#37
「決めたのは私じゃないけど...私は行きたい、から」
榮子の短く、重そうな言葉が聞こえ、はっとする。慌てて、意識を彼女達の方へ戻す。
彼女の目は、不安そうだったさっきまでとは違い、真剣で力強いものになっている。手に力を込め堂々としている姿に、母親は驚いている様だった。
ふと、頭に昔の思い出が蘇る。あの時も、真剣そうな榮子を見た様な気がする。
最後の授業1時間は、生徒だけで授業をする。内容は自分で決める。頼みがあれば手を貸すが、出来るだけ自分で準備、進行する。
着任した初日、クラス担任の先生にそう伝えられていた。今まで来た中学生は大体外遊びにしていた、とも言われた。
人と同じ事をするのは嫌だし、大体運動なんてしたくなかったので、外遊びは無し。でも、最後に当然勉強する訳にはいかない。カードゲームとかとも考えたが、グループ分けとかをすると管理が大変だし、ルールの説明が大変になるかもしれない。
3日目になっても決まらず、どうしようかと考えていた放課後、また、彼女がやって来る。
「先生、続きをお願いします」
机上のプリントをどかすと、代わりに榮子のドリルが広げられる。
3日間一応教えてはいるが、正直僕は不要であるどころか、邪魔になってる気にしかならない。
ほとんど内容は分かっている様だし、応用問題は僕自身よく分かっておらず、適当に説明してしまっている。しかも、彼女の話し相手としても役に立っていない。
「先生、私分からないですよ」
「どの問題だよ」
「違いますって。昨日の、勉強をする理由の話ですよ」
確か前日、これもまた適当な返しをして、彼女を困らせていた筈。あんな事を気にしていても仕方ないのに。
「分からないなら分からないでいいじゃん。理由ってそんなに必要か?」
「え?先生は勉強する理由があってしてるんですよね?自分の為って」
「まぁ、確かに」
彼女は顔を曇らせる。少し誤解がある様だが、とりあえず話に耳を傾ける。
「私、昔から勉強はしてるんですけど、時々やってて嫌になるんです。お母さんが私の為に勉強をさせてくれてるのに、酷いですよね」
「はぁ」
「で、ある時考えたんです。私はどうして勉強してるんだろうって。お母さんや学校の先生は将来の自分の為とか言うんですけど、なんかよく分からなくて、納得出来なくて」
それはそうだ。きっと"今の"僕でさえ、何かが自分の為であると言われてもあまり分からないだろうし。
分かったとしても、大体は結果の世界、それもいつ訪れるか分からない未来の時点で初めて、あれは自分の為だったと言えるもので、いくら頭が良くても、経験の少ない小学3年生の少女には理解し難いだろう。
「先生って小学校の頃、優等生って言われてたらしいじゃないですか、頼りになるとかって。多分そんな先生ならもっといい考えがあると思って聞いたんですけど、やっぱり自分の為って...」
「...はぁ」
「だけど、悪いのは私なんですよね。私が変に頑固だから。先生には私の"その場凌ぎ"を見透かされちゃったし...はぁ...」
彼女は頭を落とす。力の無い、諦めた様な姿。
それは、逃げる事を選んだ僕と少し重なって、でも、まだ立ち向かおうとしている所は僕と全然違くて。
人と合わせるのが嫌いだからか、彼女には僕になって欲しくないなんて思いが湧いた。しかも、せっかく久しぶりに頼られたのだから、元優等生として応えてもいいじゃないか。
「...ふーん」
ついに思い付く。
「そこまで悩むんなら、理由をつくってやるよ。明日」
その時には、榮子の驚いた顔を見ながら、最初で最後の僕の授業を頭で思い描いていた。




