2. 拘置所にて(2023年7月9日)
頰を伝う汗をハンカチで拭う。
今年の梅雨は本当に短い。先月末に出された梅雨明け宣言以降、猛暑日が続いていた。今日も朝から茹だるような暑さである。こうして外出するには辛いなあ、そんな風に感じる季節になってしまったようだ。この部屋には空調が効いている筈なのだが、外で蓄えた熱を冷やすには暫く時間がかかりそうだね。
ふと、室内を見渡す。
くすんだ白い壁で囲まれた待合室には黒い長椅子だけが置かれており質素だ。壁の至る所に犯罪抑止を啓蒙するチラシが貼られている。そんな様子は如何にも刑事施設らしい。あまり長居はしたくないかな。
視線を手元に向ける。
「うーん。少し早かったかな」
腕時計の針は約束の時刻より十五分前を指していた。
こういう所がクソ真面目と揶揄される部分なのかもしれない。けれど人生で一度も遅刻したことがない事は誇るべきことだ。そう僕は思う。
小さく息を吐くと、僕は鞄から手鏡を取り出した。
鏡の中には中央で髪をきっちりと分けた少し丸顔の男が映っている。中の中......いや、中の上といった所かな。特別に格好良いというわけでもない、これといった特徴もない普通の容姿である。この顔のお陰か、はたまた性格のせいか女性との縁はあまり無い。
視線を襟元に向けると金色のバッチが今日も輝いていた。この弁護士バッチを手に入れてから七年が経とうとしている。
ここまでの僕の弁護士人生はお世辞にも順風満帆とは言えない。小さな事務所に所属している僕は、失敗を繰り返しながらも小さな民事訴訟を一つずつ懸命にこなしていた。その地味な様子は学生の頃に思い描いていた弁護士像とは遠く及ばなかった。
そんな僕が初めて刑事訴訟を担当するのだ。しかも世間を騒がせている、あの『通り魔殺人事件』である。否が応でも気合が入る。
「よし!」
手鏡を片付けると両頬を軽く叩いた。
弁護士には依頼人の利益を守る責務がある。では、犯罪を犯した者にとっての利益とは何か?
それは罪を償うために適当な罰を受けること。そして、禊を済ませて早期に社会復帰すること。そのためにも、不当に軽かったり重い罰を受けないように手助けすることが弁護士の役割だ。少なくとも僕はそう考えている。
◇
「弁護士さん、お待たせしました。こちらへどうぞ」
待合室の扉が開くと、初老と思われる男性が現れてそう言った。
この暑い中、紺色で長袖の制服を乱れなく着こなしている。ご苦労様です。
「いやー、今日も暑いですね」
「ええ、本当に。駅からここまで少し外を歩いただけで汗だくですよ」
「それは大変でしたね。あっと、こちらが面会室になります」
案内されたのは真っ白な壁に囲まれた部屋だった。
「では、外に居ますので何かあれば声をかけてください」
「ええ、よろしくおねがいします」
パタリと扉の閉められた室内には一時の静寂が訪れる。
僕は面会室を見渡した。
汚れひとつ見当たらない白い壁に囲まれた室内は、待合室とは異なり空調の効きが強く感じられる。部屋の中央は透明なアクリル板で仕切られており、手前には簡易な金属製の椅子が一脚置かれていた。仕切りの向こう側には頭を垂れた若い男が座っているようだ。
「いやー、今日も暑いね。夏バテしてしまいそうだよ」
寒気すら感じる室内で言葉を紡ぐ。
第一印象は大切だ。けれど雑談の苦手な僕の場合、どうしても話題は天候の話ばかりとなってしまう。
「体調崩していたりしていないかい? 常盤努くん」
目の前の男に声を掛けながら椅子に腰を掛けた。彼の反応はない。視線を手元に落としたままだ。
「嗚呼、自己紹介が遅れたね。国選弁護人として君の弁護を担当することになった豊田守だ。こう見えても弁護士なんだよ」
僕の声掛けに対して彼は俯いたまま動く様子を見せない。
経験上、開口一番で名乗るのではなく雑談を軽く挟んだ方が、相手の反応が良い場合が多い。だが、今回は効果的ではなかったようだ。
「僕は君の味方だ。何か困ったことがあれば遠慮なく言って欲しい」
そこで初めて彼は顔を上げる。
頭を丸めて灰色の作業着を纏う彼は、人というよりは人形のように感じた。彫りの深い整った顔立ちには思わず息を飲む。雑誌の表紙を飾っていてもおかしくない外見の中でも瞳が特に印象的に映った。色素の薄い黒色の瞳の奥はとても澄んでいて、見つめていると吸い込まれそうに感じる。
ーー純然たる悪意は存在するか否か?
学生時代の僕の研究テーマである。
人間は例外なく悪意を抱えて生きている。
それは他人を害したいと思うほどの強烈なものから、嫉妬や猜疑心などの些細なものまで。当然、僕の中にだって悪意は存在する。
一方で、人間は例外なく良心も抱えて生きていると僕は考える。
日常は悪意と良心の攻めぎあいだ。そして相反する二つの感情が複雑に混じり合い、悪意が勝った時に人は罪を犯す。けれどそこには必ず僅かな良心が残っている。そして人という存在は、過去の過ちを悔い、最終的には罪を償って許しを得たいと願うのだ。
だから、純然たる悪意というものはこの世に存在しない。そう僕は思っている。
目の前の彼も例外ではない。その透き通る瞳を見つめながら僕は確信していた。
「......あの、質問があります」
常盤努は遠慮がちに口を開く。
「罪を犯した者は......罰を受けるべきなんでしょうか?」
口に出すのを躊躇う素振りを見せる彼だが、その瞳は揺らぐことはなく真っ直ぐに僕を見つめていた。
「もちろんだ。如何なる理由があっても罰を受けるべきだよ」
裁判を前に彼は不安なのだろうか。あるいは、己の犯した罪の重さに恐怖を感じているのかもしれない。
けれど、この国は法治国家だ。法の下に罪を明らかにして裁かれなければ、犯罪者の再出発を社会は受け入れてくれない。僕にできることは裁判中に彼が不利益とならないように手助けするだけだ。
「わかりました、弁護士の先生」
僕の答えに彼は初めて頰を緩める。そこには年相応の青年が居た。
これから一緒に頑張ろう、そんな彼に僕は語りかける。
まもなく、世間を騒がせた通り魔殺人事件の公判が始まろうとしていた。