞うことは簡単だった。五和は他者を欺くことが得意な性質らしい。
息をするように嘘を吐き、己すら容易に偽った。
五和が己の生に絶望することなく、偽りを描きながらでも生きることを諦めなかったのには理由がある。
確信があった。強い喪失感とともに、五和の中にはそれを埋める損じと邂逅する運命への確信があったのだ。その出会いまでは絶対に死ぬことはできない。
モノクロの世界が色づく瞬間をずっとずっと待っていた。
母が妊娠したとき、五和の予感はさらに強いものとなった。少しずつお願いが膨らんでいくごとに予感は強くなる。それは五和が失っていた世界への期待だった。
十月十日。赤子が生まれるまでの時間は長くもあり、短くもあった。
待ち遠しく、あっという間に時間は過ぎて、その子は産まれた。
瑞月琴巳。五和の可愛い可愛い妹が、この世界に生まれ落ちた。
初めて会ったときの感動は今も忘れずに覚えている。胸の深いところから歓喜の渦が沸き起こり、無意識に涙が零れ落ちた。
空っぽだった心が一気に満たされ、それが止めどなく溢れ出る。
モノクロだった世界が琴巳を中心に色づいていく。
五和の人生は琴巳のためにあり、この世界は琴巳のためにある。
「私の可愛い可愛い琴巳ちゃん。私が貴方を守ってあげる。私が貴方を愛してあげる。だから傍にいて、決して私から離れないで」
五和の心を満たしてくれるこの存在を絶対に手放したりはしない。
この世で唯一、琴巳を守れるのは五和だけだ。琴巳をもっとも愛せるのは五和だ。
それを証明するように琴巳は黒い靄に愛されて生まれてきた。
蛇神の祝福を受けて産まれた愛し子を、周囲の人々は恐れた。
赤子が泣くたび、罰が下される。それは琴巳が蛇に愛されている証。
喜ぶべきことをどうして恐れる必要があるのか、五和には欠片も理解できない。
だが、周囲の人々が五和を恐れ、避ける状況は五和にとって好ましいことでもあった。
琴巳を愛するのは五和だけでいい。琴巳に愛されるのは五和だけでいい。その瞳に映るのは五和だけでいい。
向けられる無垢な瞳を前に五和はこの欲望を覆い隠した。
五和は偽るのが得意だ。この深い愛情を覆い尽くし、利口な少女を演じる。
利発的で、大人の言いつけを守り、友人たちから愛される妹思いの少女。
本性を晒すのは、本当の五和を教えてあげるのはもっと後でいい。
五和は待てばいい。琴巳が自分を求める瞬間をじっと待っていればいいのだ。
大丈夫。待つのは得意だ。
そうして、五和の役割を果たすときは訪れた。
琴巳が小学生になった頃だ。帰ろうとしたとことに強い蛇の気配を感じた。
膨れ上がる黒い気配は刹那、弾け散った。
肌を撫でる愛しい感覚に笑みを零し、気配を追って歩を進める。近付けば、騒然とした空気が広がっており、構わずにゆったりとした足取りで廊下を進む。
途中から気配を辿るのをやめた。そんなことをしなくても場所は分かっていたから。
微かな泣き声が聞こえる。慈愛を表情に乗せる五和は複数の生徒が倒れている教室の中に足を踏み入れた。
中にいる人間が残らず気を失っている中、一人の少女が蹲っている。寂しげなその背中を、溢れんばかりの愛で抱きしめる。
「大丈夫よ、琴巳ちゃん」
紡いだ言葉は呪い。琴巳が五和だけを愛するように呪いを込めた。
それから数年は五和にとって幸福以外の何ものでもない日々であった。
教室で蛇の呪いを発動した琴巳は学校で孤立し、家では元々孤立していた彼女が頼れる存在は五和しかいないのだから。
その目は五和だけを見て、その声は五和だけに向けられる。
五和と琴巳だけの世界。求めていたものを一時だけでも味わった。
ずっとこのままでもよかった。ずっとこのままがよかった。しかし、琴巳は成長し、五和のもとから羽ばたいていく。
蛇の祝福を制御する術を身につけた琴巳は、中学校にあがって順調に友達を作り始めた。
嬉々として友人との交流を語る琴巳を前に燻る感情があった。燻り、膨らむ感情は制御できない形で出現した。
ぱん、と渇いた音が響いた。発生源は五和の掌、そして琴巳の頬だ。
驚いた顔で見返す琴巳の姿に言い知れない快感が押し寄せる。
これだ。これなのだ。ただ優しい姉でいるだけじゃ、琴巳は離れていく。それじゃ五和は満足できない。
五和のすべてを琴巳に捧げよう。慈愛も、執着も、そこに宿る狂気さえも注いであげよう。
この日初めて、五和は心から笑えた気がした。本性を隠す時間は終わりだ。
「ダメじゃない、言いつけを破ったら。私言ったわよね。お姉ちゃんの言うことは?」
「ぜ、絶対。ごめんなさい、お姉ちゃん」
「いいわ。許してあげる。貴方は私の可愛い妹だもの」
殴られた腹を押さえて蹲る琴巳へ笑いかける。
琴巳を殴ったのは五和だ。門限を破ったからその罰を加えた。
初めてはたいたあの日、学校が終わったらすぐに帰るように言いつけた。
それを破ったから殴った。五和の言いつけを破る意味を痛みと恐怖を持って教え込む。
「分かっているでしょう? 貴女を愛してあげられるのは私だけ」
何度も何度も刻み付ける。この愛を、この痛みを、忘れることなどできないように。
この先、琴巳が誰と出会い、親しくなっても、五和から離れることなどできないように。
どこへ行ったとしても、必ず、五和のもとに帰ってくるように。これは愛であり、呪いだ。
ところで、蛇憑きと呼ばれる人間の特徴を聞いたことはあるだろうか。
平たく言えば、性格が悪くなる。執念深く自己中心的な性格になるという。
しかし、この特徴は琴巳には当てはまらない。蛇の呪いを受ける周囲の人々のことを心から案じる琴巳は真反対の優しい子だ。むしろ、五和の方がこの特徴に近い。
琴巳が蛇憑きらしくない姿を見せるたび、五和には思うことがある。
五和は琴巳の代わりに蛇憑きの特徴を引き継いだのではないのかと。
あるいは、五和こそ蛇憑きなのではないのかと。蛇神の祝福を、愛しい妹へ差し出したのではないかとそう思うのだ。本当のことは分からないけれど。
ただずっとこの日々が続けばいいと思い、やはりそれは叶わない現実を知る。
ある日突然、琴巳が姿を消した。帰ってきた五和をもぬけの殻となった琴巳の部屋が迎えた。
「どこへ行ったの?」
「と、遠くの学校に行くからって」
怒りを隠さないままに問い詰めれば、声を震わせた母はそう答えた。
どうやら五和から離れるため、知恵を働かせたらしい。遠くの高校に受験し、一人暮らしの準備を隠れて進めていたのだろう。
どの高校に行くかはサプライズで教える、なんていじらしいことを言うから、特に追及せずにいたのが裏目に出た。確かにこれはとんでもないサプライズだ。
琴巳はいつだって容易く五和のもとから離れて行ってしまう。
「でも、いいわ。今は許してあげる。少しの間、私のいない世界を楽しみなさいな」
少しの猶予を与える。どこにいるかなんて、そこで怯えている母にでも聞けばわかるだろう。
実際、母は琴巳が六湊町にいる、とあっさり口を割った。
琴巳は母の弱さまで考慮していなかったのだろう。そんな甘さも愛おしい。
五和は理解ある姉として、妹の試みを認めてあげることにした。時には飴も必要だ。
そうして半年ほど過ぎた頃、五和のスマートフォンが着信音を鳴らした。
相手は水瀬真白と名乗った。六湊町の地主である水瀬家の令嬢だという彼女は、友人からの紹介で琴巳と仲良くしているのだと言った。
そんな人物が五和に電話をかけてきた理由、それは予想を超えるものであった。
『私は貴方の愛を素晴らしいものだと思うわ』
最初に真白はそう言った。嘘を感じさせない、真の込められたそれでいて軽い口調で。
電話越しでも分かる。彼女は生半可な相手ではない。
見えないところで余裕を演出するように笑みを浮かべながら、仄かな警戒を滲ませる。
『ゲームをしようと思うんだ。そこに貴方のいてほしいの』
「理由は?」
『見たいものがあるの。貴方がいれば――』
「それが見えると?」
『いいえ、面白くなるわ』
抽象的で肝心な誘い文句が一つとしてない彼女の言葉。
断ることもできた。むしろ受ける理由の方が現状では多いくらいだ。
「そこに琴巳ちゃんはいるの?」
『もちろん』
その事実があるなら、五和が選ぶ選択肢は一つしかなかった。迷う必要もない。
真白の誘いに乗って六湊町を訪れ、夢世界の住人となった。
そこで知る。MaveRickの存在、琴巳の心を支える仲間の存在を。
壊そうと思った。琴巳の拠り所となる存在は五和以外必要ない。
でも上手くはいかず、その絆の強固さを見せつけられるばかり。なので、少し趣向を変えて、愛しい琴巳と直接対面することにした。
そこで知る。五和の知る弱くて可愛い琴巳はもういないのだ、と。
六湊町に来て、琴巳は強くなった。いや、あの子は元々強かったのだろう。
理解して、でも五和の心は諦めることを知らない。強い光を宿したあの瞳に思い知らしめてあげようと一歩踏み出したとき、気がついた。
熱を感じて視線をあげれば、炎の塊が瞳に映った。今まさに琴巳を呑み込もうとしている炎に気付いて、五和の行動をすることは一つだけ。
踏み出した一歩のまま、力一杯、琴巳の身体を押した。
あの日と同じ驚いた顔を見せる琴巳に微笑み、視界は炎の赤に呑まれた。
熱いよりも痛いが先立ち、思わずあげそうになる絶叫を堪えた。
姉の意地だ。妹の前で情けない姿を見せるわけにはいかないのである。
自分の身体が焼ける臭いを嗅ぎながら、痛覚を殺す痛みに襲われながら、それでも五和は微笑む。
琴巳が何か言っているが、鼓膜が駄目になったのか、上手く聞き取れない。
視界も霞み、よく見えない中でも大事な妹の姿だけははっきり見えていた。だから耳も琴巳の声だけは聞こえたらいいのに。
いつだって五和はそれだけしか望んでいない。
同じ色の瞳が涙を溜めてこちらを見ている。心の奥の奥が堪らなくなって疼いた。
全身を蝕む激痛よりも、この胸の疼きの方が余程五和にとって重要なものだ。
「こと、み……ちゃん。私のこと……しんぱい、して……くれっ、の?」
必死に言葉を返す琴巳の声はやはり一つとして五和には届かない。それでも何を言っているのかはなんとなく分かった。本当に琴巳は優しい子だ。
ずっと琴巳を苦しめ続けてきた五和のことも心配してくれているのだ。
感覚のない腕を持ち上げて琴巳の方へ、手を伸ばす。掠れた声で呼べば、手を取ってくれた。
「あい、してるわ。世界で、一番……あなた、だけを」
「おねっ、ちゃん……ダメっ。わたし……なにも分からない。分からないよっ。お姉ちゃんの口からちゃんと説明してくれないと分からない」
夢の奇跡か。最後の最後で最愛の声が破けた鼓膜に届いた。
今、この瞬間は五和だけを見て、五和のために紡がれて、五和のことを考えている。
それだけで充分だった。空っぽの心を唯一満たしてくれる存在に看取られる。これ以上の幸福など五和は知らず、最高の人生だったと思って逝ける。
琴巳のいない世界など五和には耐えられない。先に逝くのがちょうどいいのだ。
「また終わりじゃありませんよっ」
琴巳ではない声が耳をついた。
反射でそちらを向く琴巳の姿を惜しく思いながら、五和も緩慢に視線を向ける。
そこにいた。状況をまるで理解していない、無邪気さを持った表情で立った少女。
この世界の主と同じ碧色の瞳を持った少女が。




