29「丞院詩折の場合」
詩折は人並外れた知識欲を持っている。その事実にはかなり早い段階から気付いていた。
幼い頃から気になることがあれば、聞かずにはおられない性質だった。
気になることを聞けば、さらに気になることが増える。ありとあらゆること、目についたものをなんでも尋ねる詩折に両親はさぞかし面倒に思ったことだろう。
両親はできた大人で、一度も質問を無下にされたことはなかった。
それどころか両親が答えられないことはともに本やインターネットで調べてくれた。
詩折の知識欲を長所と褒め称える両親に育てられたそれは留まることを知らない。
図書館の本を読み漁り、インターネットの海に溺れる。ありとあらゆる知識を欲望のままに詰め込み、それでも足りない。まだ足りない。
この世界にはまだだ、詩折の知らないことが溢れている。
詩折はこの世界のすべてを知りたかった。この世のすべてを識りたい。
抑えきれない、抑える方法を知らない欲求を抱えて、その日もインターネットの海を漂っていた。
「これは一体……『Life of Game』? チャットルームのようですが……」
突然開かれたサイト。怪しいサイトかと警戒する詩折の前に『Life of Game』という文字が映し出される。直訳すると『人生ゲーム』の名を持つチャットルームが開かれた。
名前を訪ねられ、『無名』と入力する。怪しさが消えない以上、下手に情報を与えるのは憚られた。
しかし、怪しさ漂うサイトへの興味が勝ち、警戒する反面、無視することもできなかった。
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――無名さんが入室しました。
知帝「いらっしゃい。貴方のような人を待っていました」
知帝「俺の名前は知帝。万物を知る出来損ないの神です」
無名「神などと…これは一体何の冗談ですか?」
知帝「真実だと言っても信じられはしないでしょーから、証明しましょう」
瞬間、パソコンの画面から蒼い光が走った。思わず、キーボードから手を離し、瞬きをした間隙で詩折は見知らぬ場所に立っていた。
そこは海に似ていた。白い地面に立つ詩折の足元を、蒼い水が寄せて返っていく。
視線の先にある水平線も海を彷彿させる。しかし、この足が踏むのは砂浜ではなく、白く固い床だ。
「ここは……」
「改めまして、こんにちは。俺が知帝です」
人工的に作られた海。そんな印象を抱かさせる場に詩折以外にももう一人。
小柄な少年だ。年は小学生くらい、細身の身体はサイズの合わない衣服のせいでより華奢に見える。
見た目だけなら、とても神には見えない。見た目だけなら、だ。
その佇まいは見た目とは対照的な老成とした空気をまとっている。幼い外見ながらも、何百年何千年と生きている老人だと言われても、頷いてしまいそうな雰囲気だ。
何より、こちらを見つめるあの蒼い目。水と同じ神秘の蒼は人非ざる空気を伝える。
その上、こんな場所に連れてこられて否定するほど、詩折は愚かではない。
「ここは一体、どこなんですか?」
「知識の海がもっとも適当な答えですかね。この世のありとあらゆる知識が集う場所、と思ってもらえたらよろしーかと。この姿も概念的なものではありますが」
言いながら、少年、知帝は波打つ蒼い水に手をかざす。
水は応えるように盛り上がり、渦を巻き、その手の中で一つにまとまった。知帝が手にするのは蒼い燐光を放つ一冊の本だ。
「この形の方が分かりやすいですかね」
白く細い手に収まる蒼い本の美しさは筆舌しがたいもので、詩折はただ魅入られた。
理由は分からない。本能が呼びかけるままに詩折はそっと手を伸ばし――。
「あげますよ。これを手にすれば、貴方の望む知識が得られるでしょー。その代わり、俺の協力者になっていただきたい」
「なにを、すればいいんですか……?」
「ある少女が作り出した世界を終わらせる手伝いをしてください」
逡巡の余地もなく、詩折は差し出された手、そこに乗せられた蒼い本に触れた。
その瞬間から、詩折は蒼き瞳の神――知帝の眷属となったのだ。
運ばれてきたばかりのコーヒーに口をつける。
味は悪くはない、と広がる味わいに評をつけ、時計を確認する。
待ち合わせの時間まで十分を切ったところだ。何気なく窓の外を見れば、短髪の女性と目が合った。
すぐに相好を崩した相手に、無表情の会釈を返す。
間もなく、女性はカフェの中へ足を踏み入れて詩折の傍に立った。二度目に会ったときから変わらない気安い態度で片手をあげる。
「待たせたかな?」
「いえ、私も少し前に来たばかりですので」
端的に返せば、彼女は妙ににやついた表情で席に着いた。何かおかしなことを言っただろうか。
自分の発言を振り返ってみても、該当するものは見当たらない。
「彼女と同じものを」
そう店員に注文したのち、女性――南雲璃尤は詩折へ向き直った。
黒瞳が詩折を見て、すぐにテーブルの上に行儀よく座る黒猫のぬいぐるみへ向けられる。
「こんな場所でよかったのかい? 自分はあの廃工場でもよかったんだが」
「この世界で魂のある存在は希少ですから、聞かれたところで困ることはありません。一番聞かれたくない人にはどこで話しても筒抜けですから」
問いかけに答えるのは詩折ではなく、テーブルに鎮座する黒猫のぬいぐるみだ。
詩折も、璃尤もぬいぐるみが喋り出した事実に驚くことはない。当然、とそれを受け入れる。
「本当なら界の狭間へ招くのが一番ですが、こちらに戻ってこられる保証はありませんから」
界の狭間、それは黒猫のぬいぐるみ――知帝の本体がいる場所だ。世界と世界の狭間、どこでもない場所のため、誰かに盗み聞かれる危険もなくなる。
「聞かれたくない人というのは、水瀬真白のことで合っているかな?」
コーヒーを持ってきた店員を見届け、璃尤はそう問いかけた。返ってくるのは無言の肯定。
瞬間、璃尤の、知帝の雰囲気が変わる。場の空気が張り詰め、緊張感をまとう。
「やはり、この世界は水瀬真白によって作られたものということか」
「この世界は彼女の万物を変える力によって作られた場所。より厳密に言えば、真白さんの力によって変質させられた世界です」
「変質か。無から有を生み出したのではなく、有を変えた。ここは元々存在していた世界なのかい?」
璃尤は頭の回転が速いタイプのようだ。どこか回りくどくもある知帝の言葉を即座に噛み砕き、必要な問いかけを音にした。
詩折は二人の邪魔にならないように黙して話を聞くに徹する。
「ここは夢世界……真白さんが見ている夢の世界です。それを作り変え、他者を招いて閉じ込めている、というのが今の状況です」
「夢の中か…今いる自分は精神体だという認識でいいのかな?」
「はい。閉じ込められた方々はみな、現実世界では昏睡状態となっています。長引けば長引くほど、命の危険が出てくるでしょーね」
その危険は璃尤にも、もちろん詩折にも降りかかる類のものだ。
詩折の場合、この世界に来たのがここ最近で、昏睡状態によって起こる不利益をカバーできるようなサポートを知帝にしてもらっている。閉じ込められた他の人々よりもタイムリミットには余裕がある。
「自分たちは少なくとも二年近くこの世界にいる。あくまで体感の話ではあるが」
「現実世界でも二年経っているということはないので、ご安心を。こちらの時間の流れは、現実世界よりも早く設定されています。真白さんの配慮、なのかもしれませんね」
「といっても、今後、人死にが出ないとも限らない状況ではあるだろう?」
「ええ、だから俺が動いているんです」
刹那的な沈黙が落ちる。璃尤は小さく息を吐いて、再び口を開く。
「……万物を変えると言ったね。彼女は出来損ないの神なのかい?」
出来損ないの神、それは知帝や、璃尤に力を与えている龍王と同じ存在だ。
かつて世界を支配していた創造神、帝天により歪みを齎す異端とされたもの。
帝天と出来損ないの神の戦いは神生ゲームと名付けられ、知帝の勝利で幕を閉じた。
この話は知帝から掻い摘んで聞かされたものだ。記憶を覗く力を持つ璃尤であれば、より詳細に、より鮮明に神生ゲームの情報を知っていることだろう。
出来損ないの神という単語の重みを知って、先程の問いは紡がれた。
「いーえ、真白さんは帝天がばら撒いた欠片を得ただけの人間です」
「そんな……歪みをばら撒くようなことをしているのかい?」
「帝天にとってもう価値のない世界ですからね。良くて管理権を取り戻す。悪くても、力を得た人間の行動で世界そのものが痛手を負う、ってところですかね」
この辺りのやりとりは詩折の知識を超えたものだ。とはいえ、理解できないものでもない。
すでに持っている知識を照らし合わせ、新たな知識として落とし込む。
「ばら撒かれた欠片は帝天の力の劣化コピー、出来損ないの神ほどの影響力はありません。とはいえ、人々にとって厄介なことには変わりない。ので、俺がいろいろと動いているというわけです」
黒猫のぬいぐるみがくるりと詩折の方を向く。蒼い目に射抜かれた。
「いつもなら藍の親子に動いてもらうところですが、今回は少々面倒な条件付きでして、こーして詩折さんにご協力いただいている、というのが俺の状況になります」
「いろいろと納得できたよ。それで? この世界を終わらせる方法は?」
「この世界の主、真白さんを満足させて終わらせてもらうことです」
返ってきた言葉に璃尤が眉根を寄せる。こ大きく表情を変えず、知帝と言葉を交わしていた中で見られなかった反応だ。
知帝の言葉である以上、真っ向から言うことからできないものの、複雑な気持ちと言ったところだろうか。
「それは……簡単なことではないだろう?」
「そーでもありませんよ。彼女は改変ゲームという分かりやすい指標を示してくれていますから」
改変ゲームは水瀬真白が目的を果たすためのものだと本人も言っていた。
ゲームを彼女が満足いく形で終わらせられれば、詩折たちは現実世界に戻れる。
それは璃尤も知っていることで、その上での先程の問いだ。
返ってきた答えは璃尤の知識を超えないものだった。とはいえ、相手は知帝。
期待外れに思える返答の中に期待を超えるものが宿っている。その可能性を捨てきれない思いで、黒瞳は黒猫のぬいぐるみを見つめる。
「彼女が改変ゲームに求めているものを知っているのかい?」
遠回しを好む黒猫に合わせるよう、璃尤は遠回しの言葉で問いを重ねた。
求めているものがあると謳いながら、真白は肝心の詳細を語っていない。
詩折も聞かされてはおらず、知帝がどこまで真白の思惑を把握しているのかは分からない。
与えられた蒼い本は、知識の海の一部に過ぎず、深淵なる神の考えを知るには至らない。
「大体は。……もっとも、俺はこの件に関して動く気はありません」
今までの流れを壊すように知帝は紡いだ。
「俺がこの世界に干渉したのは、この世界のことを知るため。それは充分果たせたと言えるでしょー」
「このままでは命を落とす人がいるとしても?」
「それは俺には関係のないことです。今ある世界は今を生きる人々のものです。終わった者が自分本位に介入していーものではない」
知帝の眷属になる際、彼は詩折に対しても同じ話をした。
詩折が協力するのは、あくまでこの世界の情報を集めるためなのだと。
彼のその言葉を聞いて、彼の在り方を知って、詩折は知帝の協力者になると、彼に忠誠を誓うと心に決めた。
「……つまり、君を動かすには依頼者がいる。そういうことだね?」
周りくどく紡がれた言葉に納得を落として、璃尤は蒼い目を見つめ返した。
「その依頼者、自分では役不足かな?」
「いーえ。龍王の眷属と言えども、貴方は今を生きる人ですから」
これこそ、璃尤が接触してきたときから、知帝が考えていたシナリオなのだろう。
表情筋のないはずのぬいぐるみが満足そうに笑ったように見えた。
掌の上で転がされていた事実を理解していながらも、璃尤は肩を竦めるだけだ。
「彼女たちの過去を思えば、居場所や力のある今の方は幸せなのかもしれない。このまま最期を迎えてもいいと思うくらいに……。そう考えると自分はとんだ悪役だね」
「真白さんに改変された記憶もありますから、一概には言えませんよ?」
「ふふっ、君は優しいね。噂通りと言ったところかな」
「……俺は優しくありませんよ」
頑なさを見せた返答に璃尤は笑声を零す。
小さく息を吐いた蒼目が詩折に向けられ、首肯をもって答える。懐から出したものをテーブルに並べた。
「これを」
並べたのは安物の指輪だ。知帝の指示のもと、百円ショップで買い集めたものたち。
「差し上げます。使い方は――」
「大丈夫。知っているよ」
そのやりとりを最後に、璃尤は席を立った。残るのは詩折と知帝の、一人と一匹のみ。
二人は特に言葉を交わさず、詩折はカップに残ったコーヒーを飲み干した。




