38「数金流琵の場合」
呼吸があがる。必死に呼吸を繰り返しても、ロクに酸素を吸えている気がしない。
酸欠状態で頭がくらくらする。全身に力が入らない。今すぐにでも倒れてしまいそうだ。
なんならベッドに飛び込みたい、と流琵は現実逃避するように考える。
そんな余裕があるならまだマシと考え、即座に否定する。
これのどこがマシなのだ。酸欠に追いやられているほど呼吸は乱れ、走り続けた足は悲鳴をあげている。
十年近く引きこもり生活を続けてきた流琵に走るなんて行為、五分だって持たない。走り始めてからすぐに息はあがり、足は悲鳴をあげる。
元々寝起きのまま無造作に結んだだけだった髪はさらに乱れている。
楽になりたい。今すぐにでも立ち止まって休みたいが、それは許されない。
一度でも立ち止まれば、待っているのは死だ。後ろから優雅に歩く足音が後ろから聞こえる。
流琵の足なら歩きでも追いつくと言わんばかりに、高いヒールが規則的に地面を叩く。
鼓膜を震わせる音に心臓を逸らせ、焦りのままに足を動かす。それがまずかった。
「っあ……」
限界を訴えていた足がからまり、無様に転ぶ。成人を迎えた人間がド派手に転んだことへの羞恥心よりも、恐怖心の方は流琵の心の中を支配する。
逃げなきゃ。早く逃げないと。でないと殺される。
不安な心は乱れた呼吸をさらに乱し、疲労が蓄積した足は焦りもあって上手く立ち上がらせてくれない。
そうしている間にも、焦らすような足音が近づいてきている。いやらしく、わざと聞かせるような足音が。
流琵は立ち上がることを諦め、這ってその場から逃げることを試みる。
「あら、それじゃtracksuitが擦れちゃうわよ」
「ひうっ」
「そんな声を出しちゃって。心外だわ。ただお礼をしたいだけよ。私のfamilyを可愛がってくれたお礼を」
それが言葉通りの意味ではないことくらい分かっている。
追いつかれてしまえば、流琵に為す術はない。
流琵が操れる機械は一度でも触れたことのあるもののみ。そのすべてを彼女の言う彼女を潰すために割いてしまったので、今使えるものは一つとして残っていない。
こんなことならドローンのいくつかは残しておくべきだった。
最初、吸血鬼の少女を襲撃したときはこんなことになるとは考えていた。
天才的な作戦だと失敗することなど欠片も考えていなかった。
今回、失敗したのは扱う機械が想定していたより使えなかったせいだ。流琵は何一つ悪くない。
全部、全部、無能な機械たちが悪いのだ。
「Don‘t be afraid。遊びたいだけよ」
言いながら、目の前の女性――ルシーは見せびらかすように鋭い爪をちらつかせる。
足音をわざとらしく聞かせたことも含めて、彼女はかなり性格が悪いらしい。
なんでいつもこうなのだろう。流琵は何一つ悪いことをしていないのに、悪いことばかり降りかかる。
なんて不幸なのだろう。流琵の人生はいつもそうだ。とばっちりばかりを受けた人生だった。
数金流琵は天才である。天才のはずだった。
運動は苦手だったが、勉強は得意だった。大して勉強していないのに、当たり前にテストで高得点を叩き出した。
幼い頃から自由にパソコンを使えたから、その辺りの知識も豊富で、学校では英雄扱いされていた。
神童なんて呼ばれて、憧れの的で、その先の未来も約束されている。そう思っていた。
流琵の英雄譚は小学生で終わり、それ以上は続かない。
中学校に上がった途端、勉強が一気に難しくなり、流琵よりも頭が良い人が一気に増えた。
変わらず、勉強しないことを貫いていた流琵の成績は見る間に落ちていった。
流琵は悪くない。教師の教え方が悪いせいだ。生徒一人一人が理解できるように教えるのが教師の仕事だというのに、職務怠慢だ。
運動も勉強もできない流琵は神童から一気に劣等性扱いだ。
ただ声が大きいだけでクラスカースト上位に君臨している奴らに虐げられる日々。教師もクラスメイトも見て見ぬふりするクズばかりだ。
そんな学校に行っても無駄だ。日々を有意義に過ごすなら家にいる方がずっといい。
勉強なんて家でもできる。下手くそな教え方で学ぶよりもずっといい。
学校に行かなくなった流琵に対し、両親は何も言わない。
元々放任主義に近い両親は苛立った視線を遣れば、何も言わなくなる。
気遣うような、物言いたげな視線を寄越すだけ。その視線にさらに苛つき、目付きも鋭くなる。
まるで被害者のような視線に苛立ちばかりが募る。被害者は流琵の方だというのに。
遺伝子が優秀だったら、蔑まれることもなかったはずだ。
両親の稼ぎがもっと良ければ、習い事でもして上位カーストの仲間入りができたというのに。
流琵が馬鹿にされるのも、笑われるのも、全部が全部親のせいだ。
流琵は親ガチャに失敗した。レアにすら届かない最底辺の親だ。
毎日無料の十連ガチャで出てくるような、その程度の親。
流琵は悪くない最下層に置かれ、周りから蔑まれるのはすべてクズな親のせい。
社会からドロップアウトして、引きこもり生活をする羽目になっているのも全部親のせい。
家から一歩も出ず、部屋からほとんど出ないままにインターネットの海を漂う日々。
暇潰しに掲示板を渡り歩いては、有名税なんて言っては芸能人を叩く。嘘を本当のように話し、顔の見えない誰かと好き放題笑い合う。
毎日毎日同じことの繰り返し、それすら飽きて、プログラミングの勉強を始めた。
持て余した時間を有効活用すれば、憧れた天才ハッカーくらいにはなれる、そう思って。
結局、これも途中で失敗した。神童の評価に甘えて生きてきた人間に、独学での勉強など長続きするわけがない。壁に当たったが最後、プログラミングの勉強をすることはやめた。
それさえも他人のせいにするのが流琵の生き方だ。
『だったら、貴方の力を証明してみせてよ。私が力を与えてあげるわ』
ユーザーネーム「しろ」。馴れ馴れしく話しかけてきたその人物は生意気にそう言った。
上から目線で流琵のことをからかっているのだと思った。誰だか分からないが、あまりにも腹が立ったので売り言葉を買うように言った。
『できるものならしてみれば?』
それが転機となった。その日から流琵は機械を操る力を得た。
難しいプログラムなど勉強しなくても自在に機械を操る、天才ハッカーも顔負けの力を。
これで名実ともに天才ハッカー。世界は流琵の思い通りになるなんて考えを裏切って、ゲームとやらが始まった。勝たないとこの力は失われるのだと。
それが嫌だったから、全力を注いで敵を潰すために動いただけなのに。
「なんで……こんなっ」
流琵は悪くない。悪くない。悪くないはずなのに。
機械を操る力を得て、誰にも馬鹿にされることのない最強の人生が訪れる。そんな期待はことごとく裏切られ、今死が目の前にある。
目頭が熱くなる。瞳が潤み、瞬きとともに雫が頬を伝う。次から次へと止まることなく。
涙は止まらない。開いた口から惨めったらしい嗚咽が溢れ出る。
流琵は天才だ。天才のはずだった。悪いのは全部周りのはずだ。
今回だってそうだ。使えない道具が悪くて、ハローワーカーを放置している詩折が悪くて、くだらないゲームなんて始めた水瀬真白が悪いはずなのだ。
「あらあら、泣いちゃって可哀想。でも、慰めてはあげないわ」
目の前に立つのは悪魔だ。白と黒で構成された女性は整った顔に整った笑みを浮かべる。
美しい女性。恵まれた人生を送ってきたことはその表情と佇まいを見れば、容易に理解できる。
震える。目が震える。唇が震える。手が震える。全身が、震える。
恐怖でもなく、悲哀でもなく、憎悪を含んだ憤怒が流琵を包む。
「どいつもこいつも、どいつもこいつも、どいつもこいつも!」
何故、みんな、揃いも揃って流琵が幸せになることを邪魔するのだろう。
奪って、虐げて、流琵が一体何をしたというのだろう。
内に宿る力に、全力で命令を与える。なんでもいい。このムカつく状況を、ムカつく相手を潰してくれと願って、感情のままに命令を下した。何か一つくらい流琵に応えてくれる機械がいるはずだ。
そして、応えてくれるものがいた。高速でルシーに迫るのは電動自転車だ。
逃げる際中、ぶつかった自転車だろう。突然の襲撃に驚くルシーの隙を突いて逃げ出す。
電動自転車では大した時間は稼げない。疲れきった足では遠くまで逃げられない。
近くに隠れるのが得策だ。誰にも見つからない場所だ。
しかし、酸欠状態で頭は回らず、隠れて場所など見つからない。焦りが余計に視野を狭くする。
と、不意に腕を掴まれた。抵抗する暇もなく、細い路地へ引き込まれている。
それで終わりではなく路地から路地へ。普通通らない道を通りながらも、その歩みに迷いはない。
それもそのはず、彼女の力を使えば、知らない道でも知っているように歩ける。
トレードマークでもある緑のエプロンを激しく揺らし歩くのは流琵の仲間、一応仲間だ。
同じハローワーカーのメンバー、本屋、丞院詩折。彼女は無言のまま、流琵の手を引いてぐんぐん進んでいく。疲労の上、さらに走らされる流琵に問う余裕はない。
「ここまでくれば大丈夫でしょう」
そう言って立ち止まった詩折が振り返る。
細身のフレーム、レンズの奥に潜む目がこちらを向く。
「……あり、ありがとう」
「いえ、私も貴方に話がありましたので」
ただのついでと言わんばかりの言葉に首を傾げる。詩折の言う話に心当たりはない。
いや、ある。流琵をしたことを考えれば、文句の一つや二つあっても仕方がない。
詩折はハローワーカーの参謀を担っている。流琵が勝手に動いたことで、彼女の計画になんらかの支障をきたしたのかもしれない。
「わ、悪かったよ。勝手に動いたりして……。っで、でも、あんたが指示も出さずに放置してたのも悪いんだからなっ!」
「そこは気にしていません。私が責める理由もありません」
早口で捲し立てる流琵とは対照的に、詩折は機械的に言葉を返す。
流琵としては拍子抜けだ。この心当たりが違うのであれば、詩折の用事が分からないに逆戻り。
怒られたり、責められたりするわけではないのなら、別になんでもいいが。
「数金さん、貴方はこの世界を否定しますか?」
「はあ? 急に何言って」
「答えてください」
反論する隙もなく言われて、息を詰める。
問いかけが意味不明すぎる。予想外どころの話ではない。そもそもこんな厨二病のような台詞が詩折の口から出てくるなんて誰が想像できただろう。
「……ひ、ていするよ。肯定できる要素が少ないじゃん」
「そうですか」
返答の後に落ちるのは沈黙。詩折は考え込むように黙り込んでいる。
その手はしきりに黒猫のぬいぐるみを撫でている。真面目一辺倒に見える詩折という人間の中で、エプロンのポケットに収められた黒猫のぬいぐるみは少し異質だ。
大切にしていることは普段の仕草から感じられて、下手に突っ込めない空気を醸し出している。
その空気のせいで流琵は気になっていても聞けずにいた。
「数金さん。力と記憶、どちらを望みますか?」
「ねえ、そろそろ説明……」
「答えてください」
数秒前とまったく同じ流れで言葉を封じられる。
説明もないまま、どう答えればいいというのだ。
力と記憶なんて選択肢として少し歪だ。力が選択肢にあるなら、もう一方は頭脳とか、容姿とか、お金とかが並ぶべきだ。それが記憶などと最初から選択肢が一つしかないと言っているようなものだ。
記憶などあってもいいことはない。むしろ、すべて忘れてしまいたいと思うくらいだ。
「……力」
「分かりました」
「いい加減、話してくれても――っ」
驚くべき光景を目の前にまたもや言葉を奪われ、息を呑む。大きく見開いた流琵の目には独りでに動く黒猫のぬいぐるみが映し出されている。
詩折の掌の上に立つ黒猫のぬいぐるみはその手を流琵に向けている。
ぬいぐるみが独りでに動くなんて有り得ない。きっと何か仕掛けがあるのだろう。
今の時代、機械が内蔵されているぬいぐるみもそう珍しくない。突然で少し驚いてしまったが――
「却下」
「っは――――」
機械的とは程遠い声が鼓膜を震わせたときには流琵の意識は途絶えた。
目の前にいたはずの流琵の姿が忽然と消えている。
跡形もなく、ここに誰かがいたなんて言っても誰も信じないであろうほど、綺麗さっぱり。
この状況を生み出した張本人である黒猫のぬいぐるみを、詩折は丁重な扱いでポケットに戻した。
「上手くいったよーだね」
ぬいぐるみから発せられるのは若い男の声だ。
少年と評して差し支えのない程度に高めの声が感情を読ませない口調で紡ぐ。
多くを語らない声が示すものを過不足なく受け取る詩折は無言で、流琵がいたはずの場所を見つめる。
「確認のため、俺は少し席を外すよ。数分で戻ってこられると思うけど、任せても問題ない?」
「はい、問題ありません」
応えれば、蒼かったはずのぬいぐるみの目が元の黄色に戻っている。
彼がいなくなった証明だ。ぬいぐるみを一撫でした詩折は協力者の要請に応えるべく歩き出す。




