First Friday Nightは賑やかに
引っ越ししてから始めて迎える金曜の夜というのはホッとする。なんだかんだ言っても全く新しい住まいから全く新しい通勤経路を使って職場に向かう一週間は長かった。
なにせ全てが変わったのだから。周囲の人間関係も、通勤経路も、住民票の登録地も、何より住む家自体が。
"どんなところなの、そのなろう荘って。綺麗なアパート?"
「--とても綺麗で伝統的な家屋だね」
数日前、様子を聞くために電話してきた母にそう答えた自分は悪くないと思う。なろう荘の台所に隣接したシェアスペース(リビングに近い共用部分だ)で新聞を読んだ時にかかってきたので、他の何人かの居住者にも聞こえてしまった。
「これは緑竹さんが嘘をついたと見るべきなのか、ご両親に心配かけまいという親孝行と見るべきなのか」と大家の陵真白は眉を寄せ。
「これをすぐに伝統的と表現出来るのは凄いですよ。尊敬しちゃいます僕。嘘ですけど」と家の中なのに黒いパーカーを被った黒田愛依は小さく笑い。
「あの黒い物体Xと初日に戦うことになったなろう荘が綺麗な家屋......」と赤井紅夜は天井に視線を移した。
「まあ物は言いようということだよ」
その場はそれだけ言って僕は新聞を畳んで自分の部屋に戻った。何となくバツが悪い気がしたからでそれ以上の理由は無い。自分の部屋に戻る前に玄関前で「コンビニ行きたいけど家から出るの怖いんだよな......どうすっか」とぶつぶつ呟いている裏崎紫音の小柄な背中を見つけたが放っておいた。
喧騒、足音、電車の発車ベル。それらを聞くともなくやり過ごし今まで乗っていた電車を降りる僕の頭の中には小さな悩みがぽつんと一つ。
(どう接するべきなんだろう)
新宿駅で中央線に乗り換える。これでもかと人を吐き出す電車は秒単位で管轄され、世界有数のターミナルステーションは精密機械のように無数の人をホームと改札へと振り分けているかのようだ。いや、だが僕が今頭を悩ませているのはこの巨大な駅が何故きちんと機能するかではない。
(高校生の話すことなんか分からないからな)
ある意味もっと複雑かもしれないこと、つまりは新しい住居となったなろう荘内の人間関係についてだった。それも特に三人いる高校生組とだ。
大家含めて七人の居住者のうち社会人組は四名、つまり陵真白、裏崎紫音、青霧斎羽、僕こと緑竹三笠だ。残り三名は黒田愛依、赤井紅夜、黄塚花弥となる。この三人は全員高校生だ。確か二年生と言っていた。
なろう荘はシェアハウスという形態上、ある程度他の居住者と接する機会が免れない。勿論個人が一部屋自分用に借りているので個人のプライバシーは保たれているが、そこにずっとこもるわけではない。例えば食堂、隣接したシェアスペース、トイレ、玄関、洗面所など生活に不可欠な領域は確実にあり誰とも話さない、接さないというのは有り得ない。
つまり必然新しい人間関係を育む必要があり、互いにどう接するかどう話しかけるかという部分をどうにかして折り合いをつける必要があるわけだ。それがシェアアパートの面白い点でもあり難しい点でもあるのだがいずれにせよ回避は無理だ。
(時間が自然と決めるとも言えるけど......ぎこちないのは嫌だしな)
そう。人間というものは似た者同士が寄り集まる傾向がある。同年代、同じような職業の相手により親近感を持つからだ。そういう意味では高校生三人組は早速お互いの部屋を行き来する仲になったようだが--赤井君は男と意識されていないのかもしれない--社会人組はそう簡単には行かない。
大家の真白君は人柄は良さそうだがまだ十八歳という若さもあり、僕達に話しかける時遠慮しがちな部分がある。裏崎君はそもそも引きこもりがちでやけに他人に対して高圧的だ。ただし根は優しいみたいだが。社会人組唯一女性の青霧君は生粋の天然ときており見ていて不安になる。
そして僕も人のことは言えない。唯一三十代ということもありそういう意味では一番七人の中ではイレギュラーと言ってもいいだろう。それはつまりこちらから話しかける時も向こうが話しかける時もフラットには話しづらい可能性が高くなるということだ。
必要以上に仲良くなる必要はないものの、いたずらにギクシャクした関係というのも窮屈だ。互いに気持ち良く暮らすに越したことはなく、いい意味で演出も必要ではないかと僕は乗客率七割といったところの電車の中で考える。
僕の隣の管理職らしき背広姿の中年男も、塾帰りらしき小学生の集団も、仲良く話している若い女の二人連れもそれぞれの人間関係の中で居場所を見つけて毎日を積み重ねている。それが人が人の世で生きる術だ、と妙に哲学めいた考えが頭を過ぎり柄にもないと心の中で苦笑する。
なろう荘の他の六人は果たしてどう考えているのかと思いながら見る午後八時前の東京の夜は電車の速度に負けて僕の視界を右から左へ流れて行った。
******
結婚前は金曜の夜ともなれば友達とよく飲みに行っていたものだが、三十代になってめっきり減った。家庭持ちになった人間が増えたからでもあり、単純に忙しくなったからでもある。だから僕もまっすぐなろう荘に帰るつもりだった。寂しい週末だって?
いや、新しい住居でのんびり缶ビールでも空けながら過ごす春の宵も悪くはないはずだ。
だから一番好きなサンカメーのミレニアムモルツを買って帰ろうと小金井駅の改札を出た時には思っていたんだが。
「何やってるんだ、青霧君は」
よろよろと重そうなダンボール箱を運ぶ見覚えのある女性を見てしまった瞬間、そんな考えは頭の片隅に追いやられてしまった。
眉をひそめながら様子を伺う。箱の中身が何なのかは分からないが、とりあえず彼女の細腕では厳しそうだ。タクシーを使えばいいのに、と思ったが駅前を少し離れると案外通らないものだし微妙にもったいないと考えたのかもしれない。
脳裏に浮かんだ選択肢。「女嫌いなんだろ、ほっとけよ。無理して助けなくてもいいだろ」と悪魔が囁き「これから同じシェアアパートの仲間なのだから手伝ってやれば。女が怖いのを克服するんだろ」と天使が囁く。
ため息。短い戦いの末、天使が勝った。このままあのとろとろ歩く青霧君の後を見つからないように歩くのは時間の無駄だという理屈を武器に。
「青霧君、持ってやろうか。余計なお世話かもしれないが」
「あ、あれ? 今晩は、緑竹さん」
キョトンとした顔で振り向いた青霧君の手からさっと段ボール箱を奪い取る。もちろん手に触れないように細心の注意を払い、即座に2メートル近く距離を取るのは忘れない。そう簡単に女性への警戒心が無くなる物ではない。
「勘違いしないでくれ、たまたま見かけた君があんまり歩くのが遅いから我慢出来なくなっただけだ。早く帰りたいからな」
僕の言葉に何かいいたげだった青霧君が黙る。そう、それは嘘じゃない。ただ本当のことを全ては言っていないだけだ。ちょっとくらいは手伝ってもいい、という感情を口にしていないだけさ。
「助かっちゃいました、ほんと重くて」
「タクシーを駅前で拾わなかったことは理解出来る。使うには微妙な距離と重さだから」
律儀に僕から2メートル離れて歩く青霧君に僕は答える。右手一本でぶら下げたダンボール箱は確かに女性でも持てなくはない。だがこうまでして買った当日運ばなくてはならないものでもない、と中身を聞いた僕は思った。
「加湿器なんか郵送にすれば良くはないか......別に明日届いたって問題ないだろうに」
「喉が弱いから早く使いたかったんですよ。ほんとは週末にゆっくり買いに行きたかったんですが我慢出来なくて仕事帰りに買ってしまいました」
そんなに大事なら何故引っ越した時に荷物の中に無かったのだと思ったが前に住んでいた部屋は水没したと言っていたのを思い出した。多分その時に壊れてしまったんだろうな。
「私が加湿器探しているって話したら裏崎さんがそれならオススメがあるぜ、とこの機種を教えてくれたんです。彼、凄く家電製品に詳しくてビックリしちゃいました」
「意外だな」
二つの意味を込めた意外という単語。裏崎君が家電製品に詳しいこと、全然接点なさそうな青霧君と裏崎君がそういう会話をしていることと両方だ。
「はい、私も意外でした。裏崎さんあんまり外出されないし他人に興味無いように見えたのでわざわざ私にそんなこと教えてくれるなんていい意味で驚いちゃいました。持っていたマグカップを危うく落としそうになったくらいです」
「--それは驚き過ぎだろう」
やはりこの人は天然だ。
しかし会話はここまでだった。元々あまり会話が得意では無い僕は気の利いた話題をすぐに出せるほど器用じゃない。それに相手が女性なのも口を重くさせる。だから黙って加湿器を運ぶのみ。青霧君も黙ってついてきた。ただしその沈黙は数分しか続かなかったけれど。
「緑竹さんはなんでなろう荘に入居したんですか?」
「それを聞いてどうするんだい」
「いえ、何も。ただ不意に聞きたくなっただけです」
「実家にいつまでも居候するわけにはいかなくなった。そういうことだね」
僕の答は簡潔だ。そう、嘘じゃない。前妻と別れてから実家に出戻りしていたからという事情は青霧君には関係ないから話さないだけのこと。
「そうなんですね。立派です」
「立派?」
少し僕の声の語尾が上がる。相手の声はそれに気づいたのか気付かないのか変わらない。
「はい。私はお部屋が水浸しになったからやむを得ずなのに緑竹さんはきちんと理由がありますから」
僕には返す言葉が無かった。立派......そんな訳あるか、と言いたかったがそれを腹の底に押し止める。代わりに返したのは全く別の質問が一つ。
「青霧君は皆と仲良く話せるかい」
「え? はい、そうですね。皆さんいい人みたいですし」
「高校生とも? つまり、黒田君や赤井君や黄塚君とも気詰まりじゃないかってことだが」
「全然。皆いい子ですよ。頭撫でたくなってしまいます」
青霧君の屈託のない声に拍子抜けした。何とも羨ましい話だ。彼女が天然だから年齢差など気にならないのか、あるいは僕が考え過ぎなだけなのだろうか。そう思っていると青霧君が話しかけてきた。
「緑竹さんは愛依ちゃん達とあまり話さないですか?」
「愛依、ああ黒田君か。そうだね、あまりその機会は無かったな。何というか......今の高校生達にどう接していいか分からなくてね」
僕にとってはそれなりに真剣な悩みだった。もっとも入居して一週間で仲良く話せるなどそもそも無理だとは思うが。しかし僕と同じ勤め人の青霧君は既にある程度溶け込んでいるらしい。
「んー、あんまり考えたことないですねえ。私のグロス貸してあげたりもしましたし、普通に仲良くなれましたよ?」
「あの子ら学校にメイクして行ってるのか」
「いえ、学校から帰ってきてから少し聞かれたので寝るまでの間だけです。多分基本的には真面目な子達ですよ?」
「あれー、緑竹さんと青霧さんじゃないですか? お疲れ様です!」
チャリンチャリンという自転車のベルの音と共に聞き覚えのある女の子の声が大人二人の会話に割って入る。道路が明るくなり自転車のライトかと気づいた時には声の主がママチャリに乗って僕達に並んだ。ポニーテールを夜風になびかせ、女性用の洒落たジャージに身を包んだ小柄な人物に青霧君が声をかけた。
「今晩は、黄塚ちゃん。何か買ってきたのですか」
「あ、これですか? 今日皆でワリオカートしようって話になったんでスーパーまでお菓子買い出しに行っていたんですよ」
なるほど、ママチャリの前籠にはビニール袋からはみ出したスナック菓子の袋。グループで食べるに相応しい量のそれを見ながら「楽しそうだな」と言った僕に黄塚君が「あれ、緑竹さんはしないんですか?」と不思議そうな顔をする。
「--僕も人数に入っているのか?」
「はい、あ、もしゲーム好きならですけど」
「それなりにはやるね」
何の気負いもない黄塚君の口調に僅かに僕の返事も柔らかい物になった。なんだ、意外に話せるものだな。
「よかった、大勢の方が楽しいですからね。それじゃお先になろう荘で!」
現れた時と同じくらい颯爽とポニーテールの少女はママチャリで遠ざかる。
「いい子ですよね、黄塚ちゃん」
「......そうだな」
青霧君の言葉に反論する気はとりあえず無い。
******
「うおっしゃー、カメくらええ赤井いい!」
「うわっ、酷いっすよ裏崎さん! ってドリフトで避けてスターゲット......ああっ、黒田さんに取られた!?」
「お先にいただきます、赤井君」
なろう荘に戻ってきた僕と青霧君の耳に飛び込んできた大きな喚声に近所迷惑じゃないかと一瞬心配したが他の家とは離れているから大丈夫だろうと思い直した。まだ常識の範囲内だ。靴を脱いでそのまま食堂とシェアスペースにつながる扉を開ける。
「あ、お帰りなさい。緑竹さん、青霧さん」
「ああ、ただいま。さっき黄塚君に会ったけどいないのか?」
「ジュースが足りないとまた飛び出して行きましたよ。ほんと申し訳ないんですけどね」
エプロン姿の真白君と話しながらシェアスペースのTVの前でコントローラーを握る三人を見る。年天堂の人気ゲーム、ワリオカートは皆でわいわいやるには持ってこいのレースゲームだ。三人とも顔は笑いつつも真剣な表情で画面に向かっていた。
「俺の前には何人たりとも走らせねえ! 黒田、覚悟おー!」
「そう簡単には抜かせませんよ、僕ワリオカートには自信あります。嘘ですけど」
つばぜり合いを繰り広げる裏崎君と黒田君の戦いは画面内のみならず画面外でも舌好調だ。そしてその間隙を突いた赤井君が二人をヘアピンカーブでごぼう抜きにする。
「お先に! トップいただきます!」
「「あああー!?」」
元気だな。高校生組と真っ向から真剣勝負している裏崎君はとても社会人には見えないと思っているとひょいと僕の前に金色の缶を差し出す手が現れた。身長2メートルのその手の主に「これは?」と問う。
「ミレニアムモルツです。知らないんですか?」
「知っている。僕が聞きたいのは何故僕にくれるのかということだ」
「転居最初の金曜のお祝いサービスです。好きなビールの話昨日されてたので」
してやったりと笑う真白君の手からミレニアムモルツを受け取って「粋な真似を」と苦笑する。全く未成年の癖に百年早いんだ。けれどその気遣いは素直に受けとるべきだろう。
「あ、緑竹さん。二ラウンド目から入りませんか。私は見てますから」
「やるつもりだが青霧君はしないのか」
僕の問いに青霧君は「コース逆走しちゃうので......」と肩をすぼめた。そんなかわいそうな運転神経の彼女に真白君は慰めるように冷蔵庫から苺を出してやっている。その光景は日常の一コマ、だけど確かな連帯感の一部と僕に思わせるには十分で。
(なんだ、僕が考え過ぎていただけか)
「緑竹さーん、次一緒にやりませんか?」
「おう、年長者だからって容赦しねえからな! 引きこもりゲーマーの腕見せてやるよ!」
「裏崎さん、それ自慢にならないですよ」
赤井君、裏崎君、黒田君の賑やかな声に応えるように缶ビールのプルトップを指で弾き上げた。プシュという軽い音と共に弾けたのはきっと泡だけじゃない。
「ああ、真剣に楽しませてもらうよ」
そうだな、こんな金曜の夜も悪くないさ。