時にはゲストも迎えてみたり 後編
短い休憩時間を終えたところで時計を見ると既に10時を回っていた。疎多さんは何時でもいいですよ、と言ってくれてはいたがやはりいくら長くても11時が限界だろう。となると残りの時間は限られる。
その当人は話し慣れたせいか、リラックスした表情だ。黒田君が差し出したチョコレートを「すみません、いただきます」と受け取り一つ口にほうり込んでいる。そんなカジュアルな銀行員に真白君が声をかけた。
「真面目な話、ありがとうございました。金利ってそういう風に決まるんですね」
「ほんとはもっと細かい条件や前提の下で決まりますけど大きなお金の流れとしてはさっき話したような内容です。改めて話すと自分でも新鮮でしたね」
「え、でも疎多さん普段お仕事で取り扱ってらっしゃるのでは?」
横から声をかけた黄塚君に疎多さんが向けた顔はほんの少しだけ苦い物を含んでいたように見えたのは気のせいだろうか。
「ええ、取り扱っています。だからこそでしょうね。少々生々しい話になりますがお話しておきますか。基本的に個人ローンでも法人ローンでも預金集めでも月ごともしくは四半期ごとにノルマが設定され、それに追われるのが常になります。先程お話ししたような内容は最初に研修で教わった後は振り返ることはほとんどありません、後はもう日常的に仕事に圧迫されるのが常になります」
ほんとはいけないんですがね、と疎多さんが呟くと青霧君が「ですよね。共感です」と言ったのには少し驚いた。
「青霧君、確か営業事務じゃなかったか。ノルマとかないだろ」
「新規顧客獲得みたいな厳しいノルマはないですよ。その代わり、製品説明や紹介についてのプロモーションを何件やったかというノルマはあります。それを達成できなかったから罰則があるわけじゃありませんが憂鬱ですね」
「マーケティング的なノルマがあるわけか」
ちょっと意外ではあった。いつものほほんとしている青霧君も陰で苦労していたのだ。それを聞いた黒田君が裏崎君に「裏崎さんはどんなノルマが?」と聞き「まあ期限ごとに音楽雑誌に紹介記事を提出するのがノルマっちゃノルマだな。顧客と直接接点はない仕事だし」と肩を竦める。
「うーん、社会人て大変なんだね。俺、学校卒業して会社に入ったら試験も無くなるしいいかなーなんて考えてたんだけどそういうわけでもないんだね」と赤井君がため息をつけば。
黄塚君は眉を寄せながら腕組みをする。
「考えてみればお金稼ぐことが楽なわけないわよね」
そしてその二人に更に追い討ちをかけたのは--
「社会人になっても試験はありますよ」
はっきりと苦笑を浮かべた疎多さんだった。え、と真白君、黒田君、赤井君、黄塚君、裏崎君が顔を見合わせる。あれ、待てよ。なんで社会人の裏崎君が。
「ちょっと待て、裏崎君。社会人でも試験はあるだろう、なんで働いてる君が驚いているんだ」
「音楽雑誌のライターに試験なんかあると思うかよ? そうか、サラリーマンだと試験があるのかと初耳だったぜ」
「正直裏崎さんが羨ましいですね、特に銀行は行内試験が多いですから」
「口内? 歯医者さんですか」
いや、違うだろ、のっぽの大家!
「真白君、それは口の中だ。違う違う」と僕が突っ込まざるを得ない。
「校内ですか。会社も学校みたいな部分ありますからね、僕分かります」
黒田君は真剣な顔だ。うん、真面目に考えているのは分かるが「それも違うから。校じゃなくて行だから。いく、だ。英語で言えばgoだ」と懇切丁寧に訂正した。ふう、もうこれで間違えないだろう。
「イク試験ってそんな卑猥な試験があるんですか、疎多さん!?」
「違うだろ真白! 英語でイクってcomeだろ! goじゃねえよ!」
ああ、真面目な話ばかりしてきたから真白君と裏崎君が暴走してしまったんだなと僕は諦めていたが、深夜トークにはちょっと早いと思った者もいたようだ。
「......とりあえずみー兄と裏崎さんは」
「逝くといいんじゃないですか?」
黒田君と黄塚君の冷たい笑みに二人が縮こまってしまったのは自業自得だろう。
「英語だと逆なんですね、私知りませんでした」
「あ、青霧さん、何言ってるんですか。しっかりしてください」
けれど青霧君がウンウンと頷き赤井君が顔を赤くしているのは経験者と未経験者の差を見ているようでちょっと微笑ましかった。
「美少女に蔑まれるのってある意味ご褒美ですよね、そう思いませんか緑竹さん」
「何言ってるんですか疎多さん、しっかりしてくださいよ」
うん、きっと疎多さんは疲れているんだ銀行員というのはストレス溜まる職業なんだろうな......
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「まあ実際問題、銀行員に試験が多いのは事実なんです。新入行員のうちからローンや為替の基礎試験が組まれ日常業務とは別に勉強時間を確保せざるを得ません。結構辛いですよ」
ここからはもう少し銀行員の全体像ということでQ&Aタイムだ。疎多さんのこの愕然とさせるような言葉に黄塚君が手を挙げる。
「それはもう少し年数経過してからもですか? ずっと勉強なんですか?」
「まあ波はありますけどね。例えば一般企業で言えば係長に当たる役職を支店長代理というんです。よく代理と省略されますがね。この代理になるにも試験があるし、課長になるにも支店長になるにも試験がありますよ」
「何だか実際の業務にかける時間を削ってペーパーテスト対策を立てるのは僕から見れば本末転倒な気がしますが......」
黒田君の歯に衣着せない質問に疎多さんも頭をかかざるを得ない。
「ご指摘通りな部分もあります。正直、銀行の組織というのはお役所的な部分が未だに濃く残っていまして誰がどう頑張っても同じくらいの業績しか出せない場合も多々あります。それでも人事となるとある人物を選び出さざるを得ません。そのための手段が学歴だったり、ペーパーテストだったり、上司の受けだったりするんですね」
「そういうものなんですか......僕、出来たらずっと絵を描いて細々と暮らしたいな。組織に組み込まれるのが面倒になってきました」
元々芸術家肌の黒田君だけに疎多さんの容赦ない現実を知らせる言葉にうんざりしたようだ。まあこういうことは学校では教わらないからな、いい機会ではある。しかし今からそんなことを言っては生きてはいけないだろう。
仕方ない、一言言っておくか。
「黒田君。もし君が絵を生業にするにしても人間関係からは逃げられないよ」
「え? 何でですか? 一人で描いていても?」
「ああ、考えてみろ。誰かから注文をもらう、アトリエを借りる、画材を仕入れる、絵を仕上げて業者に運んで渡す、展示会の情報を横のつながりで交換する......美術にはどしろうとの僕でさえ絵を描いてお金にするにはこれくらいのことは想像つく。組織とまではいかなくても人と人の関係を媒介として仕事とは始めて成り立つんだ」
話していいですかという許可を疎多さんに無言で問うと頷いてくれた。いつしか時刻は11時近くになっている。そろそろ終わらなければならないだろうな。
「個人で好きなことを仕事にするのは良いことだ。だがだからといって自分とその好きなことしか存在しない気持ちのいい空間に篭るわけにはいかないのが現実だ。時には嫌な相手に頭を下げたり理不尽なことに腹を立てることも含めて初めて仕事になる」
「べ、勉強になります」
真白君がペコリと頭を下げた。高校を出ていきなり大家になった彼はまだ世間の厳しさというものを実感はしていないらしい。それでも吸収しようという意欲があるのは素晴らしいと思う。
「......まあ僕も偉そうなことを言えた義理じゃないが。学校から社会に出てまず直面するのが自分の意見を殺す必要性ということは覚えておいた方がいいかもな」
「いやあ、緑竹さんの言葉は耳が痛いですね。前にならえの銀行員してると上司がカラスは白いと言えば白ですと言わなくてはいけない場面たくさんありますから」
「えっ、カラスって白いんですか! 私見たことないです」
疎多さんがしみじみと呟くとある意味予想通り青霧君がボケてくれたのはもうお約束だ。裏崎君が「いや、例えだろ例え」と肘で突いて突っ込む。
「働くって大変なんだなあ。愛依ちゃんじゃないけど私ずっと子供のままでいたくなってきちゃった」
「まあ身長は子供といっても差し支えな......嘘ですすいません、痛い痛い!」
ちょっとしみじみした雰囲気の中、天を仰いだ黄塚君にいらぬぼけをかました赤井君が足を踏まれたのもデフォルトなんだろう。一ヶ月も経過していないのに仲良くなったものだと思う。
実家を出て良かったなと思いつつそろそろ締めの言葉を疎多さんに言っていただくことにしようか。
そろそろお開きの時間となった。特別ゲストをお迎えした楽しい金曜の夜もおしまいだ。なろう荘の玄関先で靴を履いた疎多さんに続き僕も駅まで見送るために靴を履く。
「今日はありがとうございました。銀行のことについて私の話で少しでも興味を持っていただければ幸いです。最後に一つだけ覚えておいていただきたいことがあります」
そう言いながらピンと背筋を伸ばした彼に全員が注目する。穏やかな雰囲気は崩さないのにある種の厳しさがそこにはあった。
「私達銀行員は世間から悪く言われることも多々あります。他業種より高めに設定された給与やお客を優先せず上司や本部の顔色をうかがう仕事の仕方、また対外的な面子をひどく気にするプライドの高い部分など言われても仕方のない部分もあります」
思い出を振り返るように疎多さんは話す。途切れない言葉は彼の考えを明快に紡ぎ出していく。
「それに労働環境もけして良いとは言えません。朝は早いですし、昼休みも中々取れず夜はご多分に漏れず遅いです。有給休暇なんか絵に描いた餅だったりします......ただ、そのように悪い面も確かにある銀行ですがほとんどの銀行員は経済の潤滑油である金融に携わっていることに誇りを持って仕事をしています。例えATMに札束をセットする際に手が傷ついても、回収出来ない不良債権の山に手を焼いても、一昨日きやがれと顧客に門前払いされても明日また頑張ろうと思えるのは心のどこかに自分の仕事への自負があるからだと思います」
そっとその手に荷物を持ちながら疎多さんは笑った。苦労と辛さを知りつつも己の仕事に自負がある大人の笑顔だというのは言いすぎだろうか。
「もし今日の私の話でほんの少しでも銀行という組織に興味が沸いたら将来の就職先として考えてみて下さい。無理にとは言いませんがね。そしてもし当行に口座を作っていただければな、と最後に本音を言わせていただきます」
「いえ、もうほんと今日はありがとうございました。お肉までいただいて尚且つためになる話をしていただいて」
「そうですよ。緑茶さんなんか全然そんな話しませんからね」
皆を代表して大家の真白君がお礼を言う。その陰から小さな顔を覗かせながら僕をいじる黒田君を断固無視した。緑茶じゃないとあれほど言ったのにな。
「お年玉くらいしかないですけど口座作りますね! 1,000円でも作れます?」
「不幸体質の人間でも定期って作れるんですか......」
「まー、俺がライターとして一山当てたら大口預金者になってやるからな! 待ってろよ!」
黄塚君は明るく、赤井君は何故か深刻で、そして裏崎君は裏崎君なのはいつものことだ。そしてここに来て未だ挨拶をしていない人間は一人小首を傾げていた。どうしたんだ?
「青霧君、どうかしたか」
「あ、いえ。まさかね、そんなことないですし。疎多さん今日はありがとうございました」
何だろう。疎多さんの横顔を見ながら何か考えごとをしていたようだが? だがそれを問うだけの時間はもう無かった。
******
「すみません、遅くまで」
「いえいえ、こちらも楽しかったです。お世辞ではなく」
駅までの夜道を僕と疎多さんは肩を並べて歩いた。徒歩15分の道のりは夜中の11時に一人歩くには大の男でも少々勇気がいるものだ。自然の木立が残る武蔵野の片隅のこのあたりは尚更夜の闇が濃い。
「しかし、いい子達ですね。今時の高校生があんなに真面目に聞いてくれるとはいい意味で予想外でした」
「基本的には真面目ですよ、皆。たまに悪戯が過ぎますが」
僕の返事に疎多さんはハハ、と小さく笑った。
「緑竹さんはあの子達の良い面倒見役といったところでしょうか? ちゃんと溶け込んでいるのに言う時は言いますね」
「どうでしょうね。自分では分からないですが」
見上げた空には半月が傾いている。その黄色い月を見ながら僕はポツリと呟いた。
「十五年前、僕は何をしていたんでしょうね」
「......ああ、緑竹さんが彼らの年齢だった時ですか」
三十一歳の僕と十六歳の彼らの年齢差、その十五年はいくら時間が経過しても絶対値として残る。十六歳の時は自分には未来があると信じていた。今はどうだ、僕は僕の過去を振り返ることに囚われ現在すら良く分からない。
そんな自虐的な思いが口を開かせた。
「--ほんとはね、僕は別に大した大人じゃないんですよ。昔の失敗をいつまでも振り返りいじいじしてるような人間なんです。でもなろう荘では一番年長だからそれなりに振る舞っている、ただそれだけなんですよ」
それは疑いようもない僕の本心。あの半月のように欠けたままの人生を歩む僕が社会人の先輩面をする資格などあるのかとたまに思うこともある。あるのは多少の人生経験とそこから生まれる知識くらいだというのに。
僕の独白のような言葉を聞きながら疎多さんはしばらく黙っていた。やがて彼もまた視線を上げる。その先の半月の光をゆっくり追いながら僕たち二人は歩き続ける。ふわりと生まれた沈黙を破ったのは疎多さんだった。
「それでいいんじゃないでしょうか」
「いいんですか?」
「ええ。私もね、今日なろう荘の方達と話して自分が中学生や高校生の時に会社で働くということがどういうものなのか、社会人て何なのかということを知る機会が無かったなと思ったんですよね」
「--確かに言われてみれば」
学生が接する大人と言えば親か教師くらいだろう。予備校の講師なども範疇には入るかもしれないがどちらにしてもあまり数は多くない。
「だからいいんじゃないですか。緑竹さんが等身大の自分を見せて接してあげられれば。何も大人というのは格好つけたり綺麗事を言うだけでない。傷ついたり間違ったりすることもあるということを背中で伝えてあげさえすれば--」
--きっと学生さん達が得る物はあると思いますよ。
そう疎多さんが締めくくり次の角を曲がった時、視界に駅が飛び込んで来た。いつのまにか駅前まで歩いてきていたらしい。繁華街の駅とは違い、小金井駅の周りはこの時間になると余り人はおらず閑散としている。
互いに別れの挨拶を交わし、改札をくぐった疎多さんを見送った。階段を上るその背中が消えるまで僕はそうしていた。
なろう荘までの道を一人歩く。疎多さんの言葉が胸の中で反響する。
(等身大の自分、か)
見上げた夜空には少し傾いた半月が黄色い光をぼんやりと放っている。そうだな、欠けた月でも夜道を照らす明かりには十分だ。
******
「いやー、昨日は美味しかったなー。また疎多さん来てほしいなあ」
「裏崎さんはスキヤキ目当てでしょ! 失礼ですよ、そんなこと言ったら!」
「同じ社会人でも個人差がありますよね。裏崎さん、緑竹さん、疎多さん......」
明けて土曜日、食卓に響くのは裏崎君の下心丸だしの感想とそれに突っ込む黄塚君、ため息混じりの赤井君の声だった。朝が弱い黒田君はミルクをおとなしく飲んでおり、真白君は「病弱の妹にかいがいしく尽くす俺、シチュエーション的にサイコー!」と朝からテンションが高い。
「僕は低血圧なだけです......」
ぼそりと呟き、また黒いパーカーの女の子はミルクを飲むことに専念している。その横でパンをちぎる青霧君はどこか上の空な顔だ。視線が浮いているのにジャムに手を伸ばしかけたので代わりに取ってあげた。
「ほら。どうかしたんですか。心ここにあらずという感じで」
「あ、すみません。いえ、大したことではないんですが」
そう言いながら青霧君は一冊の薄めの文庫本をいつも携帯している小さなカバンから取り出した。その一番後ろのページをめくって僕に渡す。
「そのラノベの著者の方の写真、ありますよね。何だか疎多さんに似ているなあと昨日から思っていまして」
その言葉に釣られて僕は視線を落とした。サングラスで顔を隠した男性の横顔が写った写真がそこにある。確かに髪型や鼻の稜線などは疎多さんに似ているかもしれないが本人だとは断定出来ないだろう。
「他人の空似だろう?」
「そうですよね。銀行員が異世界にトリップしてその世界の経済危機を救うお話なのでもしかしたらなんて思ってしまいました」
そう言いながら青霧君は紅茶を飲みながら文庫本の表紙を僕に見せた。"フラッペ公国攻防記"というタイトルが鮮やかな色彩でそこには書かれている。ライトノベルという類の本は皆こんなに目が眩みそうなカバーなのか。
「さーて、ベーコンエッグが出来ましたよーと。ほら、皆食べて食べて。今日は軽くなろう荘の掃除しますからね、栄養つけないと」
エプロンを外しながら真白君が湯気を立てる大きな皿を持ってくる。それに気を取られている間に青霧君の提出したささやかな謎のことは忘れてしまった。
「あ、そうでしたね。明日新しい入居者の方が来るんでしたよね」
「そ、五人ね。だから綺麗にしておかないと」
「俺は力仕事は苦手、いや何でもない」
真っ先に反応した黄塚君に真白君が答える。その間に逃げようとした裏崎君は二人に睨まれ諦めたようにすごすごと席に着いた。いつものやり取りが生む優しい時間に僕はほんの少しだけ口元を緩める。
「全くほっとけないんだからな」
残ったコーヒーを飲み干しながら一足先に掃除用品を取りに向かう僕の心は軽かった。