霊安室、消えた若夫婦の噂
例え覚悟が出来ていたとしても、早すぎる死、定年前の病死というのは辛いものだ。
職場で突然倒れ、意識の戻らぬまま数ヶ月を聖崖病院で過ごした男性患者が逝った。
ある若い妊婦は毎日、その患者の見舞いに来ていた。
毎日、彼が意識を取り戻す日を待っていた。毎日、彼が自分の大きく膨らんだ胎を、その内で孫が育つ姿を見やってくれる日を望んでいた。
そのために、普段通う産婦人科も聖崖病院の近くに変えた。けれど、彼女の父は、二度と──その目を開かなかった。
いつかこうなるかもしれないと、覚悟はしていた。
病院の駐車場から病室へ向かう最中に報せを受けた彼女は、病室ではなく処置室へ入った。医療機器を外された父の姿は、いつもと大して変わらないように見えた。
彼女が到着したことを確認した医師は、「奥様のご希望」ということで死亡診断を始めた。
死亡診断を終えた少し後に、彼女の夫と母……患者の妻が処置室に着いた。彼女は椅子に腰掛けて身体を丸め、声を殺して涙を流していた。
三人が揃ったところで看護師から今後についての簡単な説明を受けたが、彼女の嗚咽は止まらない。看護師の説明がどれほど彼女の頭に入ったのだろうか、ともかく三人は亡骸とともに霊安室へ移動した。
霊安室の空気は少し温かく、乾いた印象を彼らに与えた。夫は部屋で妻に付き添い、母は親戚筋と葬儀屋へ連絡するために部屋を離れることにした。
夫は長椅子に妻を座らせ、隣で彼女の肩を抱いていた。彼は涙を流すほどには岳父の死を悲しんでいなかったが、妻の心境を察し少しでも彼女を慰められるよう努めた。
霊安室に着いてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
じゅるっ ぴちゃ じゅるっ
夫は姿勢を変えず、目線を上げた。乾いた空間には不似合いな音が聞こえた、そんな気がしたのだ。
とはいえ、部屋で音を出し得る者は自分と妻しかいない。ドアの開閉音もしなかったから、戻ってきた丈母が死角で涙を拭っているわけでもない。
(存外疲れているのかもしれない)
彼はそう考え、意識を妻の側に戻した。
ぬちゃっ ずるっ ずりっ
彼はまた粘った音を聞いた。泣き鼻とも違う。そしてそれは、先の音よりも大きくはっきりと聞こえた。霊安室に入った時に誰もいなかったことを思い出し、違和感を覚える。
彼は妻を抱き寄せたまま、周囲に耳をすませてみた。すると……
「……い゛……で…………」
呻き声のような音が、壁の側から聞こえた。
それは、明らかに女のすすり泣く声とは違う、不快感と恐怖感を想起させる濁った声色だった。
その音はどうやら妻にも聞こえ、強い不快感を与えたらしい。いつしか泣き止み、辺りを見回している。
そして不快な呻きは突然、叫び声のようなものに変わった!
「ぐい゛でえ゛ぇぇ!」
声が部屋中に響いたのち、得体の知れない力が生まれる!
「え、引っ張らないで!? いや、止め、て……えっ!?」
妻が、反対側に引っ張られている! 反対側には、壁しかないのに!?
「蘭子!?」
夫は、肉に指が食い込むほどの力を妻の肩を抱く右手に込める。
右手の全力で妻を抱き寄せたまま、夫は左手で妻の手首を掴む。しかし、壁に向かう力はますます強まり妻の身体だけを壁側へ引き込む。
「嫌あぁぁァァァッ!?」
やがて妻の身体は夫から引き剥がされ、それはあたかも壁に浸透するかのように吸い込まれ、かき消えた。
そんな、そんな!? 蘭子!?
夫は霊安室の生温い床に冷や汗を落とす。彼は混乱と恐怖に狼狽えながら、震える手で必死に妻の消えた壁を探る。
勿論、人が通れるような隙間など見つかりはしない。やがて彼は苛立ち、手当たり次第に壁を叩いていた。
「どこだ! どこだよ!? 蘭子を、蘭子を返せ!!」
反応はなかった。
「蘭子! 蘭子……」
夫は膝を着き、壁に何度も拳を打ち付けた。壁を殴る度に恐怖だけは薄れていくが、その鈍い音は虚しい。
夢、そうだ夢──悪い夢で、あってほしい。愕然としながらそう願った彼の耳に、再び、あの濁った声が届いた。
「おば……え゛…………じょ……がえ?」
「えっ……?」
「いっ…………え゛の……がぁ?」
霊安室は普段の静けさを取り戻した。そこには亡骸が一つだけ、残されていた。