22「柚芽衣兎の場合」
日が傾き、青色からオレンジに、オレンジから紫紺に。美しく色が混ざり合う空に照らし出された家路を衣兎は早足で辿る。一度ルシーの家に寄ったので、いつもより遅くなってしまった。
末の妹の迎えは三つ下の弟に任せてあるので問題ない。それでもお腹を空かせた家族が待っていると思うと辿る足は速くなる。
「ふっ……く」
疼くような痛みが胸に走り、思わず足を止めた。
胸を押さえ、苦しみに喘ぎを零す。身体の奥で何かが蠢くのを感じる。
「これが……呪いか。いや、愛なのかもしれないね」
蠢いている何かは、朝に対峙した後輩の置き土産だ。
今日、衣兎は自らの通う学校内にいたすべての人間をその能力で眠らせた。
一定の範囲内にいる生物を眠らせる。それが衣兎の持つ特殊能力だ。
一番面倒な相手は果たし状で誘い出し、ルシーが相手をする。その間に衣兎が校内の人間を眠らし、誘き出されたMaveRickのメンバーを眠らせる。
MaveRickのメンバーの中に同じ学校の生徒がいることはすでに調査済みだった。
一人でも、二人でも、MaveRickのメンバーを戦わずにして無力化することが今回の目的だった。
それは叶った。衣兎はメンバーの一人を眠らせた。その代償として、その身に呪いを植え付けられた。
神に愛された者に危害を加えたその代償。
「……かなり面倒な相手だと知ることができた、そう考えればこの苦しみも悪くはないね」
悪く思えることだって考え方次第で良いことに変わる。
悪いことをいつまでも悪く考えても仕方ない。それは進みを邪魔になるだけだ。
得体の知れないものに蹂躙される痛みを吸い込んだ息とともに呑み込む。
表情に痛苦の一つも滲ませないまま、歩みを再開させる。立ち止まった分、時間をロスしてしまったので、先程よりも早めた足で。
「おねえちゃん、帰ってきた!」
「ねーね、おかえり!」
「ただいま、小兎、恋兎」
二人の妹に出迎えられた衣兎は表情の乏しい顔に笑みを乗せる。
抱きつく二人の頭を撫でながら、リビングに顔を覗かせれば中学生くらいの少年がちらりとこちらに目を向ける。弟の結兎だ。今は宿題をしているようだ。
「ただいま。恋兎を迎えに行ってくれてありがとう」
「ん」
返ってくる言葉は素っ気ない。一度ルシーに相談したことがあるが、男子中学生とはそういう時期があるらしい。
反抗期というやつだろうか。衣兎にはなかったものだからぴんとこない。
それでも頼んだことはちゃんとしてくれるし、可愛い反抗期だ。
「遅くなって悪いね。すぐにご飯が作るよ」
「別に……。姉さんにも付き合いとかあるだろ」
つんとしていても優しい。やはり可愛い反抗期だと考えながら料理の準備をする。
母の帰りはいつも遅いので、柚芽家の食事は大体いつも衣兎が作っている。四人の子供を養うために働いてくれているのだ。これくらいの家事、いくらでもしよう。
あと数ヵ月もあれば、衣兎は高校を卒業して就職をする。そうすれば家事だけではなく、金銭面での手伝いもできるようになるだろう。
今も〈不明〉の活動でそれなりの額を稼いではいるが、大っぴらにはできないお金なので、弟妹の学費として密かに貯金している。
「ねーね、きょおのごはん、なあに?」
「んー、そうだね。もやしたっぷりの肉野菜炒めかな。あとはオムレツ」
冷蔵庫に残っているものを思い出しながら答える。給料前だからあまり贅沢はできない。
手際よく料理を進め、四人分を盛り付ける。三人分は大皿に盛りつけ、一人分は小皿に取り分けでラップする。
「はい、ゆっくり食べるんだよ」
「姉さんの分は?」
「僕は食べてきたから」
微笑とともに告げて自室に戻る。長子だったこともあって衣兎にだけ自室がある。
自分だけ自室があること申し訳なく思いつつ、一人になれる場所があることに救われていた。昔は。
今は〈不明〉という居場所が衣兎にはあるからそろそろ結兎に譲ってもいいかもしれない。
年頃だし、一人になれる場所があった方がいいだろう。
「っく」
自室に戻って、安堵したせいか、堪えていたものが込み上げる。
零れた痛苦を再び押し殺し、表情を元の無に戻す。
弟妹の前で弱いところは見せられない。それは姉としてのプライドだった。
今はそんな自分の在り方すらも楽しめている。心の余裕を得られるための場所があるのと、お腹が満たされているお陰だろう。三大欲求とか衣食住とか、言われているだけあってやはり食というのは大事なのだ。
昔の衣兎は弟妹に譲ってばかりで、いつも空腹を抱えていた。
今も空腹を抱えているという点は同じだ。違うのは、今は空腹を満たす術を得たこと。
能力で眠らせ、その者の夢をつまむ。少しずつ、少しずつ、人々を苦しめる悪夢を食らう。
それで衣兎の空いたお腹は満たされていく。素晴らしい能力だ。
この力をくれた彼女には心から感謝している。
きっとあのまま、空腹を抱えたまま、満たされない心のままいたら、どこまで爆発していただろう。
忙しい母に代わって家事をして、弟妹の世話をする日々。
同い年の子はみな、友人同士で遊びに行って流行りのものだとか、メイクだとかの話をする。
衣兎はそんな時間も、そんなお金もなかった。すべては家族のために消費される。
それが悪いことだとは思わなかった。衣兎は昔から大人びていてはしゃぐのは苦手だったし、家族のことを心から愛していたから。
愛する者のために自分を使えるのはきっと素晴らしいことだ。
それができない人がいる中で恵まれていると言ってもいいだろう。
ただ不満がまったくないというのも嘘で、ときどきとても虚しくなるときがある。
なにもかもどうでもよくなってすべてを捨ててしまいたくなる気が。彼女と出会ったのはそんなときだった。
「帰らなくていいの?」
通学路にある公園。そのベンチに腰掛け、ゆっくりと変わりゆく空を眺めていたときだった。
不意に影が差して、向けた視線の先で声をかけられた。
特筆する特徴のない少女だった。水色のラインが走るセーラー服、確か近くの女子校の制服を着ている。癖のない髪は弄られることなく、背中を流されている。
「ああ、そうだね。そろそろ帰ろうと思っていたところだよ」
遠くに追いやっていた意識を現実に戻す。もうすっかり陽が落ちている。
急いで、妹の迎えに行かなければ。今からでも走っていけば、ぎりぎり間に合うだろう。
数秒でも遅れれば、その分延長料金が発生してしまう。ただえさえ、母は自分たちのために一生懸命働いてくれているのだから、こんなことで余計な出費をするわけにはいかない。
「すまないが、急用があるからこれで失礼させてもらうよ。また……また会うことがあったら話そう」
「貴方はそれでいいの?」
立ち上がり、背中を向けた衣兎へ、一言投げかけられた。
なんでもない問いかけなのに後ろから刺されたような気分になった。
図星を突かれたからだ。衣兎の中に彼女の言葉を否定できない自分がいたからだ。
冷静に自分の中身を分析した衣兎は足を止めて振り返った。色素の薄い目に少女の姿を収めて、一つ瞬きをした。
急がなければならないと思いながら、彼女のことを無視できなかった。
彼女を無視することは逃げることと同じような気がしたから。
否定できない自分とともに今までの自分の在り方すべてを否定する気がしたから。
「答え方が難しい質問だね」
「それは貴方の中に迷いがあるからじゃない?」
「ああ、そうだね。そうかもしれない。だが、人とは簡単に割り切れないものだろう?」
ちゃんと答えを出さなければならないと使命感が胸に燃えている。
重荷になっていても、衣兎はお姉ちゃんでありたいのだ。家族を想う自分を否定して、なかったことにはしたくない。そんな自分になりたくないと。
向き合うことはきっと今の自分を消さずに未来へ進むためのものだと思う。
「確かに僕は現状に不満を覚えている。クラスメイトのように、と思ったことは何度もあるさ。だがね、僕は家族を愛しているのさ。だから、現状を変えるつもりはないよ」
「欲しいものはないと言うの? 求めるものはないと」
無垢に向けられる目は、目を逸らすことのできない不思議な魅力に満ちていた。
見せ方が上手い少女だ。表面化された無垢さは衣兎の心根を引き出すためのものだと理解しながらも会話を続ける。そのことすらも少女はきっと計算しているのだろう。
「そうだね。強いて言うなら僕は……獏になりたいかな」
「獏って夢を食べるっていうあの?」
「ああ。獏になれば、お金をかけずにお腹を満たせるだろう? それはとても素晴らしいことだよ」
衣兎のお腹が満たされることはない。
母が会社の人から貰った差し入れ、奮発して買った食べ物、クラスメイトから貰ったお菓子、近所の人からのお裾分け、割り切れないおかず。いつだって衣兎は弟妹に譲る。
育ち盛りの弟妹や、自分たちのために働いてくれている母に譲ってばかりいる。
衣兎自身が望んでしていることだ。でも、空腹が続くと、満たされていない思いがあると周囲を憎んでしまいそうになる。
家族を憎い、クラスメイトを妬み、愛すべきものを愛せない。
理性が暗い感情に支配され、他者に憎悪だけを向けた怪物になりたくはないのだ。
「貴方は優しい人なのね。それに面白い」
言いながら、少女は衣兎に手を差し出した。それを断る選択肢は不思議と浮かばず、自然と手に取った。
触れた瞬間、温かいものが流れ込んでくるような気がした。驚いて手を離した衣兎を少女は楽しげに見つめている。
「家族想いの貴方には特別な招待状をあげるわ。――きっとルシーと気が合うよ」
渡されたのは二つ折りにされたメモ帳だった。開いてみれば、住所が書かれていた。
言葉から察するにルシーという人物の家だろうか。考えながら、顔を上げた衣兎は驚きを表情に映した。
メモに書かれている文字を追っているわずかな時間の間に少女はいなくなっていた。
今まで話していたのは幽霊か、幻覚かとすら思えてくるほどの唐突さだった。
しかし、渡されたメモは衣兎の手の中にあり、触れたときに流れてきたものも残っている。彼女は確かにこの場に存在していたのだ。
「ルシーか。……会ってみるのもいいかもしれないね」
その言葉を実行したのはその日から約一時間後の日曜日だ。その日は母が休みで、妹たちの世話を任せて出掛けた。
本当はたまの休みくらいゆっくりしてほしかったけど、今日だけはとお願いした。
久しぶり一人で町を巡って、知らない道を歩いた。広い敷地の家が並ぶ高級住宅街を少し緊張して歩いた先にそこへ辿り着いた。
インターフォンを鳴らせば、若い女性の声が聞こえた。
「あら? 知らない子ね。私に何か――いえ、違うわね。君、もしかして真白に言われて来たの?」
「真白、という名は知らないが、きっと思い浮かべている人物は同じだろうね」
現れたのは白黒の女性だった。白いセーラーワンピースで女性らしい起伏に富んだ身体を包み、白と黒の髪を四つに分けて結いあげた女性。
衣兎よりも少し年上に見えるその人を一目見て、なんだか仲良くなれる気がした。向けられる水色の目が同じものを求めているような気がしたのだ。
後で聞いたことだが、彼女、ルシーも同じことを思っていたらしい。
「初めまして、僕は柚芽衣兎という。これからよろしくね」
「ええ、初めまして。私は佐汰ルシーよ。〈不明〉にようこそ」
この日、ルシーは〈不明〉という新たな家族を手に入れた。
最初はルシーと二人きり。そこから実赤と千巫が増えて、花芳が増えた。
力を手に入れた先で繋がった家族もまた、衣兎にとって本物の家族と同じくらい大切な存在だ。
実のところ、衣兎は真白が仕掛けたゲームへの意欲はそこまで高くない。
真白がくれたものを失っても、衣兎はきっと変わらない。家族も失わない。なら、それでいいのだ。
でも、家族が勝利を求めるなら、衣兎もそれを求めよう。




