緑のアパート
目覚まし時計が、六時半に鳴り響く。
それとほぼ同時に、梢はうつ伏せの姿勢のまま、上半身だけ少し持ち上げて、枕元の目覚まし時計を探して、右手で素早く止める。梢しかいない部屋が再び静かになると、元の姿勢に戻って、また目を閉じた。また眠りに戻ってしまったかのような梢は、懸命に考えを巡らせて、頭が冴えるのを待っている。そうだ、今日は、木曜日だから、授業がある日だ。そう思い出すと、ハッとしたように大分目が覚めた。目が覚めてくると、いろんなことが思い浮かんでくる。考えたくないことも。人の頭は一度頭に思い浮かんで、考えたくないことだと認識しないと、忘れようとすることも出来ないのだから、難しい。学校には特に会いたい人もいないし、授業の内容にもあまり興味が持てないし、こんなことをしていて、本当に役に立つのだろうか。違う道に進んだほうがいいのかな。もう19歳なのに、将来のことも決まっていない。
梢が一瞬目を閉じている間に、目覚まし時計を止めてから、長針はもう次の数字を指していた。
そろそろ起きないと、授業に遅れてしまう。
梢は思い切って重い足でベッドから飛び出すと、カーテンが閉まって薄暗い部屋の外へ出た。
梢は、大学に入学した一年半前から一人暮らしをしている。アパートの外装の壁は一面、緑色のペンキを塗ったような木製で、1Kの部屋の内装の壁は、腰まで外装と同じ緑色の木製、腰より上は白い壁紙が張ってあって、床は深い茶色の木製で出来ている。2階の部屋は登り降りが面倒だし、駅から徒歩25分かかるので、あまり住みやすい部屋ではないと思っている。ただ、梢がこの部屋を選んだのは、外装と内装が緑色をしているところと、洗面台の奥についている窓から、アパートのすぐ横に植えてある木の枝が見えることを気に入ったからだった。部屋を選ぶときは、家賃、利便性、デザインを考えて選ばないといけないけれど、梢はまず家賃が安いところ、そして、多少利便性が悪くてもデザインが良いところがいいと思っていた。事前にたくさんの物件を調べたし、どんな家具を買うかイメージしながら選んだし、仲介業者に何件も回って見せてもらった。仲介業者にとっては、迷惑だったかもしれない。でも、やっぱりこの部屋を選んで良かったと思う。少し駅が遠いことには慣れていないけれど。
部屋を出てすぐ右にあるダイニングキッチンへ行くと、棚からバターロールを二つ取り出してオーブンに入れて、タイマーを二分かけた。それから、食器棚から白いコーヒーカップとインスタントコーヒーを取り出す。ダイニングテーブルの上で、コーヒーカップにインスタントコーヒーをいれて、ポットからお湯を注いでコーヒースプーンでかき混ぜる。朝食はいつもパンとコーヒーと決まっている。三分で用意出来るし、軽く食事が取れていい。
梢は、この時間が好きだ。
これから、学校へ行かないといけないけれど、こうして朝の準備をしている間は遊んでいる訳ではなく、なんというか、ゆっくりしていても罪悪感がない。部屋の奥の窓から気持ちのいい天気が覗いて、朝の空気に心が洗われるようで、新しい一日が始まったことにワクワクしてしまう。鳥の鳴き声が聞こえたりするとますますそう感じる。今日もきっと特別なことなんて、なにも起こらないと知っているけれど。
焼けたバターロールを白い小皿の上に取り出すと、ダイニングテーブルのコーヒーの横に置いた。椅子に座ろうとしてから、忘れていたように冷蔵庫からマーガリンを取り出して、それもテーブルの上に置くと、一息ついたように自分も椅子に座る。静かな部屋で、木製のバターナイフでパンにマーガリンを塗って、コーヒーと一緒に食べ始める。一人暮らしでこうして朝食を食べるのは、実家暮らしのときから憧れだった。家族と住んでいると、静かな朝なんて過ごせない。自分の好きな部屋で、パンとコーヒーで朝を過ごしたいと思っていた。白い小皿やコーヒーカップも用意したし、バターナイフも気に入った木製のものにした。お金もそこまでかからないし、悪い趣味ではないと思う。将来は、もっと素敵な部屋に住みたい。それに、欲を言えば、一緒に過ごしてくれる人がいてくれたらいいのに。
あっという間に一つ目のバターロールを食べてしまうと、二つ目のバターロールに手を伸ばしながら、ふと今日の予定を思い出してみる。一時限目は西洋史、二時限目は中国語、四時限目は文化人類学。木曜日が一番嫌な時間割だ。三コマあるし、中国語についていけない。漢字はなんとなくわかっても、中国語の読みが全然覚えられない。中国語をとったのは失敗だった。憂鬱でため息をつきたくなる。さっきまで、あんなにいい気分でいたのに、急に心に重りがついたみたいにどんよりする。ここのところ、ずっとこうだ。毎日憂鬱で、不安で、苦しい。この部屋に引っ越してくる前は、もっとここでの生活を楽しみにしていたのに、今はいつも暗い気持ちで過ごしている。
こんなはずじゃないつもりだったのに。
二つ目のバターロールの最後の一欠片を口にいれると、残りのコーヒーもすべて飲み干した。
梢はすぐに椅子から立ち上がって、洗面台へと歩き出した。洗面台は、ダイニングテーブルの椅子に座った目線の先にある。ただし、横向きについているので、側面しか見えない。洗面台の奥についている窓からは、ダイニングテーブルからでも外を見ることができる。
洗面台で鏡に向いて立ったら、左側の窓から注ぐ日の光で明るい。いつも通り、透明な歯ブラシに白い歯磨き粉を塗って、歯を磨き出す。ふと、思い出したように窓のほうを見た。
そうか、自分は今あの日夢見た景色の中に立ってるんだ。
こんな素敵な洗面台がある部屋に住んでみたいと思っていた。あの日楽しみにしていたことが、いつの間にか当たり前になってしまって、忘れていた。この部屋に住めたら、幸せだと思っていたのに。住む部屋が変わったくらいで幸せになれると思っていたことが勘違いだったんだろうか。それとも、憧れていたことが日常になって、それが当たり前になることが成長することなんだろうか。憧れていたことも当たり前になってしまうなら、憂鬱な気持ちに終わりはないんだろうか。それとも、あの日この部屋に住めたら幸せだと思った気持ちを忘れずに生きていくことが出来たら、幸せになれるんだろうか。
自分には、どうすればいいのかわからない。
これから、どうやって生きていけばいいのかも、将来どんな生活を送っているのかも、わからない。
だけど、今そばにあるこの景色のことを考えると、私はほんの少しだけ、見守られているような、救われるような、力を貰えるような気がする。
これが確かな感情なのかわからない。
だけど、そう思えるなら、もしかしたら、私の生活も少しうまくいっているのかもしれない。
振り返って時計を見ると、長針はもうてっぺんを超えたあたりだった。
いつもより長く歯を磨いてしまった。早く着替えて、家を出ないと。
今日も一日頑張ろう。
きっと、素敵なことがあるから。