28「南雲璃尤の場合」
南雲璃尤という人間を語るにおいて、決して欠かせないのが両親の存在だ。
璃尤はごくごく普通の中流家庭に生まれた。勉強も、運動も、対人関係ですらも、そつなくこなせる璃尤の人生に問題と呼べるものはなかったと言えるだろう。それは同時に大きな波がなかったとも言い換えられる。
退屈だったかと言われれば、それもまた違う。少なくとも波のない人生すらも璃尤はそれなりに楽しんでいた。
取り立てて言うことのない璃尤の人生を大きく占めているのが両親の存在なのだ。
璃尤の母親は真面目を絵に描いたような人だ。秩序を重んじ、風紀を守ることを己に課した人だった。
彼女の定めたルールのもと、璃尤は厳しく躾けられた。
といっても、字面から感じられるような冷たさはまったくない。
母の真面目さは子育てにも多分に注がれていた。母は幼子相手でも誠実だった。
いつだって璃尤の主張を最後まで聞き、その上で己の主張を丁寧に説明する。お互いの考えをすり合わせて、落としどころを探す。理不尽に正されたことは一度もない。
璃尤は母の厳しさが嫌いではなかった。いや、嫌いではないは少し語弊がある。
璃尤は母のことが好きだった。厳しいところも、真面目さも余すところもなく、大好きだ。
母と結ばれ、結婚するに至った父を憎らしく思うくらいには。
そういう意味では璃尤と父の仲はよろしくないと言えるだろう。父は少し大人げないところがあって、たびたび母を取り合って喧嘩していた。
しかし、そんな父のことも嫌いではない。意地悪いことを言われることがあっても、愛してくれていることは常に伝わっていたから。母に向けられる愛の方が少し多かったが、相手が母である以上、それは仕方がないことだ。
父の存在は璃尤が己の生き方を定める上で指針ともなった。
璃尤は普通の家で生まれた。だが、両親は普通とは少し違う。
両親は龍王と呼ばれる神から力の一部を与えられた眷属であった。
母は万物を紡ぐ力――綴る文字を具現化する力を。
父は万物を見る力――同族の記憶を覗く力を。
そして――璃尤はその両親の力のどちらも受け継いで生まれた。
眷属の間に生まれた子供が眷属になるとは限らない。璃尤が眷属として、生まれたのは特殊なケースだ。
我らが神の思し召しと言ったところか。かの神の考えは璃尤にも分からない。
必要になれば、きっと分かる。ならば、気にしていても仕方がない。
それよりも璃尤が興味を惹かれたものは別にあった。それは父の記憶の中にあった。
璃尤には同族――Dと呼ばれる存在の記憶を覗くことができる。
つまりはDである父の記憶を覗くこともできる。身内の記憶を覗くなんて無作法を働く気はなかったのだが、若い頃の母が見てみたいという好奇心が勝ってしまったのである。
父はDの中でも上位個体と呼ばれる存在で、母に関する記憶には鍵がかけてあった。
しかし、母の血を継いだ璃尤もまた上位個体だ。鍵のかかった記憶、その奥の奥で彼を知った。
周囲を愛し、世界を救うために自らを差し出した優しい優しい彼の神を。
今は世界の管理者として人々を見守る蒼い目の知識の神。
父の記憶から知ったその存在のことを調べるようになった。
調べれば調べるほど、璃尤の心は彼に惹かれていった。それが恋と呼ばれるものなのかは分からない。ただ、心を奪われ、魅入られた。
そんなとき、璃尤はこの世界に迷い込んでいた。
大学に通うため、親元を離れて六湊町で暮らし始めて二年ほど経った頃のことだ。
唐突に、突然に、何の前触れもなく、璃尤は元いた世界とよく似た世界に迷い込んだ。
似ていても、違いを見つけることが難しい世界でも璃尤は本能的に、違う場所だと悟った。
けれど、事実に気付いているのは璃尤だけらしかった。ここまで精巧なのだ。無理もない。
「なるほど。神はこのために自分を作ったということか」
この偽物の世界の正体を突き止めること。それが、璃尤が最初に起こした行動だ。
元いた世界との大きな違いは、この六湊町が第二の貴族街と呼ばれることだ。
貴族街とはなんとも耳馴染みのある言葉だ。
六湊町を統べるのは水瀬家という。水瀬家こそがこの世界を作り出した元凶なのだろう。
分かったのはそれだけ。世界の正体には程遠く、璃尤はとある組織に接触することにした。
MaveRick。水瀬家の令嬢が作り出した組織。
元の世界を模倣したあやふやな世界で確固たる存在を持つその組織へ。
メンバーはお人好しばかりで、璃尤は労なくMaveRickに入り込めた。しかし、組織を作ったという水瀬家の令嬢はおらず、璃尤はただMaveRickの人間としての日々を過ごした。
平行して情報収集も続けていたが、成果は芳しくない。すでに手詰まりだった。
MaveRickの龍として悪くない日々を送って、一年近く経ち、それは始まった。
水瀬真白が始めた改変ゲーム。システムと言い換えてもいいだろう。
「まさか、自分も当事者として巻き込まれるとはね。これこそ、この世界を解く鍵なのだろう。ならば、このゲームで踊るしかないね」
積極的にも、消極的にも動く気はない。
MaveRickの一員として、チームの方針に準じることを選んだ。今は様子見の段階だ。
当事者でありながら、他人事として立つ璃尤の前にまた変化が訪れた。
それはMaveRickの拠点が襲撃されたときのことだ。
襲撃したのは改変ゲームの参加者であるハローワーカー、その中にいた。
蒼き光を貸し与えられた少女。彼の力を与えられた眷属が。
港近くの廃工場を璃尤は訪れた。
ハローワーカーのメンバーがここを出入りしていることは、同族の記憶を覗く力で把握済みだ。
オレンジのツナギを着た少女と、ジャージ姿の陰鬱とした女性が去っていくのを物陰から見届けて、廃工場の方へ足を踏み出した。
廃工場の中には一人の少女が残っていた。
黒髪を肩口で切り揃え、理知的な顔を細いフレームの眼鏡で飾った少女。
生真面目そうなその雰囲気はどこなく母に似ている。
そんな中、緑のエプロンをまとっているのが特徴だ。ポケットには蒼い目の猫のぬいぐるみが収まっている。
「貴方は……」
驚き、見開かれた目に気安い笑顔を向ける。長年の友人のように振る舞う璃尤へ、花色の瞳はすぐに警戒を滲ませる。互いの立場を考えれば、それも当然のことと言える。
璃尤はMaveRickの人間。そして彼女はハローワーカーの人間。敵対している関係である。
そこは璃尤も配慮していて、わざわざ他のメンバーがいないときを狙った。
そもそも他のメンバーがいる中で入るほどの度胸は璃尤にはない。数時間前に対峙したばかりなのにまだ戦闘になられると困る。
母の方針で幼い頃から武術を習っている。といっても、一般人よりも強いくらいのもので、疲労が残っていることもあって、手酷くやられるのが目に見ている。
「何故ここが、という質問は貴方相手では無駄なのでしょうね」
「そうでもないよ。自分の力は君の後ろにいる存在の足元にも及ばない。もっとも今回は見たから、だけどね」
一見すると、ただの言葉の交わし合い。璃尤の態度もあって、傍から見れば、親しい間柄のように見える。
しかし、見る人が見れば、言葉の殴り合いにも思えるだろう。
相手が何をどこまで知っていて、何を求めているのか。自分が持っている情報をどこまで話していいか。
情報を与えすぎることなく、自身を求める情報を引き出す。
ポーカーフェイスを貫き、腹を探るような視線を向ける。妙な緊張感が二人の中にはあった。
紡ぐ言葉を選ぶような短い沈黙。先に口を開いたのは璃尤だった。
「単刀直入に聞かせてもらう。君は何者だい? どうして彼の力が使えるのかな」
探り合いをいつまでも続けていても意味はない。協力できるならそれが一番だと思っている。
璃尤の一番の目的は元の世界に戻ること。
手詰まりな現状を打開するために彼女の持つ力は有用だ。
「彼が眷属を作るとは思えない。が、君の力は紛れもなく、彼のものだ。その辺りの事情を是非とも教えてもらいたいものだね」
花色の目は考えあぐねているようだ。逸らさず、璃尤の考えを読み取ろうとしているようだった。
探られても困るものはないので、璃尤も真っ直ぐ見つめ返す。
「――いーよ、俺から話します」
見つめ合う二人の間を割る声があがった。
中性的、声変わりを迎えていない少年のような声に、璃尤は微かに息を呑んだ。
感情と灯らない、けれども棒読みとも違う平坦な声。璃尤が知っていて、知らない声。
予想していたことではあった。彼女、本屋が彼の力を使っている時点で可能性は考えていた。
彼が関わっている前提で動いていたし、本屋に接触した理由もそこにある。
それでも、会いたいと強く願っていた人の声とは、こんなにも心を揺らすものなのだと。
「一応、初めましてでいーかな。俺は万物を知る神、知帝。こんな姿で失礼します」
エプロンのポケットからするりと抜け出た影が、コンクリートの地面で恭しくお辞儀をする。
妙に様になっているお辞儀をするのは黒猫のぬいぐるみだ。
そう、ぬいぐるみが動いているのである。非現実的な状況に璃尤は驚かない。
あのぬいぐるみが彼の仮の器といったところだろう。そうでなくとも遠隔で物を操る術を彼は持っている。
「やはり、こちらに来ていたんだね。会えて光栄だよ」
「来ているという表現が正しいかは微妙なところですけどね」
世界の管理者たる存在ながらも、どこか人間味を感じさせる態度だ。
黒猫のぬいぐるみに人間味を感じるなんて奇妙な気分だ。
「彼女は俺の協力者。便宜上、眷属になってもらっています」
「改めまして、丞院詩折と申します。知帝様が信用に足ると判断したのであれば、私も貴方を信用しましょう」
拠点襲撃時には本屋と名乗っていた少女は容易く本名を名乗りあげる。
隠す必要はなくなった。少なくとも璃尤を敵として見ないという意思表示のようだ。
詩折のスタンスは璃尤に近いらしい。彼女は改変ゲームに参加する気がない。
知帝の協力者としてこの世界にいるのであれば、当然のことと言えた。
「璃尤さんがこの世界にいる、ということは龍王さんも気付いているってことか。いや、見た、と言った方が適当かな、あの人の場合」
「さてね。自分に答えられることはないよ。我が神のことは貴方の方が知っているだろう?」
「あの人のことが分かるのなんて、保護者さんくらいですよ」
璃尤に力を与えた神、龍王は掴み所のない神らしい。
両親からも聞いた話で、面識のある知識の神がそう言うのなら、相当なのだろう。
彼ならば、璃尤がここにいる理由も知っていると思っていたが、望み薄のようだ。
落胆の色はない。璃尤は神の考えが分からずとも構わないと思っているから。
いづれにせよ、璃尤が見るべきは今、目の前にあるものだ。
璃尤の動きが神の意に沿っていようが、いなかろうが、するべきことをする。
「ここに貴方を送り込んだということは、俺に協力する気があるのでしょーが」
そうでなければ、指針のない璃尤は迷うばかりだ。
龍王と知帝の中は良好だと聞く。彼の手足になる存在として璃尤を送り込んだと考えるのが自然だ。
「判断は貴方に任せます」
強制させることはなく、相手の意思を尊重する。父の記憶で見た彼の姿、そのものだ。
人であった頃の彼は自らの策に反対する者すらも、協力者として傍に置いていたらしい。
それを優しさと呼ぶかは人によって変わるだろう。璃尤はそれを彼の優しさだと思う。
「必要なことはすべて話しましょー。璃尤さんが気になること、なんでも聞いてください」
そこまで言って、黒猫はふと窓の方へと目を向けた。高い位置になる窓は、すっかり日の落ち、闇に呑まれた空を映し出している。
「今日はもー遅いですし、この先は後日としましょー」
「そうだね。先の戦闘の疲れが残っている身としてはそちらの方がありがたい」
あんなに身体を動かしたのは久しぶりなので、正直もう帰って眠りたい。
頭を使う話は後にしてくれるのは心から喜ばしいことだ。
「では、後で私が連絡します」
一先ず、詩折と連絡先を交換して、璃尤は廃工場を後にした。




