2「初めまして、MaveRick」
全身が柔らかな感触に包み込まれている。こんな感触を味わったことは記憶のある限り一度としてない。
空に浮かぶ、ふわふわな雲の上に寝転んだらこんな感じだろうか。そんなことを考えながら十七番は目を開けた。
「はうっ。なんですか、これ。ふわふわですっ」
被せられた布の感触を手で確かめ、感嘆の声をあげる。
毛布、おそらく毛布なのだろうが、こんなにふわふわなものは初めてだ。いつも着ていた毛布はぺらぺらのぼろぼろだった。
固い床に寝転び、薄い布を被って眠るのが十年以上も続く菊理の日常だった。
「これっ、すごいですっ。すごく弾みます、すごい」
十七番の動きに合わせて弾むマットレス。その感覚を味わうよう、さらに弾みをつけて身体を動かす。応えるマットレスの弾みにまた感嘆の声を零す。
すべて初めて尽くしで消えない興奮のまま、身体を起こす。
知らない場所だ。見覚えのない場所だ。新鮮な景色を収めた視界に映るのは、
「気に入ってくれたようで何よりだよ」
初めてのベッドにはしゃぐ十七番へ、穏やかな視線を注ぐ人物だ。
黒髪を短く切り揃えた中性的な顔立ちの人物。細身の身体を包む衣装も、白いシャツに黒いスラックスという性別を窺わせないものだ。
特別整っているわけでもなく、かといって醜いというわけでもない。普通を煮詰めたような容姿だ。
特徴がないことこそが特徴。それ以上言うことのない人物がそこにはいた。
「起きたって言ってくる」
影に隠れていたらしいもう一人がとてとてと扉の外へ消えていく。ふわふわな金色の背中を見届けた中性的な人物が改めて十七番に向き直る。
「改めまして、自分は南雲璃尤。ここ、MaveRickのメンバーさ」
「私は十七番ですっ。よろしくお願いします」
女性にしては低く、男性にしては高い声に応じて名乗る十七番。
大きく丸い青碧の目でまっすぐ璃尤を見つめ、最後にお辞儀する。律儀なその姿に璃尤は笑声をあげる。
「君を管理していた研究所は壊滅した。もう実験体としての名を名乗る必要はないよ」
きょとんと目を瞬かせ、首を傾げる。璃尤の言っている意味がよく分からないのと、他の名前を十七番は知らないのと二つだ。
見返す黒い瞳は数拍置いて、「ああ」と十七番の心根に理解を示す。
「そうか、君は自分の名を知らないんだね。あの研究所で暮らしていたのなら無理もないか。ふむ……少し待っててくれ」
こちらを見つめていた璃悠の目が刹那、銀色に瞬いた。神秘的な光を纏う目に思わず魅入られていれば、元の黒に戻った。
「菊理、鼓田菊理。それが君の名前だよ。これからはそう名乗るといい。もっともここで暮らしていくのであれば、名乗る機会はそうないかもしれないがね」
「きく、り……菊理。それが私の名前……なんで知っているんですかっ。驚きです」
「自分は情報収集が得意なんだ。これくらいは造作もない、と言ったら少しは格好つくかな」
おどけるような口振りの璃尤へ輝く目を向ける十七番改め菊理。
菊理すら知らなかった名前をいともたやすく見つけてみせた。それだけで充分すぎるほどかっこよく見える。自分にはできないことができる人はみな、かっこいいのだ。
「さて、君はここに来るまでの経緯をどこまで覚えているのかい?」
「えーと、三角耳の女の人が来て、『一緒に来てもらう』って言われて……ここで目が覚めましたっ」
「なるほど、圧倒的言葉不足だね。猫らしいと言えばらしいとも言える」
「猫じゃなくて人間ですよ?」
記憶にある少女とのやりとりを思い出す菊理の言葉を聞いて、璃尤は再び笑声をあげる。
「猫というのはコードネーム……あだ名だよ。自分たちは本名ではなく、コードネームで呼び合っているんだ。互いの素性を探るのはご法度だからね。本名を知らない場合の方が多い」
「じゃあ、璃尤さんの名前もこーどねーむなんですね」
「いいや。南雲璃尤、これは自分の本名だよ」
数秒前の話を否定する璃悠の答えに菊理は眉根を寄せる。難しい。
「言っただろう? 自分は情報収集を担当している。聞かずに本名を知ることができる。君の名前を知り得たようにね」
ほんの数秒前に菊理がした経験を根拠に語る璃尤。
菊理の浅い人生経験に新たに刻まれたものの説得力に「なるほどっ」と頷く。
「情報を持つ優位性よりもメンバーからの信頼の方が自分には価値があるのさ」
璃尤の言葉は菊理には難しくて、ちゃんと理解できているか自信はない。
とりあえず、仲良しの方がいいということだろう。
後は本名ではなくコードネームとやらを名乗ることとか。菊理なりの解釈に落とし込んで改めて考えて首を傾げる。
「私もこーどねーむを名乗った方がいいですか?」
「MaveRickに属する気があるのならコードネームがつくことになるだろうが……そうだね。本名を名乗るかは君自身が決めればいい。聞くことは止められていても、言うことを止められているわけでじゃない」
「んーと……分かりましたっ」
首を傾げたまま、言葉を少しずつ理解して大きく頷いた。
そこでふと近付く足音に気付いて、扉の方へ目を向ける。金色の背中が消えた扉だ。
二人分の足音だと聞き分ける菊理の耳が間もなくノック音を捉えた。
「入ってかまわないよ」
菊理に代わった璃尤の声に応じて扉は開かれる。
中に入っているのは二人。呼んでくる、と言っていたのは彼女たちのことだったようだ。璃尤は二人に譲るように身を引いた。
「初めまして、うちは蛇。MaveRickのリーダーや」
最初に名乗ったのは赤縁眼鏡の少女。栗色の髪を二つに分けて、毛先を緩く三つ編みにしている。纏うのは制服で、傍から見た印象は文学少女に近い。
とはいえ、雰囲気は明朗なもので、口元は八重歯を覗かせて笑っている。
いい人のようだ。人を見る目はあると自負する菊理は自信満々にそう判断した。
「私は菊理です。よろしくお願いします」
本名を名乗るかは菊理が決めればいいと璃尤は言った。なので、菊理なりに考えて、本名をそのまま名乗ることにした。
知られて困る過去は菊理にはない。それとりも知ったばかりの自分の名前をいろんな人に読んでもらいたいという気持ちの方が強くある。
「元気があっていいわね。私は医師、みんなからは先生と呼ばれているわ。貴方もそう呼んでちょうだいな」
そう言ったのは白衣を纏った女性だ。蛇とともに部屋を訪れたもう一人である。
白衣は研究員たちも着ていたので菊理にも馴染みがある。男性ばかりで女性が少なかったので、そういう意味では少し新鮮だ。
「少し診察させてもらうわね」
璃尤とも、蛇とも違う大人な雰囲気の女性だ。隈が色濃い目に覗かれて、菊理はじっと動かないよう徹する。診察は慣れたもので、されるがままになっている。
その横で璃尤と蛇が何か話している。菊理には少し難しくて分からない。
「軽度の栄養失調が見られるけれど、特に問題はないわね」
「ほな、話を、と言いたいところやけど、その格好じゃあれやな。先に風呂に入ってくるとええで」
「お風呂、ですか?」
「自分が案内するよ」
そうして璃尤に案内されて、風呂場に向かう。菊理が目覚めたと聞いて、沸かしてくれていたらしい。
璃尤は優しくて丁寧な人だ。慣れないだろうから、といろいろと使い方を教えてくれた。
今までは週に一度シャワーを浴びるくらいで、こういうお風呂は初めてなので助かる。
「えっと……次は湯船に浸かるんでしたね」
髪を洗って、身体を荒って、顔を洗って、湯船に浸かる。璃尤はそう言っていた。
髪を洗うためのものとか、身体を洗うためのものとか、顔を洗うためのものとか。後は髪をさらさらにしてくれるものとか。たくさん種類があって、間違えないようにたくさん気を遣った。
石鹸一つですべてを済ませていた菊理には少しばかり高難易度だ。みんな、これを当たり前にしていると思うと尊敬の念を覚える。
「わっ、あったかいです」
全身を包み込む温かなお湯。触れているのは外だけなのに内まで温かくなってくるから不思議だ。ぬくぬくで、ずっとここにいたいとすら思う。
「着替えはここに置いておくよ。のぼせないように気を付けるといい」
「はいっ、ありがとうございます」
湯船にずっと浸かっているのはよくないと璃尤が言っていた。それを思い出し、慌てて湯船から出る。
用意してくれた服に着替える。お洒落な服だ。貫頭衣に近い服を纏うのが常だった菊理は仄かに胸を躍らせる。
鏡に映った自分を見て、少し可愛くなったかなと首を傾げる。よく分からない。
「おや、終わったかい? よく似合ってるよ。サイズは大丈夫かい?」
「問題ありません。……似合っていますか?」
「ああ、可愛い。自分がさらに可愛くしてあげよう」
言って、璃尤は温風の出る機械を菊理へと向ける。ドライヤーと言うのだそうだ。
丁寧さを感じる手付きで菊理の髪を乾かしていく。濡れて元気のなくなっていた外ハネの髪がぴょんと跳ねる。
「どうかな。先生やいちには劣るが、自分の腕も悪くないだろう」
「すごいですっ」
「君は煽てるのが上手いね。……さて、戻ろうか」
菊理がお風呂から上がるまで待っていてくれた璃尤に案内されて廊下を歩く。
研究所には負けるが、この建物はそれなりに広いらしい。メンバーが寝泊まりできるスペースもある、と部屋まで帰る道中教えてもらった。
「戻ってきたみたいやな。うん、よぉ似合っとる。うちのお下がりで申し訳ないけど、その服はもらってくれてええから」
「本当ですか!? ありがとうございます」
こんなお洒落な服が自分のものになるなんて夢のようだ。
菊理は促されるままに蛇の前へ腰を落ち着ける。と、タイミングを見計らったように先生が姿を現し、折り畳みのテーブルにお皿を並べる。それぞれ、ご飯と味噌汁、炒め物が盛り付けられている。
「ありあわせで悪いけれど……」
「おいしそうですっ。こんな豪華なご飯は久しぶりです」
菊理は一番下のランクだったので、美味しくもない栄養食ばかり与えられていた。成果があった日は今日のような豪華な食事にありつけるが、それもここ一ヵ月以上ない。
「喜んでもらえてよかったわ」
湯気が立つ味噌汁を口に含み、ほう、と息を吐く。舌先から味噌の風味が消えないうちに一つ一つ味わいながら表情を綻ばせる。
「食べながらええから今後の話をしよか」
「むぐっ、今後の話ですか?」
「菊理が選べる選択肢は二つ。一つはうちらの組織の、MaveRickに所属すること」
MaveRickという単語はすでに何回か耳にしている。組織の名ということも察していて、しかしそn実態は未だ分からない。
風呂や食事を用意してくれた相手が説得しないままに話を進めるわけもなく、
「うちらは一言で言うと理不尽に抗うための組織や。菊理は六湊町の現状をどこまで知っとるん?」
「現状ですか? んーと、外の情報はほとんど入ってこなかったので……」
新しく連れてこられた実験体の話が、唯一菊理が得られる情報だ。菊理のギフトは聴覚だったので、実験の延長戦で情報を与えられることもなかった。
菊理は基本的に今以上を求めないので、自分から聞くこともなかった。与えられるもの以外のものに菊理の興味は動かないのだ。
「六湊町は今、水瀬家に支配されとる。権力者が力を振るい、弱者は淘汰される。それが今の六湊町や」
「水瀬家は政界にも強い力を持っているからね。六湊町は言わば治外法権の町、第二の貴族街と言ったところだね」
「権力に負けて泣き寝入りするしかない弱者の依頼を受けて遂行する、ちゅーのがうちらの活動内容やな」
貴族街というのはよく分からないが、蛇と璃尤、二人の話を菊理なりに嚙み砕いてうんうんと頷く。
つまるところ、MaveRickは弱い人のための組織なのだ。とても素敵で優しい組織だ。
きっとこの組織に所属している人はみんな優しい人に違いない。その証明とも言うべき、優しい暖かさの味噌汁を飲み干す。
「んで、もう一つの選択肢がうちらと繫がりのある孤児院で暮らしてもらうことや。好きな方を選んでくれたらええよ」
「ここに残ります。MaveRickに入ります」
理由を聞かれても菊理は答えられない。行動理念に賛同したというわけでもなく、直感的に選んだ結果だ。強いて言うなら、とあげる理由すらも思い浮かばない。
理由を重視しない生き様は選択を迫られた場でも当然のように顔を出す。
「嬉しい答えやな。ほな、改めて、うちはMaveRickのリーダー、蛇や。ゆうても、名前だけの役職やから、困ったときの相談相手くらいに思ってくれたらええ」
「はいっ、よろしくお願いします」
これから新しい生活が始めると思うとどきどきする。
十年以上、記憶のある間はずっと研究所にいた菊理は外へ出た。すでにいくつも経験している初めてを、もっと経験できるのだと思うと胸が躍る。きっと楽しい日々が待っている。
「他のメンバーは共有スペースにいるよう言ってあるから」
「どんな方たちなのか楽しみですっ」