「おはよう」の準備
とあるTV局の応募用です。
一応こっちにも上げようかなと。
私の一日は、ベランダへ通じるドアについた正方形のガラス窓から漏れる朝日を見ることから始まる。
遮光カーテンのようなものを買って取り付ければ朝日で目覚めることはないけど、この朝日を浴びて起きるということが気に入っているから、いつまでもこのまま。
目覚めてすぐ、充電してあった携帯電話を見てみる。誰かからの通話、メール、アプリケーションの通知、なし。
期待していなかった、わけじゃない。
奇跡は、起こらない。
言葉にしないと、私の思いは届かない。神様にも。
ベッドの上で上半身だけ起こして、一つ伸びをする。寝間着のまま一階に降りていき、誰もいない洗面台へ。
水を出しながら顔を念入りに洗う。目ヤニが残らないように。完璧、とは言わないけど、ちゃんとした私で朝を迎えたいから。寝癖もあったら直す。ここは時間をかけてでもきちんと整えたい。
準備が終わってから、食卓へ。母がいつものようにご飯を準備していた。父の姿は既になかった。
いつも通りだ。
そして、この一言が朝だという証明になる。
「おはよう」
「おはよう」
母の言葉に、同じ言葉を返す。たったこれだけのことなのに、とても大事な儀式のようで。この言葉は私に勇気をくれる。
同じような日常。だけど、本当は違うものだと、わかる一言。
朝の気温、湿度。天気。陽の登り方。外から聞こえてくる動物の鳴き声、人々の喧騒。TVから流れるニュースの内容。朝ごはん。
どれを取っても、同じ一日なんてなくて。
食卓の椅子に座る。いただきますと、小さく呟いてからバターの塗られたトーストを口に運ぶ。スクランブルエッグとベーコン、そして温められたココアも交互に摂取していく。
今日は雨が降らないようだ。傘はいらないのは、手が空いて助かる。天気予報を見たいからニュースを見ている部分がある。
それと、占い。自分の星座が今日何位だったかと気にしてしまう。ラッキーアイテムやラッキーカラーまでは用意したりしないけど、今日どんなことがあるか、やったらいけないことはあるのか。それに一喜一憂してしまう。
今日は八位だった。悪くもないけど、良くもない。いや、半分以下だから悪いのかもしれない。
ご飯を食べながら、母の髪を見てしまう。いつも通り、染髪していない綺麗な茶色の艶ある髪。それを羨ましい目で見てしまう。
私の髪は、派手だから。
「いくら見ても、あなたの髪は変わらないわよ」
「知ってる」
でも、見てしまう。その髪が良かったなと。いくら願っても、そうはなれないのに。
この会話も、いつものこと。
でも、髪の色については神様に祈ったりしない。母の髪色は羨ましいけど、自分のこの色も嫌いじゃない。派手ではあっても、これが私だという証拠だから。
神様に祈ることは、髪のことじゃない。
母と同時くらいにご飯を食べ終わる。食器を片して、洗い物は私が。母も仕事がある。その準備があるのだ。洗い物くらい変わるのが家族だろう。
母は私よりも早く家を出る。父も既に家を出ている。共働きで、父は仕事の始まりが早いために朝はこうしてすれ違うこともできない。私がとても早起きをすればいいのだが、そこまで父は求めていないだろう。
父とは夕方に会える。夜にも話ができる。それで十分だ。
私も家を出る準備をする。荷物の再確認をして、寝間着から着替えて。歯磨きをしながら服装の乱れがないかと確認する。
ここまでは、準備の朝。いつも通りの朝。
これからは、勝負の朝だ。
一階の戸締りを確認して、玄関に鍵を掛けて家を出る。私が向かうのは最寄駅。そこまで歩くこと十分。
通り過ぎる人に会釈をしながら、歩く。近所の方だったら挨拶をするが、知り合いでもない方々だ。ジョギングをしたり、犬の散歩をしていたり、私みたいに駅に向かっている人々。
たまに見掛けるなと思って会釈だけ。これも日本のコミニュケーションだ。
駅に着いて、電車に乗って四駅。その間に知り合いに会うことはなかった。電車はそれなりに混んでいて、誰かを探す余裕がない。一応目線は動かしていたけど、見付からなかった。残念。
目的の駅に着いて、降りる。人の流れに沿って改札口へ。階段を登りながら目的の人を探すけど、百人を優に超える人の中から目的の人を探すのは難しい。
そのまま改札から出てしまった。
携帯電話に何かしらの通知が来ていないかと、確認してしまう。
何も、なかった。
私はそのまま夕方まで拘束される場所へ向かう。その途中で目的の人に会えないかと願ってしまう。あまりにも周りを気にして頭を振るのは周りの人の迷惑になるので、目線だけを動かして探してみる。
やっぱり、見付からなかった。
「オハヨウゴザイマス」
結局、家族以外への挨拶は大多数へ向けてのものになってしまった。
・
家に帰って、携帯電話を見てしまう。連絡帳を見てみても、そこに意中の相手はいない。私はあの人の連絡先すら、知らないのだ。
神様にお願いしても、連絡先は手に入らないだろう。プライバシーの侵害だ。
友人から連絡先を教えてもらう、というのも無理だろう。なぜ知りたがるのかを聞かれる。それに、それもプライバシーの観点からダメだろう。
お互いプライバシーの侵害にならないようなイベントを起こしてくださいと、神様に祈ってみる。
例えば、あの人も誘われるような大人数の集まりを私の友人が決起人となって開くとか。帰る前にどこかのファストフードに連れていこうとするとか。
そんな他力本願だからか、神様が呆れているような気がする。
別に、そんな大きなことがなくてもいい。集まりやご飯なんてもってのほか。
私はまず、「オハヨウ」と言いたい。
日本語にしてみればたったの四文字が、とても遠い。
会うことすらできていないのに、会った上で声をかけて、「オハヨウ」と言うにはどれだけの労力が必要なのか。
私は自分の髪を弄ってみる。黒でも茶色でもない、明るい色だ。
もし髪の色が黒や茶色だったら、もっと気軽に「オハヨウ」と言えただろうか。
そんなもしもを考えてしまう。
神様、私に勇気をください。
もしくは、引き下がれないくらいのイベントを。
そこまでしないと、私はたった四文字を紡げません。
・
今日も同じような朝を迎える。同じ朝じゃない。
様々な準備は一緒で。初めての「おはよう」はやっぱり母に向けたもので。
休日なら、たまに父に向けることもあるけど。
今日は白米に甘い玉子焼き、ソーセージとコールスローが朝食だった。飲み物は緑茶。あまり好きじゃない。パンの時に出るコーヒーもあまり好きじゃない。
ペットボトルの緑茶なら迷わず砂糖を入れるのに。茶葉から淹れた緑茶に砂糖はなんとなく合わなくて入れない。コーヒーとは違う苦味が、好きじゃない。かといって白米にココアを合わせたり、ただの水道水を飲むことはしないけど。
そんな苦手なものを口に含んだ私は少し気落ちしながら、TVを見る。天気予報の後の占いは、三位だった。
「少し早めの行動を心掛けましょう!」
その言葉がテロップとして出た時に、天啓を受けたようだった。
そうか、時間。
目的の場所は同じはずなのに、どうして会えないのか。向かう時間が違うからだ。
目的地に着かなくてはいけない時間にも幅がある。遅れなければ早めに行っても、ゆっくり着いても問題ない。
それを見た私は速やかに行動を開始して、占いの通りに動いてみることにした。
準備は最小に、かつ見落としをしないように。
母と変わらない時間に、家を出た。
電車を一本早くする。たったそれだけの行為。それで何が変わるのかわからない。でも、占いを信じてみようと思った。
神様も占いも、変わらないと思ったから。
初めて乗る時間帯の電車は、新鮮だった。いつもより乗車率が少なく感じる。隙間がそれなりにあって、人々に余裕が見られた。これなら探し人も見つけやすいと思って、辺りをキョロキョロと見回してしまう。
結局、見付からなかったのだけど。
目的駅に着いて改札に向かっても、変化があった。改札に向かう人よりも、電車に乗ろうとする人の方が多かった。
ちょっとの変化で、視界が開けたようだった。
たとえ携帯電話に奇跡は起こらなくても、何故だか景色が輝いて見えた。
駅を出て歩いても、やはり駅から出るよりも駅に向かう人の方が多かった。これなら人を見付けやすいかもしれない。
学生が新学期に、新社会人が入社式に向かう時に気持ちを高揚させることと同じだろう。私は、初めてのことに高揚した。舞い上がった。
歩く速度が上がる。いつもなら漠然と歩いていただけなのに、今日は少し早歩き。高鳴る心臓の鼓動に合わせるように、それに追いつくために足が動いてしまう。
心なしか空気が美味しく感じた。いつもの朝に彩りが加えられたかのような新鮮さだった。これだけで良いことがあったように思える。
──だから、突然の慶事に対応できなかった。
「今日は良いことでもあった?」
「エ?」
後ろから声をかけられて。振り向くと私があれだけ願っていた状況ができていた。
たった一言。四文字。
それを伝えたかったのに、その勇気が出なかった。
「おはよう。この時間は珍しいんじゃない?」
あれだけ勇気を振り絞って伝えたかったことを、相手はサラリと言いのける。
それがなんだか悔しくて、嬉しくて。後押しされたようで。
言葉には魔力があるんだなあ、なんて思って。
早まる鼓動に乗せられたまま、勇気を足止めしていた私の羞恥心を乗り越えていった。
「オ、オハヨウ、ゴザイマス。占イデ、早メノ行動ヲッテ」
出だしに詰まってしまった。緊張しながらも、きちんと挨拶ができた。
「オハヨウゴザイマス」は「おはよう」だ。間違ってないはず。
「ああ、なるほど。占いなんて最近は気にしてなかったなあ。明日は家を出る前に見てみようかな」
うん、返事は間違ってなかったみたい。自然と隣に立たれて、同じ目的地に歩き出す。
並んで歩いて。こうして話もして。
拙い話し方の私にも、にこやかに笑いながら相槌や返しをしてくれて。
たったの四文字が、四文字に収まらなくて。
でも、こうして願い事は叶って。
色んな準備は役に立たなかったのか、役に立ったのか。
明日はどうしようか。今日みたいに早く来るか、いつも通りにしようか。
それとも、「オハヨウ」と言ってみるか。
ううん。「オハヨウ」だけじゃなくて、拙くならないようにもっと言葉を勉強しよう。今までは挨拶が最終目標になってたけど、こうして話せるようになったんだから。
言葉を覚えなきゃ。発音をしっかりしなくちゃ。
たった四文字じゃなくて、会話になるように。
四文字にこれだけ準備したんだから。次はもっと準備しないと。
母にも頼もう。甘えていてはダメだと思うから。
二度目の「オハヨウ」を済ませた私は、無敵だ。
「オハヨウゴザイマス!」
昨日よりもハキハキと。そう言える。
明日からじゃなくて、今日から。準備を始めよう。
続きはありませんので悪しからず。