日常 そして期待
あの奇妙な体験から数日が経った。
浮かび上がった光の文字について、それとなく周りの友達に聞いて回ったが、特にテストでおかしなことがあった奴はいないようだった。
『世界に選ばれた』
一体どういうことだろうか。最近はずっと頭の中をその言葉が駆け巡っていた。
「なあ、圭は進路もう決めた?」
授業が終わった後の帰り道、学校近くの歩道橋の階段を考え込みながら上がっていた俺は、隣を歩きながらしばらく黙っていた友達である松ケンの唐突な質問にすぐに反応することができなかった。
「えっ? 何を決めた?」
「いや、だから高校どこ行くの?」
今度は松ケンの質問がしっかりと聞こえたので、すぐに返事をした。
「商業か工業に行こうかとは思っているけど」
松ケンは驚いた顔で俺のほうを向いた。
「マジで? 圭、勉強できるからもっと良い学校行けるやん」
確かに俺たちの市では商業・工業高校は偏差値的には真ん中よりちょっと下で、あまり成績上位者が行くところではなかった。
勉強は苦手ではないし、順当にいけばもう少しいい学校も狙えると思う。しかし、世の中には人それぞれ色々な事情というものがある。
「いや、あのあれ。高校でたら働きたいのよね。それやったら、商業か工業がいいだろ」
「圭って働くの? 俺は大学出るまでは働きたくないわ」
松ケンは手のひらを後ろで組んで腕を伸ばしながら言った。俺だってできれば大学出てから働きたいけどね。
「なんで急に進路?」
「この前、進路調査あったやん。第一志望どうしよっかなと思って。サッカーが強いところがいいけど、それだけで決めんのもなぁ」
「ああ、まあお前成績も悪くないしな」
松ケンは成積はある程度上位で、サッカー部のキャプテンをしている。
エースストライカーとしてチームを県大会にも導いているし、先生受けも良いので、推薦も大体のところはもらえるだろう。
「大学のことまで考えたら、北校とかが良いんじゃない? 最近サッカーも強いし」
「そうやなぁ。確かに北がベストかなぁ」
そこまで言うと、松ケンは少しの間、また黙った。
こいつとの付き合いは長い。雰囲気で何か言いづらいことを言おうとしていることは分かるので、ひとまず次の言葉を待つことにした。
10秒ほどの沈黙のあと、松ケンはチラッと俺の顔を見ていった。
「……あのさ、圭またサッカーやろうや」
「えっ? あー、うーん。俺、今卓球部だし。高校でもサッカーは分らんな」
友達からの突然の提案に俺は、肯定の答えを言ってやることができなかった。
最初の進路の話も、これに繋げるために話したのかもしれない。
松ケンは微妙な顔をしていた。俺が多少松ケンのことが分るように、松ケンも同じなのだろう。
はっきりとした否定はしなかったが、今の言い方は俺が興味が無いことを理解したようだ。
「そっか……。まあまだ高校まで結構あるし、やりたくなるかもやしな。卓球部の方はどうなの? 頑張ってんの?」
「おお! 最近さ、ようやくレギュラーになって。最後の大会には団体戦出れそうなんだわ」
自分でも、少しテンションがあがっていることが分かる。
「あれ? まだレギュラーじゃなかったの? 圭ならすぐかと思ってたのに」
不思議そうに聞く松ケンだが、そんなに簡単なことではない。
「確かに運動神経だけならいいけど、やっぱり一年後に入ってるから、その差はでかい。でも、ようやくちょろちょろと上位陣にも勝てるようになってきたし、総体まで期間無いから頑張らな。団体で県大会に行きたいしな」
俺が熱く語っていると松ケンがハイハイといった感じで止めてくる。
「卓球もいいけど、明日はサッカーしてもらうからな。ちゃんと練習してるか?」
「いや、体育の授業でやってんだろ」
明日は学年別スポーツ対抗試合というイベントがある。各学年の男女別でクラスごとにスポーツの優勝を決める。
授業も最近はそれにあわせて、男子はサッカーと卓球、女子はバスケとバレーを練習している。
俺も卓球が良かったのだが、経験者はサッカーに出場しろと強引に松ケンにエントリーさせられた。
「授業やと、お前ディフェンスしかせんやん! 明日は攻撃してもらうからな。大分ブランクあるから心配やけど、優勝狙うぞ」
松ケンは本当に楽しそうだ。こういう行事ごとが苦手な俺はひとまず愛想笑いでごまかすことにした。
日が暮れ始めており、松ケンと別れ、1人となる。
俺の家は学区内の端っこにあるため、なかなかに遠い。1人になると途端に疲れてきて、足取りが重くなる。
逆にあと少し遠ければ自転車通学の距離になるのだが。
心の中で誰にも聞こえない悪態をつきながら、細道に入ろうとしたとき、外で一番見たくないものを見つけてしまった。
それはある老婆である。
その老婆は少しゆったりとしたスピードで暗い細道を歩いていた。
髪は白く、腰は曲がっており、あまり元気な印象は受けない。横には黄色というよりは黄土色の毛色の猫が同じ速度で歩いていた。
おそらく夕飯の買出しに出かけていたのだろう。近所のスーパーの袋を下げている。
猫がくっついていること以外、見た感じは普通のおばあさんだ。
しかし、内面は普通ではない。このおばあさんはほぼ周りとコミュニケーションを取ることができなかった。
買い物などの必要最小限のことはできるが、周りの人から挨拶をされても無視をする。
もちろん世間話などすることはない。腰が悪く辛そうにしている自らへの助けの声も邪険にする。
そんなおばあさんを近所の住民は、まるでそこに誰もいないかのように接していた。
まあ世間は広いし、世の中にはそんな人もいっぱいいるだろう。
俺も普通なら変な人がいるんだなくらいで気にはしない。
しかし、俺は気にしなければならなかった。
なぜなら、その老婆は俺の愛すべき唯一の肉親だからだ。
俺は進む方向を変え、少し遠回りにはなるが、別の道から帰ることにした。
俺には両親がいない。2歳のころに交通事故で死んだ。
ばあちゃんはそれからずっと俺を1人で育ててくれている。
当然、ばあちゃんのことを世界で一番大切に思っている。
だが、近所の人が自分の祖母の悪口を言っていることは幼い頃からなんとなく分かっていた。
ひそひそと幼い自分に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言われる好きな人への悪口は、幼い心に多少の影を落としていったような気がする。
最近は、ばあちゃんには悪いと思いながらも、外ではなるべく避けるようになってしまった。
予定外の遠回りがあったものの、無事に家に着いた。
1階建ての家だが割と面積が広く、2人暮らしには少し広過ぎる位だ。
両親が死んでから引っ越してきたから住んで大体十年ちょっとになる。
玄関までの石畳を歩き、扉を開けた。
「ただいま」
その瞬間、ヒュッと扉の隙間から黄色い影が飛び出してきて、俺の足に絡んできた。
「フツレ。ただいま!」
俺は、声のトーンを上げ、足にじゃれている猫を撫でた。
うん。世界一かわいい。
玄関の奥に入り靴を脱いでいると、フツレは満足したのか、家の中に入っていった。
ばあちゃんの所かな?
フツレは大抵ばあちゃんの側にいる。
俺はフツレが駆けていった台所のほうへ向かう。すると、ばあちゃんが料理をしており、足元には予想通りフツレがいた。
「ただいま」
俺の声に振り返った人物は見た目50歳程の妙齢の女性。
エプロンで手を拭きながらはつらつとした笑顔で、俺を迎える。
「おかえり。お菓子は棚の中にあるから食べるなら夕食が入るくらいにしときなさいよ」
「うん。ありがとう。ばあちゃん」
腰は曲がっておらず、顔は活気にあふれ、とても気さくな笑みを浮かべているこの女性は、先ほど外で見た老婆と同一人物の俺のばあちゃんだ。
知らない人が見れば、絶対同じ人物だと思うことはないだろう。
俺だっていまだにこの人は外のばあちゃんとは別人なんじゃないかと思うときがある。
「うん? どうかした?」
俺が見ているのに気がついたばあちゃんが首をかしげる。
「ううん。なんでもない。お菓子は部屋で食べるよ」
お菓子のポテトチップスの袋を持って自分の部屋に向かった。
ばあちゃんは家の中と外で雰囲気というか、姿が全然違う。家の中では、本当に普通の人だ。
12年前にこちらに来る少し前からばあちゃんは変わってしまった。
その時の事はあまり覚えていないが、いつも活力にあふれ、輪の中心にいた祖母が、急に他人との接触を避け始めたことに戸惑いを覚えたような記憶はある。
そして、何かから逃げるかのように、この地にやってきた。
ただ、それも今ではおかしくないように思えた。
なにしろ、自分の愛している息子夫婦を急に失ってしまったのだ。
ばあちゃんは外の世界が怖くなってしまったのかもしれない。
それに、思い出の多い場所から離れ、現実から逃げなければ、自分の心を守れなかったのかもしれない。
俺はそんな風に思っている。
しかし、そうは理解していても、外ではばあちゃんを避けてしまう。そんな自分に嫌悪感を抱いてしまう。
はあ。俺はまた溜息をついていた。
自分の部屋に入り、通学カバンとお菓子を机の上に置いた。
そして、ベッドに寝転んで少しまどろんでいると、ドアの所から引っかくような音が聞こえた。
起き上がり、扉を開ける。
すると、フツレが少し早足で中に入ってきた。大分年寄りのはずなのにまだまだ元気なので俺は日々安心している。
「おぉ。フツレ。どうしたぁ」
黄土色の訪問者を抱き上げ撫でる。
「お前は、いつも可愛いなあ」
フツレに顔を近づけながら更に撫で回す。
俺がフツレのことを年下扱いすると、なぜだかフツレは機嫌を悪くする。
本当に人の言葉が分かるかのようだった。
態度で分かるのかもしれない。
恐らく、自分のほうが先に生まれていたから、お姉さんのような気分なのだろう。
しかし、今日はあまり不機嫌にならず腕の中でゴロゴロと鳴いていた。
不機嫌な顔も俺は可愛くて好きなので多少残念だったが、それでも機嫌がいいほうが大人しくしてくれるので、今日はフツレが飽きるまでゆっくり毛並みを楽しもうと撫で回した。
5分くらいで飽きたのか、俺の腕から抜け出し近くの椅子の上で丸くなった。この部屋ではそこがお気に入りだ。
俺はベットにまた寝転がると目を瞑る。すると、また先日のテストで起こった不思議な体験が蘇ってくる。
自然と小さな溜息が漏れる。ここのところ気付くといつもだ。
実は俺は期待をしていた。
あんなことは普通ありない。だから、何か不思議なことが起こるのではないかと。
今の日常が変わるような何かが起こるのではないかと。
しかし、そんな兆候は数日経っても全く無く、俺は落胆していた。
自分がとても不幸だとは思わない。友達は優しいし、家族もいる。毎日楽しく学校生活を送っている。
でも、もしかしたら、魔法とか異世界とかそんな漫画のようなものが存在しているかもしれない。
そして、両親は生きており、大好きなばあちゃんが陰口を言われることなく、昔みたいに大勢の人と楽しそうにしている。
そんなもっと幸せな世界に変わるかもしれない。
俺は、馬鹿みたいだがそんなことを期待していた。あんな一瞬のできごとにそんな無茶で子供じみた期待を抱いていた。
だが、そんなに世界は甘くなかったみたいだ。
俺はまた小さく溜息をつくと、体を横に向け小さくなりながら眠った。
同日の深夜1時ごろ、悩める少年の部屋から少し離れた部屋では老婆が一人起きていた。
いや、正確に言えば1人と1匹。
「ごめんね。アストラにいればあなたも自由に飛びまわれるのに」
老婆は目の前の動物に手を伸ばす。
それは人間よりも大きなメスのライオンだ。
しかも只のライオンではない。 背中には白鳥のように真っ白な翼が生えていた。
そんなライオンは暴れる様子も無く、老婆の手に顔をこすり付けるようにしながらじゃれている。
「今日は新月ね。良かったら久しぶりに飛んできたらどう? 姿は私が消しとくから」
彼女がそう言うと、ライオンの姿は一瞬で見えなくなってしまう。
しかし、ライオンの吐く息や、足音は聞こえる。
ここに入るはずなのに姿は見えない。そして、ひとりでに窓が開いたかと思うと、そこから飛び出していった。
「夜が明ける前には帰ってきてね」
老婆は、近くに置いてあったカーディガンを羽織り、窓を閉めた。
何も知らずに眠る少年の日常は少しずつ変わろうとしている。