44「瑞月琴巳の場合」
琴巳の生まれたのは特殊な家だった。何百年も前から続く蛇憑きの家系であった。
いつからなのか、どういう経緯でそうなったのか、琴巳は何も知らない。両親も祖父母も詳しいことは知らないようだった。
とはいえ、時代遅れだなんて笑うこともできない。理由は至極単純、蛇に選ばれたのが琴巳だからだ。
琴巳の傍には常に蛇の影が付き纏っていた。常人には見えないそれは琴巳には当たり前に見えるものであった。
蛇は宿体である琴巳に害をなすことはなく、むしろ琴巳を守った。
字面だけ見れば、それは悪いことではないのかもしれない。しかし、それは琴巳にとって一番の不幸だった。
蛇の守護は過剰すぎるものだ。彼にとって優先すべきは琴巳で、それ以外に価値などないのだから。
お陰で琴巳は両親の愛と言うものを感じることなく育った。
物心ついた頃にはすでに両親は琴巳に怯えきっていて、まともに話をした記憶はない。
無理もないと思う。赤子が泣くたび、幼子がぐずるたび、蛇は周囲の人間の罰を与えた。
両親がいないと幼い琴巳は生きていいくこともできないから、多少の手心は与えていたようだが。
相当の恐怖を味わいながら琴巳を育ててくれたことは容易に想像でき、仕方がないと今なら思える。
琴巳はいるだけで、周りに不幸を撒き散らす存在だ。関わろうとする人間は減っていた。
「きゃっ」
体育の授業のときだった。リレーの最中、琴巳は派手に転んだ。
琴巳を抜かそうとした少女の中が引っかかってしまったのである。相手に悪気はない、完全な事故だ。
砂まみれになった膝はわずかに擦り剥き、血が滲んでいる。微かに訴える痛みを我慢しながらも、なんとか次の子へバトンを渡す。
「琴巳ちゃん、ごめんね。大丈夫?」
「うん、だいじょ――」
謝罪する少女の方へ目を向けた瞬間、纏っていた黒い影が大きく揺れた。
小さな身体から溢れ出る靄は無数の蛇となって目の前の少女へと襲い掛かる。
「待って。ダメ……っ」
静止の声も届かず、蛇は憎しみを込めてその身をうねらせる。
必死に引き留めようとする琴巳をきょとんと見返す少女。立ち昇る黒い靄は琴巳にしか見えていないのだ。
そんな事実を自覚する余裕のない琴巳の、伸ばした手を越えて、蛇の形をした靄は少女の中に呑み込まれていった。
瞬間、少女の身体がぐらりと傾く。苦しそうな少女の顔を脳裏に刻みながら、琴巳は呆然と立ち尽くす。立ち尽くすことしかできなかった。
少女は熱中症という扱いで、病院に運ばれた。違うと知っているのは琴巳だけだ。
幸いと言っていいのか分からないが、少女の症状は数日で治ったようだ。二、三日休んで、再び学校に来たとき、元気そうな姿を見せていて安心したのを覚えている。
その後も似たようなこと何度も起きた。
琴巳に関わると呪われる。その事実が広まるのに一ヵ月もかからなかった。
学校で孤立することになって、琴巳は安心した。これ以上、誰かを傷つけずに済むから。
関わると不幸になる。関わると呪われる。
冗談では済まない事実があるからいじめられることもない。ただ孤立しているだけ。みんな怖がって近付いてこないだけ。
それでいい。琴巳は独りでいい。もう誰も傷付けたくない。でも、でもでも。
自分を納得させようと言葉を重ねても、奥底までは偽れない。
積もる感情は胸の中で膨れ上がり、結びつく。同じく琴巳の胸の中に潜む存在と。
蛇は琴巳を守るために、琴巳の願いのために存在するものだ。
口先でどんなに否定しても、心の奥底では違うことを考えていることが伝わっている。
それが起こったのは放課後。友人同士で賑やかに帰っていくクラスメイトを遠目に見ていた時。
いいな、と思った。羨ましいと思った。感情の隙をついて、黒いものが膨らんでいく。
膨らんで、膨らんで、ぱんっ、と弾けた。風に吹かれるように消えた黒い靄が晴れた視界に倒れ伏したクラスメイトの姿が映った。
一人や二人じゃない。まだ教室に残っていたクラスメイト、十数人が皆一様に倒れている。
立っているのは琴巳の一人きり。狭いとすら感じていた教室が妙に広く感じた。
非現実的な状況から逃避する琴巳の耳に悲鳴が突き刺さる。
ゆっくりと悲鳴が上がった先、廊下の方へ目を向ける。暗い赤の瞳が向けられた先に怯えきった生徒が数人いる。
「ばっ、化け物」
震えあがった誰かの声に、琴巳も震えあがる。
けれど、蛇はその言葉を言った誰かに牙を剥くことはなかった。
理由は分かった。琴巳が、琴巳自身が誰よりもそう思っていたから。
「もう、いやだ」
蹲り、涙声で呟く。こんなに呪っているのに、蛇は琴巳のことを呪ってはくれないのだ。
小さく、小さく自分を隠すように琴巳は蹲る。耳を塞ぎ、目を閉じ、外界から切り離す。
ふと後ろに誰かが立つ気配がした。目を閉じたままの琴巳をその人は後ろから抱きしめた。
柔らかな髪が肩にかかり、甘い香りが琴巳を包み込む。
「大丈夫よ、琴巳ちゃん」
甘く囁く声は震える心を抱き締める。解かれていくのを感じた。
「おねえ、ちゃん」
怯えて離れていく人ばかりの中で、唯一、姉だけが、五和だけが傍にいてくれた。
近付いては離れていかれるばかりの琴巳の世界で、変わらずずっと傍にいてくれる存在。
愛を教えてくれたのは五和だ。琴巳は五和のことが大好きだった。
彼女が甲斐甲斐しく面倒を見てくれたお陰で、琴巳は少しずつ蛇の力を制御できるようになっていった。
どういうときに呪いが発動するのか。どうしたら蛇を止められるのか。
理論的に、感覚的に少しずつ掴んでいった。
中学校にあがる頃には、完全に力を制御できるようになっていた。
琴巳の噂を知っている人もいたが、知らない人もいる世界で友人もできた。
友人と喋りながら帰る。ずっと憧れて、しかし手に入らない普通の日常がそこにあった。
ようやく琴巳は普通の少女として生きていけるのだと思った。そのとき、琴巳の希望は、願いは再び音を立てて壊された。もっとも信じていた人の手によって。
「あ、おねえちゃん。ただいま」
「おかえりなさい。琴巳ちゃん、今日は遅かったわね」
「ちょっと寄り道しちゃった。ゆあちゃん……学校の友達がね、お気に入りの場所を紹介してくれて――」
渇いた音が響いた。突然、五和に頬を叩かれた。
びっくりして見返す琴巳を、遅れてきた痛みが現実へ連れていく。
姉に、五和にはたかれた。いつも優しくて、一度として琴巳を起こったことのない五和に。
驚きも困惑が勝った。叩かれた理由を必死に考えて、考えて。
「遅くなってごめんなさい」
「いいえ、謝る必要はないわ。それほど遅い時間ってわけでもないでしょ」
思いついた答えを五和は微笑みとともに否定した。
いつも通り優しい優しい笑み。それは叩かれた事実を異質なものとして強調する。
まるで数秒前の出来事がなかったように振る舞う五和。
「琴巳ちゃん、お友達ができてよかったわね。ずっと欲しがっていたものね」
向けられる言葉に頷くことができなかった。
いつも通りの優しい笑顔なのに恐ろしいものを感じる。大好きな姉なのに大好きな姉ではない何かに変わってしまったような、そんな気がして。まるで蛇みたいに。
この感覚を肯定するように五和はこの日から少しずつ変わっていった。
日常的に琴巳へ暴力を振るうようになったり、友人グループから琴巳が孤立するよう仕向けたり、その残虐性、非道な顔を嬉々として表に出すようになったのだ。
琴巳に優しくしていたのは、その心を縛るためだったと知った。
不思議なもので、琴巳を守るために蛇が五和を呪うことはなかった。
何か裏技でもあるのか、彼女が特殊なタイプなのか、分からないが。
五和から逃げるため、琴巳は彼女に黙って遠く離れた六湊町の高校を受験した。
両親に協力してもらいながら、一人暮らしの準備もして家を出た。
その後、猫に出会い、真白を紹介してもらい、三人でMaveRickを作った。
すぐに真白はいなくなって、新しい仲間が増えて、再び現れた真白がゲームを持ち掛けて、目まぐるしく変わる状況に振り回されながら今に至る。今、ここにいる。
履き慣れたローファーで踏み慣れた地面を踏む。
広がるのはこれまた見慣れた景色。琴巳の通う高校の校舎を背に立つ視界には広い校庭が映っている。
風が砂埃を起こすその場所に一人の少女が立っている。
長めのウルフカットにされた栗色の髪、切れ長の目をこちらに向けている。
季節に合わない黒いコートは彼女が寒がり故のものだ。琴巳も寒がりな方だが、彼女はそれをさらに上回る。瑞月五和――琴巳の姉であるその人物は妖しく笑む。
校庭に立っているのは五和のみ。小雛と一緒にいるという話だったが、この場にはいないらしい。
そのことに対して驚きや戸惑いはなく、やっぱりという感慨が胸に落ちる。
「小雛と一緒にいるゆうんは嘘やったんやね、お姉ちゃん」
目の前にはトラウマそのもの。恐怖が疼く胸を押し留め、強い光を代わりに宿して立ち向かう。
己の傷と正面から向かい合う勇気が今の琴巳にはある。
「変わった喋り方するようになったのね。私は昔の喋り方の方が好きよ」
MaveRickのリーダーになるにあたって、琴巳は自身の口調を改めた。
無個性で凡庸な話し方を変えて、見様見真似の関西弁を扱うようになった。
特に深い理由はない。個性的なメンバーをまとめるため、安直に個性を求めた結果だ。
今は関西弁が琴巳を、守る強力な盾となっている。これがあるから五和も戦える。
「ごめんなさいね。私に会いに来るくらい、メンバーのことを心配していたんでしょうに」
「ええよ。そんな気はしとったから。お姉ちゃんは嘘が得意やもんな」
「気付いてたのね。流石、私の琴巳ちゃんね」
「今までさんざんお姉ちゃんの嘘で友人関係をめちゃくちゃにされてきたから」
「私に壊される程度の浅い関係しかなかったのでしょう?」
悪びれることなく答える五和。その反応も想像と違わない。
少し離れたくらいで簡単に忘れられるほど、刻み付けられたものは浅くない
言葉一つ、表情一つ、容易に想像できてしまう、それくらいの絆。
「私は違うわ。変わらずの愛を貴方に注いであげられる」
五和はいつもそれを言う。愛している、何度も何度も呪いのように言われ続けた。
最初は信じた。それを暴力的に裏切られ、今はもう信じることはできない。
彼女はとんでもない嘘吐きだ。何年も味わってきた嘘の方は琴巳には信じられる。
なんでそんなことをしているのか、未だに分からないけれど。
「もう、ええよ」
震える声で告げた。声だけではなく、全身が震えている気がする。
逃げたい。でも、逃げたくない。立ち向かうと決めたのだ。
息を吸う。声を出すためよりも、己を鼓舞するために息を吸って、自分と同じ色の瞳を見た。
昔は怖くて見ることのできなかったあの瞳を。
「もう……うちにお姉ちゃんの愛は必要ない。うちの居場所はもうあるから」
言えずにいた思いを伝えた。切れ長の瞳が細められ、肩を震わせる。
笑んだままの唇が開かれ、紡がれる言葉を怯えながら待つ。
「認めないわ、私は。貴方に私が必要かどうかなんて関係ない。必要にさせるの」
暗い赤の瞳が歪な光を宿している。ブーツを履いた足が地面を強く叩く。
その足は一歩、琴巳の方へ踏み出した。さらに一歩、足を踏み出すと同時に五和の腕が揺れる。
フラッシュバックする殴られた記憶。反射的に目と強く瞑った。
今までのように叩かれると思っていた琴巳は強い力で突き飛ばされ、尻餅をついた。
反射で見開かれた瞳には、美しい笑みが浮かべられていて――。
「え……」
降り注ぐ炎が五和を呑み込むのが、そんな非現実な光景が映し出された。
あのまま立っていたら琴巳もあの炎に呑み込まれていただろう。
冷静に叩き出される事実はただ琴巳の中に混乱を与えた。
だって分からない。姉が自分に突き飛ばした理由が、自分を守ろうとする行為の意味が分からない。
「なん、で……なんで、お姉ちゃんっ」
五和を呑み込んだ炎は瞬く間に水へと変わった。その隙に五和の傍へ駆け寄る。
美しい顔の半分以上が焼け爛れ、見る影もない。纏っていた衣服は無残な姿で剥き出しになった肌も、目を背けたくなる有り様だ。
痛くて苦しくて堪らないはずなのに、何故か五和は笑っていて。
「なんでなの、お姉ちゃん……」
悲鳴に近い問いかけに五和はただ笑っていて。




