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暗示

●●●●


二時間半後。

美術教室の後は、何故か酷く肩が凝る。私は美術教室の出入口を避けて壁際に立つと、左右に首を曲げてバキバキと鳴らした。

それから腕を回してフーッと息をつくと、先輩に電話をしようと鞄の中のスマホを探った。 


「先輩、終わりました」

『すぐ迎えに行く。待ってろ』


先輩は一言そう言うと、電話を切った。

……無駄無さすぎ。

まあ、ダラダラと話すタイプでないのは分かりきってるけど。

そう思いながらスマホの画面をシゲシゲと見つめていた時、


「夏本瀬里様」


は?様って。

思わずビクッとして声のした方を振り仰いだ私は、そこに端正な顔を見つけて息を飲んだ。


「翔様からあなたを迎えに行くようにと仰せつかりました。こちらへどうぞ」

「……はい」


聞いてない。聞いてないけど、この背の高い男前はどこか雪野先輩と同じような雰囲気を持っていた。

そういえば雪野先輩は、次期人狼のリーダーとかなんとか言ってたから、部下のような人がいても不思議じゃない。


「あちらの車にお乗りください」


私は路肩に停車中の車を見て頷いた。

それから沈み込むような質の高いシートに包まれた途端、車は音もなく滑らかに発進し、私は何だか緊張してオズオズとそのイケメンに問いかけた。


「あの、雪野先輩は……」

「急用が出来ましたので僕が代わりに」


私に声をかけてきた男性は助手席に座り、後部座席の私を振り返ることなく言葉を返した。

運転席の人物は、ルームミラー越しに両目だけが見えている。


「そうですか……」


高級車だけあって滑らかな走行に加え、車内はイイ香りだった。気を緩めると必然的に瞼が重くなる。

なに……なんでこんなに眠いの?

……我慢できないくらい眠い……疲れてるのかな、私。

着いたら起こしてくれるよね……?……少しだけ……眼を閉じていよう……。

覚えているのはここまでだった。



●●●●


……ん……?誰かの声が聞こえる。

……私……寝ちゃってた……?

意識がハッキリするにつれて、徐々にその耳慣れない声が大きくなった気がした。


「この女が白狼(ハクロウ)の許嫁か?」

「ああ。この女からは白狼の匂いが強く放たれている。まず間違いないだろう」


は?

白狼……?

頭を動かすとズキッと痛みが走った。

な、なに……?私、一体どうしたんだっけ?

眼を閉じたまま私は記憶を遡り、自分の身に何が起きたのかを確かめようとした。

えーと、確か……美術教室が終わったから雪野先輩に電話をして、そしたら遣いの人に声をかけられて、車に乗り込んだら凄くイイ香りがして眠くなって……。

で、なにこの会話。『白狼の許嫁』ってなに?


私は自分がどこにいるのか分からず不安だし、加えてこの会話の内容が気になるしで、うっすらと眼を開けて様子を窺った。

部屋は薄暗かった。

けれど近いところに男性が四人立っていて、その中のひとりは、私に声をかけてきたイケメンだった。


翠狼(すいろう)様、この女、いかがなされますか」


なんとなくさっきの運転手の目元に似た男性が、イケメンに声をかけた。どうやら私に声をかけてきたイケメンは、翠狼というらしい。

翠狼は私を鋭く見下ろしながら、小さく口を開いた。


「……殺せ。許嫁が死んだとなると、白狼は王になれない」


翠狼に問いかけた男性がニヤリと笑った。


「では……私が頂いても?」


翠狼が呆れたように笑った。


「好きにしろ」


……ちょっと待って。

もしかして『この女』って、私の事だったりする?!いや、絶対私の事だ。だって、男が私に一歩近づいたから。

やだ、冗談でしょ?!どうしようっ。

激しく心臓が脈打ち、耳元で煩く鳴り響く。

こんなことは初めてで、どうしていいか分からずに私は硬直していたけど、運転手らしき男性に腕を捕まれた途端、反射的に短く叫んだ。


「きゃああっ!」


翠狼が笑った。


「聞いてたのか。なら話は早い。海狼、下がってろ」


その口調はまるで、私が話を聞いていたのを心得ていたかのようだった。

危機を感じて、私は寝かされていたソファから焦って身を起こそうとした。

途端に翠狼が、素早く私に覆い被さった。片手で喉を強く掴まれ声がでない。

眼を見開く私を至近距離から見つめて、翠狼は笑った。


「白狼が好きか?」


白狼って……誰……!?

私は眉を寄せて、ただただ首を横に振った。

そんな私を見て翠狼は端正な顔を傾け、僅かに両目を細めた。


「隠しても無駄だ。お前が白狼の許嫁なのは分かってるんだ」


翠狼は続けた。


「あんなガキに人狼王の座など渡してたまるか。お前には死んでもらう」


言い終えると同時に、翠狼はニヤリと笑った。

やだ、やだ!!死ぬなんて、嫌っ!!

怖くて無我夢中で、私はジタバタと暴れた。

今まで生きてきて、こんなに恐ろしいめに遭った事なんか一度もない。恐い。死にたくない。

眼から涙が溢れて、全身がガタガタと震えた。

そんな私を翠狼は面白そうに眺めていたけれど、やがて乱暴に指の腹で私の頬の涙を拭い取った。


「……待てよ……。ただ殺してしまうより、目一杯白狼を痛め付けてやるには……」


翠狼の瞳が怪しく光った。

彼の濃い緑色の瞳がより一層大きくなり、私の眼を捉える。


「……いいか。お前はこれから白狼の元に帰る。だが、白狼を今までのようには愛せなくなっていく。徐々に生まれる嫌悪感はやがて殺意に変わる」


やだ、これって、テレビで見たことある。も、しかして、暗示とかいうヤツじゃない……?!それを私に……?!

翠狼は、緑に光る眼で食い入るように私の瞳を覗き込んだまま、更に続けた。


「殺意が頂点に達した時、お前は油断しているヤツの耳を切り、ピアスを俺に渡すんだ。俺の花嫁になると誓った証として。それを見せつけた後、 お前は白狼を殺す」


嫌だ、暗示なんて私……!


「俺と話した事は忘れろ」


言い終えて数秒の後、翠狼は私から身を離した。


「面白くなりそうだぜ」


その時だった。

けたたましい音が響いてそこにいた全員が驚き、私以外の四人が一気に気色ばむと素早く身構えた。


「クソッ、白狼……!」


大きくてキラキラと輝く狼が、ドアを蹴破りそこに立っていた。

なんて……綺麗なの。

こんな状況なのに真っ先にそう思い、私は眼を見開いた。

それに……間違いない。この白金色の狼は……雪野先輩だ。

途端に、四人の男の身体が急激に形を変え、みるみる狼へと変化した。

大きさが……全然違う。

雪野先輩の身体は、 他の四頭の狼と比べ物にならないくらい大きくて、私はその迫力にただただ眼を見張った。


そんな中、翠狼以外の狼が激しく雪野先輩に吠えたてた。

一方雪野先輩は動じることなく頭を低くして構え、地の底から響き渡るような恐ろしい唸り声を上げた。

その表情と声を聞いた瞬間、翠狼以外の狼がビクッと身を震わせた。

それはまるで雪野先輩に恐れをなしているようで、それを見た雪野先輩は、畳み掛けるように再び唸り声を上げた。

みるみる三頭の狼が後退り、それを見た翠狼がギリッと歯軋りするような素振りを見せる。


「ガウッ!!」


きゃあああっ!

眼にも留まらぬ早さで雪野先輩が牙を剥き、翠狼に飛びかかった。翠狼の身体が仰け反り、地に転がる。

大きな音と獣独特の鳴き声が怖くて、私は思わずぎゅっと眼を閉じた。

その直後、ガシャンとガラスの割れる音と共に風が巻き起こった。

それからは嘘のように辺りが静まり返り、私は恐る恐る両手を顔から離して眼を開けた。

……あ、れ……?

眼を開けた時、すでに四頭の姿はなく、代わりにいつもの姿の雪野先輩が眼の前に立っていた。


「せんぱ……」


言葉が途切れた。だって私を見下ろす雪野先輩が、あまりにも恐い顔で私を睨んでいたから。


「……待ってろって言っただろ」


先輩の声は掠れていて小さかった。

これ以上先輩を怒らせたくなかったから、私は焦って答えた。


「だって翠狼が、先輩に頼まれたって……きゃっ!」


言い終わらないうちに、先輩が私をソファに押し倒した。

カッと見開いて至近距離から私を睨む瞳と、後頭部に回る大きな手。

筋肉の張った先輩の腕が、私の頬に当たる。

これって……一難去ってまた一難なんじゃ……。

とにかく謝らなきゃ、ぶっ殺されるかも知れない。

その時、


「誰にでもノコノコ付いていくんじゃねえっ!!ガキか、お前はっ!」


きゃーっ!!

凄い怒鳴り声に、私は思わず肩を縮めた。


「ご、ごめんなさいっ!」


怖くて眼を閉じた私を、雪野先輩は抱き上げた。


「きゃああっ」


急に身体が浮いて、思わず叫ぶと、


「うるせえっ!!」

「すみませんっ」


先輩の迫力が凄すぎて、私は身体の震えを止めることが出来なかった。


●●●●


散々だった。

連れ込まれた空き家の前に投げ捨てられていた画材道具を拾い集め、ようやく雪野先輩の家にたどり着いた頃、何だか気分が悪かった。

それなのに先輩は、鋭い眼差しで私を見据え、部屋に連れ込むなりキツい口調で訊ねた。


「翠狼に何を言われた?!」

「…………」

「答えろっ!」

「……分かんない……」


雪野先輩が、眉を寄せて唇を引き結んだ。頭がモヤモヤするし、胸もムカムカする。


「話した筈なのに、分かんない……」

「瀬里」


ダメだ、気分が悪い。

地面がフニャリと凹んだような感覚がして、グラッと身体がよろけた。途端に先輩に抱き止められる。


「おい」

「ダメ。気分が悪くて……」

「瀬里!」


ああ、私、多分どこかおかしいんだ……。

徐々に先輩の声が遠くなっていって、私は意識を手放した。

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