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生まれ変わってもまた一緒になろうね

作者: シュート

第一章 幸せの起点


 いつか息絶える未来の一点を目指して、人は性懲りもなく恋をする。

 とはいえ、ロマンチックな出会いなんて、そうそうあるものじゃない。しかし、一見平凡に思える出会いでも、実は出会うべくして出会ったという運命的な出会いが、ごくごく稀にある。

 中里大樹が前田雪乃と出会ったのも、よくあるパターンだった。大樹の大学時代の友人の松岡正孝の結婚披露宴で、二人は受付役として出会った。大樹は受付役をしながら、隣に立つ雪乃の姿を何度も盗み見て、一方的に『ビビッ』ときた。しかし、当日は忙しくて二人の間にほとんど会話はなかった。受付の仕事が終わったところで連絡先を交換することにだけは成功したけれど…。でもそれはある種の社交辞令のようなもので、先に進むとは思っていなかった、ように思う。

 本当のところ、大樹は雪乃のことがすごく気になっていたが、恋愛に奥手の大樹に行動を起こす勇気はなかった。きっとこのまま何も起こらない…。

 だから、松岡の結婚式の二週間後の日曜日の午後に、雪乃から電話がかかってきた時は正直驚いた。

「もしもし、私、前田雪乃と言いますけど…」

 その名前を聞いてすぐに顔が浮かんだのは、大樹の中に潜在的に雪乃に対する好意があったからだろう。

「ああ。先日はお世話になりました」

「いえ、こちらこそ」

「で、何か?」

 自分でももう少し気の利いた口の利き方ができないものかと思うが、体育会系で育った大樹は女の扱いに慣れていない。それに、大樹はてっきり、先日の結婚式のことで何か自分に報せることでもできたのかと思ったのだ。

「あのお~、実は今日は中里さんにお願いがありまして…」

 なんか言いにくそうにしているのが気になる。いったいどんなお願いなのだろうかと、大樹は警戒心を抱いた。

「はい? 僕に? どんなことでしょう?」

 極力、声が硬くならないようにしたつもりだったけど、それでも雪乃には緊張を与えてしまったようだ。

「ご迷惑だったらお断りいただいて結構なんですけど…」

 何の用かも言わずに、『お断りいただいて結構』って何だよと思う。じれったくなった大樹だったが、緊張をほぐすために柔らかく先を促す。

「僕にできることでしたら何でもお応えしますので、どうぞおっしゃってください」

「えっ、そうですか。ありがとうございます。実は、広尾にすごくカワイくておしゃれなカフェがあるんです」

「カフェ?」

 唐突な話に、思わず雪乃の言葉を繰り返した大樹。

「はい、そうなんです。そこへ行きたいんですけど、そこ、カップルで行くようなお店なんです」

「はあ?」

 なんとなく雪乃が大樹に電話をかけてきた趣旨がわかってきたけれど、大樹には戸惑いしかない。

「私、今付き合っている人いないので…。できれば一緒に行っていただけないかと…」

 恥ずかしそうに言う雪乃がカワイイと思った。同時に、雪乃に彼氏がいないというのも大樹には意外であった。

「そんなことでしたら、もちろんOKですけど。逆に僕でいいんですか?」

 大樹は自分で自分のことを、まあまあのイケメンだとは思っているものの、本当のところ、上の下か中の上程度ぐらいだろうと冷静に認識していてる。

「ぜひお願いします」

 これが二人が付き合うことになったきっかけである。あの時、雪乃が自分を誘ってくれなかったら、二人は付き合うことにならなかったのかもしれないのだから、雪乃の行動力に感謝だ。

 地下鉄の広尾駅前で待ち合わせしてカフェまで並んで歩く。今日の雪乃は膝下丈の紺色のワンピースを着ている。足が長くなければ似合わない丈だけれど、よく似合う。

 その日、緊張していたのは大樹のほうだった。二年前に当時付き合っていた彼女と別れて以来の久しぶりの女性とのツーショットに、実はドギマギしていて、まったく会話をリードすることができない。しかし、雪乃はこれから向かうカフェのことですでに頭がいっぱいのようで、大樹の様子など気にも留めていない。そんな雪乃を見て、大樹は自分がただの付添人に過ぎないことを自覚させられた気がした。一瞬裏切られたような気がしたけれど、よく考えれば彼女は最初からそう言っていたではないか。いつの間にか自分が勝手に勘違いしていたに過ぎない。そのことに気づき、急に恥ずかしくなったが、同時に緊張も解けた。

 目指すカフェは駅から歩いて3分ほどで着いた。突如現れた『レ・グラン・ザルブル』という名のその店は、絵本に出てきそうなおしゃれなカフェだった。店の前にある大きな木の上にはツリーハウスがあって目印になっている。その外観を見た時に大樹は一緒に来たことを後悔した。あまりにメルヘンチックでカワイイその店は、大樹には場違いで、入店を怖気させるには十分な効果があった。

「ここですか…」

「そうです。すごくカワイイでしょう?」

「えっ、はい」

「じゃあ入りましょう」

 固まったままの大樹の背にそっと手を添えて、雪乃が入るように促す。1階、2階がフラワーショップで、3階と4階のテラス席がカフェになっていた。二人は3階の席に座る。

 雪乃の情報で、その店で一番人気という『おまかせヘルシーデリプレート』を二つと、雪乃はオレンジジュースを、大樹はコーヒーを注文する。大樹は店の中を見渡してみるが、なんとなく落ち着かない。

「今日は無理言ってすみませんでした」

 正面に座った雪乃を改めて見る。丸みのある優しい顔立ち。二重の大きな目をさらに印象づけているのは黒目が大きいからだろうか。鼻筋は通っているが、少し上に反っていることで柔らかな雰囲気になっている。鼻と口の距離が短いので顔全体が締まっている。唇が少し厚めで、ふっくらとしているので大人の色気を感じさせる。それに、透き通るように白くきれいな肌をしていた。

「いえ、全然…」

 そうは言ったものの、やはり自分は無理していると思う。

「ひょっとして中里さん、こういうカワイイお店初めて?」

 雪乃が楽しそうに言う。

「実は、ね」

 すると雪乃が笑いをこらえたような顔を大樹に見せて言った。

「なんか、カワイイ」

 もうダメだった。カフェに入って、改めて雪乃と向かい合って座った時から、大樹は雪乃に恋をしていた。結婚披露宴の受付の時は、雪乃はずっと横にいて正面からはちゃんと見ていなかった。今目の前に座る前田雪乃は大樹のドストライクの女性だった。

「そんなあ、揶揄わないでくださいよ」

「揶揄ってなんかいないです。ほんとにそう思ったの」

「そうですか…」

 自分も雪乃に何か言わなくてはと思うのだが、思いがあり過ぎて言葉が出て来ない。

「それにしても、おしゃれなお店ですね」

 結局、肝心なことは言えなかった。

「そうですよね。私、こういうおしゃれなカフェを巡るのが趣味なんです。もっとも、最近始めたばかりなんですけどね」

「へえー、そうなんですか」

「そうなんです。だから、よろしかったら、これからも一緒に行ってくれません?」

 雪乃は挑戦的な目をしていた。大樹がこうしたおしゃれな店が苦手とわかって敢えて言っているのがわかる。

「いいですね。ぜひ」

「うふ。無理してないですか?」

「そんなことないですよ」

 半分怒ったように言った大樹を、雪乃は微笑みながら見ている。

「わかりました。じゃあ、よろしくお願いします」

 そう言って、雪乃が両手を差し出した。その手を大樹は握り返す。雪乃の、その小さな手はマシュマロのように白く、柔らかく、すべすべしていた。

「ちなみに、来週はどこへ行きたいですか?」

 女性に対してこんなに積極的になっているのは初めてだった。

「えっ、もう来週のことですか? びっくり」

「すみません。なんか先走ってしまって」

「ううん。嬉しいです。次に行きたいと思っているのは、中目黒にあるグリーンビーントウバーチョコレートというお店」

「へー、どんな店なんですか?」

「その名の通り、カカオ豆からチョコレートになるまでの製造工程を一貫して行っているチョコレート専門カフエ。濃厚なのに重くないチョコレートタルトやケーキで有名なんです」

 大樹にとってはハードルが高そうな店だ。

「チョコレート専門カフエなんてあるんですね」

「中里さん、チョコレート嫌い?」

「いや、好きです。ぜひ行ってみたい」

 またも無理してしまった。

「でも、今日はもうちょっとこのお店を堪能しましょう」

「わかりました」

 その日はお互いのことを紹介しあった。

こうして二人でお茶しているけれど、友人の結婚披露宴の受付を二人でやったというだけで、お互いのことについては何も知らなかったから。ますは礼儀として大樹から話した。自分の生い立ちから始まり、家族のこと、仕事のこと、趣味のことなど。

 一通り大樹の紹介が終わった後、今度は雪乃が話し始めた。年齢は25歳ということだから、大樹より2つ年下ということになる。仕事は派遣社員として働いているとのことだった。ただ、雪乃の場合、短期間で会社を変わる仕事が多いため、職場の友人ができないのが悩みらしい。趣味はこれまでいろいろやってみたけれど、どれも長続きするものはなかったという。そんな中で、最近始めたばかりのカフェ巡りは自分に合っているので長続きしそうだと笑顔で言った。本当にカフェ巡りが楽しそうだった。

「出身はどこですか?」

「静岡です」

「そうなんだ。小さい頃はどんなお子さんだったんです?」

「今の私からは想像しにくいかもしれませんけど、ヤンチャな子で男の子とばかり遊んでいましたね」

「それは確かに意外ですね」

 目の前にいる前田雪乃という女性は、物静かでおしとやかな女性にしか見えない。

「そのせいか。大きくなっても同性の友達よりも異性の友達のほうが多いですね」

「えっ、今でも?」

 大樹にとっては聞き捨てならない言葉だった。

「そうですね…。でも誤解しないでくださいね。あくまでも友達ですから」

 大樹は異性間で友達関係は成り立たないと思うタイプなので、少し違和感があった。それに、異性の友達がいるのなら、この店もその友達の一人を誘えば良かったんじゃないかとも思ったが、そんなこと言えば場の雰囲気が悪くなりそうで言えなかった。

「友達っていう名の恋人って言うのもありますからね」

「だから、そういうのとは違いますって」

 思いのほか強く否定されて、それ以上言えなくなってしまった。仕方なく話題を変える。

「ところで、東京に出てきてどのくらいになるんですか?」

「短大を卒業してからだから、6年くらいになるんですかね」

「結構長いですね。そろそろご両親から早く結婚しろとか言われないですか?」

 大樹は軽い気持ちで訊いたのだが、雪乃の顔が一瞬で曇った。

「両親は、私が高校二年生の時に、飛行機事故で亡くなりました」

 空気が急速に蒼ざめる。大樹は自分の軽率さを呪った。

「そうだったんですか。ごめんなさい。嫌なことを想い出させてしまって」

「大丈夫です。もう乗り越えましたから」

「そうですか…」

 その表情からして、辛いことをたくさん経験してきたのだろうと推測できた。

「がらっと話は変わるんですけど、前田さんってどういうタイプの男性が好きなんですか?」

「本当にがらっと変えましたね。そうですね、私がこういう感じなので、飛びぬけて明るくて、一本気な人かなあ」

「う~ん、なるほど。僕は会社でお前は真面目なお間抜けって言われてるんですけど、そんな男ってどうですか?」

 実際、同期の人間にはそう言われているが、自分でも当たっていると思っている。

「真面目なお間抜けって、おもしろい」

 雪乃は大樹が場を和ますために言った冗談かと思ったようだ。

「褒められてるのか貶されてるのか、よくわからないんですけどね」

「みんなに愛されてるのよね、きっと」

「そう思うことにします。でも、僕って個性がないんですよね。代々サラリーマンの家系に生まれて平凡な生活送ってましたから。顔も平凡だけど」

 ちょっと謙遜してみた。

「でも、中里さんって、いい意味で平凡じゃないですよ。この間の結婚式の二次会で新郎の松岡さんに詩集をプレゼントしてましたよね」

 そう言えば、雪乃も二次会に参加していた。しかし、席が離れていたため会話することはなかった。確かにその時大樹は他のみんなが実用的なものを松岡に贈る中、詩集をプレゼントした。大樹は別に文学青年ではなかったけれど、本屋で偶然出会ったある詩集に感動し、それを松岡に贈ることにしたのだった。その様子を雪乃が見ていたとは思わなかった。

「それに、目がすごく素敵です。なんか引き込まれそうになっちゃう」

「そんなこと言われたことないので照れちゃいますよ」

「照れなくていいですよ。それで、中里さんはどんな女性が好きなんですか?」

 今度は雪乃からお返しがきた。

「僕ですか…」 

 本当は『あなたみたいな人』と言いたかったけど、今日初めてちゃんと会話したばかりの女性にそんなことを言えば引かれると思ったので、違う表現でそれを表した。

「僕はあなたに似た人が好きかなあ」

「どういう意味ですか?」

 敢えてどうとでも取れるように言った。

「ごめんなさい。今日のところは掘り下げないでください」

「わかりました。続きは次回以降に教えてくれるということですね」

「そうです」

「中里さんって、案外やりますね」

「えっ、何を」

「とぼけてる」

 笑いながら雪乃が言った。

 雪乃の後ろで風景がまばゆく細密に広がる。昔の東京の匂いがするような気がして、気持ちがしっとりする。二人は周囲に人がいることを忘れたかのように、夢中で話し合った。

「えっ、もうこんな時間」

 雪乃が時計を見て言った。

「あっ、ほんとだ」

 大樹も自分の時計で時間を確認する。気がつけば、5時間も喫茶店にいた。

 その日以来、休日は二人でカフェ巡りをするようになった。大樹も最初のうちはカフェ巡りというものに戸惑いや照れがあったが次第に慣れて、自分でもおしゃれなカフェの情報を集めるまでになっていた。

 一緒にカフェ巡りをする中で、二人の距離は一気に縮まり、あっという間に恋人同士になっていた。雪乃は顔がきれいなだけでなく、性格美人でもあった。ポジティブで明るいし、ささいなことにも感謝し「ありがとう」と言える人だった。しかも、何かあった時でも、言い訳せず「ごめんなさい」と言える素直で誠実な人柄だった。その上気配りのできる女性だった。

 そんな関係にはなったが、大樹にはずっと気になっていながら雪乃に訊けなかったことがあった。いつか訊こうとチャンスを伺っていた。

「ねえ、雪乃」

「ん? なあに?」

「今更なんだけど、訊いていい?」

「だから、なあに?」

「僕をあの広尾のカフェに誘ったのは、たまたま松岡の結婚披露宴で一緒に受付をした僕のことを思い出したから?」

「そう思うの?」

「いや、わかんないから訊いているんだけど。ただ単にカフエ巡りの付添人がほしかったからなのかなあと」

「そうかあ。ひょっとして、私、大樹のこと傷つけちゃった?」

「えっ、やっぱりそうだったの?」

 雪乃を責めるのはお門違いだとわかっていても、やはり傷つくし怒りも湧く。

「違うの、違うの。私が誤解を与えてしまったことで傷つけちゃったかなと思ったの」

「どういうこと?」

「私は結婚披露宴の受付で大樹に会った時に、私はこの人に会うために生まれてきたんだって思っちゃったの。だから、どうしても大樹じゃなくちゃダメだった。でも、そんなこと恥ずかしくて言えないでしょう」

「そうだったのか…」

 雪乃から愛の告白を受けているようで、天にも昇るほど嬉しかった。

「ごめんね」

「いや。雪乃の思いを聞けて嬉しい。雪乃…」

「今度はなあに?」

「僕と結婚してくれないか」

 もちろん、まだ指輪も用意していなかったけれど、このタイミングを逃すことはできないと思ったのだ。大樹の告白に雪乃は目を大きく見開いた後、大粒の涙をこぼした。そんな雪乃を見て、危うく大樹も泣きそうになったが、かろうじて我慢する。

「OKと思っていい?」

「もちろん」


第二章 愛しさの頂点


 二人の結婚に障害は何もなかった。雪乃にはすでに両親はなく、親戚付き合いもないとのことで、周囲に誰も反対する者はいなかった。

 一方の中里家は何の問題もなかった。初めて雪乃を連れて実家に帰った時から、父も母も妹も一瞬で雪乃のファンになってしまったのである。みんな、大樹そっちのけで雪乃を取り合いをする騒ぎであった。

 そんなこともあって、二人は出会ってわずか二か月後に結婚した。あまりに短期間だったために、マリッジブルーになる余裕すらなかったと雪乃が言っていたのを思い出す。結婚式は仲の良い友達だけを集めたパーティ形式にした。大樹の両親も、お前たちがそれでいいならと理解を示してくれた。

 雪乃がそのパーティに招待したのは、高校時代の友人と短大時代の友人の二人だけだった。同性の友達は少ないと聞いてはいたが、せっかくの結婚披露パーティなので、もっと多くの人を呼んだらと言ったら、『男の友達を呼ぶわけにはいかないでしょう』と、いたずらぽい目をして言われてしまった。もちろん、冗談だとはわかっていたが、一瞬胸騒ぎがしたことを覚えている。そんなことで、大樹の友達や会社の同僚が大半を占める男くさいパーティとなってしまったが、それでも雪乃は楽しそうだった。

 彼女のドレス姿はいつにも増してきれいだったし、彼女の友人たちもそれぞれきれいだった。彼女たちがいる一角だけが浮き立つほど華やかだった。雪乃の友人たちとはその日に初めて会った。みんな妙によそよそしかった印象があるけれど、初対面なのでそんなものかと納得した。もちろん、その時に雪乃から名前も聞いた。ひとりは田村朋美といい、もう一人は木村真紀という名だった。しかし、その後の結婚生活の中で雪乃からその名が出てくることもなく、家に呼ぶということもなかったのでいつしか失念してしまった。

 新婚旅行は北海道に行った。独身の時にさんざん海外旅行に行ったので、新婚旅行は国内がいいと雪乃が言ったので、北海道に決まった。ちょうど時期が7月だったこともあり、雪乃が富良野のラベンダーが見たいというので、旭川から美瑛に向かった。その後、小樽、函館というコースを選んだ。

 水彩で描かれた抽象画みたいな風景の中を走る列車に、柔らかい日差しが斜めに差し込む。向こう側の青さを透かす淡い雲が、掃くように高い空を流れている。隣に座る雪乃の香水の残香が切なくも美しい匂いの結晶となって大樹の心の奥底を焦がす。その時、大樹は何かの本の中にあった『恋のきっかけは、そこに人が自分の欠片を発見してしまうからだ』という言葉を思い出した。自分は自分の中にいる雪乃を愛しているのかもしれない。自分は今、本当の意味で幸せの起点にいる。

 新婚旅行も最後の日の夜、雪乃があの約束を持ち出した。

「私、あまりに幸せ過ぎて怖いの」

 それは大樹も同じだった。雪乃は先を続けた。

「だから、約束してくれない?」

「どんなこと?」

「生まれ変わってもまた一緒になろうって」

「もちろんだよ。生まれ変わってもまた一緒になろうね」

「嬉しい」

 雪乃の目から涙が流れていた。

 結婚を機に二人はそれぞれの住まいを引きあげ、JR中野駅から徒歩10分ほどのところにあるマンションに引っ越した。2DKの部屋も、二人分の荷物を入れて見ると、案外狭く感じた。

「ここで新しい生活が始まるのね」

 段ボールの山と山の間に座り、近所のコンビニで買ってきた弁当を取り出しながら雪乃が言った。まるで、それ以前の嫌な過去を清算するかのような決意の籠った言い方だった。

「そうだよ」

「幸せになろうね、今度こそ」

「ん? 今度こそ?」

「あっ、ごめん。これ前から思ってたんだけど、大樹って初めて会った気がしないんだよね」

「そういう感覚、わかる」

 あくまでも感覚の問題だけど、大樹の中にも同じ思いがあった。

 一緒に住み始めてみると、大樹の知らない雪乃に驚くことがあった。もちろんそれは雪乃にとっても同じで、雪乃の知らない大樹に面食らったこともあったようだ。何しろ、知り合って2カ月で結婚してしまったのだから当然である。そうした中では、ともすると相手の長所ではなく欠点に目が留まり、それまで好きだと思っていた部分まで嫌いになったりしがちだ。その結果、二人の関係に深い溝が生まれるという不幸を招くこともある。しかし、大樹と雪乃の間には、そうしたことは一切起こらなかった。

 人間誰しも欠点はある。もちろん、大樹と雪乃とて同じこと。でも、だからといって嫌いになることなど決してなかった。逆にカワイイとかおもしろいと思うことのほうが多かった。特に、雪乃は大樹の欠点をおもしろがった。笑いながら『ええー、信じられない』などと言って。でも、雪乃にはただ単におもしろがるだけじゃなく、『こうしたら』とか『こう考えて見たら』とアドバイスしてくれる優しさがあった。そんな雪乃は、大樹にとって、いくら噛んでも甘さの消えないガムみたいな存在だった。

 相性が合うという言葉があるけれど、自分たちほど相性のいい男女はいないのではないかと本気で思った。神様が最適・最高の相手を選んでくれた奇跡のカップルなのではないかと、雪乃に言ったら『そうに決まってるじゃない』とごく自然に答えた。

 結婚後もカフェ巡りは続けていた。もちろん、それ以外に映画を見に行ったり、食事に行ったり、旅行に行ったりもした。それでも、二人にとっては、あくまでもカフェ巡りが中心だったように思う。都内の有名店を制覇した後は、知られざる名店探しに精を出した。さらには、近郊から地方にまで足を延ばしていた。

カフェ巡りをする中で、二人はさまざまなことを話し合った。日常の細々したことから、将来の生活設計まで。このことが、夫婦の絆をより深めることに繋がったと思っている。ロマンチックな言い方をすれば、結婚後も二人はずっと恋を継続していたといえるのではないか。だから、二人は一度も夫婦喧嘩というものをしたことがない。

 やがて、雪乃は妊娠して長女を産んだ。名前を決める際、大樹は「映美」という名を主張した。特に深い意味があったわけではない。ただ単にその名前が好きだったから。しかし、雪乃にはその名前は絶対嫌だと拒否された。『なぜ、映美が嫌なの』と訊いても、特に理由はないと言うことだった。結局、雪乃の提唱した「瞳」になった。

 子供が生まれると雪乃は懸命に育児に取り組んだ。だからと言って、雪乃は大樹との関係を疎かにはしなかった。そんな雪乃に応えるためにも、大樹は可能な限り育児を手伝った。おかげで夫婦関係はさらに良好なものになった。

 それから3年後には次女の穂香が産まれ、4人家族となった。平凡だけど、幸せな生活だった。穏やかでゆったりとした時間が流れて行く。二人の娘もすくすくと育ち、いつしか、長女の瞳が高校二年生、次女の穂香が中学三年生になっていた。次女の穂香は自分の顔が大樹に似てきたことが嫌だと雪乃に言ってるようだが、年頃の娘にありがちなことなので大樹は問題にもしていない。ただ、長女の瞳の顔が高校生になった頃から変わり始め、今では妻の雪乃にも大樹にも似ていない顔になっている。女の顔は大人の女になる過程で変わるものだと雪乃は言うが、大樹は少し気になっている。

「ちょっとお、パパとママ。子供の前でやめてよね」

 日曜日の午後、大樹はリビングのソファーでテレビを見ている雪乃の隣に行き、雪乃の手を取って触れようとした。雪乃も嫌がることはなく、されるままになっている。いつものことだ。その時、二階の自室から降りて来た瞳が二人の姿を見て呆れたように言ったのだ。

「何?」

 雪乃と大樹がほぼ同時に声を揃えて言った。二人にとっては、いつものことで何のやましさも感じていない。

「だから、その手」

 雪乃の手を撫でていた大樹の手を指して言う。

「ああ、これ。こうするとママの気持ちが落ち着くんだよ」

「そうかもしれないけどさあ」

 思春期真っ只中の瞳からすれば、あまり見たくない光景なのかもしれない。すると、ダイニングテーブルで一人宿題をしていた穂香が、おかしそうに言った。

「二人ともいつまでラブラブなんだろうね」

 若干から揶揄うような言い方をした穂香に大樹が答える。

「ずっとだよ。しょっちゅう喧嘩している夫婦より良くないか」

「まあ、そうだけど。程度問題だよ」

 瞳が大人ぶって言う。すると、今度は穂香が興味深々という顔で訊いてきた。

「前々から訊いてみたかったんだけどさあ、パパはもし生まれ変わってもママと結婚したいの?」

「当たり前じゃないか。それ以外の選択肢なんてあり得ないよ」

「ふ~ん。で、ママは?」

「もちろん、パパと同じよ。だって、パパのこと大好きだもん」

「なんかカッコいい」

 感心したように言った穂香に対し、瞳が反論した。

「ええー、カッコよくなんかないよ。私は生まれ変われるとしたら、まったく違う人と、まったく違う人生を歩みたいわね。そのほうが絶対楽しいもの。そうじゃないと、生まれ変わった意味がないと思わない?」

「確かにお姉ちゃんの言う通りかもね。だけど、そもそも同じ人間に生まれ変われるかなんてわからないし。それに、人間じゃなくて昆虫に生まれ変わってるかもしれないしね。カフカの『変身』みたいにさ」

 穂香は本当にカフカの『変身』を読んだのだろうか。

「カフカの『変身』って言ったけど、穂香はちゃんと読んだことあるのか?」

「図書館で読んだと思う」

「カフカの『変身』って、ある日目覚めたら、巨大な毒虫・害虫になってたって言う話で、家族に気持ち悪がられて部屋に閉じ込められて、結局部屋で息絶えるんだよ」

「それは嫌だなあ。でも、普通の昆虫だったらいいじゃない」

 まあ可能性はある。誰も経験ないので肯定も否定もできない。そこで、父親らしく二人を諭すことにした。

「二人ともロマンチックじゃないなあ。強い愛で、来世でもまた結ばれると信じて祈り続ければ、願いは叶うに決まってる。ねえ、ママ」

「その通りよ」

「呆れた。二人ともいい歳をして夢見る夢子さんなんだから」

 リアリストの瞳は冷たくそう言い放った。

「瞳、それは違うな。パパとママはそういう夢を見ているんじゃなくて、現実を永遠にできると信じているだけさ」

「なんかよくわかんない」

 瞳がそう言う中で、穂香は、まったく違うロマンティストぶりを発揮した。

「私は人間に生まれ変わるよりも、昆虫に生まれ変わるほうがロマンチックだと思うけどな」

「穂香らしいわね」

雪乃が感心したように言った。大樹は同じ姉妹でもこれだけ違う感性の子に育ったことが嬉しかった。それぞれの良いところが活かされる分野で輝いてくれれば、親として嬉しい。  

 大樹の仕事も順調で、45歳になった時には念願のマイホームを手に入れることもできた。もちろん、ローンでだけど。まさに、公私ともに順風満帆な生活が続いていた。

 子供の手が離れるようになり、大樹と雪乃はカフェ巡りを再開した。改めてネットで最近流行りのカフェを探すと、雪乃が好きそうな新しいカフェが次々誕生していた。リストアップして雪乃に見せると目を輝かせ、

「行きたい。行こうよ。また二人で。でも、スタートはやっぱり広尾のレ・グラン・ザルブルからね」

 広尾のレ・グラン・ザルブルは今もずっと昔のまま営業していた。

「二人の初デートの場所だからね」

「それもあるけど、あのお店ってずっとずっと昔からあって、この先もずっとある気がしない?」

「確かにそうだね」

「そんな時代を超越したようなところが好き。あなたの昇進祝いも、二人だけであのお店でしない?」

「ああ、いいね」

 大樹はこの春に部長に昇進した。出世欲などさらさらなかったが、まじめに仕事をしてきた結果としての昇進は悪い気はしなかった。しかし、父親の昇進などにもはや成人した子供たちは何の関心も示さなかったので、二人で祝うことにしたのである。

「幸せね、私たち」

 雪乃が改めて言った。

「ほんとに幸せだ」

 このまま何事もなく人生の後半を迎えるのだろうなと思っていたそんな矢先、事態は急変することになる。幸せの中にいると、立ち昇った嫌な予感すら気づかないものらしい。

秋の終わりと冬の始まりを繰り返しながら進む季節の中で、木々の葉は様々な色に枯れていこうとしていた。

「じゃあ、行ってくるよ」

 雪乃に声をかけるが、何か考え事をしていたのか返事がない。もう一度声をかける。

「えっ、何。ごめん。ぼんやりしていた」

「行ってくるよって言っただけ。ああ、ちなみに今日は帰りは遅くなるかもしれない」

「わかりました」

「大丈夫。何かぼおっとしていたみたいだけど」

「ううん。大丈夫よ」

「それならいいんだけど…」

その日は、夕方から気温が急激に下がったせいで冷たい風が吹いていた。大樹が仕事を終え自宅に戻ると、雪乃がソフ-に横になっていた。そんなことは今までないことだったので、驚いた。

「どうしたの」

「ちょっと頭が痛くて。薬飲んだんだけど、なかなか治らなくて。食事の用意してあるから食べて」

と食堂のテ-ブルを指す。

「食事のことは心配しなくていいよ。それより大丈夫。病院に行ったほうがいいんじゃない」

「大丈夫よ。もう少しだけ、ここで休ませて」

「わかった。治らなかったら言ってね」

 娘二人はまだ帰宅していなかった。私は急いで食事を済ませ、妻を寝室まで連れて行き寝かせた。しばらくは、ベッドの横で様子を見ていたけれど、安心したのだろうか、雪乃は寝息をたてていた。それを確認した大樹は階下に戻り、応接間で休んでいた。それから、3時間ぐらいたった頃に、もう一度雪乃の様子を見ようと2階の寝室へ行った。雪乃はまだ寝ていたが、鼾をかいていた。普段鼾などかいたことのない雪乃の鼾に、異常を感じ、大樹はすぐに救急車を呼んだ。

 雪乃は、くも膜下出血であった。昏睡に陥っており、危険な状態であった。大樹も、二人の娘も奇跡を信じ、交代で雪乃についたが、事態は変わらなかった。

 そんなある日、大樹がいつものように雪乃の病室へ行き、手を握りながら話しかけていると、雪乃がうっすらと目を開けた。大樹は奇跡が起きたと思った。

「雪乃」

 大樹は、そっと声をかける。雪乃がかすかに頷いた。大樹であることがわかったようだった。しばらくの間、二人は見つめ合ったままであった。あまりにもいっぱい話したいことがあって、かえって言葉にならなかった。雪乃の口が少し開いた。何かを大樹に伝えたがっている。そう思った大樹は、雪乃の顔に自分の耳を近づけた。すると、雪乃は途切れ途切れに息を吐くように小さな声でこう言った。

「あなた、あの約束覚えている?」

 その瞬間、大樹はすべてを理解した。

「もちろん、覚えているよ」

「そう、良かった。で、お願いがあるの」

「うん?」

「もう一度、今ここであの約束を言って、お願い」

 そう言って、雪乃は右手を少し上げ、小指を大樹のほうに差し出した。大樹は、その指に自分の小指を絡ませた。

「生まれ変わってもまた一緒になろうね」

「ありがとう。嬉しい。また、あちらで楽しい思い出をいっぱい作ろうね。約束だよ」

「うん、約束する」

 大樹の目に涙が流れるのと、雪乃の目に涙が流れるのは同時だった。でも、「約束」に安心したのか、雪乃の意識は再び薄れ、昏睡の中に落ちて行き、二度と意識を取り戻すことはなかった。温もりは返す波にさらわれてしまうようにするするとどこかへ消えた。

 それから3日後に雪乃は帰らぬ人となった。心はまるで冷えた蝋のように固まり、「悲しみ」の形にまとめようとしても、形作った端からそれはさらさらと崩れ落ちた。

 二人の娘の悲しみようは、傍で見ていても辛かったが、大樹は雪乃との固い約束を信じて、これからも生きて行けるような気がしていた。


第三章 ここはどこ?


 ゼリーのような分厚い膜の中を、先に見える僅かな光を目指して懸命に走っている。

 見たことのない景色が、実際の記憶のように色鮮やかに浮かんでいる。

 長い長い産道をゆっくりと抜けながら、眠りと目覚めの境目にある海を漂っていると、突然激しい頭痛がした。


 目覚まし時計の音が、混濁した意識を徐々に現実に変えていく。

 布団の中で目を覚ました大樹は、自分がアパートの部屋の中にいることに気づく。ゆっくりと上半身を起こして部屋中を注意深く見渡す。

 カーテンの色模様や家具も家電も見慣れたものばかりだった。改めて時計で時刻を確認すると、午前7時を少し回ったところだった。

「出勤しなければ…」

 自然と出た言葉だった。慌てて洗面所へ行き、軽く顔を洗い歯磨きをする。鏡に映る自分の顔を見て、何となく違和感を感じる。その正体を確かめるために、もう一度部屋に戻る。何も変わっていない。しかし、ふと壁にかかったカレンダーを見て、自分がいる場所に気づく。カレンダーには2080年となっていた。でも、ここは『未来』ではない。自分は『来世』にいる。大樹には、なぜか確信めいたものがあった。

 いろいろ考えるべきことがあったが、出勤時間が迫っていた。朝食をとっている時間もなかったので、冷蔵庫を開け、野菜ジュースを飲むだけにする。

 アパートを出て駅までの道を急ぐ。『来世』に来たばかりのはずなのに、通い慣れた道のせいか足が勝手に進んで行く。改札口を抜け、エスカレーターの右側を駆け上がりホームへたどり着く。電車を待つ列の一番後ろに並ぶと同時に、電車が警笛を鳴らしてホームへ入って来た。すでに満員の車内に無理矢理乗り込む。見ず知らずの他人と身体中が密着する。満員電車というものが、こんなにも気持ち悪かったのかと思い知らされる。毎日こんな思いをしていたことに驚きを隠せない。特に背が高く、体格もいい大樹は、満員電車の中では邪魔者扱いされる。大きな体を、できるだけ小さくして耐え続けた。

 勤務先の最寄り駅でやっと地獄から解放された大樹が、『通い慣れた道』を歩いていると、後ろから声をかけられた。

「先生、おはようございます」

 歩みを止めて振り返ると、そこには一人の女子高生が近づいていた。自分は『来世』では、教師になりたいという夢を叶えていたのだ。しかし、よりによって女子高とは思わなかった。彼女の着ている制服は、お嬢様学校として有名な私立丸川学園高等学校のものだった。

「真中、今日は早いんじゃない?」

 真中という名前がスッと出たことに、自分でも驚く。

「やだ、先生。朝練があるからじゃないですかあ」

『朝練?』

 一瞬何のことかわからなかったが、自分が顧問をしているソフトボール部の早朝練習がある日だったと気づく。そのために、自分もいつもより早く出勤してきたのだ。

「そうだったな」

「とぼけちゃって、先生。じゃあ、私、先に行ってますから」

 そう言って、真中玲子は大樹の横を走り抜けて行った。

 学校に着き、職員室へ入る。この時間に来ている教師はまだ少なかった。女子高なので、必然的に女性教師のほうが多い。

「おはようございます」

 大樹が声をかけると、みんなが振り返って、

「おはようございます」

 と返してくれる。当然のことなのだが、その顔ぶれを見て、大樹は新鮮に感じた。『前世』の時に務めていた会社の同僚とは、明らかに雰囲気が違ったからだ。自分の席に着き、今日の予定を確認した後、朝練の行われるグラウンドに向かう。

 わが丸川学園高校ソフトボール部は、キャプテンの真中の下、まとまったいいチームだった。前顧問の先生が急に辞めてしまい、小学校から高校まで野球をやっていた大樹に後任の白羽の矢が当てられた。本当は断りたかったのだが、他にふさわしい先生もいなかったので、やむを得ず引き受けた。だが、いざやってみると楽しかった。前任者が根性論的な指導だったのに対し、理論で説く大樹の方法が生徒たちに受け入れられた。大樹は新しい運動理論や手法も積極的に取り入れた。結果、チームはどんどん成績を伸ばし、今では都大会の優勝常連校にまでになっている。その実績は学校内でも高く評価されている。それが、今のところ大樹が唯一他人に誇れるところだ。本当は教科指導の面で誇れるものがあればいいのだが、まだ教師歴の浅い大樹にそれはない。

 朝練から戻ると、教師は全員出勤していた。自分の机に座り、この後の授業の準備に取り掛かろうとする。大樹は社会科の教師だ。すると、背後から懐かしい声に呼ばれる。

「中里先生、朝練お疲れ様」

 同期の松岡正孝だが、こちらでは数学の教師になっていた。

「どうも。いつものことです」

 そう答えたが、松岡はまだ傍に立っていた。

「何か?」

「あのさあ、今日の夜に何か予定ある?」

「今日の夜? 別にないよ」

「そう。じゃあ、久しぶりに一緒に食事でもしないか。話したいこともあるし」

「わかった。いいよ」

 何の話だろうと思いつつ、急いで授業の準備をして教室へ向かう。一時間目は様々な連絡事項を伝える必要もあって、自分が担任をしているクラスでの授業だ。教室に入ると、学級委員長の広田ミエが近づいてきて「汗臭いよ」という。朝練の後、部室横にあるシャワー室でシャワーを浴びてきたので匂わないはずだが、大樹が一応自分の匂いを確かめる仕草をすると、「うっそ」と言う。

 こんなことは日常茶飯事だ。ミエの挑発を無視して教壇に上ると、今度は前世にいた女優と同姓同名の新垣結衣が、大樹の首当たりを指さし「先生、ネクタイ曲がってる。それに、そのネクタイ先生に似合ってない」と言う。

 女子高の生徒たちは男の教師に対して、こうもうるさい。というか、揶揄うことを遊びのように思っている。最初はいちいち真に受けて怒ることもあったが、今ではすっかり慣れた。本当に嫌な教師に対しては、陰で悪口を言ったり、質の悪いいたずらを仕掛ける。こうやって、面と向かってちょっかいを出してくるのは、受け入れてくれている証拠だと、同僚の女性教師から聞かされ、それを信じることにしている。

「いいから、いいから。みんな、席に着いて。今日は秋の学園祭について連絡事項を話すから」

「やったね」

 どこからか声がした。学園祭は生徒たちが最も楽しみにしている行事だ。そのせいか、急にみんな真剣は顔になっている。

「おいおい、みんな急に真面目な顔になっちゃって。授業の時もいつもそれくらい真面目だったら、先生嬉しいんだけどな」

「も~お~、そんなつまんないこと言ってないで、早く学園祭のこと話してよ、先生」

 ミエが大樹の方を向いて言うと、

「そうだ、そうだ」

 と、みんなが一斉にコールする。

「わかった、わかった。話すから静かにしてくれ」

 それから30分ほどかけて、今年の学園祭のメインテーマとか、クラス単位の催しのことや、模擬店のことなどについて説明した後、授業に入ったが、みんなの頭の中は学園祭のことでいっぱいのようで、さっぱり集中していなかった。

 その日の夜、大樹と松岡は駅前に最近できた洋風居酒屋の奥にある個室にいた。松岡が予約をとっていたのだ。ビールで乾杯し、料理を食べていると、松岡がおもむろに話し始めた。

「実はさあ、俺、結婚することにしたんだ」

「ええー、そうなの。驚きだなあ」

「お互い、もうそういう歳だってことだよ」

「まあ、そうだけど。で、相手は誰よ?」

「英語の太田小百合」

 英語教師の太田小百合は、大樹たちより二年遅れて丸川学園高校に赴任してきた。

「そうだったのかあ。二人が付き合っていたなんて全然知らなかったよ。でも、おめでとう」

「周りのこともあったから言えなかったんだ、すまん。でも、ありがとう」

「彼女ならいい奥さんになると思うよ」

 太田小百合は、どちらかと言えば地味なタイプだけど、その分、堅実な生活ができるだろう。

「俺もそう思って結婚を決めたんだ。それで、実は3か月後に挙式することになった」

「3か月後? よく式場を押さえられたね?」

「たまたま空いていたんだ」

「それにしても急だね」

「彼女のお腹の中に赤ちゃんがいる」

 決然と言い放った松岡がかっこよく見えた。

「そういうことか。お前はすごいなあ。あっという間に俺を追い越したな」

「まあ、それは違うと思うけど。それで、少し気が早いけど、披露宴での挨拶と受付をお願いしたいと思ってるんで、よろしく」

「わかった」

『披露宴の受付』という言葉を聞き、大樹の心の中に胸騒ぎが起きた。だが、その胸騒ぎの原因に思い当たることがない。どういうことなのだろうかと疑問に思ったが、その時はその程度のことにしか考えていなかった。

 それからの3か月間、大樹はとかく逸る気持ちを閉じ込めて仕事に精を出した。待ちに待った松岡の結婚式は大安の土曜日に行われた。式場に行き、松岡の叔父さんという人に受付役の相手を紹介されたが、そこにいたのはまったく見知らぬ女性だった。その時、大樹は初めて気づいた。自分が会うべきだったのは前田雪乃であることに。

『そんなバカな』

 中野理恵子と名乗るその女性を呆然と見つめる大樹に、挙式を終えた松岡が近づいて来て小声でそそのかすように言った。

「どう?カワイイ子だろう」

 だが、大樹の耳にはまるで届かなかった。

 松岡の言うように、中野理恵子は素敵な女性だとは思ったが、大樹にとっては雪乃以外の女性は眼中になかった。

 受付を終わり、披露宴の自分の席に着いてから新婦の友人席を見渡すも、そこに雪乃の姿はなかった。何らかの理由で雪乃はこの場に来られなかった。そう思うしかなかった。

 大樹の『記憶』では、雪乃は小百合の友人だったはずだ。だから、この後の二次会の席で小百合に訊いてみることにする。披露宴は新郎新婦が両親へ花束を贈呈するセレモニーで幕を閉じた。やがて始まった二次会。みんな盛り上がっている中、大樹は二人へのプレゼントである詩集を持って近づいた。意外な贈り物に、特に小百合は喜びを見せた。ここがチャンスと、大樹は小百合に雪乃のことを訊いたが、そんな人知らないと言われてしまった。この時、大樹はどこかで運命の歯車が狂ってしまったことを意識した。前世にはいたはずの前田雪乃という人そのものが、ここにはいないということなのだろうか?

 しかし、『私たち』は約束を交わしたではないか。『生まれ変わってもまた一緒になろうね』って。みんなの喜びの渦の中で、大樹の心だけは泣いていた。

 だが、大樹は諦めたわけではなかった。あの約束は二人にとって、絶対的ものだった。だから、それを信じるしかなかった。

 翌日の日曜日、大樹が向かったのは、広尾のあのカフェだった。二人の付き合いは、あの店から始まった。雪乃が約束を覚えていれば、必ずやあの店に来るに違いない。ただし、あの店が『来世』でもあればの話だ。自分が『来世』にいるとわかってからのこれまでのことを考えると、まったく変わってしまっていることと、まるで変わらないことがあった。だから、わからないのである。

 広尾の改札口を出る。周囲の景色を見ても、変わっているのか、変わっていないのかすらわからない。ただ、店までの道のりはわかっていた。歩いて3分、あのツリーハウスが見えてきた。レ・グラン・ザルブルは変わらぬ姿で佇んでいた。微かな希望が見えたような気がした。逸る気持ちを抑え3階の喫茶室に入る。だが、そこに雪乃の姿はなかった。念のため、4階にも行ってみたが、そこにも雪乃はいなかった。しかし、考えて見れば雪乃がいなくても不思議はなかったのだ。とるものもとりあえず来てしまったけれど、雪乃と二人でこの店に来たのは、電話で雪乃から誘われた後だった。あの電話は…。確か、松岡の結婚式が終わって二週間後の日曜日だった。大樹は、その一週間も前に店に来ていたのである。いるはずもなかった。でも…。そもそも結婚披露宴の受付で雪乃と出会えていないことを考えると…。途方に暮れるのであった。

 翌日、昼休みに学校の廊下を歩いていると、広田ミエがにやけた顔をしながら大樹に近づいてきた。

「先生」

「何?」

「昨日、広尾のレ・グラン・ザルブルに行ったでしょう」

 レ・グラン・ザルブルは女の子同士で行ってもおかしくない店だ。休日の私服姿だと女子高生だと気づかないこともある。だが、昨日レ・グラン・ザルブルに広田ミエはいなかった。

「まあ、行ったけど。広田が何で知ってるんだよ?」

 へんに否定すると、かえっておかしな噂を流される可能性があるので、ここは正直に認めることにする。

「私のマブダチの3組の平中摩耶が先生が店に入るところを見たんだって」

「そういうことか…。でも、別に問題ないだろう」

「誰もそんなこと言ってないじゃん。で、デート?」

 揶揄っているのだろう、ニヤニヤしている。何と答えるべきか迷った。

「いやあ、そのお~」

「デートだよね。あんなお店、男が一人で行くところじゃないもん」

 先ほどまでにやけていたミエの表情が真剣さを帯び、かつどこか悲しそうなものに変わっていた。そんな彼女を見て、大樹は『事実』を告げることにした。

「ある女性と会うはずだったんだけど、彼女は来なかった」

「ふられちゃったってわけ。先生、付き合っている人いるんだね」

「俺だって、彼女の一人や二人いるさ」

「ふ~ん。それってまさかうちの女性教師じゃないよね?」

「それは違う」

 何で自分はミエにこんなことまでしゃべっているのだろう。

「そうかあ…」

 なぜかホッとしたような顔を見せるミエ。

「広田、お願いだからへんな噂は流さないでくれよ」

「う~ん。それは先生次第」

「どういうことだよ」

「それはまた今度」

 そう言うと、ミエはくるりと向きを変え逃げるように大樹の元を去った。

 その後ろ姿を見ながら、何か厄介なことに巻き込まれそうな予感を感じていた。

 松岡の結婚式から二週間後の日曜日に雪乃から電話はなかった。出会えていないのだから当然ではあったが、やはりがっかりした。それでも、大樹は予定通り、初めて雪乃と一緒に行った同じ日の同じ時間に広尾のレ・グラン・ザルブルに改めて行ったが、微かな期待もむなしく、そこに雪乃の姿はなかった。もしかしたら、遅れてやってくるかもしれないと、しばらく待ったが雪乃は現れなかったので帰ろうとしたその時、入口に見たことのある顔が現れた。それは、雪乃ではなくて、私服姿の広田ミエだった。ブルーで揃えた刺繍オフショルダーとデニム姿のミエは、一人の大人の女性だった。

 まるでそこにいることを予め知っていたかのように、一直線に大樹の席へとやってきて、向かいの椅子に座ってしまった。切れ長で粗野な瞳、高い鼻梁を持つミエは典型的な美人顔だけど、性格は男の子のようにさっぱりしているため、クラスでも人気がある。しかし、そのシャープな顔立ちと言動に見られる、ちょっと尖った個性はもともとの頭の良さを表わしていた。

「やっぱり来てたんだ」

「何しに来たんだ?」

「さあ?」

「さあって」

「先生は何で一人なの? 今日もふられちゃった?」

「余計なお世話だ? そんなことより、二人で一緒にいるところを誰かに見られたら、へんな噂になっちゃうかもしれないから、せめて他の席に移れよ」

 と、その時店員が現れ、ミエにオーダーを訊いた。

「何にいたしましょう?」

「この人と同じものを」

 そう言ってミエは大樹のアイスコーヒーを指さした。店員が去ったところでミエが言った。

「大丈夫。このお店はうちの学校の子は来ないから。それに、噂になっても、私はいいし」

「何だそれ。万が一お前が良くても、俺はマズイ」

「ねえ、先生。そんなことより、先生へんだよ。二週続けて相手にすっぽかされるなんて、ある?」

「それがあったんだからしょうがないだろう」

「先生、白状しちゃいなよ。何か事情があるんでしょ。ミエが相談に乗ってあげるから」

「おいおいおい。何でお前に相談しなくちゃならないんだよ」

「先生、さっきから私のこと、お前、お前って言ってるけどさあ。私にはちゃんとした名前があるんだよ」

 ミエの言ってることはもっともだった。

「それは悪かったな。素直に謝るよ、広田君」

「広田君?」

「だって、そうだろう」

「そうだけどさあ。先生って女心全然わかってないよね。そんなことだから、二週続けて女にふられるんだよ」

 痛いところをつかれてグーの音も出ない。

「しかしなあ…」

「私のこと、ミエって呼んで」

「ミエ? それはおかしいだろう?」

「何でおかしいのよ。カワイイ教え子なんだから。お願いします。そう呼んで」

 何かおかしなことになってきたと思いながらも、そう呼ばないと梃子でも動かないという感じのミエを見て、とりあえず希望に応えることにした。

「わかった。しかし、これは特別だぞ」

「いいよ。じゃあ、言ってみて」

「しょうがないなあ。わかったよ、ミエ」

 言葉は放った瞬間から意味を持つ。ミエの顔に花が開いた。でも、同時に自分まで妙な気持ちになっていることに驚く。口にしてみて自分でも初めてそれとわかる真実もある。

「やったー」

 子供っぽい笑顔で単純に喜んでいるミエの姿を見て、ここに深い意味などないのだと、自分に言い聞かせる。

「それで、そもそも何で今日俺がここに来ると思ったのか。そして、ミエは何しにここに来たのかを教えてくれよ」

「それはね、先生の夢を見たからなんだ」

「夢?」

「そう、夢。先生が、今日のこの時間にこのお店に来て、大切な誰かと会おうとしているっていう夢」

「ふ~ん」

 今度は大樹が唸る番だった。

「先生、当たっているでしょう?」

「NOと言いたいところだけど、当たっている」

「その夢には続きがあるんだ」

「続き?」

「うん」

「どんな続きだ?」

「訊きたい?」

「そりゃあな」

「じゃあ、教えてあげる。その夢ではね、先生がその大切な人を探すのを、私が一緒に手伝うことになるの」

「なんだかなあ」

 大樹が知りたかったのは、探した結果だった。

「だから、先生。これから私は先生と行動を共にします」

「そんなこと勝手に決めないでくれよ。ちなみに、ミエの見た夢では、私たちはその大切な人を探し当てることができたわけ?」

「そんなこと教えるわけないじゃない。たとえ、そこまでの夢を見てたとしてもね」

「何で教えてくれないんだよ」

「教えちゃったら先生、私と一緒に行動しないでしょう。でも、ほんとうのところ、まだそこまでの夢は見てないよ」

 ミエの話はどこまでが本当かわからなかったので、それ以上追及するのは止めた。

「しかし、それにしても何でそんな夢見たんだろうな?」

「それは、先生のことが気になるからだよ」

 前々からミエが自分のことを意識しているのはわかっていたが、相手は生徒である。気づかぬふりをしていたのだ。教師と生徒の恋愛ほど危険なことはない。女子高の教師になることが決まった時、学校からはもちろん、いろんな人から注意を受けた。万が一、恋愛に発展してしまった場合、うまくいっている時はいいが、ひとたびうまくいかなくなると、セクハラだったと女子生徒から訴えられて職を失うということにもなりかねないのだ。

「聞かなかったことにするよ」

「何でよ。失礼じゃない?」

「ごめん。そういうことにしてくれ」

「う~ん、納得いかないな。でも、とりあえずは許す。でも、先生の彼女探しは一緒にするよね。先生一人より、二人のほうが絶対うまくいくし」

「う~ん」

 大樹は迷っていた。断っても、断らなくても問題が起きそうだったから。しかし、ミエの見たという夢は不思議な説得力を持っていることも確かだった。

「先生、あまりごちゃごちゃ考えてたら、何事も先に進まないよ」

 大樹の心の中にあったモヤモヤをズバリ言い当てられたことで、ミエと行動を共にすることに決めた。

「その通りかもしれない。じゃあ、一緒に探してくれるか?」

「はい」

 ということで、その日は『前世』での、雪乃との出会いから別れまでのすべてを話して聞かせた。でも、話していて気付いたことは、雪乃についての自分の記憶が極めて少ないということだ。あれほど愛していた人なのに、雪乃その人の記憶はあるものの、雪乃を取り巻く周囲の人々の記憶がほとんどない。それに、雪乃とともに過ごした時間が幻のようにぼやけている。

「そうかあ。だから、彼女を探す情報がほとんどないのね」

「俺が持っている情報は、俺と付き合い始めてからの彼女のことだけなんだよ」

「だから、まずは彼女と最初に来たこのお店に来るしかなかったのね」

「そうだ」

「でもさあ、生まれ変わってもまた一緒になろうねなんて、ちょっとキモくない。私だったら、あの世に行ったらまったく違う人とまったく新しい人生を楽しみたいと思うけどなあ」

『ん?』 

 どこかで聞いた記憶のある台詞だった。それが誰が言ったものだったかは思い出せないけど…。

「まあ、人それぞれだろうけど。俺たちはそれくらいお互いに愛していたということさ」

「はいはい、わかりました。じゃあ、来週から私と一緒にカフェ巡りをしましょうね」

 まるで子供に言うような言い方をされ、ムッとする。

「誰に対して言ってるんだ」

「何で、そんなにムキになるかなあ」

「まあ、いい。ほんとうは自分一人でもできるんだけどね」

「何言ってるの。先生が一人で全部のお店を回るのは大変でしょう。私と手分けしてやれば効率的じゃない」

「でも、ミエは雪乃のことを知らないじゃないか。残念ながら、写真も残っていないし」

「そんなの簡単だよ。どんな女の人か特徴を教えてもらえれば見つけられる。女は女を見る目があるんだよ」

「ふ~ん、そうか。わかった」

「それに先生は彼女の情報がほとんどないって言うけど、探せばあると思うよ。そこは私に任せて」

 妙に自信ありげな態度をとるミエ。ひょっとしてミエは何か知っているのか。

「しかし、ミエって変わってるよね」

「そう?」

「女子高生だったら、他に興味あることいっぱいあるだろうに」

「もちろん、私だって普通の女子高生と同じように、いろんなことに興味あるわよ。でも、先生のことは別なの」

「別?」

「そう。だけど、その理由は私にもわからないの」

「なんかへんだな」

「へんでもいいじゃない。何も悪いことしているわけじゃないんだから。そんなことより、来週はどこにある、何というお店に行くの?」

「雪乃と行った二軒目のお店は中目黒にあるグリーンビーントウバーチョコレートというお店だ」

「へー、それってチョコレート専門カフェよね」

「そうだけど。知ってるんだ」

「うん。有名だからね。で、何時ごろ行ったの?」

「その日は確か午後3時頃だったと思う」

「わかった。じゃあ、その頃にお店で待ち合わせしましょう」

「そうだね」


第四章 時間の流れに愛撫され

 

 それからの一週間を大樹は落ち着かないままに過ごした。授業中、ミエと目が合ってしまうとなぜかドギマギしてしまい、慌てて目を逸らしたこともある。しかし、そんな大樹を嘲笑うかうように、ミエのほうはより大胆になっていた。休み時間に廊下を歩いていると、大樹の元に駆け寄り、悪ふざけのようにして腕を絡めてきたりする。

「やめなさい」

 慌ててミエの手を引き離すと、

「セクハラ」

 と小さく言って、立ち去る。今度会った時、注意しなければと思う。

 人気店でもあるグリーンビーントウバーチョコレートには行列が出来ていた。ようやく店に入れたが、やはり雪乃の姿はなかった。この時点で大樹は帰りたかったが、大樹に向かって手を挙げているミエと目が合ってしまい、帰るわけにはいかなくなった。誰かに見られていないかと気にしながらミエの向かいに座る。

「早かったじゃないか」

「この時間混むのわかってたから早く来たの」

「そうか。待たせて悪かったな」

「別にいいよ。それより彼女来ていない?」

 改めて店内を見渡してみるが、雪乃の姿は見当たらない。

「残念ながらいない」

「そう。かわいそう」

『かわいそう』と言われ、堪えた。胸奥にちりちりとした痛みが走る。やはり、ここには前田雪乃という女性は存在しないのだろうか?。

「でも、諦めないぞ」

 自分を奮い立たせるつもりで言った。

「そうよ。まだ始まったばかりなんだから」

 ミエの女子高生らしい若さが、大樹に勇気を与える。ミエと一緒に行動を共にして良かったのかもしれない。もし一人だったら、もう終わりにしていたような気がする。

「なんかミエって、昔から知っているような気がする」

 ミエの顔を改めて見て、ふと思ったのだ。

「昔付き合ってた彼女に似ているなんて言う口説き文句は、今時流行らないですよ、先生」

「いや、そういうことじゃないんだ」

「なんだあ。ちょっとがっかり。あっ、それよりさあ、私のほうの現在までの調査結果を発表するから聞いて」

 確か先週ミエは情報は探せばあると思うと言っていたのを思い出す。

「なんか大げさだな」

「だってえー、大変だったんだよ」

 雪乃のことを調べたということだろうけど、調べようがないはずだ。

「それで?」

「まずは、松岡の奥さんの小百合を突撃しました」

「おい、二人とも君たちの先生でもあるんだぞ。呼び捨てにするな」

「陰ではみんな呼び捨てにしてるよ」

 私立丸川学園高等学校はお嬢様学校と聞いて赴任したのであるが、女子高生の中身なんてあまり変わらないものらしい。

「まあ、そうかもしれないけど…。ということは、俺のことも中里と呼んでるのか?」

 もちろん、そうだとは思ったが訊いてみた。

「ううん、大樹」

「何だそれ。俺だけ下で呼んでるのかよ」

「それだけ先生は人気者っていうことだから、いいんじゃない」

 喜んでいいのやら、悲しんでいいのやらわからない。

「まあ、そういうことにしておこう」

「それでね。結婚披露宴に出席した小百合の友達のリストをもらったの」

 と、一枚のコピーを大樹に見せた。

「こんなもの、よくもらえたなあ」

「それは、私がカワイイ生徒だから。って嘘だけどね。ほんとのところは内緒」

「ふ~ん」

 ミエはどんな手を使ったのだろうか。案外、小百合の弱みを握っていたりして。

「先生は雪乃さんが小百合の友達だったって言ったけど、それって勘違いかもしれないじゃない」

 大樹の『記憶』では小百合の友人としか覚えていなかったので、小百合以外の人間に当たろうという発想はなかった。

「う~ん。そう言えなくもない」

「今順番に訊いているところ」

「そうか。やっぱりミエと行動を共にして正解だったのかもな」

「今頃気づいたの」

「許してくれ。それで、どんな感じ?」

「今週は3人に訊けたけど、残念ながらみんな知らないって」

「そうか…」

「でも、まだこんなにいるんだよ。諦めないで。直接じゃなくても、何か情報が得られるかもしれないでしょ」

 確かに、まだたくさんいることがリストのコピーから読み取れる。

「ありがとう。すまないね」

「そう思うんだったら、もっと私にも優しくしてよね」

「なんかグイグイくるねえ」

 妙な照れもあって、そういう言い方になってしまった。

「だって、先生は押しに弱いタイプでしょう」

 自分の性格まですっかり読まれているようだ。

「う~ん。当たらずとも遠からずだ」

「どこまでも素直じゃないなあ。でも、そういうところがカワイイのよね。ほんとうは優しくしたいのに、照れちゃってできなかったりしてね」

「おい、バカ、やめろ」

 まるで恋人同士のような会話になってしまっていることに戸惑う。

「先生、顔赤いよ。で、今日はこれからどうする?」

 ミエが話題を変えてくれたことに感謝だ。

「そうだなあ。もう一軒行ってみようかと思う」

「日にちとか時間は関係ない?」

「もう、そういうことじゃないような気がする。会える時は会えるし、会えない時はどんなことをやっても会えないんだろうし。それが運命って感じかなあ」

「なるほど。そうかもね」

 ということで、その日は自由が丘にあるベイクショップという名のカフェに行ってみたが、やはり雪乃には会えなかった。だが、会えないという状況に慣れつつある自分がいて、たとえそこに雪乃がいなくても落ち込み方も徐々に小さくなっていた。こうしていつか諦めがつく時がやってくるのかもしれないと、漠然と思うようになっていた。

 その後も、毎週、毎週、ミエと一緒にカフェ巡りを続けた。どうしても、大樹が仕事で行けない時は、ミエが一人で行った。だが、雪乃と会えることはなかった。ミエが調べている小百合の友人の調査も、今のところ何の情報も得られていない。

「先生、雪乃さんが独身時代時に住んでいたマンションの住所、思い出せないの?」

「う~ん。ずっと考えているんだけど、思い出せないんだよ。確か、3回くらいは行ってると思うんだけど」

「住所は無理だとしても、場所は? たとえば、五反田とかさあ」

「ごめん。出てこない」

「そうかあ。結婚して最初に住んだマンションには行ってみたんだよね」

「もちろん、行ってみたさ。マンションそのものがなかったけどな」

 そんな答えを繰り返す大樹のことを、ミエはまじまじと見つめて言った。

「先生。そもそも夢を見てたんじゃないの?」

 すべてが夢だった? そう言われてみればそんな気がしてしまう。

「夢ねえ。そうかもしれないなあ…」

 ぼおっとしてしまった大樹にミエが喝を入れた。

「どうしたの、弱気になっちゃって。まだまだ頑張ろうよ。そのマンションがあったのって、どこだっけ?」

「JR中野駅から徒歩で10分ほどのところ」

「そう。じゃあ、そのマンションがあった住所を教えて?」

「いいけど。どうするんだよ?」

「周りを当たるのよ」

 自分よりよほどミエのほうが真剣だ。

「なるほど」

「なるほどって、感心してる場合じゃないでしょう。できることは何でもしないと、情報なんて入ってこないよ」

「ミエの言う通りだな。だけど、なんで俺のことでそこまで真剣に動いてくれるの?」

「自分でもよくわかんないんだよね。でも、なんか先生を放っておけないって感じ…かな」

「感謝してるよ」

 とにかく、ミエは行動的だった。仕事で忙しい大樹が平日動くことはまずできなかったが、その分ミエが動いてくれていた。小百合の友人へのアプロ―チ、結婚当初住んでいたマンションの周辺での聞き込み等々。それでも、ミエの学校の成績は落ちなかったし、学級委員長の仕事もちゃんとこなしていた。そんなミエがいじらしく、声をかけたかったが、恋バナが大好きな女子高生たちの餌食にならないよう、学校の中で大樹は極力ミエとの接触を避けていた。でも、それはそれだけ大樹がミエを意識しているという証でもあり、クラスの中でもそういうことに目ざとい白鳥真知子に勘づかれてしまった。

 職員室に宿題のレポートを持ってきた真知子は、帰り際に思わせぶりな笑顔を見せながら大樹の耳元で囁いた。

「先生、今日の授業の時のミエを見る目、怪しかったですよ」

「何勘違いしてるんだよ」

 もちろん、認めるわけにはいかなかったので、強く否定する。

「大丈夫。秘密にしといてあげるから」

 ウィンクをして離れて行く真知子をなす術もなく見送るしかなかった。真知子は『秘密にしといてあげる』と言っていたが、あの真知子に勘づかれたのはいかにもまずかった。この後、どんな噂が流されるのかと思うと恐ろしい。

 その週の土曜日。いつものように大樹とミエはカフェにいた。一緒にカフェ巡りを始めてからちょうど10軒目になる。だが、予想通り、この日も雪乃には会えなかった。しかし、大樹はミエには言わなかったが、今や雪乃との再会をほぼ諦めていた。それでもミエとカフェ巡りを続けているのは、ミエと一緒にいられることにこそ喜びを見出していたからである。

 困ったことに、ミエに対する思いが生徒に対する思いとは異質のものに変わってしまっていた。それは、確実に恋に近いけれど、でも微妙に違うような気もするのである。

「先生、私の話聞いてる?」

 先ほどからミエは小百合の友人たちと接触した結果を大樹に報告していた。

「ごめん、ごめん」

「どうしたの? ぼおっとしちゃつて」

「だから、すまん」

「何、その言い方。今大事な話をしてるところなんだから、ちゃんと聞いてよね」

「わかった。それで?」

「この通り、全滅」

 ミエが大樹に見せたリストの名前の前にすべてバツ印があった。

「そうかあ…」

 本当のところ予想はしていたので、それほどショックは受けなかったが、一生懸命に調べてくれたミエのために落ち込んでみせた。

「先生、お願いだから、そんなんにがっかりしないで。まだ可能性はあるんだから」

 そう言って大樹を見つめるミエの目には涙が滲んでいた。

「ミエ、どうした? 泣くことなんてないじゃないか」

「だって、だってえ…」

 後は声にならなかった。思わずもらい泣きしそうになるのをぐっと堪え、冗談めかして言った。

「前にも訊いたけど、俺なんかのために、なんでそんなに真剣になっちゃうわけ?」

「先生のことが好きだからに決まってるじゃない」

 遂に言わせてしまった。聞いてはいけないことを聞いてしまった。前にも『先生のことが気になる』とは聞かされていたが、実は大樹は、ミエがこれほどまでに真剣に自分のことを心配する理由は、まったく違うところにあるのではないかと思っていた。だが、それは確信が持てないでいた。だから、思わず訊いてしまったのだった。でも、ミエが『好きだから』と言う可能性もしっかりわかっていたはずではなかったか。それを言わせてしまった責任は自分にある。

 二人の間に流れてしまった、この微妙な空気を年上で、しかもミエの担任教師である自分が何とかしなくてはならない。

「それは、担任教師としては嬉しいよ」

 あくまで『教師』として好きだと言ったことにした。

「そういうことじゃないよ。わかっているくせに。逃げるの?」

 どう答えるべきなのだろうか。大樹は迷った。

「逃げやしない。ちゃんと受け止める覚悟はできている」

 『ああ、言ってしまった』

「ほんと? 嬉しい」

「ミエ、実は別件で訊いてもらいたいことがある」

 この際、話題を変えることしか手が思いつかなかった。

「何?」

「白鳥真知子のことだ」

「真知子? 真知子がどうしたの?」

 大樹は先日職員室で真知子に言われたことを話した。

「そう」

 ミエには驚いた様子はなかった。

「白鳥はいろんな噂を流すことで有名だろう。だから、心配なんだ。それで、ミエに相談しようと思って」

「先生、心配ないよ」

「どうして? あの白鳥だよ?」

「真知子、秘密にしといてあげるって言ったんでしょ」

「そうだけど、白鳥に限ってそれで終わる可能性ないだろう」

「先生って、わかってないよね」

「何だよ。そういう話じゃないだろう」

「もう。真知子はねえ、そう言って先生の気持ちを自分に向けさせたかっただけ」

「どういうことだよ」

「あの子も先生のことが好きなの。それはずっと前からわかっていた。あの子、ひねくれているから、そんな言い方しかできなかったの」

 大樹にはよくわからなかったが、ミエが言うのならそうなのだろう。

「俺はどうしたらいい?」

「先生は今まで通りで大丈夫。万が一、真知子がおかしな行動をとったら私がちゃんと解決するし」

「ミエが? 大丈夫か?」

「だから、大丈夫だって。私を信じて、先生」

「そうか。わかった」

 ミエの言葉を信じることにした。


第五章 狼狽の再会 


ミエの言う通り、その後教室内に異変は起こらなかった。生徒たちの今の関心事は秋の学園祭のことで、そこにみんなの意識が集中しているせいなのかもしれない。ミエも学級委員長として、その中心で忙しそうだった、ただ、真知子があれ以来急に大人しくなったのは不気味だったけれど。このまま学園祭が無事に終わってくれることを祈るばかりである。

 これまでミエとカフェ巡りをしてきたが、都内の店は残すところ、あと5軒となった。雪乃とは、その後近郊や地方の店まで足を延ばしたが、ミエをそこまでつき合わすつもりはない。雪乃と再会できなくとも、その時点で潔く諦める。そう思っていたところ、珍しくミエから大樹の携帯に電話があった。

「先生、今週のカフェ巡りのことなんだけど」

「ああ、どうした」

 大樹はてっきり用事が入って行けなくなったということだろうと思っていた。

「もう一度、広尾のツリーハウスのお店に行かない?」

「いいけど。何で?」

「また夢を見たんだ」

「夢かあ」

「何よ。私の夢を信じないわけ?」

「そういうわけじゃないけどさあ」

「あの広尾のお店で、先生は雪乃さんと再会できるの」

「何?」

「だから、そういう夢を見たの」

「そう…」

 そんなことはあり得ないと思っている大樹には、他人事のように思える。

「そうって。先生これは神様のお告げなんだよ」

「わかった、わかった。じゃあ、そうしよう」

 せっかくそう言ってくれるミエの気持ちに応えたいという思いになった。

 そして当日、大樹は待ち合わせの時間より少し早く広尾の改札口でミエを待っていた。やがて、ミエが現れた。その姿が目に入った時、大樹はなぜか胸が詰まった。

 自分はこの子に出会うために、こちらの世界に来たのではないか。

 歳は離れているし、自分の教え子だけれど、大樹はミエをもう失いたくないと思った。

「先生どうしたの。顔が怖いよ」

「悪かったな。顔が怖いのは生まれつきだ」

「ふふ。先生らしくない冗談」

「そうかあ」

「そんなことより、早く行こうよ」

 会話を楽しんでいた大樹を促すミエ。

 レ・グラン・ザルブルまでの道を並んでゆっくり歩く。レ・グラン・ザルブルへミエと行くのは今日で二度目。この先もミエとカフェ巡りを続けるために、大樹は今日ミエに自分の思いを告白するつもりであった。

 レ・グラン・ザルブルは変わらぬ佇まいで立っていた。いつ来ても、このお店は人を優しい気持ちにさせてくれる。3階の喫茶室に入る。

「先生、来てる?」

 ミエが大樹に身体を密着させて訊いてくる。それだけでドキドキする。

「いや、いない」

「おかしいな。でも、この後に来るのかもね。とにかく座りましょう」

 ミエに導かれる形で、入口が見える席に座る。

「なんか懐かしいね」

 初めてこの店で出会った時のことを思い出しているようだ。

「懐かしいって、たった2か月前のことだよ」

「そうなんだけどね」

 店員が注文を取りに来た。二人ともアイスコーヒーヒーを頼む。

「その後、真知子はおかしな行動とってない?」

 教室では訊けないので、ここで訊くことにする。

「あれ。知らないんだ先生。担任なのに」

「何だよ。何かあったのか?」

「真知子に彼氏ができた」

「何だ。そんなことか。そんなの俺が知ってるわけないじゃないか。知らなきゃいけない義務もないし」

「そりゃあそうだよね。じゃあ、私に彼氏ができたって言ったら?」

 虚を突かれ、大樹の頭は真っ白になった。言葉が出てこない…。

「何で黙っちゃうわけ」

「それは本当なのか?」

「何、真っ白な顔しちゃって。嘘だよ~ん」

「もうやめろよ。そういうこと言うの。俺はなあ」

 このまま一気に告白してしまおう。言葉を続けようとしたまさにその時に、入口から入って来る雪乃の姿が目に入った。ミエの見たという夢が正夢になった。大樹の視線の先をミエが辿る。

「雪乃さん?」

 大樹はただ頷いた。しかし、大樹の目は雪乃のすぐ後ろにいる一人の男性の姿を捉えていた。雪乃が後ろを振り返り、その男性と笑顔で何かを話している 

 大樹の心は千々に乱れていた。直前まで大樹の心はミエのことでいっぱいだった。しかし、雪乃の姿を見たとたん自分の心がわからなくなった。

「あの男の人誰?」

 ミエが残酷なことを訊いてくる。

「いや、知らない」

 目を雪乃のほうに向けたまま答える。雪乃とその男は、大樹たちの席から少し離れたところに座った。運よく大樹の席から雪乃の顔が見える。大樹の視線を感じたのか、雪乃の目が一瞬大樹をとらえたが何の反応も示さず、すぐに前の男性に注がれた。

「どういうことだろうね?」

「それは俺が訊きたい」

「先生、どうする? どうしたい?」

「いずれにしても決着をつけたい」

「わかった。先生、私に任せてくれる?」

「任せるって、どうするつもりだ?」

「彼女が一人で現れたんだったら、先生に任せたけれど。彼女は男と二人で現れた。どういう関係かもわからない。そこに、突然先生が出て行ったらおかしなことになりかねないでしょう。だからここは女の私に任せて。そのほうがうまくいく」

 ミエの言う通りだった。先ほど自分と目があっても、何の反応を示さなかったということは、今の雪乃にとって自分は見知らぬ男に過ぎない。だから、突然自分が雪乃の前に現れ、『前世』の話をしても、ただ怪しまれるだけかもしれないのだ。

「わかった。任せる」

「うん。じゃあ行ってくるね」

雪乃の元へと向かうミエの後ろ姿を見て、大樹はようやく気づいた。雪乃が現れてから健太は雪乃のことしか考えられなくなってしまっていたが、今の自分にとってミエは大切な存在であることを。そんなミエに自分はひどく残酷なことをさせているのではないか。

 ミエが雪乃に近づき、何かを話している。やがて、雪乃が立ち上がり、連れの男に一声かけた後、二人で外へ出て行くのが見えた。

 窓の向こうの青空が眩しい。周囲の空気がさっきよりどんよりしている。

 それからしばらくの間、大樹は雪乃と一緒に入ってきた男性の背中を見ながら、あらゆる状況を想像していた。

 どれくらい経ったであろうか、ミエと雪乃が再び喫茶室に戻ってきた。その際、雪乃はちらっと大樹に目を遣ったが、そこに特別な感情は浮かんでいなかった。一方のミエは硬い表情をしていたが、大樹と目が合うと、少し柔らかい顔になった。

「話してきた」

 ミエの、大樹の心の中を探るような言い方は何を意味するのか。

「そうか。嫌な役回りをさせてすまない」

 雪乃との話を、すぐにでも聞きたいという気持ちと、聞くのが怖いような気持ちのはざまで揺れ動いている。ミエはいったいどのように話を進めたのだろうか。

「ううん」

 そう言って下を向いてしまったミエ。彼女も話しあぐねている。

「ミエ、俺に気を遣う必要はないよ。ズバリ聞かせてくれないか」

「わかった。じゃあ言うね。雪乃さんは結婚していた」

「そうか…」

 ショックではあったが、そういうこともあり得るとは思っていたので、そんなに驚きはしなかった。

「先生」

「ん?」

「辛いね」

「うん」

「とにかく、一度話し合ったほうがいいと思う」

「でも。今さら」

「何を言ってるの、先生。雪乃さんはまだ何も気づいてないだけ。だから、私、雪乃さんにどうしても会って話を聞いてほしい人がいるんですって言ったの」

 確かに、決着は自分自身でつけるべきだろう。

「ありがとう。で、彼女は何と?」

「私の勢いに気圧されて了解してくれた」

「ミエには本当に感謝だな」

 そう言ってミエの顔を見ると、辛そうにしながら言った。

「だって、こうするしかなかったでしょう」

「ミエ…」

 ミエの気持ちが痛いほどわかる大樹は、ミエにかける言葉を失っていた。



第6章 わずかな光を透かして

 

 雪乃と会うためのスケジュール調整はミエがやってくれた。再会の場所は、当然ながら広尾のレ・グラン・ザルブルになった。

 当日、大樹が店に行くと、すでにミエと雪乃は向かい合って座っていた。

「先生、こっち」

 手招きするミエの席へ向かうと、雪乃が立ち上がって大樹に軽く頭を下げた。

「どうも、中里大樹です」

 現段階では雪乃の中に大樹の記憶がないようだけど、かといって『初めまして』と言うのも抵抗があって言えなかった。いや、言いたくなかった。

「さっき話した、うちの高校の中里先生。私のクラス担任です」

 ミエがいつも以上に明るく振舞っているのが痛々しく見える。

「そうですか。私は橋本雪乃と言います」

 雪乃が結婚した相手が橋本進次郎という名前の男だということはミエから聞いて知っていた。

「とにかく、二人とも座って」

 それまで雪乃の正面に座っていたミエが横にズレ、大樹が雪乃の真向かいに座ることになった。二人の着席を待って、ミエが言った。

「お二人が揃ったので私は帰りますね。あとは若い者同士で。なんちゃって」

「何言っているんだ君は」

 おかしな冗談を言ったミエに対し、普段なら名前を言うところだが、雪乃にへんな誤解を与えたくないという心理が働き、敢えて『君』という言葉を遣った。

「君って、へん。まあいいや。雪乃さん、あとはお願いしますね」

「わかりました」

 ミエが去って二人だけになると、急に気づまりな空気になった。自分のほうから何か話さなくてはと思うのだが、どこからどう話したらいいのかわからない。

「ミエさんって、カワイイですよね」

 沈黙に耐えかねたのか、雪乃のほうから話しかけてきた。

「そうですかね?」

「ええ、とっても。中里さんの彼女ですか?」

「いえいえ。彼女まだ高校生ですし、だいいち教え子ですから」

 これから雪乃に話すことを考えれば認めることなどできない。

「そんなの関係ないと思うし。お似合いなんだけどなあ」

「本当にそんなんじゃないんで」

 『ごめん、ミエ。ここはそう言うしかない』

「そうですか…」

「ところで、広田はこの間どんなことを話していましたか?」

「彼女は私が中里さんのことを知っているはずだから会ってみてほしいと言ったのです。でも、私にはまったく思い当たらない名前だったし、この間ここで一瞬あなたの顔を拝見しましたけれど、存じ上げない方でしたのでお断りいたしました」

 無理もない。今目の前にいる雪乃は自分のことなど知らないのだから。この日の雪乃のファッションは、白のブラウスにグレーのスカート。それに、細いベルトや細いストラップのショルダーバッグ、ストラップシューズで上品な印象を与えていた。同じ雪乃なのに、こちらの雪乃は話し方も見た目の雰囲気も、自分の知っている雪乃とは違う。

「ご迷惑をおかけしました」

「いえ。でも、彼女は引き下がりませんでした。それはそれは真剣な顔で、何度も何度も会ってほしいと。そして、二人が会わなければ生まれることができない命があるのだとまでも言われました。意味がわからなかったのですけれど、彼女の熱意に応えることにしたのです」

 ミエの気持ちが雪乃に通じたのだろう。それにしても、ミエが最後に言った言葉は、大樹にも意味がわからなかった。

「ありがとうございます」

「それで、さっきお会いした時からずっと考えていたのですけど、今のところまだ何も思い出せていません。ただ、中里さんの顔も、それから広田ミエさんの顔も、何か引っかかりはあるんです」

 『引っかかりがある』と雪乃は言った。だとずれば、雪乃の『記憶』が蘇るチャンスはある。しかし、雪乃はミエの顔にも引っかかりがあると言った。それはなぜだろう。

「そうですか。じゃあ、何かのきっかけで思い出していただけるかもしれませんね」

「中里さんに、私の記憶はあるんですか?」

「あります。ただ、それが確かなものなのかは、僕じゃなくて橋本さんが決めることなんです。そういう意味で、僕のほうからいくつか質問させていただいていいですか?」

 雪乃と話していると、自然と自分のことを『僕』と言っていることに気づく。

「ええ、どうぞ」

「ただし、答えたくない質問には答えなくて結構です」

「わかりました」

「では、一つ目の質問ですが、ご主人とはどこで出会い、いつ結婚されてのですか?」

「それも関係あるのですか?」

「あります。しかも、重要な」

「そうですか…」

 雪乃が躊躇っているのがわかる。まだ何も思い出していない雪乃からすれば、奇異な質問に思えたのであろう。

「主人と会ったのは、このお店です」

「この店、ですか?」

 今度は大樹が驚く番だった。

「ええ。このお店で私は誰かを待っていたのですけど。その人が来ないので帰ろうと思っている時に主人に声をかけられたのです」

 『それは僕だ』と言いたかったが、何の確証もない。

「誰を待っていたのかは思い出せないんですか?」

「ええ。不思議なことに、その部分がすっぽり抜け落ちているのです。ちなみに主人と結婚したのは3年前です」

 あの男と結婚して3年経つと聞かされ、猛烈に嫉妬心が湧く。

「そうですか。わかりました。お二人の間にお子様はいらっしゃるのですか?」

「いえ、まだいません。主人がもう少しの間二人だけの生活を楽しみたいというので」

 子供がいないと聞いて、大樹は正直ほっとした。万が一、自分と雪乃がやり直すとした場合、子供がいないほうが進めやすいなどという現実的な理由まで先走って考えていることに、我ながら呆れる。

「わかりました。では、次の質問に移らさせていただきます」

「なんだか取り調べみたいね」

「そんな風に思われているのならごめんなさい。謝ります」

「まあ、大丈夫ですよ。続けてください」

「すみません。橋本さんのお友達に太田小百合という名前の人はいませんか?」

「いません」

「では、田村朋美さんとか、木村真紀さんという名前の友人は?」

 大樹と雪乃の結婚披露パーティに雪乃が招いた人物の名をあげてみる。

「いや、知りません」

 嘘をついているようには見えなかった。

「そうですか…。差し支えなければ、学生時代から今に至るまでの間にお付き合いしてる友人のお名前を教えていただけませんか?」

「親友という意味では、作山佳代という子と永野美優という子ですかね」

 聞いたこともない名前だった。ミエが小百合から聞き出したリストの中にも該当する名はなかったように思う。

「そうですか…。ところで、橋本さんの趣味は何ですか?」

「趣味はゴルフですね」

「えっ、ゴルフですか?」

 大樹の記憶を探っても、雪乃からゴルフという言葉が出たことはなかったと思う。

「そうですけど、何か?」

「いえ。カフェ巡りとかは?」

「カフェ巡りですか。私は興味ありますけど、主人が無関心なので…」

「橋本さん自身は興味あるんですね」

「ええ」

 次の質問に考えあぐねて手を頭にあげた時、

「ちょっと待って、その時計。見覚えがある」

 その時は突然やってきた。何が雪乃の『記憶』を呼び覚ますかわからなかったので、大樹は家中を捜索し、雪乃との思い出の品を探した。しかし、見つかったのは二つだけだった。そのうちの一つが、初めて雪乃からプレゼントされたこの時計だった。

「どんな時計だかわかりますか?」

「ごめんなさい。それはわからないわ」

時計という物は何となく思い出したけれど、その持ち主である大樹やどんな意味を持つ時計なのかまでは思い出せていないらしい。しかし、ここを攻め時と考えた大樹は次の手を打った。

「そうですか。じゃあ、これは?」

 大樹は首の横にある自分の黒子を指さした。それを雪乃は最初不思議そうに見ていたが、何かに気づいた。そのとたん、言葉を失った雪乃。大樹は、雪乃が『記憶』を取り戻しつつあると確信した。

「橋本さん、あなたの左足の内腿のちょうど中間あたりにも大き目の黒子が二つありますよね」

「何でそんなことまで知ってるの?」

 雪乃の顔はますます青白くなっていく。

「そのことにお答えする前に、もうひとつだけ見ていただきたいものがあります」

「何?」

「これです」

 大樹がバッグの中から取り出して雪乃の前に置いたのは、首から下げる鈴であった。

「これは…」

「橋本さん、もう思い出しましたよね。これは私たち家族がホテルのプールに遊びに行った時、迷子になった次女の穂香が首から下げていたものです。あの時あなたは取り乱して、ずっと涙を流しながら穂香の名前を呼んでいました」

 雪乃の目から、すうっと涙が流れた。

「私は…」

 蘇った『記憶』は雪乃を混乱させているに違いない。

「雪乃」

大樹はこの日初めて名前で呼んだ。

「大樹……、だよね」

 大樹の顔をじっと見つめ、自分自身に確認するように、ゆっくりと名前を言った。

「あの約束、覚えているよね」

 大樹がどうしても確認したかったことを訊いた。

「生まれ変わってもまた一緒になろうね」

 雪乃は約束を覚えていた。いや、思い出した。

「なぜ?」

 『それなのに、なぜ約束を破った』と言うのは言葉が強すぎて、雪乃を追い詰めるようになってしまう。だから、『なぜ?』という言葉に思いを込めた。大樹は単純に理由を知りたかった。

「私は…、私は…、ずっと、ずっとあなたを待っていた。でも、あなたは現れなかった…」

雪乃は声をふり絞るようにしながら、でも、はっきりと答えた。

「だって、僕には残された二人の娘をちゃんと育てる必要があった」

「瞳と穂香ね」

 雪乃は愛しい自分の娘の名前を噛みしめるように囁いた。大樹も辛かったが、今それ以上に雪乃は辛い思いをしている。

「二人とも雪乃に似て優しくて、心細やかで、そしてきれいな子に育ってくれた」

 そう言った大樹だったが、まさにその瞬間、長女の瞳の顔がミエとよく似ていたことに気づく。

「そう…。ありがとう」

 これ以上、自分は雪乃に何を話せばいいのだろうか。

「雪乃は今幸せ?」

 自分で混乱させておきながら訊くべきではないかもしれなかったが、最後にどうしても訊きたかった。

「ついさっきまで自分は幸せだと思っていたけれど、今はわからなくなってしまった」

「ごめん。僕は君を混乱させただけだったね」

「ねえ、大樹。今の私に考える力はないわ。だから、一週間だけ時間をください」

「わかった」


第7章 『未来』への添い寝

 

 一週間後、雪乃の願いで今度は大樹の部屋で会うことになった。その場にミエも来ることになった。雪乃との会話を聞いたミエがどうしても来たいというのである。断ることなどできなかった。

「男の一人部屋にしちゃあ、きれいにしてるよね」

 ミエが部屋に入るなり言った。ミエも大樹の部屋に来るのは今日が初めてだ。

「大掃除したに決まってるだろう」

 こんなくだらない会話ができるのはお互い心を許しているからだろう。

「そりゃあ、そうか。でも、雪乃さんって会うたびに思うんだけど、きれいだよね。そこはかとない大人の色気があって、蠱惑的な感じがするもの」

「さすが学級委員長だけあって難しい言葉を使うね」

「やめてよね。そんな子供扱い」

「ごめん。でも、ミエも十二分にきれいだよ」

「やだ、先生。それって口説いてる? 好きなら好きって言ってよ」

「好きだよ」

 自然に出てしまった。だが、自分がミエに対して感じ始めていた恋愛感情は、今揺れ動いている。それは雪乃との再会によって、大樹の気持ちが雪乃に移ったということだけではなく、ミエが『記憶』の中の自分の長女とあまりに似ていたからだ。

「先生、今この状況でそんなこと言われたって、私はどうすればいいの…」

「それは…」

 大樹がすべてを話そうとしたその時、ドアチャイムが鳴って雪乃が到着したことを報せた。ミエが迎えに行く。部屋に入ってきた雪乃の表情は硬かった。

「こういうところに住んでいるんだ」

 雪乃が『前世』で初めて大樹の部屋を訪れた時も同じことを言った。

「雪乃さん、まあそこに座って」

 まるで自分の部屋のように言うミエに、雪乃が若干不思議そうな顔をした。

「おい、ここは俺の部屋だからな、ミエ」

 寸前まで二人の間に流れていた微妙な空気を忘れようとするかのように、経口を言い合った。

「仲がいいのね」

 雪乃が羨ましそうに言った。

「仲なんて良くないです」

 怒ったように言うミエ。

「そうなの」

「雪乃さん、私、今日二人で会うって聞いて強引に来ちゃったんですけど、私がいちゃダメ? ダメなら帰るけど」

「ううん。ミエちゃんには二人の話を聞いてほしいの。なぜだかわからないんだけど、ミエちゃんって二人にとっても大事な人のような気がするから」

「ありがとう、雪乃さん。というわけで、雪乃さんのお許しをもらったから、私ここにいるね」

「わかった。それにしても雪乃、わざわざここまで来てもらってすまない」

「いえ。人生で一番大切な話をするのに喫茶店というわけにはいかないでしょう。かといって、うちには主人がいるし」

 雪乃が放つ『主人』という言葉に、大樹はどうしても嫉妬してしまう。

「そうだね」

「それに、あなたが住んでいる部屋に来れば何か新たに思い出せることがあるんじゃないかと思って」

「そうだよね。で、雪乃さん、何か思い出した?」

 ミエの言葉に雪乃は部屋を改めて見渡して言った。

「う~ん、具体的にはまだ何も思い出せないんだけど、この空気感には覚えがあるわ」

「そうなんだ」

 二人のやりとりを聞いていた大樹が雪乃に質問する。

「それで、一週間考えてどうだったの?」

 大樹はミエのためにも早く結論が出したかった。

「私は、こちらでは『前世』と違って裕福な家に生まれることができたの。いい意味で生まれ変われたのね。何不自由なく育てられ、恵まれた人生を歩んでいた。お友達もみんなお金持ちの子ばかりだったし、遊びも全然違った。だから、『前世』のことなど頭の片隅にもなかった」

 雪乃はこっちで十分幸せに暮らしていた。

「幸せだったのね」

 自分の代わりにミエが応えてくれた。

「そう。だから私に太田小百合という名前の友達はいなかったし、その小百合さんの結婚披露宴の受付であなたに出会うこともなかった」

「ごめん。せっかく幸せな人生を歩んでいた君の心を乱してしまった…」

「ううん。私がこちらの人生で感じていた幸せはどこか嘘くさかったの。それは自分でも薄々わかっていた」

「それで?」

 興味津々という顔で先を促すミエ。

「そんな時、偶然ネットで見つけたのが広尾のあのお店。引き寄せられるように行って見たら、私は自分がそこで何年もの間誰かを待っていたような気がしたの。でも、誰も現れなかったから帰ろうと立ち上がった時に、今の主人が声をかけてきたの」

「そうかあ。だから、その人を運命の人だと思っちゃったんだ」

 ミエの目が点になっている。

「そう。私が待っていたのはこの人だと思い込んでしまった。彼は平凡なサラリーマンだったから、良家の子息との結婚を望んでいた両親は彼との結婚に大反対だったけど、私は彼を選んだ。運命の人だと思ったから。でも、それは間違いだったのね」

 果たしてそれが間違いだったと言えるのか。大樹は複雑な思いで聞いていた。

「今雪乃さんは先生のことが好きですか?」

「ええ」

「ご主人より?」

 今日ミエに来てもらって良かったと思った。自分だったら、こんな訊き方はできなかったかもしれない。

「一週間考えたけど、私はやっぱり大樹を愛している。ただ、3年も一緒に暮らしてきた主人に対する思いが消えないのも事実、それに…」

「それに、何?」

「今の大樹の心の中にはミエちゃんがいる」

「私?」

 自分のことを指さすミエ。

「そう。わかっているくせに」

「うん。わかってるよ。私も先生のことが好き。でも、残念ながら先生には雪乃さんのほうがお似合い。心配しないで、雪乃さん。先生のことは私が振ってあげるから。こんなカワイイミエだから、先生なんかよりずっと若くてカッコいい男の子が列をなして待機してるし。ねっ、先生」

 大樹はミエの言葉に胸が詰まって何も言えなかった。

「大樹はどうなの?」

 雪乃が大樹の気持ちを確かめてきた。

「雪乃が言うように僕はミエのことが好きになってしまった。でも、君と再会できたことで…」

「二人ともはっきりしないなあ。この際、リセットするしかないよね」

「リセット?」

「こっちに来るタイミングがズレたためにこうなってるわけじゃない。だから、もう一度タイミングを合わせるためにリセットするの」

「そんなこと、どうやったらできるって言うんだ」

「先生、訊きたい?」

「本当にあるんだったらな」

「たった一つだけあるよ。それは二人が同時に『この場』からさようならするの。そうすれば、今度こそまた一緒になれるわ。ただし、その『未来』が来世なのか『前世』なのかはわからないけれどね」

「心中しろと言うことか」

「そんな古臭い言葉は好きじゃないな。時を合せる旅とか言ってよ」

「簡単に言うな。どんな言葉を使っても、自ら命を絶つという重大な決意をしなければならないんだ。しかも、その結果がミエの言う通りになるとは限らないじゃないか」

 自分はともかく、雪乃はこちらで十分幸せな暮らしをしている。大樹に再会してしまったことで、それが揺らいではいるけれど。ミエの言う通りになるという保証もないのに雪乃を自分の思いに引きずり込むことはできない。その雪乃は黙ってミエの言葉を聞いている。

「それは信じることしかないの、先生。二人で身も心も強く繋いで、ひたすら信じ、祈ることでもう一度二人にとって本当の幸せに触れることができるの」

 ミエの言葉に雪乃が反応した。

「そうよね。私はもう一度本当の幸せに、この手で触れたい。身体中で感じたい。大樹、覚悟の問題よ。得たいものが大きいほど、捨てなければならないものも大きいものよ。私は覚悟はできている。あとは大樹だけ」

 いつも思っていることだが、いざとなると女のほうが強い。大樹の心配などよそに、雪乃はミエの言葉を信じ、その結果やってくる『未来』をも自分のものにしているようだ。大樹が乗らないわけにはいかない。

「わかった。信じよう」

「先生、辛いけど、私が見届けてあげるね」

「お願いね、ミエちゃん」

 雪乃が答えていた。

 決行日は二週間後の日曜日の夜とした。雪乃のことも考え、できるだけ苦しむことなく、かつきれいなままで旅立てるよう、車の中で睡眠薬を飲み、排ガスを車内に引き込むことにした。

 予定の場所に着き、黙々と準備を始める。二人が旅の途中で離ればなれにならないよう、ミエが二人の身体を縄で結びつける。

「さあ、二人とも目を瞑って」

 ミエの言葉に応じて二人は目を瞑る。

「じゃあ、これから薬を飲んでもらうから口を開けて」

 雪乃と大樹の口にミエが薬を入れる。

 次第に意識が遠のいていく。

「じゃあ最後に手を握り合ってもらうよ」

 そう言って、ミエが大樹の手を取り雪乃の手を握らせた。

「先生、ミエは先生と出会えて幸せでした。ありがとう」

 大樹は頷くことしかできない。

「雪乃さん。先生をよろしくお願いします」

 ミエも雪乃もの息遣いだけが聞こえる。やがて意識は消えた。


第8章 答え合わせ

 

 胸を締めつけられるような懐かしさがまるで毛布のように私を包み込み眠気を誘う。逆流した時間の中で大樹は再び命のスイッチを入れ直す。

松岡から結婚式の三週間前に受付役を頼まれた。もう一人は新婦になる太田小百合の友達に頼むということだったが、まだ誰になるかは決まっていないという。

「そう、わかった」

 と答えたものの気になった。別に受付役の相手がどんな人でも良いようなものだが、不思議に気になった。

 仕事中もふとした瞬間にそのことが頭を過り、自分でも驚いた。しまいには気になることが気になるというおかしな事態にまでなっていた。あまりに気になるので、一週間後に松岡にもう一度訊いてみることにした。

 いつも通り、松岡と加藤と大樹の同期の3人で昼食を食べた後、喫茶店でコーヒーを飲みながら仕事の愚痴をこぼしている最中に、急に思い出した感を装い松岡の顔を見て話した。

「そういえばさあ」

「ん?」

「お前の結婚式の受付の件だけど」

「ああ、よろしく頼むよ」

「それは大丈夫なんだけどさあ…」

 歯切れの悪い大樹に松岡が苛ついたように言った。

「だから何だって言うんだよ」

 隣に座る加藤まで苛ついているのがわかる。

「ごめん、ごめん。女性の受付役は決まったかなあと思って…」

「そういうことか。なら、すまん。まだ決まってないらしい」

 すると、二人のやりとりを聞いていた加藤が、大樹の気持ちを見透かしたかのような表情を作って言った。

「誰だっていいじゃないか。もしかして、その子が自分の好みの子だったらナンパするつもりで訊いてるんじゃないか?」

「別にそういう意味じゃないよ」

「じゃあ、何なんだよ」

「何となく気になっちゃってさあ」

「ええー」

 と、のけ反る素振りを見せる二人。

「お前、このところおかしいよ。この間も、あり得ないミスをして課長に怒鳴られてたしさあ。お前がマリッジブルーになってどうするんだよ。なあ、松岡」

 笑いながら振られた松岡が苦笑いをしながら言った。

「ほんとだよ、まったく。当日のお楽しみということにしておいてくれ」

 そう言われて何も言えなくなってしまった。それからの二週間、大樹は悶々として過ごした。

 そして、いよいよ当日を迎えた。受付をやるということもあって、大樹は披露宴開始の3時間前に会場に入った。すでに到着していた松岡やその両親に挨拶をした後、ロビーでコーヒーを飲んでいた。もちろん、大学時代からの友人である松岡の結婚を祝福したいし、営業部のマドンナでもあった太田小百合の花嫁姿を見るのも楽しみだった。しかし、大樹は今日自分には運命的な出会いが待っているような予感がしていて落ち着かなかった。

 時間を見計らって披露宴会場に行くと、すでに受付の用意がなされていた。やがて、式を終えた松岡の叔父さんが大樹の元へやってきた。

「どうも、ご苦労様です。じゃあ、今日はよろしくお願いします」

「はい、わかりました」

「それで、もう一人は小百合さんの友達がやってくれるそうで、間もなく来ると思います」

「そうですか…」

「あっ、ちょうど来ましたね」

 一人の女性が大樹の元へ近づき、満面の笑みを浮かべながら自己紹介した。

「どうも、初めまして。広田ミエと申します」

「広田、ミエさん、ですか…」

あの時、自分が握った手は…


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