31「譲れない愛」
地を照らし、光を注いでいた太陽が隠れて、世界は闇に呑まれた。
欠けた月と、微かな星の光のみが下界を照らし出す。否、等間隔に並ぶ街灯が闇に堕ちた世界をぼんやりと照らし出している。
闇を救い出すには不充分な灯りに照らし出された道を歩く少女が一人。
地雷系と呼ばれるような薄赤のワンピースをまとった少女。
緩く巻いた薄ピンクの髪を高い位置で二つに括り、毛先で肩を擽らせながら、夜道を進んでいく。
先の見えない暗闇を恐怖するどころか、口元には笑みが浮かんでいる。
弧を描き、薄く開いた唇から四本の鋭い牙が覗いている。特徴的な見た目の中で、一際目を引くのがこの牙だ。
八重歯というには鋭すぎる牙は闇の中でも強い存在感を持っている。
「くくっ、不規則な明滅。悪魔の呼びかけか? 妾に甘美な雫はもう必要ない。疾く失せるがよい」
不規則な明滅を繰り返す街灯の前で少女は立ち止まった。瞬く街灯を黄色の目がじっと見つめる。
この場に少女以外の人影はいない。しかし、彼女は確かに他者に向けて言葉を放った。
真っ直ぐに街灯を射抜く目も、その先に誰かを見ているようであった。
「失せぬ、と言うか。まあよい、それもそなたの選択じゃ」
細めた目で小さく息を吐く。視線はやはり明滅する街灯に注がれたまま。
少女の名は、千逆実赤。俗に言う厨二病である。
その視線の先に悪魔など存在しておらず、切れかけの電灯があるだけだ。
実赤は想像上の存在に話しかけ、牙を覗かせて不敵に笑う。
日が落ち、周りに人はいない。が、人がいたとしても、実赤の態度は変わらないだろう。
誰がいても、どこにいても、己を貫く。それは実赤が己に課していることだ。
「ふっ……夜闇に乗じて妾を襲うか。悪くない趣向である」
歩みを再開させた実赤はすぐにまた立ち止まって、言葉を投げかけた。
先程と同じに見える行動でも決定的に違うものがある。投げかけられた言葉は想像上の相手ではなく、場に存在する敵へぶつけられたことだ。けれど、応えが返ってこないのは同じ。
返事の代わりに鋭い蹴りが視界を突き刺す。回転が加えられた蹴りを実赤は一呼吸とともに避け、相手の顔を確認する。
長く、膝の辺りまで長く伸ばされた髪は実赤と同じピンク色。こちらの方が濃く鮮やかなピンクだ。
引き締まった身体を包む服は近未来的な印象を抱かせる。SFの世界から出てきたような容姿だ。
物語の中から出てきたよう、という点でみれば、非常に実赤の琴線に触れる。
「知らぬ顔じゃ。MaveRickあるいはハローワーカーからの刺客か?」
問いに返ってくる言葉はない。実在している相手へ向けられたはずの声はただ空気に溶ける。
吐息を零す口元を飾るのは変わらずの笑み。その口角は下がることを知らない。
「答えぬのであれば、それでもよい。敵対するのであれば、素っ首叩き落とすまで」
実赤の纏う空気が変わったのと同時にピンク髪の女性が地面を蹴った。
先程と同じ蹴り、いや、振りかぶった拳に気付き、身を屈める。
回避行動を取る実赤を前に握られていた拳が開かれる。開かれた手が変形、銃口を備えた五指が実赤へ向けられる。一斉に放たれる弾丸を驚きとともに反射で避ける。
大量に降り注ぐ弾丸のすべてを避けきることはできない。
お気に入りのワンピースを浅く裂き、穿たれた弾が鮮血を散らす。
走る痛みすらも上がった口角で殺し、厚底で地面を強く蹴った。逃げるではなく、止まらぬ弾雨を迎え入れるように前へ。
女性の手前でさらに強く踏み抜き、低い位置で蹴りをお見舞いする。
足払いに近い蹴りは女性の態勢を崩し、五指の銃口を上へ逸らした。銃弾の雨は女性の瞳とともに空へ向けられる。
そのまま女性を押し倒した実赤は馬乗りになり、その首筋に牙を突き立てた。
月光を受けて美しく輝く牙。厨二病である実赤はしかし本物を手に入れた。
吸血鬼を自称する少女が得た吸血鬼としての能力。
その牙は女性の柔肌を容易く裂き、血を啜る。それこそ実赤の力の源だ。
しかし、細い首に突き立てられた牙が目的を果たすことはなかった。牙はその肌を貫けず、固い感触に驚いた実赤はすぐに後方へ大きく跳んだ。肉の感触ではなかった。
「そなた、人間ではないな?」
問いに応えはない。起き上がった女性は、改めて見れば、人工的な光をまとった瞳を実赤へ向け、戦闘の構えを取る。
機械的な印象どころか、彼女は機械そのものだったのだ。
そういえば、ルシーから聞いたことがある。MaveRickのメンバーには機械がいると。
「答えずともよい。誰であろうと構わぬ。夜闇で妾に牙を剥いたこと、後悔させてくれる」
生身の人間ではない、機械相手にどこまでやれるか分からない。
吸血による身体強化と治癒能力向上が実赤の持つ力のすべてだ。真なる吸血鬼となり、身体能力自体は通常より上がっているが、目の前の相手に通じるとは思えない。
相手は機械、そしておそらく戦闘用のアンドロイドだ。今の実赤では荷が勝ちすぎる。
女性の動きを警戒しつつ、学生鞄に手を入れ、スマートフォンを操作する。少ない操作の中でルシーへ電話をかける。非常時にもっとも信用できる〈不明〉のリーダーへ。
もしここで実赤が負けたとしても、ルシーならすべてを察して動いてくれるだろう。
敗色濃厚の状況でも、実赤は余裕の笑みで立ち向かう。
吸血鬼を理想と掲げる自分に不安な表情は似合わない。実赤は誇りを優先して生きる者だ。
負けに笑って対峙することこそ、実赤の誇りだ。
「勝てずとも、負ける気もないのでな。覚悟せよ」
弾雨が注がれるのと同じタイミングで跳躍する。そのまま飛び蹴りをかました。
固い。ダメージは大して入っていないだろう。が、再び相手のバランスを崩すことに成功した。
「妾の攻撃が通らぬのであれば……せいっ」
薬莢を撒き散らす手を掴んで、背負い投げの要領で投げ飛ばす。
固いアスファルトに固い金属の体が人外の力で叩きつけられれば、見た目以上のダメージが入るはずだ。実赤の予想を裏切らない派手な音が響き渡る。
表情を変えず、しかしふらつきながら立ち上がる女性の足元へ、地面に散らばった大量の薬莢を蹴り転がす。おぼつかい足元が、円形の筒にとられてさらにふらついた。
好機と見て、さらに攻めを重ねる。アスファルトを強く踏み込んで一歩前へ。
黄色の目が捉えた弱点。ふらつく女性の腕を再び掴む。
「傷を抉るなど、妾の趣味ではないが、この状況では致し方ない」
吸血鬼となったことで底上げされた力で掴んだ腕を握る。力加減なし、それでも万全な状態であれば破壊できないはずの腕――手首がみしりと音を立てて潰れた。
元々何かで破壊されていたようだ。それを応急処置的に繋げていた。
戦闘の中でそのことに気付き、今使える力すべてを注ぐ気持ちで手を伸ばした。片腕を文字通り潰せたなら、少しだけ勝ち目も見えてくるはずだ。
一人で戦い、勝って、仲間たちに自慢する。そんな未来も有り得るかもしれない。いや、そうするのだ。
意識を切り替えるために吐き出した息に、血が混じった。
遅れて走る痛みに下を向けば、白く輝く剣が実赤の身体から引き抜かれた。
赤い血に染まった刀身は女性の中へ収納されていく。それを横目に実赤は頽れた。
落とした学生鞄の中身が地面に散らばる。通話状態のまま開かれたスマートフォンから微かにルシーの声が聞こえる。
絶え絶えな笑声を零し、実赤は笑みを浮かべる。
「る、しーよ。後は任せたぞ」
頼もしいリーダーなら、賢く強い彼女なら、短い言葉のすべてを悟って動いてくれるだろう。
すぐに駆け付けて、すぐに敵を倒してくれる。
霞む視界の中で五つの銃口が向けられているのが見える。やはり実赤は笑う。
流れ落ちた赤は招く闇に意識を呑まれながら、口角は上げたまま。
消さない笑みが実赤の誇り。笑っていれば、望む未来の方からやってくる。
一つ、心に引っ掛かることがあるとすれば、きっと泣くであろう眷属のこと――。
●●●
アラームとは違う音に揺り動かされた脳が、半ば強制的に覚醒させられる。
身じろぎをし、夢現の状態で音の出所を探す。枕元に置いていたスマートフォンを手繰り寄せて、画面を見る。乱れた前髪の隙間から見た画面に目を瞬かせた。
「ルシーちゃん……?」
映し出されているのは、千巫が所属する組織のリーダーの名前だ。
思えば、聞こえた音は着信音だ。それも〈不明〉のメンバー用に変えた音。
「もっ、もしもし……ルシー、ちゃん。こんな時間に、ど、どうしたの?」
電話が苦手だ。親しい人が相手でも緊張してしまう。
ただえさえ、小さくて聞き取りづらいと言われる声を、気持ち張り上げて問いかけた。
『千巫ちゃん、落ち着いて聞いてちょうだい』
その一言だけで、良くないことが起こっていると悟ってしまった。
胸が締め付けられ、背筋に冷たいものが駆け抜ける。
『実赤ちゃんは襲撃されたわ。今は――』
「っだ、大丈夫なの?」
『……今は病室で眠っているわ。一命は取り留めたけれど、いつ目覚めるかまでは分からないそうよ』
心臓が早鐘を打っている。努めて冷静にルシーの声に耳を傾けているけど、心は落ち着かない。
呼吸の仕方が急に分からなくなって、目頭がじんわり熱くなる。
言葉を選んでくれているルシーの説明を聞きながら、千巫の心は嫌な予感に囚われていた。
嫌だ。嫌だ。実赤がこのまま一生目覚めないなんてそんなことになったら、絶対に嫌だ。
思考が散り散りに乱れて、言うべき言葉も上手く纏まらない。浅い呼吸ばかりが口から零れる。
『今からでも面会できるように話はしてあるから――』
「行く。実赤ちゃんに会いたいっ」
『分かったわ。すぐに花芳ちゃんを寄越すわ』
電話を切って、まずしたのは呼吸を落ち着けること。深い呼吸を繰り返して、目端の涙を指先で拭う。
花芳が来るまでそこまで時間はかからないはずだ。それまでに身支度は終わらせてしまわなければ。
パジャマから白いワンピースに着替える。寝癖を直した薄水色の髪をいつものように編んで、青いリボンを結んだのと同じタイミングで光が瞬いた。
強い光が視界を焼き、その間隙で千巫の部屋に一人の少女が降り立った。
セーラー服に似たワンピースをまとった緑髪の少女、眞伊花芳だ。
「千巫ちゃん、おはよう。その、大丈夫……?」
心配そうに向けられる瞳に小さい頷きで答える。
まだ鼓動は早く、胸が引き絞られる思いがしている。それでも冷静に努めて、目端に溜まってしまいそうな涙を必死に堪える。
「じゃあ、手を」
深く聞かない気遣いで差し出された手を取った。優しい視線を笑んだ。
その瞬間、千巫の視界が緑に呑まれる。視界が晴れたとき、そこにあるのは白に包まれた部屋だ。
白い壁、白い床、白いベッド。そこに立つ白黒の女性。
白と黒で構成された髪を四分割に結い、白いセーターワンピースを着た女性、ルシーだ。
「ルシーちゃん……」
「待ってたわ、ほら」
電話主であるルシーに示され、駆け寄るように白いベッドの傍らに立った。
眠るのは少女。いつも高い位置で二つに括られている薄ピンクの髪は下ろされ、いつも強い光を湛えている瞳は力なく閉じられている。
微かではあるが、胸が上下しているのが見て取れて、ほっと息を吐き出した。
「実赤ちゃん……よかった」
電話越しに状態は聞いていたけど、生きていることを目で見て確かめてようやく安堵する。
まだ完全に大丈夫と言えない状況でも、生きている事実が嬉しくて涙が零れる。
不安で堪らなかった心が雫となって、ベッドを濡らした。
小さく声を零し、涙を流す千巫の肩をルシーが柔らかく触れる。
「塾の帰りに襲われたみたいね」
「だれ、が……?」
「分からないわ。私が駆けつけたときにはもういなくなっていた」
感情を灯さない声で告げるルシーの手がぽんと千巫の肩を叩いた。
何気なく顔を向ければ、澄んだ宝石のような綺麗な瞳がじっとこちらを見つめている。思わず、息を詰めた。
「私の方で調べてみるわ。くれぐれも……くれぐれも、一人で無茶だけはしないで」
心の奥底を覗かれた気分になった。考えていたことを読み取られたような。
真摯な瞳が思っていることは分かる。千巫も同じ立場なら同じことを考えていただろうから。
分かるけど、譲れないものが千巫にはあった。頷かないこと、嘘を吐かないことが千巫にできる誠意込めた応えだった。
見返す千巫の目を見て、ルシーは小さく息を吐き出した。それ以上何も言ってこないのは、ルシーの気遣いだろう。
お互いに他に言葉を交わさないことを選んだ。ただ、千巫は胸の中で「ごめんなさい」と呟いた。
実赤は、千巫にとって世界のすべてだから。これだけは絶対に譲れないのだ。




