災難は突然やって来る
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翌日。
「瀬里、起きなさーい!」
ママが一階から呼ぶ声に、私は眼を閉じたまま顔をしかめた。
……昨日は……なかなか寝付けなくて。
ああ……頭が重い。休みたいなあ。でも、ダメなんだ。
私の家には『学校休むんだったら絵を描いちゃダメ』という掟がある。
……地獄……。
その時、返事をしない私を心配したのか、ママが再び一階から声を張り上げた。
「瀬里、早くー!旬君も待ってくれてるわよー!」
ん!?……旬……?なんで?
片瀬旬は、お隣に住んでる私の幼馴染み。
さっきまでのダルさが吹っ飛び、私はベッドメイキングもしないまま部屋を飛び出すと階段をかけ降りた。
「瀬里、はよ」
ダイニングに旬が腰かけていて、階段を降りた私を見つめた。
「旬、なんで?」
旬が優しく笑った。
「バスケ部の朝練休みだから瀬里と学校行こうと思って」
やだ、うそ!超うれしーんだけどっ!
「本当?!じゃあ一緒に行こ!待ってて!すぐ用意するから!」
言い終えるなり慌てて二階にかけ上がる私に、旬は苦笑しながら声をかけた。
「こら、危ないぞ」
「ん、待っててね、旬!」
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「なあ、瀬里」
「ん?」
私は旬と並んで歩きながら、彼の顔を見つめた。
背の高い旬を見上げると、バックの青空が彼をよりカッコよく彩っていて、私の胸は次第にドキドキとうるさく響いた。
ああ、旬が大好き。
もうとても長い間、私は旬に片想いだ。私のこの想いに、きっと旬は気付いていない。
保育園に通ってた時からずっと一緒に遊んでいて物心ついた時から大好きだったけど、私は一度も旬に『好き』って告げた事がない。
だって旬はあの頃から凄く人気者で、彼の周りにはいつも気が強くてお洒落な女の子達が沢山いたもの。地味であか抜けない私なんか、旬に似合わない。
あの頃から既に、
『瀬里ちゃん、旬くんとお隣だからって自慢しないでよね』
とか、
『幼馴染みだからって、旬くんと瀬里ちゃんじゃ釣り合わないから』
とか言われ続けてたっけ。
でも旬は、いつも私に優しかった。小学生の頃から勉強を教えてくれてたし高校受験を控えた中三の頃も、
『俺と同じ志望校、通えるように特訓してやる』
って、家庭教師役を買って出てくれたりもした。
スポーツ万能で顔だってスタイルだって抜群で、いつだって私は、旬に憧れてる。本当に大好き。
「なあって。なにボーッとしてんの」
あ。
私は焦って言葉を返した。
「寝不足でボーッとしちゃった」
ウソ。
寝不足は本当だけど今はただ、旬に見惚れてたんだ。
私の言葉に旬が少し眉をあげた。
「寝不足?何してたの?」
「ん、絵の直し」
「ほどほどにしとけよ。じゃないと」
旬は私を見下ろして、そこで一旦言葉を切った。
すぐ近くの駅に大勢の人が吸い込まれるように入っていく中、旬が立ち止まるから私もつられて足を止めると、まるで私達だけ時が止まっているような感じがした。
「……旬?」
どうしたのかと思って私が旬を見上げて首をかしげると、急に旬が私に手を伸ばした。
適度に筋肉のついた腕が、私の後頭部に回る。
トン、と額が旬の胸に当たって、何がなんだか分からなくなりそうな程、身体が熱くなった。
なにこれ……。
「なあ、瀬里」
少し旬の声が掠れていて、それがやけにドキドキする。
「あの、旬」
歩道の私達をチラ見しながら沢山の人が追い越していくのに、旬は一体どうしちゃったの?
勿論、こんな事は初めてだ。
「……瀬里、デートしよう」
「……え」
すると旬が私の後頭部に手を回したまま、斜めから窺うようにこっちを覗き込んだ。
「俺とデートは嫌?」
クッキリとした旬の綺麗な眼。
ああ、旬は本当に素敵だ。私は夢中で首を横に振った。
「嫌じゃないよ。嫌なわけない」
でも、どうして?
そう訊けないまま、私は旬の胸に頬を寄せてガチガチに固まってしまった。
「じゃあ……俺とデートしてくれる?」
「……うん……」
「じゃあ、今週末の土曜日は?」
「うん」
僅かに頷くと、ようやく旬が私を離した。
「……やった」
それからニッコリ笑うと、
「行こ」
私の手をギュッと掴んだ。信じられなかった。
夢みたいだった。
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「誰だと思う!?」
「顔は見えなかったの?!」
「愛華先輩の話じゃ、雪野先輩の方がベタ惚れって感じだったんだって!ギューッと彼女を抱き締めて、『愛してる』って囁いてたらしいのっ!」
……ブーッ!!
何も飲んでないのに何かを噴き出しそうになり、私は思わず息を飲んだ。
一歩入った教室から、そのままバックで出ていきたい衝動に駆られる。
こ、こ、こ、この会話は、まさか……!
入り口で硬直する私を見て、さっきの会話のど真ん中にいた人物……志帆ちゃんが勢いよく立ち上がった。
「ねえ、瀬里!あんた昨日、部活だったよね?非常階段で雪野先輩見なかった?」
きゃあーっ!
まだ教室に一歩しか入ってないのに、もう身の危険にさらされるなんて。
どうやら雪野翔に関する話は、恐ろしいスピードでファン達の間を駆け巡るらしい。
音速、いやもはや光速で走り抜けた雪野翔のラブシーンの話題に呆然としながら、私は立ちすくんだ。
「時間的には三時半頃なんだけど、見なかった?!」
見たどころかそれは私よっ!
なんて言えるわけもなく、私は千切れて飛んで行くほどの勢いで首を横に振った。
「み、見てないよ、全然」
「そっかあ……」
志帆ちゃんは残念そうに唇を少し尖らせてカタンと椅子に座り込んだ。
そんな彼女達の横を通りすぎて私は席に着いたんだけど、もう気が気じゃないったら!
「ねえ!愛華先輩なにか他に、雪野先輩に抱き締められてた女子の特徴見てないの!?」
「それが、雪野先輩が女子を抱き締めてる姿が映画のワンシーンみたいで、あまりにも素敵すぎて動揺しちゃったんだって!」
「やだー!!やだやだ、むっかつく!誰よ一体!」
こ、怖い。もしもそれがバレちゃったら、私は一体どうすればいいの?
……怖すぎる。
雪野翔も怖いけど、そのファンの女子達も凄く怖い。
私は誰にも見つからないように溜め息をつくと、力なく机に突っ伏した。