47「水月火吹の場合」
家が燃えている。轟、と音を立てて勢いを強める炎と倒壊する柱。
青い空には濃い煙が立ち昇る。遠くから見ても、この異常事態に気付くのは難しくないだろう。
事実、火吹も下校の最中に高く昇る煙と焦げた香りに気付いて立ち寄って口だ。小学生の頃のことだ。
燃えていたのは家族と何度か行ったことのある中華料理屋だった。
野次馬の足の隙間から火事の現場を覗き見る。そこへ鮮烈なオレンジが映し出された。
燃え盛る建物の中へ、躊躇なく飛び込んでいくオレンジ色の青年たち。
激しく噴き出す煙を掻き分けて、中にいた人を助け出すその姿。
的確に言葉を交わし、無駄のない動きで炎を沈めていく仕事ぶり。
後で聞いた話だが、この火事による死者はゼロだったらしい。あれだけ炎が出ていたのに、店員も、客もすべて助けてみせたのだ。
そんな細かい話はさておき、火吹は目の前の光景に目を輝かせた。
「か、かっけえ」
テレビで見たヒーローのようだと純粋に思った。
困っている人に躊躇なく手を差し伸べ、弱者のために命をかける。
それは火吹が憧れ、なりたいと思っているものそのものだった。
火事という異常事態よりも、消防士というヒーローに火吹の心は奪われた。
「オレ、しょーぼーしになるっ!」
まだ幼い少女が夢見るには充分すぎるきっかけであった。
火吹は男兄弟ばかりの末っ子だ。兄たちに紛れて遊んでいたせいで、すっかり男勝りに育った。
好きなものも、男の子が好むようなものばかり。両親は念願の娘にちゃんと女の子らしくしてほしかったようっだが、その要求はすべて無視した。
好きなものが好きだし、なりたいものになりたいのだ。
両親が勝った可愛らしい服よりも、兄たちのおさがりを着ることを望んだ。
魔法少女なんて眠たいアニメより、戦隊ものの方が好みだった。
人形遊びよりも、外を駆け回って特訓することを火吹は望んだ。
女の子らしさを求める両親よりも、夢を応援してくれる兄の方が好きだ。
真ん中の兄と下の兄は、火吹が身体を鍛えるのを手伝ってくれる。
上の兄は、消防士になるには頭の良さも必要だと言って、勉強を教えてくれた。こっちの方はあまり得意じゃなかった。身体を動かすことの方が火吹の性に合っていたようだ。
勉強は苦手だが、特訓は概ね順調。たった一つの問題を除いて。
「やーい、チビ」
「チビ火吹」
「うっせー。すぐにお前らを抜かしてやる!」
火吹は身長が低い。いや、成長が遅い。とてもとても遅い。ムカつくことに遅い。
背の順では一年生のときからずっと一番前。一向に背が伸びる気配がない。
どんどん背が伸びていくクラスメイトたちを火吹は置いて行かれるばかり。
まったく伸びていないわけではないのだ。毎年数㎜程度伸びてはいる。
少しずつ、じわじわとでも確かに伸びていた身長も、中学校に上がる頃には止まってしまった。
毎日早く寝て、牛乳もたくさん飲んで、背が伸びると言われる方法を片っ端から試した。
しかし、現実は残酷で、火吹の身長はこれ以上伸びることはなかった。
両親ともに背が低く、兄たちも低い方。遺伝と言われてしまえば、どうしようもない。
火吹の身長は一四五㎝で止まった。消防士の採用条件にはまったく届かない。
「大丈夫よ、身長なんてまた伸びるわよ」
「そうだぞ。女の子は小さい方がかわいいんだから気にするな」
いつまで経っても身長が伸びる気配がないことにふてくされた火吹に両親が語りかける。
今までもふてくされるたびに似たようなことを言われてきた。
今までと変わりない、ただその日は虫の居所が悪かった。両親の言葉一つ一つに無性に腹が立った。
「あんたらチビだから、俺がチビのまんまなんだろっ」
感情のままに叫んで、家を飛び出した。後ろから飛んでくる両親や兄たちの声を無視して全力で町の中を駆ける。特訓を重ねた甲斐あって、火吹は家族の中で一番速い。
本気で走れば、誰も傷付けない。家族からも現実からも逃げるようにがむしゃらに走る。
兄が疲労を訴え、息があがって立ち止まった頃には知らない場所に立っていた。
「ここ、どこだ……? 帰り道…分かんねえ。……兄ちゃん」
なるべく遠く、なるべく速くを求めた結果、記憶のない場所で一人立ち尽くす。
辺りを見回してみても、見覚えの景色ばかりだ。
不安が押し寄せて、暗い色の空を見上げる。住宅街の中ではあるようで、塀の向こう側から届く光が歩く道を照らす。明かりはあっても、夜道というのは恐怖心を煽る。
とりあえず、と来た道を引き返す火吹の歩みは頼りなく遅い。
行きとは対照的に遅い歩みの火吹は十字路で立ち止まる。どっちから来たか、分からない。
「兄ちゃん」
じわりと涙が浮かび、視界が歪む。
泣いてたまるか、と歯を食いしばっても溢れる涙は止まらない。
「あらら、迷子ちゃんかな? 大丈夫?」
必死に涙を堪える火吹へ、少女が声を投げかけた。
潤んだ瞳に映るのはセーラー服をまとった平凡な見た目の少女だった。
癖のない髪を背中に流した特筆する特徴を持たない少女だ。学校帰りなのか、その手に学生鞄を持っている。多分、年上だ。
「家……飛び出してきて……帰り道、わかんねえ」
「そっか、そっか。じゃあ私が案内するよ。家の住所言える?」
「えっと……」
たどたどしく住所を告げれば、少女は火吹の手を取って歩き出す。
軽やかな足取りには安心感があって、火吹もゆっくり歩みを再開させる。
「どうして家を飛び出したの?」
「親にムカついて……」
「ふうん。まあ、家族だからって分かり合えるわけじゃないもんね。よく分かるよ」
他人事のようで、それでいて寄り添うように少女は言葉を紡ぐ。
それが妙に心地良い気分で、不安で弱気になった心が零れ落ちる。
「俺は……消防士になりたいんだ。女で、チビで、無理だって笑うヤツもいるけど、俺は……っ」
「どうして消防士になりたいの?」
「かっけえからだ。危ねえとこに行って、人を助けるのかっけえ!!」
「それって消防士にならないとできないの?」
混じり物のないシンプルな問いかけに火吹は一瞬息を止めた。
考えもしなかった。火吹の求めるものは消防士にないとそう思っていたから。
一歩、大きく踏み出した少女はくるりと振り返って、火吹に手を差し出した。反射的に伸ばした指先が触れ合い、静電気のようなものが走った。
「なんだよ」
微かな痛み。その原因が目の前にいる少女だと睨みつける。
怒りを込めた視線を受けても、少女は笑うばかり。
「その力で夢を叶えてみせてよ。本気で願うなら、貴方の望むものになれるよ。――でも、一つ覚えておいて。間違ってはいけないよ」
ぶつけようとした言葉を呑み込んで少女の姿を見つめる。見開かれたその目には、瞳を翠色に輝かせた少女が映っている。人非ざる空気をまとった少女が。
翠の光は一時のもので、黒瞳に戻った少女は特徴のない笑顔が浮かぶ。
「この辺りまで来れば分かるかな」
「あ、ああ。助かった、ありがとう」
「うん、気を付けてね」
少女との出会いから、火吹は火と水を変換する力を手に入れた。この力があれば、消防士になれなくても人々を救うことができる。どんな大火事も一瞬に消し去れる夢のような力だ。
しかしゲームに負ければ、この力は失われる。彼女は言った。
この力が失われるなんてことがあってはならない。力を失えば、また火吹はチビだと馬鹿にされる負け組だ。
だから、詩折の誘いに乗って、ハローワーカーに入った。だというのに。
「MaveRickを襲撃してからずっと何の指示も出しやがらねえ。やる気あんのかよ」
自分より頭が良い相手だからと信頼して全部詩折に任せていた。
少し前までは細かく指示を出してくれていた詩折だったが、最近は待機ばかりだ。
「あの根暗とも連絡はつかねえし、どいつもこいつも」
火吹は待つのが苦手だ。やる気のない奴の指示をいつまでも聞いているつもりはない。
ハローワーカーに仲間意識はなく、利害の一致で繋がっているだけの関係。
求めるものがズレれば離れる。それは決して裏切りとはならない。
他のメンバーが勝手に動くならば、火吹だって勝手に動く。それだけのことだ。
今、火吹の目には二人の人物が映っている。
一人は、この学校の制服を身に纏った少女だ。栗色の髪を緩く三つ編みにし、暗い赤の瞳を赤縁眼鏡で隠している。確かMaveRickのリーダーだったはずだ。
もう一人は季節外れの黒いコートをまとった少女。栗色の髪をこちらはウルフカットにしている。
顔を突き合わせるように立っている二人の顔は、血縁関係を窺わせるほどよく似ている。
何か話しているようだった。たまたまMaveRickの人間を見つけ、後をつけてきた火吹の存在に気付いている様子はない。これはいいタイミングだ。
ここであの二人を潰す。コートの方は知らないが、リーダーを失うことはMaveRickにとって痛手になるはずだ。敵の人数が多い以上、少ない労力で潰す機会を逃すわけにはいかない。
そう考えて、二人にバレないように校舎裏へ移動し、青いホースのついた蛇口を見つけ出す。
園芸部辺りが使っているものだろう。充分あの二人のもとに届く長さだ。
詩折のアドバイスで持ち歩いているボトルもあるが、これだと少し火力が足りない。
この機会を無駄にしたくないという思いで、より高い火力を求めた。
蛇口を捻り、流れる水の軌道を確認して二人が見える位置に立った。
「行くぜ」
高い位置、空に向けるように水を放つ。それだけでは二人には届かない。
が、問題ない。空に向けてアーチを描くように放出された水が半ばから炎へと変わる。
炎に変われば、火吹の意思に応えて自在に動く。大量の水によって生み出された大量の炎が二人に向けて注がれる。
二人を一気に潰したいところだが、まずはMaveRickのリーダーを狙う。
圧倒的質量の炎が落ちる寸前、女性が少女の、MaveRickのリーダーの身体を押した。
突き飛ばされた少女の代わりに、黒いコートの女性が炎に呑まれる。
「なん、で……なんで、お姉ちゃんっ」
悲痛の叫びが鼓膜を突き刺した。
焼け爛れた女性に泣き縋る少女の姿がその瞳に映し出される。
それは今まさに火吹が自らの意思で作り出した状況だ。当たり前すぎる事実を火吹は改めて確認するしかなかった。震えた手がホースを落とした。
未だに流れ続ける水がツナギの裾を濡らすが、気にもならない。
愕然と、倒れ伏す女生徒泣き腫らした少女の姿を見つめる。
火吹は危険を恐れず、他者を助ける存在になりたかった。それが今はどうだ。
目の前に起こる悲劇を生み出したのは紛れもなく火吹自身だ。
「ちがっ、俺は……だって、そうしないと……俺はっ」
助けたいと願いながら、自らの手で他者を傷つけた。
その事実を、その重さを未成熟な心が初めて自覚した。
「間違ってはいけないって言ったはずなんだけどなあ」
己のしたことに震え、立ち尽くす火吹の後ろからのんびりとした口調が投げかけられた。
声の主が止めたが、絶えず流れ続けていた水が止まっている。
「五和とはここでお別れかな。気に入ってたんだけど仕方ないね」
悲劇を目の前にしながら、それを感じさせない喋り口調に苛立ち、後ろを振り向いた。
立っていたのは水瀬真白。火吹に力を与え、改変ゲームを始めた人物。
夢を叶えるための道を示してくれた恩人であり、今生まれたばかりの悲劇の元凶でもある憎き人物。
あまりにものんびりとした態度は疼く感情を明確な形にさせてくれない。
毒気を抜かれたように膨らむ感情が彼女の笑顔で霧散する。
「なん、で、ここにいるんだよ」
「んーと、答えを見るためかな」
「答えってなんの?」
「気になるなら火吹ちゃんも一緒に来なよ。面白いかは分からないけど」
そう言って水瀬真白は歩き出す。勿体ぶるように、ステップを踏むように数歩歩いて、くるりと火吹の方を振り返った。首を傾げるその姿はまるでこの世界の支配者のようだ。




