事故物件
円柱を持つ。人差し指と親指で摘まみ、中指を添える。持たれた円柱より頂点から円周が大きくなる円錐の底面から赤黒い液体が注がれる。コポコポと注がれる。
眼下に広がる渦巻く水面の奥は大地の黒い土がところどころ白かったりもして、白いのはブルームといってたわわに実る粒子のひとつぶごとに違っている。山麓の青さが引き立たせるのが畑の緑ならば、今このときに江名子の口腔であふれる爽やかな葡萄の腐し香りは温められたことで昇華している模様。
「消化じゃないか」
「はい」と語尾を跳ね上げると、事故物件は続けて「ダイジェスト」と付け加えた。ここで氷が崩れる。金盥の厚みは数ミリ程度なので、表面は露点以下に到達するのは早かった。
まず玄関から廊下を歩いて真っ直ぐのキッチンの抽斗から銅鍋を取り出した事故物件を通り過ぎて江名子が冷凍室から氷をじゃんじゃん運ぶ。水道水は蛇口に手をかざすだけで流れる仕様に引っ越した当初は江名子も事故物件も喜んだけれども、その喜びが薄れたというよりは、そもそも喜びって何か分からなくなるきっかけになったので腹が立つ。
シャーっと吹く摂氏四度の水の密度は最大で、金盥に落とされた氷の挙げ句の果てなど江名子の気分次第だからちょっぴりかわいそうである。
「折角じゃないか。四面体が、折角じゃないか」
「はい」
江名子が頷くと、事故物件はカタカタ膝を揺らせて落ち着いたようだった。仰る通りで金盥には氷だけでも良かったかも知れない。それなら早く教えてくれよと江名子が唇を尖らせると、その唇を唇で塞ぐ事故物件の膝がカタカタ揺れている。
夕方に二人で近所のスーパーマーケットのある交差点の信号を左に折れた酒屋まで行くことは滅多にないから、今日は不思議な日だねと江名子は生け垣の猫に話した。
猫は桃色の肌をしていて、新種だなと思ったのだけれど、あれは新種だったのかな。なんて考えているうちにスーパーマーケットまで着いて、信号が赤だったから立ち止まった。金星が眩しいほどに存在を露にしていて、事故物件はうずくまってブツブツ呪詛のようなものを唱えていた。
事故物件の会社は倒産した。或いは倒産したと倒錯している事故物件の虚言なのかは江名子にはどうでもいいことだった。
マスクをしている事故物件は可愛い目をしている。水晶みたいな丸い瞳が信号機の赤やら青やら黄色などの光を吸い込んでいる。ずっと眺めていられるから困る。江名子は事故物件に恋をしている。
事故物件はオーガンジーのスカートに、スウェット生地のトップスを合わせている。スカートは折り畳んだ膝の裏でしわしわになっているのだが、気にしていない。ああ、美しいなあとさらさらした前髪が茶色く風になびくから江名子はため息が漏れちゃう。すらりと伸びた白い手足は柔らかそうで、とっても細い。はあ、なんて素晴らしき事故物件。桃色の猫が道路を横切る。
「ハゲてないか、あれ。なあ、ハゲてないか」
ふいに立ち上がった事故物件が猫に挑むように声を荒げる。
「はい」
生まれたてのパンダを大きくした桃色の猫は全身の毛をむしりとられていたらしいことを、ワインをもう一口舐めている江名子は思い出した。やっぱり酒屋まで行けば良かったと後悔はしていない。満足そうな事故物件の顔を撫でていると江名子は満たされた。
寝室で重いものをひきずる音がする。畳がめりめりと傷ついていくのだが、ワインが美味しい。
廊下の明かりが点いている。きっと事故物件がトイレに行ったのだ。そんなに酒が飲めないのに、どうしてか江名子よりも席を立つ頻度が多い。壁に立て掛けた観葉植物と、床に置いたベンジャミンが江名子の中でひとつになる。寄り目にすると分裂していた幾つもの緑が重なっていく。そうして床に置いた観葉植物と壁に立て掛けたベンジャミンが結ばれていく。あはは、酔っているな。もとい寄っていたのだ黒目は江名子の思い通りにいかない。
「ねーなんでそーやるのー」
またがらないで、パソコンは大切な商売道具でしょう。そんな風に左足で踏みつけて、ほら、右足も載せようとしてる。めりめりと音をたてる畳が心配で廊下へ泳がせる瞳孔が江名子には制御を神に明け渡したように開閉を止まらない。
傾けた覚えのないグラスがフローリングに咲いている。散らばった破片が歪曲して、月の形に金盥を柔らかくしている。本物の金盥から伝う汗がひっきりなしに絨毯にこぼれていた。
もう、高かったのにこの絨毯。シクシク虚しく江名子は廊下に這い出る。足が棒になったから匍匐するしかないのだが、手のひらに突き刺さるガラスの粒子が鮮血を求めていた。
「いたあ」
暗闇に立ち尽くす事故物件は全裸だった。左半身をこちらに向けている。鍵のかかった部屋には畳が敷かれている。和室も電気は点いていない。江名子のいるリビングだけが、横波で満杯、の残滓は廊下まで届くギリギリに回折。
リビングのドアはスリットが三本。互いに干渉し合っても、和室はおろか廊下までも飲み込めないのだ。
背中からひゅうひゅうと冷たい風が吹いてくる。ベランダの窓は割れているから、ワインがこぼれたのは偶然ではない。
ミサイルだな。事故物件の胸はロケットの先端に勝るとも劣らない。桃色の乳首がフローリングと水平になっている。
「いたあ」
「はい」
かくれんぼで鬼になるのはいつも事故物件だ。なぜなら事故物件はじゃんけんでグーしか出さない。それにいつも江名子の他に遊び相手がいない。
「いたあ」
「はあい」
ずりずりと江名子は床を滑る。摩擦で衣服が脱げていく。カットソーも、ストッキングまでも両手の爪を立てて引き裂かれるようにビリビリと千切れていく。
微塵も容赦なく、喉に包丁を突き刺して、左右に焦らして、それから抜いて、刺して、抜いて、振りかぶって、包丁の柄で頭蓋骨を叩いて、真っ赤な液体がほとばしって、白いブルームが飛び散って、匂いが、鮮烈な景色が生まれるとき、ベンジャミンの葉が百枚あったとして、そのどれもに違った模様がつくとやっぱり青い山麓の尾根が透明な空に溶けていく快感が胸に寄せてくる細波に似ている。
パクパクと口を開け閉めしている。一匹の金魚がのたうち回る。あんなに絨毯を濡らすほどの水があるというのに、金魚よお前はなぜ泳がない。そら、泳いでみたまえよ。さあ尻尾を振ってみたまえよ。細く淫らな脱糞だけが取り柄じゃなかろう。静けさの横たわる和室の空気がうまい。夜気と居間の境界に立つことが心地好いから止められない。
事故物件の頬と、鼻筋が闇に浮かんでいる。反対側も見せてよ。黙ったまま事故物件は金魚を眺めている。前世は金魚だったらしいと桃色の猫は噂している。
モヤシじみた髭を前足で掻いて、公園の空き缶を舐めている間は忘れていても、金魚がフローリングで暴れている叫び声を聞いたなら、思い出さないはずがない。
金魚の腐臭が鍵穴から沸いていく、月明かりにハグされて、赤い体躯をなびかせながら、軒先に回覧板を置いていく。回覧板という方法でしかもう金魚の断末魔を響かせる手段が残されていなくて、それは事故物件も同じことをしたわけで、歴史は繰り返すとはこのことだ。
真っ赤な金魚のエラが裏返る。あるときは電話線を伝って、またあるときは無線を介して、可及的速やかに金魚は生まれ変わる。叫びはサイレンとなって、二週間後の道路にかき鳴らされる。酒屋はシャッターを開けたまま唖然とし、黒いカメラを携えたワゴンの列を見送る。
スーパーの店長とパートリーダーは安売りのポップを部下に催促する時間を削ってまで監視カメラの映像を確かめなければならない。信号機の付け根に桃色の塊がとぐろを巻いている。ツナ缶の中身をありったけビニール袋に詰めこんだまま放置したのかと、出勤前のサラリーマンが首を傾げる。
サラリーマンはマスクをしていた。だから背後から流れてくる金魚だったものの唄に気づいてはいけない。




