35「千逆実赤の場合」
「英雄になるのは案外簡単なことかもしれないわよ」
その少女はどこか遠くを見つめるようにそう言った。視線の先にあるのはきっと、少女にとっての英雄なのだろうと漠然と思った。
遠く遠く先を見る黒瞳は眩しいものを見ているようで、どこか切なげだった。
複雑さを宿す少女の表情よりも、少女の言葉の方に実赤の意識は向けられた。
「自分のまま……ぶれない意思を抱きしめて、誰かを救うこと。そんな単純なことなのよね。特別なものは何もなくて……でも、そんな単純なことが当たり前にできる人が英雄になれるのよ」
「ぶれない、自分のまま」
果たして実赤に自分と言えるものがあるのだろうか。憧れを語る少女の言葉に耳を傾けながらそんなことを考える。
逆らう勇気がないことを正当化し、流されることこそもっとも賢い選択だと嘯いて生きてきた実赤に自分などあるはずがない。
楽な道でいいと思って、その癖、誰かのために無駄なことができる英雄に憧れた。
焦がれる心も自分だと言えるのなら、と実赤は英雄になりたい自分を選んだ。
賢い生き方を選ぶ人はたくさんいる。選ぶ者の少ない個性になることにした。
それは自己を消す生き方をしてきた今までの自分との決別でもあった。
実赤は英雄になりたかった。埋まらない個でありたかった。誰でもなく、実赤になりたかった。
みんなと同じでいいのなら、実赤が実赤としてこの世に生まれ落ちた意味などないのだから。
「吸血鬼、か。これがいいかな……私は今日から吸血鬼、いや――」
埋まらない個として、実赤は架空のものを演じることにした。
吸血鬼を選んだのは分かりやすかったから。有名で、いろんな作品に登場するものだから、実赤の中でも確固たる存在としてイメージしやすかった。
「妾は吸血鬼、千逆実赤である」
突然変わった実赤に両親も、クラスメイトも、教師も驚いているようだった。
戸惑いを向けられるたび、些細なことのように振る舞った。そうしていれば、本当にどうでもいいことのように思えてきた。奇異の視線も、馬鹿にする人々のことも。
実赤は魂から最強の吸血鬼になりきっていた。
服も吸血鬼っぽいものを好んで選び、髪形を変え、イメージする吸血鬼に近付いていく。
「Very cute……! それはvampireかしら?」
その出会いが偶然のものか、必然のものか、実赤には分からない。けれども、運命だったのだと思う。
白と黒で構成された美しい女性。テレビの中から出てきたかのような美貌の持ち主は、自らの美しさになど欠片も興味ないと言わんばかりに実赤を見つめている。
彼女が持つ飴と同じ色の瞳が真っ直ぐに向けられる。形の整った唇に笑みが乗っているのを見て、実赤もまた笑みを浮かべた。
「そなた、なかなか見る目があるようじゃな。気に入った。妾に近付く権利をくれてやろう」
「うれしいわ。私は佐汰ルシー。ルシーちゃんって呼んでちょうだい。Cuteな吸血鬼ちゃん」
尊大な実赤の物言いに不快感を示す者も多い。冷ややかな視線を注がれることも珍しくなく、それらとは対照的にルシー相好を崩した。
演技でもなく、心からの笑みが美貌を彩った。それが実赤の心を擽った。
「我が名は実赤……千逆実赤である。好きに呼ぶがよい」
吸血鬼を騙る実赤を受け入れてくれたのはルシーが初めてだった。
孤立すると分かってこの道を選び、孤独を受け入れて歩んできた。
独りを望んだわけではないけれど、理解を求めていたわけでもない。これでいいと思っていた心さえも、ルシーは受け入れてくれた。それが嬉しかったことは今も覚えている。
〈不明〉のメンバーになった日のことは、正直覚えていない。
ルシーと出会い、その日に連絡先を交換した。少しずつ会う回数が増えていって、いつの間にかルシーの家に通うようになった。衣兎と知り合ったのは、ルシーの家を何回目に訪れたときだったか。
気付いた頃には〈不明〉のメンバーとなり、気付いた頃には〈不明〉は実赤の居場所となった。
そうなることが運命づけられていたと言わんばかりに自然とそうなっていた。
「運命……天命、宿命、さだめ、ディスティニー。人の力を超えしもの。甘美な響きじゃ。それを招いたルシーはまさしく天使と言えよう」
堕天使を名乗るルシーが、実赤を運命に導いた。
もしかすると実赤はルシーに救われたのかもしれない。だって実赤は今、幸せなのだ。
流されて生きていたときよりも、独りで憧れを目指していたときよりも、〈不明〉の一員として理想を追う今の方が幸福だと。
迷いなく、逡巡の余地なく、そう答えられる。
かつて少女は言った。英雄になるのは難しいことではない、と。
きっと、ルシーは実赤の英雄なのだろう。実赤はルシーに救われたのだから。
ならば、今度は実赤が誰かの居場所になる番だ。
そして、その機会は思っていたよりも早く訪れた。
「ゆ、誘木千巫です」
聞こえるか、聞こえないかくらいの声で自己紹介をする少女。
薄水色の髪を三つ編みにした希薄な印象の少女だ。声も小さく、存在感も薄い。
中学校に進学し、変わらず吸血鬼を名乗る実赤と同様に彼女はクラスの中で孤立していた。
だから、声をかけたなんてことはない。孤立を望む者もいるし、いじめを受けているわけでもないのなら、実赤が出しゃばる必要もない。
悪目立ちしている実赤が下手に声をかければ、さらに孤立してしまうかもしれない。
孤立していると言っても、千巫に話しかける人が一人もいないわけでもない。特定のグループに所属していないという意味での孤立だった。
そんな千巫と親しくなったのは、通学路で彼女が話しかけてきたのがきっかけ。
声が届く。そんな些細なことに彼女はまるで救われたような顔をした。
あの日、あの瞬間、実赤はなりたかった英雄になれた気がした。その感覚に心が震えた。
元々相性がよかったようで、気付けば、千巫と親友と呼べるまでの仲になっていた。
『いいの? 人の人生を背負うのって大変なことよ?』
「ならば、ルシーは〈不明〉のリーダーから下りるか?」
千巫を〈不明〉の拠点、ルシーの家に連れてきた日の夜、ルシーからそんな連絡が入った。
ルシーは聡い。一瞥で、実赤と千巫の関係を見抜いたようだ。
心配そうな問いかけへ、先人として忠告する言葉へ、意地の悪い言葉を返した。
『No。私は〈不明〉のリーダーであることを誇りに思っているもの。貴方たちの人生を抱きしめて生きていくわ』
気分を害することなく、誠実さを持ってルシーは答えた。
背負うのではなく、抱き締める。その言い回しがルシーらしくて心地よい。
「妾も同じじゃ。我が眷属の生を抱き締める覚悟はできておる。他者を背負って生きてこそ、ちょうどいいというものよ」
強がりとは違う言葉にルシーは息を吐き、「貴方の意思を尊重するわ」と締めくくった。
頼もしいリーダーの存在を背中に感じながら、実赤は今日まで生きていた。
恐れるもののない、最強の吸血鬼として。
目を覚ましたのは真っ白な部屋の中だった。
白い壁、白い天井、白い床に囲まれた一室。実赤が寝かされているベッドもまた白で統一されている。
清潔感をまとう部屋に容易く病院の文字が脳裏に浮かんだ。
塾の帰り道に、ピンク髪の少女に襲われた。その後、駆けつけたルシーが実赤を病院に運んでくれたのだろう。視線を少し動かせば、座る人物の姿が見える。
もこもこのパーカーを羽織った眠たげな少女だ。その雰囲気を、病院の背景が少女の格好を寝巻のように思わせる。
癖毛をサイドテールに結い上げた少女は、読んでいた参考書を閉じて実赤に目を向けた。
微かな動きすら察してしまうところは流石だ。聡いルシーすらも超える察しの良さを持つのが、この衣兎という少女であった。
「実赤、起きたようだね。おはよう。朝ではないが」
眠たげな印象通りにゆっくりとした語調が柔らかく耳を擽った。
まとう空気も、その声音も不思議な安心感がある。寄り添う優しさを含んだ温かさに包まれた気分だ。
「うむ。目覚めて最初に見るのが衣兎とは……悪くない気分じゃ。そなたを独り占めできた気分じゃの」
「嬉しい言葉だが、千巫に嫉妬されてしまいそうで怖いね」
「くくっ、ああ見えて嫉妬深く、思い込みが激しいからの。そのときは妾が守ってやろう」
「ああ。よろしく頼むよ」
他愛のない言葉を交わしていた二人はふと口を噤んだ。
和やかだった空気がしんと落ちる。表情を変えたわけではなく、ただ周囲の空気だけが一変する。
互いが穏やかな表情を顔に乗せ、瞳を真摯に交わす。
「千巫はさぞや思いつめておるのだろうな。仇討ちのため、耳も貸さず動いているんじゃろう?」
そっと視線を移せば、いつも身に着けているヘアアクセサリーがまとめて置いてあるのが見える。
蝙蝠の翼を模した髪飾りに、星のヘアピン。千巫とお揃いで買ったヘアピンだ。
二人の絆の証である星のヘアピンを見つめ、瞑目し、開く。
「衣兎」
「ああ、構わないよ。好きなだけ吸うがいい」
短い言葉ですべてを察し、男前に自らを差し出す姿に惚れ惚れしながら。
走る痛みを無視して起き上がり、鋭い牙を剥き出して笑う。
パーカーを脱ぎ、現れた制服の襟元を寄せて靄になった首筋に牙を突き立てる。
ぷつりと音を立てて実赤の牙が衣兎の中に侵入する。溢れる血の味を舌先で味わい、喉に落とす。赤い液体を嚥下するたび、力を増していくのを感じる。
少し動くたびに痛みを発していた傷が瞬く間に治癒されていく。
不死とすら言われている吸血鬼の治癒力を発揮し、一瞬のうちに完治させた。
怪物の身体能力さえも手に入れた実赤は口元の血を舐め取る。
「衣兎、そなた……」
「気付かれてしまうか。だが、心配は無用だよ。今は他に専念すべきことがあるはずだ」
血を飲むことで伝わってきた衣兎の身体の状態。涼しい顔ですべてを隠す衣兎の姿にでかかった言葉を呑み込んだ。
「任せるよ」
「……うむ、期待して待っているがよい」
「ああ、拠点で待っているよ」
病院着からいつものワンピースへ着替え、髪を結いあげる。最後に星のヘアピンをつけ、吸血鬼、千逆実赤、完全復活である。
待つ者がいる頼もしさを背中に感じながら、実赤は病室を後にした。
窓から飛び降りる形で。窓枠を蹴り、飛翔に近い形で滑空する。
吸血鬼の身体能力を持ってすれば、一蹴りで数十メートル跳ぶことが可能だ。
〈不明〉のメンバーには、マーキングがしてある。それを頼りに千巫のもとへ向かう。
血と同じ色、視力強化された目で周囲を見渡す。影の薄い千巫ではあるが、どんなに離れた場所からでも見つけ出す自信が実赤にはあった。
そして、その自信を肯定するように、高く跳躍した宙からその姿を見つけた。が、千巫のもとには下りない。
別に実赤の目を引くものがあったから。くたびれたジャージをまとった女性と、見覚えのあるMaveRickの少女が一緒に話しているのが見えた。
千巫が戦闘を行っている場所から少し離れた位置だ。
一度現場が見渡せる場所に着地し、状況を確認する。
MaveRickの人間と共闘しながら千巫が戦っているのは、実赤を襲ったアンドロイドだ。
単身乗り込んでいると思っていたので、共闘をする相手がいたのは少し安心した。
そして、少し離れた位置で話している女性と少女。どちらに舞い降りるか逡巡し、すぐに地面を蹴った。
赤いワンピースをふんわりと膨らませるように着地する。
厚底の靴で地面を叩き、何やら言い合っている二人の方へ歩み寄る。
先に音に気付いたMaveRickの少女がこちらに気付く。遅れたジャージの女性の目もこちらを向き、二対の瞳を前に笑った。
英雄とはどんなときでも笑っている。だから、実赤は笑うことを己に課している。
鋭い牙を見せつけるように笑い、それぞれ違う敵組織に属する二人と向かい合う。
「妾ならば、不足ないか?」
どちらも驚きを顔に映し出しているが、その度合いが微妙に違う。
純粋に実赤が現れたことに驚くMaveRickの少女。対してジャージを纏う女性は実赤が万全の状態でいることに驚いているようだった。
その違いを容易く見抜き、自分の判断の正しさを自覚し笑う。
女性は実赤がここに来るはずがないことを知っていた。つまり、実赤が怪我で動けないことを知っていたということであり、それは襲撃者との関係を匂わせる。
そして、傍で繰り広げられている戦闘をそっちのけで言い合っていた二人。
導き出される答えは一つ。この一連の事件の下手人はこのジャージの女性なのだと。
自分の仇にもなり得る女性を前に、実赤は血色に輝く瞳を綻ばせた。




