邪拳
初投稿です。拙作ですが、よろしかったら読んで感想をください。
一
奉行所 同心――志倉 安茂は人気のない裏路地にいた。
三方向が壁と家屋に囲まれて、行き止まりになっている。家屋は以前はとある名高い大名が持ち主であったが、既に死去していて長年放置されている。そのため損傷があっても修理はしていない。そんな廃屋が日を閉ざしているので、昼間にも関わらずそこは真っ暗闇だった。
志倉は膝を曲げ、背中を丸めて、地面を見下ろしている。
「……」
「昨日の晩といったところでしょうか。もう助かる見込みはありませんね」
背中から岡っ引の六郎が声をかける。
ふたりの目先には、地面に横たわった人間の死体があった。白目を剥き、口から血を吐き出した跡が服などのあらゆるところにこびりついている。
息をしていない。間違いなく命を失っていた。
「何度も仏さんになっちまってる姿を見てますが、やっぱりおれは慣れませんね……右衛門殿(※安茂の仮名)どうかしました?」
六郎が驚く前で、志倉は地面に横たわった人物に手を触れる。
服を掴む。小紋染めの着流しだ。最近若者たちの間で流行っている紺で染まっている。
役場織の下にねずみ色の着物といった地味な格好の志倉とは、まさに正反対だった。
顔つきから、生前の死体は一〇代後半か二〇代前半といったところだろう。
服を脱がす。
肉に包まれながら筋張った体つき。表を歩く同年代の若者よりたくましい肉体は、よほど鍛えていたのが伺える。
志倉は死体を裸にすると、くぐもった声を喉に詰まらせる。
「むっ」
青黒い腫れが数か所。ほぼ全身に丸い跡があった。
「金槌なんかで叩かれたんですかね? けれどこれほどデカいとなると、犯人は大工とかでしょうか?」
「……拳痕だ」
志倉は自分以外には聞こえないくらいボソッと呟いた。
なので六郎は息をする間もなく話を続けた。
「やはり犯人は“夜叉”ですかね」
夜叉の仮面を付けた男。巷で噂にもなっている連続殺人犯だ。
三か月ほど前、心斉橋において殺人が起こった。被害者は全身に打撲や骨折をおって死亡した。
事件発生と思われる時間に、現場から逆方向に走っていく夜叉の仮面を付けた男を何人もが目撃したという。
担当区域の奉行所の者が情報を元に容疑者と思われる男を探したが、行方は分からず。以降、十四回の似た案件が起きて、その度に現場近くで夜叉の仮面を見たという情報が入った。
奉行所全体で捜査しても男は発見されず、殺したとしても金銭どころか何も奪わない目的不明の不気味さから男はやがて“夜叉”と呼ばれ、畏怖されるようになった。
六郎の声に、志倉は頷いた。
「そうだろうな……」
「やっぱりですよね。じゃあとりあえず仏さん片付けたら、また夜叉の目撃情報を訊きに行きますか」
「そうだな……しかし、すまん。わたしはそれに付き合えない。だから代わりにやっておいてくれ六郎」
「ええ!?」
びっくりする六郎へ、志倉は背を向ける。
「先に行っておきたいところがある」
「右衛門殿が言うなら仕方ないですねえ。真面目なあんたのことだから、決して遊びじゃサボりじゃあるまいだろうし。それじゃいってらっしゃってください。こっちはおれが片付けときますんで」
「ありがとう。しかしひとりじゃ到底終わるまい。戻ってきたら手伝おう」
頼みを引き受けてくれた六郎へお礼を言うと、志倉は行き止まりから去った。
二
『業堕流柔術道場』
そう書かれた看板の横を素通りし、志倉は門を潜る。
座敷の前の庭に、三人の男たちがいた。
一人は、砂袋を蹴っている。足が当たるごとに爆発するような音が聞こえて、袋が破裂しそうなほど膨らむ。
一人は、瓶を指先で掴んでいる。両腕の先にあるどちらの瓶も、表面張力によりわずかに口から膨らむほど水が注がれているが、まったく零すことなく静止している。
一人は、積んだ石瓦を前にしていた。呼吸してから拳を下ろす。石瓦は縦に割れて、崩れ落ちていった。
男たちは同じ稽古衣を着て、それぞれの練習に励んでいた。
けれど志倉を見かけた途端、三人とも手を止めた。
そのまま志倉へ寄ってくる。
「安茂さんじゃないですか」
「お久しぶりです」
志倉と三人は知り合いだった。
志倉も気安く声をかける。
「ああ。久しぶり」
瓦割をしていた男――赤島 陽平が尋ねる。
「今日は何の御用です? まさか戻ってくるのです?」
「いいや違うよ。今日は、先生に話があって来た。今、どこにいる?」
「師匠なら、道場にいますね」
座敷とは別の建物を指す赤島。
志倉はそこへ向かう。
「もし時間あるなら、自分たちと掛け手(※組み手のこと)していきませんか? 太郎と庄之助もしたがっています」
「すまない。仕事があるからすぐに帰る」
「そうですか。残念です」
赤島だけでなく、他の男たちもしょんぼりする。
罪悪感を引きずりながら、志倉はその場を去った。
建物に入ると、畳の間に老人が座っていた。
志倉は土間で下駄を脱ぐと、老人の近くまで来て正座する。老人は足を崩して、胡坐をかき始める。
志倉は、深く頭を下げた。
「お久しぶりです。先生」
「不肖の弟子が帰ってきおったわい」
「はい。僭越ながら、本日はあることを尋ねにきました」
この老人は業堕流柔術師範――相賀 甘寧だ。
業堕流は朝鮮武術の手搏を元にした柔術である。
豊臣秀吉による文禄の役に参加していた相賀の先祖は、朝鮮半島において捕虜とした敵兵により手搏を習った。その敵兵は戦において殿を務め、仲間が倒れてひとりになってもなお三〇以上の兵士を相手にする。味方とはいえ自分を捨て置いて逃げていくものたちのためにそこまでして時間を稼いだ気概と実力そのものを認めて、相賀の先祖は解放を材料に取引した。
十年以上かけて男の手搏を完ぺきに身に付けた相賀の先祖は、江戸時代初期に業堕流を設立する。
現在、江戸で流行っている柔術は竹内流、柳生心眼流、起倒流、関口新心流。
戦国時代に設立され、日本最古の柔術とされる竹内流は戦乱によって生み出されたためか、実戦的な兵法と武器の取り扱いをメインとしている。
柳生心眼流は剣術の流派である新陰流から派生したもので、刀による立ち合いを想定した動きを教えている。
起倒流は現在における講道館の元となって武道であり、投げ技、捨て身技といった強烈な投げが特徴だ。
関口新心流は柔術としての武術だけではなく、他にも整体医療についての医術も学んでいる。また受け身を生み出した流派であり、守りに優れている。
業堕流はそのどれとも違って、打撃を中心とした柔術である。
強いていうのならば柳生心眼流が最も近いが、こちらは剣術と併用することや刀を身に纏ってない緊急時のためのものではなく、最初から拳や足の五体のみを駆使して、刀だけでなくあらゆる武器を持っている相手と戦うことを前提としている。
門下生こそ少ないが、個々の実力は上記の四流派にも劣っていない。
その現師範である甘寧へ、志倉は質問する。
「“邪拳”とは、一体どういうものなのでしょうか?」
「そんなものは、ない」
質問への回答の理由を説明する。
「打った相手を必ず殺す拳――邪拳。そんなものは見たどころか、目録の巻物にも記されておらん」
「しかし夜叉が関わったと思われる死体には必ず拳で殴った跡がありました」
「何度も殴れば拳といえど人間は死ぬ。邪とするのは、拳ではなく、その殺人犯の心じゃ」
唇を一文字にして沈黙する志倉。
甘寧は呆れて溜息を吐いた後、話しかける。
「ともかく邪拳というものはこの世にない。夜叉というものもここまで殺人を繰り返したのじゃから、別の証拠が発見されていずれ所在をばらされて捕まるじゃろう」
「そうですね……」
「それで。話は終わりか安茂?」
「いえ。まだもう一つだけあります」
「そうか。なら少し待て。おまえのことじゃから、質問に答えたらすぐ帰っちまうじゃろう」
「それはまあ。仕事は終わってませんので」
肯定する志倉へ、甘寧はより深い溜息を吐く。
「せっかくの師との再会じゃぞ。もう少しゆっくりしとけ」
「分かりました」
師匠には一から柔術を教えてもらった恩義がある。許せ六郎。
心の中で、手伝いを約束した部下へ謝る志倉だった。
甘寧は立ち上がると、座敷の外へ目を向ける。
三人の門下生が稽古の続きをしていた。全員で横並びになって、巻藁を叩いている。
比べると、赤島が他よりも速く強い。
横目でそのことに気付いた二人は、顔色を変えて、赤島よりも速く打ち込む。すると赤島はもっと勢いをつける。
三人は競い合う。
風呂でも入った後のように汗にまみれながら、拳を打ち込むごとにかけ声をあげる。拳ダコが変色し変形し、裸足の裏が地面によって擦り切れている。
やがて決めていた回数に到達したものから、その場にへたり込んでいく。
最後の一人が終わると、お互いに顔を合わせて笑っていた。
志倉は正座のまま、師へ声をかける。
「懐かしいですね」
「おまえたち(・・・・・)にもあんな頃があったのう。隣にいるものと競い合い、同じ釜の飯を食らい、己を高めていく」
「ええ……」
「兄と弟のおまえ。どちらも優秀であり、免許皆伝までしたのに、ふたりとも道場を抜けてしまった……わしは、おまえたちのどちらかにこの道場を継がせようと考えていたのじゃぞ」
「すみません」
頭を下げる。
「兄は消え、弟は家業の一部を継いだ……あやつは、まだ帰ってこんのか?」
「まだです。父も、与力(※奉行所の役職名。同心より一つ上)の席を開けて待っています」
「そうか。親不孝者が。何も言わずにいきなり消え去りおって……」
「強くかしこい人です。考えがあってのことでしょう」
「やけに肩を持つのう。門下生だった時はいつも負かされて悔しそうにしておったのに……そういえばおまえ、兄に勝ったことあったか?」
「いえ。掛け手では一〇〇戦一〇〇敗でした。兄には、一度も勝ったことがありません」
「そりゃひどい結果じゃ」
吹き出すように言う甘寧。志倉は苦笑する。
「しかもおまえ負けるごとに正拳の打ち込みを行っておったな」
「はい」
「確か一敗目が一〇〇発で、二敗目が二〇〇発……って一敗ごとに百発増やしていって。千発いったところまでなら覚えておるのじゃが、それ以降は目にしなかったのう……二〇〇〇、三〇〇〇はいかんか根性なし」
「ええ……すみません」
「常人ならそれでも快挙じゃがのう……うちの門下生しかも皆伝者としては情けない」
「自分は凡人ですから……だからもし道場を継ぐとしたのなら兄のほうだったと思います。自分よりよほど優秀な人物であり、私にとっては目指すべき目標でした。凡人の自分が皆伝まで行えたのも、手本である兄が近くにいたからだと思います」
「本当におまえは兄貴が大好きじゃのう」
苦言を呈していたはずなのに、すっかり毒気を抜かれてしまった。
間を開けた後、甘寧は訊く。
「……それであと一つ聞きたいことって何じゃ?」
志倉は少し静止した後、口を開いた。
「……実に言いにくいことですが」
「おまえとわしの仲じゃ。何でも聞いてみろ」
「分かりました。では」
姿勢を整え、背中をきっちり伸ばす。
正面から目を合わせて、志倉は尋ねる。
「現在のお弟子さんの様子を教えてください」
「……もしや疑っておるのか? うちの誰かが犯人だと」
「いえ。そこまでは……ただ人を殺すほどの拳を打てるものですから。柳生やここなどの当て身に秀でている――」
「出てけ無礼者!」
怒鳴りつける甘寧。そこには弟子との久々の会話を楽しんでいた今までの姿はなかった。先程とはうってかわって、今度は言い訳すら許されない雰囲気だ。
すぐに両手を床につけて謝る志倉。
「失礼をして申し訳ありません。ですが私たちの仕事は少しの可能性についても考慮しなければならず」
「いいからここから消え去れ恩知らず! 未だ貴様を慕っているかつての弟弟子たちの信頼まで裏切るとは。二度と顔を見せるでないわ!」
「……分かりました」
激しい剣幕に、話を聞くことを諦めた志倉。
おとなしく道場から去ることにした。
三
夜。
薄暗い町中を、甘寧はとっくり片手に歩いていた。
頬がほんのり赤いが、足運びは正常そのもの。
甘寧を知らぬものが見ればほろ酔いするくらいのちょい飲みだと思うが、実際は一樽を丸々と蟒蛇のように飲んできた帰りだった。
これでほとんど酔っていないのだから、行きつけの店主からすると困りものだった。大量に買ってくれるのはいいが、急にふらっと来て、明日のために用意していた分まで飲まれるのだから。しかも味にうるさい。
持っている貧乏とっくりも、店で一番大きな物だ。
心地よくなった気分が、暖まった肌同様に風で冷めてきたころ、甘寧は思案を巡らせることにした。
(「柔術」とは何か?)
無手もしくは短き武器を持って居る敵を攻撃し、防御する術。
現在、多種多様な流派が存在するがあえて定義づけするならばこうだろう。
肉体を鍛え、技を磨き、身内との掛け手で経験を積んで他流試合をする。それが今の柔術を学ぼうとし、道場に入った人間が経験する流れだ。
勝って栄冠を掴み、負けて屈辱を味わい、それらを糧にしてより一層の精進をする。
(本人の素質を抜けば、勝者も敗者も等しく成長する。誰も何も失わない……そう。そこには「死」がない)
戦国の世が終わってから一〇〇年以上過ぎた。戦乱を制するための柔術にも変化が起きていた。他流試合では目突き、金的、相手が倒れてからの追撃はなし。勝敗はどちらが相手に致命的な損傷を与えたかの一本制。
もはやそこに生き死にを賭けた戦いはない。
真剣勝負はそうかもしれんが、あれは代表者だけで全員が全員、命について損失はない。
幕府のお偉方に「柔術とは何か?」と聞かれ、かの柔術関係者が述べた答えはこうだ。
「心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、幕府の平和と繁栄に寄与する精神善用の道です」
いい言葉だ。目の前で言われたら惚れ惚れする……だが、違う。
死にたくないから、生きたいから、敵に勝つための術を学ぶ。それが柔術の本質なのではないか。
だからこそ戦乱の世で生まれ、現在に残るほど研ぎ澄まされた技術ではないのか。
甘寧は、小指を曲げた。次に薬指、中指、人差し指を曲げる。そして最後に、親指で曲がった指を締める。
出来上がった正拳を、見下ろす。
(“正しき拳を極めると、邪に染まる。邪に触れし者、やがて身を滅ぼす”)
目録にも書かれていない。豪打流を受け継ぐ者だけに、代々、口伝される言葉だった。
一見すると、強くなったとしても無闇に力を振るえば、悪となってやり返されて死ぬという戒めの言葉のように思えるが、その実は違った。
この言葉こそが“邪拳”の打ち方を示したものだったのだ。
受け継ぐ者だけが教えられる言葉。何も知らなければ、聞いただけではただの戒めでしかない。
二重の鍵をかけて、秘密を洩らさないようにしていた。
(だが秘密とはいつか洩れるもの。邪拳自体を知るものはいないが、その存在は風の噂になっている)
ふっ。
自嘲したかのように笑った甘寧は、構えを作った。
両足を肩幅ほどに広げ、踵を外にして八の字にする。
腰を落として重心を下げる。
左拳を前に、右拳を脇下に置く。
構えた甘寧は、右の正拳を放った。
ブワッ。
切られた風が、裾を派手に巻き上げた。
(鳩尾、顔面、金的に食らわせば一撃で昏倒させる自信はある。しかしそれではとうてい人を殺す邪拳とは呼べない)
甘寧は邪拳について考える。
殺すこと自体は可能だ。手刀で脈を切ってしまえばいい、もしくは蹴りで金的を完全に破壊するか石の河原で頭を踏みつけるか。しかしそれらは手当次第では助かる可能性がある。そんな不確かなものが、ここまで大層に扱われることなどないだろう。
故におそらく、即死。
邪拳を当てられた相手は、医療の暇などなく、必ず即死する。
(ならば脳か心臓の破壊)
しかしこれらは難しい。
まず脳だが、こちらは狙いが難しい。相手の背が自分よりよほど低い状態になければ全力で叩きこめない。先に顎か顔面に当たる。そちらでは即死は不可能だ。しかも頭蓋骨に囲まれている。
次に心臓。こちらは分厚い胸の肉があり、その内側もあばら骨で守られている。それらを貫通して、心臓に威力を伝えるのは到底難しい。単純な破壊力だけではなく、凝縮された衝撃が必要。
女子供なら可能かもしれないが、そんな弱者たちには技は必要ない。自らと同格かまた格上にも通じなければ。
考え込んだ末、甘寧はまた自嘲した。
(夢見たが、やはり出来んな。邪拳は今のところ言い伝えだけしかない幻の技。先代も先々代も最後までその正体を掴めなかった)
業堕流を継いで四〇年、打ち込む砂袋にはただの砂ではなく刃物の破片を入れ、特注の玉鋼(※日本刀の制作に使われている合金)の瓦を叩いた。
そうして過酷な稽古に身を置いて鍛え続け、挑戦を繰り返したが習得できなかった。
(邪と言われようが、もしあるのならば人を殺すとされるこの技こそがわしは柔術の頂点だと考えている。どんなに取り繕うと、所詮、柔術は人殺しの技術なのだから)
毛も白く染まり、どれだけ鍛錬しようが肉体も維持するのが難しくなってきた年ごろ。すぐ訪れるだろう死を前に、甘寧はこれまでの人生の悩みに答えを出した。
考えつくすと、すっかり体も頭も冷めていた。
(長期間の大規模な捜査に、安茂も色々と疲れていたのだろう。後日、こちらから呼び出すことにするか)
志倉を許すための方法を考えながら帰路につく。
呑気に鼻歌なんて唄いながら、⌒の形になっている心斉橋を渡る。
中心まで来ると、端のほうに寄って川を見下ろす。
丸々とした満月が、水面で綺麗に形作っている。
いつもより明るい月が、仄かに町並みを照らしていた。
首を脇へ振った甘寧。
視線の先には、夜叉の仮面があった。
南蛮人のような外套を羽織り、その上に夜叉の仮面を着けている。まるで獅子舞のような姿だ。
足元に見える草鞋は泥だらけでぼろぼろだった。
くぐもった声が聞こえてくる。
「こんばんは。業堕流師範 相賀 甘寧」
「……おまえが今、巷を騒がせている夜叉か?」
「ええ」
夜叉は欄干の上に立って会話している。
微動だにしてない。なんてバランス力だ。
甘寧は感心しつつ、話を振る。
「それでこんな老いぼれに何の用じゃ? おまえが武芸者を狙っとるのは知っとるが、わしみたいな年寄り相手にしてもただの弱いものいじめにしかならんぞ」
志倉から聞いていた。
夜叉は盗賊に剣術家に柔術家。強いと噂されるものを狙っていたらしい。そして傾向として、殺人が後のほうほど相手が強くなっていっていると。
判明している範囲で最後だと、かの竹内流の師範が殺されたとか。
現在の江戸において、おそらく最も高名な柔術家である。
「私が知る中で、いやこの江戸において、あなたが最強の柔術家だからです」
「ほう……」
否定しないのは、紛れもない事実だったからだ。
成熟した杉木のような四肢。どんな名刀だろうが一切りでは切断できないほど太い首。若い頃から維持された強大な肉体は、数多くの若き武芸者に劣らぬどころか、力、頑強さ、柔軟さ、その他全てにおいて超えていた。
そして赤子の頃から老年の齢まで磨いてきた技術。これらが合わされば、総合力において匹敵する柔術家は存在しない。
流派において技に違いあれど、現最強はまさしくこの老人だった。
「奉行の調査も最大規模になった。おそらく私は数日中に捕まるでしょう……もう時間が無いのです私には。せめて最後は、あなたと戦いたかった。ですから順番を飛ばして、ここに来ました。あなたがここで月を見るのが好きなのは知っていましたから」
「やけに知っておるのう……それにその落ち着いた喋り方どこかで聞いたような……」
顎に手をそえて考え込む甘寧へ、夜叉は言った。
「ここらへんで終わりにしましょう。今から始まるのは掛け手ではありません――殺し合いです」
「ほう」
甘寧が息を吐いた瞬間、夜叉は翔んだ。
月を隠すような位置。欄干があれど、かなり高い跳躍だ。
(上から仕掛けてくる気か。人間は目線の高さ以上からの攻撃には、対応できんからのう)
考えを読んだ甘寧は、とっくりを斜め上へ投げた。
重力が徐々に威力を落とす。
けれど最初からダメージを負わせるのが目的ではなく、態勢を崩させるのが狙いだったため、これで良かった。
「おっ」
甘寧は口をひょっとこのようにして驚いた。
夜叉は空中で脚を上げ、踵をとっくりに当てて返してきたからだ。
動きに驚嘆しつつ、速度を増して落下してくるとっくりを躱す。
その間に、夜叉は寸前まで迫ってきていた。
拳を上から叩きつける。
グイッ。
上段受けで頭上へ空振りさせ、
ズンッ!
着地したところに前蹴りを夜叉の腹へ浴びせた。
「ごがっ」
橋の中央から向こうへ転がる夜叉。
起き上がった夜叉の前で、甘寧は構えに戻る。
「こちとら投げ石や馬上からの槍を想定しとんだ。ただの空中殺法じゃ、屁にもならんよ」
「うぐぐぐ」
未だ痛みに悶える夜叉。
「しかしおまえもやるもんよ。こちとら金的狙っていたのに、そこはしっかり膝で迎え撃つ気でいたから、方向変えて腹にいくしかなかった。まあそれでも鳩尾だから、すぐには立てないほど効いとるけど」
「ぐぼぁ」
嘔吐する夜叉。胃液ばかりで、身を隠すために食べ物が買えなかった生活が伺える。
面を剥がしたら、もしかしたら隈もあるかもしれない。奉行所の人間の目につかないため、寝ずにいた可能性も考えられる。
そんな衰弱をしているかもしれない状態で、夜叉は立ち上がった。
「おうおう。いい根性しとるのう」
金的の防御。打撃への耐性。
夜叉は業堕流に関わっているものだと甘寧は心中で察していた。
(安茂には後で謝らなければならんのう)
土産として、こいつを持っていってやるか。
夜叉を捕まえることを決意する甘寧。
視線の先で夜叉はふらふらと揺れながらにじみ寄ってきている。
「さすが……ですね」
よく聞けば、仮面の下の声は擦り切れていた。
「次で最後になるでしょうから、少しだけ思い出話をさせてくれませんか?」
「思い出?」
「ええ」
橋の盛り上がった位置――中央で止まった夜叉は語り出す。
「あれは一年半ほど前でしょうか……うちの庭には大きな岩があるのです。なぜこんなところにあるのか父に聞いたところ、とても珍しい岩だったとか。確か大理石といったはずです」
「おまえの家庭事情なぞ知らんわ」
「その岩がですね。とても硬いんですよ。刀で切っても、むしろ刀のほうが折れちゃうくらいで。大きさも相まってとても頑強な雰囲気を発してました。でもその石にですね……」
無視して話を続ける夜叉。
自らの拳を見せる。
「なんと拳跡がついていたんですよ。これぐらいの大きさの穴が、手首ぐらいまで深く」
「ほう……」
甘寧は思った。
夜叉の言っていることが本当ならば、その拳は――
「邪拳。密集された衝撃を誇るあの拳こそがそうなんだと私は直感しました。そしてあれを打つためならば、見知らぬ他人の人生さえ犠牲にしてもいいと、どす黒い欲望が湧きあがりました」
「なっ!? お、おまえは一体誰――」
「さあ決着をつけましょう。これがおそらく、私の最後の一打になります」
夜叉の仮面が、板床へ落ちた。
気付けば夜叉の肉体は元の位置から消失していた。
(上――いない)
空に向かって、顔を上げた。
顔を下ろした甘寧の視界に映ったのは、目前まで接近していた夜叉だった。
(しまった! 橋の向こう側の影になっている場所に隠れていたのか。外套のせいで本体がまったく見えなかったせいで分からんかった)
今さら反撃も防御も出来ない。全身に力を込めて、受けるしかなかった。
甘寧は三戦(骨掛け込み)で立つ
夜叉の正拳が、胸部へ直撃した。素顔は暗闇のせいで見えないが、わずかに覗けた腕はやせて枝のように細くなっていた。
(……まさか……これは……)
意識が遠のいていく。同時に、何かが胸に出来た穴から抜けていく。
それはとても大事なものな気がした。
抵抗も許されず、甘寧は倒れた。
夜叉は膝を落として、甘寧の体に触れる。
「うぉおおおおお!」
夜叉のあげた歓喜の声は、水面にまで響いて月を崩した。
四
死体を確かめ終えると、夜叉は甘寧の顔を見つめた。
「ありがとうございます。最後にあなたを選んで本当に良かった」
礼を告げると、瞼を閉じさせる。
(脱力。まさか今までやってきた反対のことが、邪拳に至る道だったとは……完全な構えを手にしたはずなのに届かなかった理由がやっと分かった)
夜叉にとって人前や追っ手から身を隠す時以外は、研鑽の時間だった。闇の中で拳を打つことを繰り返す。
無駄を削ぎ、餅身(※足腰)を鍛え、がまくの練度を上げ、筋骨を磨く。それらの鍛錬によって、半年前にはこれ以上の形は無いと、正拳の型を極めていた。
なのに邪拳には至らず、今日この時まで悩み続ける。
そして飯も食えず病気になっても薬も飲めずに時間を過ごしていた結果、今、邪拳を生み出した。
衰弱まで陥ったことが、逆によかったのだ。そのおかげで邪拳を夜叉は得られた。
異常に脱力した体から、一気に全力で放たれた拳は、限界を遥かに超えた速度と威力を生み出した。
未だ肉体に残る渾身の感触から推測した結果に、納得する。
(……この技を習得するために私は人殺しを行ってきた。強者を相手に挑んだのは、死闘を終えてより一層、自分自身が強くなるのを実感したからだ……考えてみれば最初にこの技を使ったものはどのような状況だったのだろうか? もし私と似たような状態だったのならばよほどの狂人かあるいは敵と常に戦うことを強いられ、飲食もままならない環境にいたのかもしれなかった者かもしれない)
過去に思いをはせる。
しかし、あまりゆっくりできる状況ではないことは自覚していた。
(さて、これからどうするか?)
ひとまずこの場を去るために、夜叉は仮面を取りに中央まで戻った。
夜風が、枯れ落ちた桜の花びらを運んだ。
橋の向こうに、男を見つけた。
十手を腰に携えている。奉行所のものだ。
(逃げるか――いや。ようやく技を得たのだ。試さなくてどうする)
男の方向へ梟のように飛んだ夜叉は、一気に間を詰めた。
邪拳の理を把握した夜叉は、いつでも再び打つことができる。
奉行所の人間へ、夜叉は邪拳を放った。
「……」
鏡のようにお互いが同じ態勢だった。
だらんと腕を垂らした。
倒れる夜叉を、奉行所の人間――志倉は肩に寄せる。
ドタドタドタドタ。
志倉の後方から、六郎が他の奉行所の部下を引き連れてきた。
「右衛門殿。本当にこのへんに夜叉が――うわいたぁあああ!」
「六郎。この男は自分が何とかしよう。それよりあの老人を。今すぐ医者に連れていけばもしかしたら助かるかもしれない」
「わ、分かりました」
六郎は医者の手配や複数人で甘寧を運ぶよう指示する。
橋と石垣の繋がり目に、夜叉と志倉はふたりだけ残されていた。
落ちて角度が変わった月明かりが、夜叉の顔を照らす。
「……」
「兄上……」
不思議なほど、驚かなかった。
もしかしたら既に自分の内では、この実兄が夜叉の正体だと考えていたのかもしれない。
ほほがこけ、顔面の半分を隠すほど毛が伸びていてもすぐに誰だか分かってしまうくらい見慣れた顔。
懐かしい顔と自分の顔を合わせながら、志倉は呟く。
「兄上が家を出たのは私が百敗目を喫した四日後……見たのですねあの拳跡を」
負けた後に一〇〇回の正拳突き打ち込み。それも負けるごとに回数を一〇〇回増やす。
それが幼き頃に志倉が自分自身で決めた約束だった。正拳に決めたのは柔術を習って一番初めに覚え、最も基本的な技とされるからだ。
甘寧にはわざわざ言わなかったが、実は志倉は愚直なまでに約束を破らなかった。
一〇〇〇を過ぎても繰り返していた。途中から頑丈なものを殴ろうと、自宅にある大理石を打ち込みに使う。
日を跨いでも食事もせず続ける。倒れても起きたら休まずに続ける。
誰も約束を破っても怒らないのに、志倉はただがむしゃらに打ち込みを止めることはなかった。
思えば、それは一度も勝てなかった兄への悔しさかもしれない。歳の差を考慮してもなお、絵においても勉学においても負けていて何一つ勝てなかった。だけど男として腕っぷしだけでは勝ちたいと誓った。
そして一〇〇敗目――目標一〇〇〇〇万回に達した打ち込みを行った。
もはや一日では終わらず、三日三晩続いた。
飯も食わず睡眠も取らず、ひたすら大理石を直接殴る。どす黒く腫れあがった拳からは凹凸が消え、玉になっている。
猛烈な痛みと飢えに耐え、志倉は九九九九回を終えた。
最後の一発。しかし腕が上がらなかった。
(あと一発で終わるはずなのに……あとたった一回で……)
限界に達し、動かない体。
それでも打とうと――あの人(兄上)に勝ちたいと。踏ん張り、ついに拳を放った。
結果は、大理石の破壊。
自らが残した爪痕と、感覚に志倉は震えた。
(これが当たれば、確実に相手は死ぬ――そうか。これが邪拳なのか)
志倉は恐怖した。
目指すべき相手だった兄にこの拳を放てば、死んでしまうのだ。
当時の志倉は悩んだ末、業堕流を辞めることにした。
「常に私の一歩先をいくあなたを尊敬していた。いくら手を伸ばしても届かないほど先にいたあなたは、まるで太陽だった。だからこそ超えたいと願い、柔術に励んだ」
夜叉の顔へ水滴が張り付く。
水滴が増えて、やがて頬を流れるようになった。
「なのにどうして……どうしてこんな拳が目指した先にあった。こんなものさえなければ師匠とも兄上ともずっといられたのに……」
抑えていた涙が、一斉にあふれ出す。
静かに震えたまま、夜叉の体を抱きしめた。
友がいたから、今日まで武道を続けられた。武道があったから、友になれた。
――格闘家 大久保 始――