出会い、別れ、失踪する古民家の噂・前編
「とりあえず、待ってる間にお代わり貰えませんか」
「では……『ピーキー』のハイボールはいかがでしょう? 炭酸に乗って届くまろやかな香りを楽しみながら、ゆったりできると思いますよ」
これは、確かに……うーん、良しっ。
曖昧で、心地好い一時を過ごした気がする。さて、何分くらい経ったんだろうか。
「すみません、ここ……空いてますか?」
「おや……」
届いた女声は落ち着いていた。
一拍置いてから、マスターが答えた……ように見えた。
「空いていませんよ。そこは、貴女のための席ですからね」
「……………えっと……?」
マスター、格好つけてみたかったようだけど若干滑ったな。
気を取り直して、紹介を受ける。
「赤松の紹介で参りました、別所です」
あの男は、赤松さんというのか。そういえば聞いてなかったな。名乗ってもいなかったような気がする。
「ご丁寧にどうも、私は平手といいます、早速ですが……お願いします」
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出会い、別れ、失踪する古民家の噂
「ミサっち、カラオケ行かね?」
「あ~ごめん、今お金なくて……」
「あたしも、なんか喉痛いからパス」
駅前の、他愛もない女学生の会話。
「マジか~ んじゃ、おつかれーしょん!」
市内の女子短大に通う別所美紗は、学内では珍しい苦学生だった。
彼女は午前に集中させた講義を聴き終え、友人と駅前のファミレスに移動してランチタイムを楽しんでいた。彼女にとって、食事こそ大したものではなかったが、安く時間を気にせず居座れるファミレスは有り難い場所であった。
「お金、かあ……ミサ可愛いんだし、こういうのはどうよ」
「なにこれ……大学生限定? それは良いけどディナーのみって? 他に何かあるの?」
「ミサ、ホントに知らないんだね……」
友人が見せたのはマッチングアプリの画面であった、禁欲的ですらあった美紗にはまるで縁の無い世界だ。
「やっぱミサって彼氏いない? ていうか……いたことない? 処女?」
「うん……つか声が大きいって」
「やっぱり? うん、いくら割が良くてもさすがに危ないわ、やめやめ!」
友人は手を大きく横に振って話を止めようとする。
「え、待って割が良い……の? お金的に? 時間的に?」
「清楚なお嬢様が来る世界じゃないわよ、ホホホ……て感じ なんかウケるわー」
「別にお嬢じゃないし、ってかお金は大事だよ」
「まあ上手くやればお金は稼ぎやすいんだけど、悪いオッサンに騙されて泣く娘もいるわけで。ミサにはまだいろいろ早いって」
「私にはお金が必要なのよぉ」
美紗は苦学していた。彼女はお嬢様というほどではないが、その出自は裕福な部類である。父は名医として高給で雇われていたし、先祖代々の土地や蓄えもあった。
ただ……医者か薬剤師か、無理なら看護師でも技師でも、とにかく医療に従事せよ。それが、別所家の教育方針だった。それに従い、美紗の兄は努力を重ね何とか医師となった。姉も、薬学部に籍を置いている。
しかし美紗には夢があった。幼い頃に観たドラマの再放送、家族の誕生日にだけ食べられた高級料理、初めて料理を振る舞った日の幼馴染みの笑顔…………彼女は料理人として生きたかった。まず栄養士資格を取り、調理師資格を取り……食いっぱぐれのないようにしながら一流の料理人を目指す。なるべく、両親にも甘えないように。
そんな彼女の思いを聞いた両親、特に母親は強硬に反対した。
母の考えはよく分からないが、父は兄妹で最も賢く、何事にも器用な美紗を将来の名医、それも自分以上の名医たり得ると高く評価していたらしい。両親だけでなく、名門大学・学部への進学実績を増やしたい高校教師にも反対された。
が、結局美紗は夢を選んだ。頑なな母は学費など出さぬ、いっそ勘当でも良いと顔を真っ赤にして喚いた、だから学費の安い美岐市の市立大を探し出し、そこへ進学した。
(自分は医者どころか働いてもいない、家事もそこそこに高いランチ食べ歩いてるだけのくせに)
母と顔を合わせたくないから、去年は実家に帰るどころか、連絡もまったくしていない。
(通ってるジムのインストラクターと不倫してるのだって知ってる、父さんだってホントは知ってる。いつも「私は家族思いのいい妻です~」みたいな顔してるけど)
そんな状況だが、父は不定期に食料を送ってくれている。差出人の住所氏名こそ親戚のものだが、その見覚えのある達筆は本当の差出人が誰であるかをはっきり示していた。
自分の夢に、面と向かっては反対し、おそらく落胆しながらも決して自分を見捨てず支えてくれる父。そんな父に、余計な心配をさせたくなかった。
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「あ、すみません、話が逸れましたね……」
「いえ、構いませんよ。続けてください」
ずいぶん力が入ってるな。先の……赤松さんとはまるで違った話ぶりだ。芝居とか、読み聞かせとかを嗜む方なのだろうか。
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夜、美紗はラーメン屋でのアルバイトを終え、下宿へ帰った。
「はあ、つっかれた」
雑誌やネットでも評判の、元板前の店主が営む人気ラーメン店。何か今後の参考になるものがあるかもしれない、と応募し採用されたものの、忙しく接客するばかりで得るものは少なく、また業務負担と時給のバランスも取れていないように感じていた。実際、生活は苦しかった。バイト代が足りずにガスを止められたこともある。学力相応の進学先に行っていれば、塾講師や家庭教師の当てもあっただろうが。
ポストにはいくつかの請求案内が届いていた。玄関でそれらを開封し、請求額を確認する。
(口座の残高と、次のバイト代足しても食費が足りないかもなあ)
大まかに暗算してその結果に危機感を覚えたものの、今すぐに何か対策できるわけでもない。彼女は部屋着に着替えてベッドに横たわり、とりあえずスマフォを手に取る。表示された画面は、昼に友人と話していたマッチングアプリのインストール待ち画面だった。
(割のいいバイト、か……)
インストールして眺めるだけならば何も問題ないだろう、と美紗はアプリをインストールし、試しに起動してみた。
そこでは、様々な呼びかけが利用者から発信されているようだ。それに対してメッセージを送ることで、個々でのやり取りができる。美紗はそう理解した。しかし、どの呼びかけが自分の目的に合うものなのかをはっきり理解できなかった。そこでは彼女にとって見慣れない用語が所々で使われており、その意味が分からないのだ。
(アッコに相談してみるか……あの子にしても、割と口軽いけど)
美紗には懸念もあったが、「それ」に詳しそうで、かつこのようなことを相談できるほど仲の良い友人は一人しかいなかった。多くの学生にとって、学業にひたむきで、またそこでは場違いなほどの知識や学力を時折見せてしまう彼女は近づき難い存在らしかった。それを気にしない数人が彼女の主な交友範囲であり、公私問わず彼女を慕い、また頼りにもしている稲葉敦子が、その中でも一番の親友であった。
次アッコと二人になれたときに相談しよう、そう考えアプリを閉じようとした彼女の目に、ある文言が映った。
『三十歳以下女性限定、個室宿泊一泊鍵付き、その他条件なし』
マッチングアプリの仕様等について、おかしな点があるかもしれませんが作中設定としてご容赦いただければ幸いです。