#39
「......」
気まぐれだった。あの時以来、僕が知らない誰かの為に頑張るなんて事は無い。
前日に少し遠い商店街まで走って紙を買い、家ではずっと授業の構成を考えながら伊折大魔王をかいていた。朝から頭の中で原稿を考え続け、どうにか榮子の答えを誘導出来ないか悩み続けた。結局、彼女任せになったが。
「...そうですか、それはすみませんでした。てっきり娘さんが嫌々やっているのかと思ってしまったので」
「いえいえ。それよりも、お嬢さんにぜひとも家庭教師をお願いしたいのですけど...」
そういえば、さっきまで感じていた手の温もりが消えている。
横を見ると、黒瀬の姿があった。珍しく、明らかに意図的に、僕に背を向けている。
気にしてないような素振りをしていたとはいえ、やはり歓迎会の事が頭に残っているだろう。今になって、彼女の隣にいるのが気まずくなる。
勝手に帰ってしまおう。そう決めて顔を上げる。すると、何故か、視線が合ってしまう。
「......」
「......」
いつからか、榮子は僕を見ていた。母親の交渉の様子は気にかけず、元先生が逃げ出そうとする姿を見つめていた。
一瞬、身体が動かなくなる。
もう1度だけ、彼女の為に頑張ってみないか?心の中の天使か悪魔が、僕に告げた。
間違いなく辛いだろう。ただでさえ今後土曜休みがどれぐらいあるか分からないのに、日曜まで用事があったら勉強も遊びもする暇はない。しかも、金を使う場所なんて無いこんな地域では、何を貰おうがタダ働きみたいなものになるだろう。僕が教えられる気もしない。そもそも、彼女は僕に教えて貰たがっているのか?
でも、面白くなかった中学時代の中で、間違い無く僕が1番輝いた瞬間はあの時だっただろう。彼女が勉強する目標を話した時に感じた達成感は、とても気持ちいいものだった。もしかしたら、何も無い高校生活を変えるきっかけになるかもしれない。
それに、もしこのまま逃げたら、もう誰も僕を頼らないかもしれない。あの温もりの恋しさが、いつも通りに立ち去ろうとする足を止めたのだ。