勘違いの痛み
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やっと自宅に到着した時私はグッタリとしていたんだけど、そんな事知らない雪野先輩は、
「早く取ってこい」
言いながら顎で家の玄関を指した。
「うん」
メットを脱いでバイクから降りた私は家に入り、自室からデッサンセットを取ると外に出る前にリビングに足を踏み入れた。
あ!
テーブルの上に、旬が持ってきたDVDがあの時のまま置いてあった。
私はそれを手に取ると玄関先で待っていた雪野先輩に、
「これ、旬に返してきます」
雪野先輩は私を真っ直ぐ見て口を開いた。
「返したらすぐ戻れ」
「……はい」
旬の家はお隣だけど私の家の北側だ。南の道路に出て角を左に曲がらなきゃ玄関には辿り着けない。
「すぐ戻ります」
私はそう言うと旬の家へと歩き出した。
「で、今何人?!」
旬の家の門扉を開けようとした時、私は庭から聞こえてきた声に手を止めた。
あれは……旬のクラスの紀野君だ。たしか、彼もバスケ部で。
紀野君の問いかけに、玄関先に腰かけている旬が笑いながら口を開いた。
「キスが5人で、ヤったのは1人」
……え。
……キスが……5人……?
ヤったのは、1人……?
それって……。
たちまち心臓が痛いくらい脈打つ。それと同時にスウッと手足が冷えていく感覚。
そんな私に気付く様子もなく、旬は続けた。
「けど、近いうちにヤった人数1人プラス」
紀野君が好奇に満ちた顔で旬を見た。
「マジかよ、アテあんの?!」
「ああ。幼馴染み」
ドキンと胸が鳴る。
「もしかして、一組の?!」
旬がニヤリとした。
「そ。瀬里。アイツ、昔から俺に惚れてるんだ。確実にヤれる」
心臓が止まりそうになった。
大好きな旬の口からこぼれる、信じられないくらい残酷な言葉。
「アイツなら気心が知れてるし、可愛いしな」
可愛いなんて、大好きな旬に言われると本当は嬉しいはずなのに、私は心臓を掴まれたような苦しさと痛みに、息が出来なかった。
今起きてるこれって、現実?
目眩がしてバランスを崩した身体が、門扉に当たる。
ガシャンという音に、旬と紀野君が反射的にこっちを見た。
「瀬里……」
旬は一瞬驚いたように私の名を呼んだけど、すぐに気まずそうに笑った。
「今のはその……冗談だよ」
その時、
「どれだけゲスなんだよ、片瀬」
背後から雪野先輩の声がして、彼以外の全員が息を飲んだ。
「雪野先輩!」
紀野君が上ずった声を出し、私は硬直したままDVDを握り締めた。
「かせ」
声と共に雪野先輩の手が、手の中のDVDを奪った。それから一際低い声を出しながら、先輩が旬を見据える。
「……片瀬。瀬里を利用して自分の欲求を満たして、お前は満足なのか。こいつと共に過ごしてきた日々を思い出しても、お前はこいつの心を踏みにじれるのか」
旬がグッと言葉に詰まった。
重苦しい沈黙が、私達を絡めとるようにまとわりつく。
旬は伏せた眼を上げようとはせず、紀野君もまたうつむいた。
「……雪野先輩、帰ろう」
震える声をどうすることも出来なかったけど、私は必死に喉を押し広げた。
もう、今すぐに立ち去りたかった。だって惨めで仕方なかったから。
何年も何年も大好きだった旬にとって、私は欲求を満たす道具にすぎなかったのだ。
その時、カシャン!と軽い音がして、小さく旬の驚く声が聞こえた。
雪野先輩の投げたDVDが旬の頬をかすめ、玄関ドアに当たって落ちたのだ。
雪野先輩は切れ長の眼にグッと力を込めると旬を見据えた。
「……片瀬。次はないと思え。帰るぞ、瀬里」
「……はい」
雪野先輩は私の手を掴むと、大股で歩き出した。
私の家の庭に着くと、雪野先輩は何もなかったかのように淡々と話した。
「明日の美術教室は、俺が送り迎えしてやるから」
それから、来る時よりも優しく私にメットを被せた。
「しっかり俺に掴まってろ。大丈夫だから」
「……はい」
もう、バイクが怖いとか、そんな感情は湧かなかった。
旬が……旬が、あんな事言うなんて。何年も彼を大好きだったあの時間は、無駄だったんだ。
ギシギシと胸が軋んで痛い。苦しくて苦しくて、空気が足りないような感覚。なんて、痛いんだろう。
雪野先輩の家に着いても、私は胸が苦しかった。
「降りろ」
先輩の声が聞こえているのに返事ができない。
そんな私を見て雪野先輩は、小さく息をつくとメットを脱がせてくれた。それがすごく優しくて、不覚にも堪えていた涙が、頬を伝った。
それから、低くて静かな先輩の声が耳に届く。
「……アイツの事は忘れろ」
私と眼の高さを合わせる為に、 先輩が屈んだ。
切れ長の眼の、綺麗な黒い瞳。
いつもは怖いその瞳が、今はなんだか優しくて、私は耐えられなかった。
「で、も、だけどっ、私、小さい時からずっと旬が好きでっ」
言葉が嗚咽で途切れる。雪野先輩はそんな私を見ていたけど、ポン、と大きな手で私の頭を撫でた。
「好きだった気持ちを無駄と思うな。アイツを思うとき、お前は幸せだったんだろ?」
確かに切なくて、だけど幸せだった。
「確かにガキの頃のままじゃいられねぇが、今のアイツがお前の求めてるアイツじゃないなら、もう諦めろ」
「ううっ、ひっく」
しゃくり上げる私を、先輩が困ったように見つめた。
その直後、
「しゃーねぇな」
「っ?!」
グイッと腕を引かれた。コツンと先輩の胸に額が当たる。
それと同時に、包み込むように先輩が私の身体に腕を回した。
爽やかな香りと先輩の体温を間近に感じて、私は涙が止まった気がした。
せ、んぱい……。
「ほら、泣くな」
髪から先輩の声が響くように耳に届いて、私は胸がキュンと鳴った。
怖いとばかり思っていた先輩が凄く優しくて、温かくて。
その時私の脳裏には、血だらけのハート型の心臓が瞬く間に癒えていく画が浮かんでいた。
先輩はトントンと私の背中を優しく叩き、
「落ち着くまでこうしといてやる」
先輩……!
思わず先輩のシャツをキュッと掴んでしまったけど、先輩はなにも言わなかった。
ただ、あやすように先輩は、私を胸に抱き続けた。