冬の柊
冬はただ冷たく、モノトーンの景色が広がるだけだから嫌いだという人もたくさんいるだろう。僕はそれを否定はしない。だけど忘れないで欲しいのは。
一年でもっともカラフルで華やかな季節--春は冬の間の準備期間を経てこそ花開くということを。
だから僕、緑竹三笠が冬のある日に自ら閉ざしていた心を開く気になったのはきっと偶然なんかじゃないはずだ。
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正月休みも終わり初出社や初登校を終えるとすぐに三連休になるというのは何だか休みの無駄使いのような気がしてもったいない。これを六月に回せばいいのになどとどうしようもないことを考えながら僕は炬燵で丸くなっていた。
「三笠ー、お餅食べる?」
「ありがとう、二個焼いてもらっていいかな」
台所からかかった母の声に答えながらリビングから外を見た。年末に大掃除をしたばかりのガラス窓を通して見える庭には柊が何本か植わっているだけだ。今にも冬の雨が降り出しそうな暗い空の下、固く高潔な深緑の葉をピンと広げた柊は凜とその姿を保っていた。
(どことなく常緑樹というのは頑固な感じがするな)
読みかけの文庫本を炬燵の上に置き、ふとそんなことを思う。常に一年中同じ姿を保ち安定しているというのは生物として長所なはずだが、逆に一つの顔しか持たず面白みがないとも言える。
「お餅焼けたわよー。きな粉と磯部一個ずつ」
「ありがとう。ねえ母さん、なんでうちの庭、柊植えてるの? 桜は無理にせよ楓とか紅葉をつける華やかな木を植えることも出来たのに」
僕の問いに母は「そうねえ」と言ってから微かに微笑んだ。五十代半ばとなり皺も隠せない母だがその笑い皺が僕は好きだ。
「柊って強いでしょ。雪にも負けないし一年中ピンと背筋を伸ばして立っていて。花は綺麗に咲いて見る人を楽しませてくれればいいけど木にはそういう強さ、潔さがないと駄目よ」
「ふーん」
納得出来るような、出来ないような。きな粉餅を一つ手にとり今の母の言葉を餅と共に噛み締める。潔さね。僕には無縁の言葉だな。もう一度、柊を見た。数本が等間隔に並び先程と変わらない姿を保つその木は僕の視線など露ほども気にせずに立ち続けている。
(僕は君みたいになれるかい)
心の中で独りごちた。尖った葉を風に揺らした柊が微かに頷いたように見えた。
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「「家を出る?」」
「うん、そろそろそういう時期だと思って」
そろそろ冬の終わりも間近な二月半ばのある日、家族揃っての夕食の席だった。僕に反応した両親が異口同音という言葉そのものの返事をしたので少し可笑しかったが、食べながら説明を続ける。
「実家に戻ってきてそろそろ二年近く経過するし。もういい加減再出発しないとと思ってたんだ。昨日今日考えていたわけじゃない」
「--もうそんなになるか」
父は小さくため息をついた。水炊きの湯気で曇った眼鏡をセーターの裾で拭きながら、ふむと小さく唸る。賛成も反対も言わない。
「でも無理してうちから出なくてもいいんじゃないの? 家賃だってかからないしねえ」
「それはそうだけどいつまでも甘えていられないからね。大丈夫だよ、一度は家を出た身だしさ」
出戻っちゃったけど、と笑って付け加えた。心の中でチクと痛む部分があったけどいい加減もう慣れたさ。
「具体的にどういう場所に住むかは決めているのか」
「どの物件というのは決めてないけど、こういう形態がいいなっていうのはあるよ」
「え? 普通はワンルームマンションでしょ?」
父の問いに対する僕の答が母には意外だったらしい。腑に落ちないという顔をしている。それを目で制した父が黙ってビールのボトルを差し出す。僕のグラスに金色の液体が白い泡と共に注がれ、お返しに僕も父のグラスにビールを注ぐ。
「シェアアパートって知ってるかな。普通のアパートじゃなくて居住者の交流スペースがあるアパートなんだ。もちろん居住者自身が一人になれる部屋はあって、それとは別に例えば一階に広間のようなスペースがあるんだよ」
「初めて聞いたわー。でもそれだと必然的に他の居住者の方と顔を合わせる機会があるわけよね」
「そうだね......それが目的だから」
僅かに僕の声が固くなったのが分かったのだろう。ビールを飲みながら僕の話を聞いていた父の目が細くなった。眼鏡のレンズ越しにこちらの表情を伺うような、注意深さがそこにはあった。
「そのシェアアパートか、当然他の入居者には男性だけではなく女性もいるんだろうが大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。いや、大丈夫になるさ」
「ーー無理はするなよ。ま、お前ももういい大人だ。大人が決めたことにどうこうは言わん」
父はそれだけ言って箸で鳥をつまんだ。母はちょっと心配そうな顔だったが「そうねえ、あなたももう子供じゃないもんねえ」と笑いながら水炊きの具をよそってくれた。暖かい家庭の団欒、その居心地の良さを実感する。
だけどいつまでも僕はここに止まっているわけにはいかない。人生で躓いて傷ついた人間が休むのはいいけど、休み続けていたら歩き方を忘れてしまう。
「ありがと、母さん。ビール飲む?」
「あら、じゃちょっとだけもらおうかしら」
だから僕は歩き出そうと決めたんだ。
(結婚式の時は自分がバツイチになるなんて予想もしなかったよな......)
夕食後、自室に戻った僕はごろりとベッドに横になった。子供の頃から使っていた部屋は二年前に僕が実家に戻ってきた時にもまだそれなりに使える状態にしてあり、それがありがたいような情けないような気分になったものだ。
またこの部屋を使うことになるなんて全然予想もしていなかったから、当初は妙な気分になったものだ。
白熱灯だった天井のライトは家に戻った時に間接照明っぽい淡いオレンジ色に変えた。影が柔らかく伸びるその照明なら自分の心に優しく差し込むだろうと愚にもつかない考えのまま変えた結果だ。やはり弱っていたんだと思う。
今は? 今の自分はどうなんだろうか。離婚届に判を押して以来、家族以外の女性が嫌になりまともに顔を見て話したことなど数えるほどしかない。それだけ見ればやはりあの時の爪痕は今も僕にはっきり残っているのだろう。
「失敗、か」
結婚は......正直もういい。だが今のままでは駄目だろうということくらいは分かる。好きな人がこの先出来るかどうかなんて分からないが、いや、欲しいかどうかも分からないが人類の半分は女性だ。願わくば普通に話せるようになった方がいい、という程度には内心思っていた。
だからシェアアパートなんだ。一対一ではなく多人数が住む形態なら過度にストレスやプレッシャーを感じずに済むだろうから。比較的若い人が好む住居形態らしいがまあ30代前半なら何とか受け入れてくれるだろうとは思う。
「いい物件があるといいが」
ベッドから半身を起こす。机の上のラップトップを開き電源を入れる。インターネット万歳だ。こんな寒い冬の夜でも家にいながらにして物件探しが出来るのだから。
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空気が緩み、時折日差しにも暖かさが混じるようになったそんなある日。荷物をまとめた僕は両親に頭を下げて別れの挨拶をした。
「じゃあ行ってくるよ。二年間ありがとう」
「いつでも帰ってこいよ。東京には変わりない」
「追加の荷物はすぐに送るからね。たまには帰ってらっしゃい」
二人の暖かい声に「ん、大丈夫」と短く返事をして玄関の扉を閉めた。当座必要になる衣類や身の周りの物は今日シェアアパートに届くように既に宅配便で送ってある。なので僕の荷物はやや大きめのトートバッグ一つだけ。身軽なものだ。
家の門を開ける時、ふと振り返った。視線の先には春になっても相変わらず深緑の刺のある葉をかざし無愛想なまでにしっかりとした柊。「お前は強いよな」と小さく呼びかけて背を向けた。せめて形だけでもと気持ち胸を張る。視線を上げる。
何分の一かくらいはあんな風になりたいなと思いながら実家を後にした。行こうか、新しい住居へ。
実家の最寄駅である京王線の高幡不動駅から電車に乗る。車内で何度も読み返した新しい住居の案内を広げる。ネットからプリントアウトした案内には上部に"なろう荘--シェアアパート 周囲は閑静な住宅街"と短い広告文が掲載されていた。大家の名前と連絡先、それに最寄駅からの地図が下半分には書いてある。
"陵真白"と大家の名前には記入されている。物件の紹介自体は不動産紹介会社を経由したがなろう荘の管理は大家が直にやるらしい。名前からは男なのか女なのかも分からないが、この大家自身もなろう荘に住み込むらしいので自然顔を合わせる機会は多くなるだろう。
(紹介会社の話では前のオーナーの親戚ということだったが)
それ以上深くは聞かなかったが遺産か財産分与の形でシェアアパートをもらったのだろうか。それまでの生活はどうしたのだろう、といらぬ心配をしそうになりそこで思考を止める。どうせすぐに顔を合わすことになるんだから考えなくてもいいだろう。
電車を乗り継ぎ、小金井駅で降りた。古くから武蔵野という名前で呼ばれているこの辺りは駅から少し歩いただけで背の高い木が多い。市の景観指定地域というわけではなく、古くからある家の敷地から自然にそびえ立っている木がほとんどだ。
案内にはなろう荘へは徒歩15分と書いてある。少し遠いが運動と思えばいい。春先の気持ちの良い空気に目を細め、てくてくと歩く。幾つかの曲がり角を曲がり迷いもせず目的の場所へとたどり着いた僕の目に広がったのは--
なるほど。アパートだ。その言葉に嘘はない。うん、外観が古めなのも家賃39,000円の東京郊外の物件としては破格な安値なのだから予想はしていた。
だが。
庭が草ぼうぼうなのはどういうわけだ。これではシェアアパートというよりホラーハウスだ。人が入居する以上、電気やガスなどのインフラは通っているのだろう。だが、うららかな春の日に鬱蒼とその巨大な黒い家屋をさらしているなろう荘からはそんな気配が微塵もしない。
(これはいきなり前途多難かもな)
多少困惑しつつも周囲を見回す。この物件の前で大家を含む入居者の面々が初顔合わせをするんだが、少し早く来過ぎたようだ。突っ立っているのもバカバカしいのでそれほど遠くない位置にあった一軒の茶店に入ることにした。
「ブラックでよろしいですか?」
「ええ」
ウェイトレスに答えてコーヒーをもらう。古民家を改装したらしきこの茶店はカフェというよりはもう少し落ち着いた感じだ。ひっそりと自然の中に溶け込むような板張りの床、ナチュラルな木目が美しく居心地いいなと思いながらコーヒーを啜る。舌を流れる暖かい苦みと香ばしさが心地好い。
店内は空いている。僕の他には女性客が一人だけだ。大きなボストンバッグを床に置いて手持ちぶさたそうに飲み物を啜りながら時折店の窓を見ていた。
(あれ? あの案内......なろう荘のか)
女性が机に広げていた紙が揺れこちらを向いた時にちらっと見えた文字。確かに"なろう荘"と書いてあったと思う。それを念頭に置きながら不躾にならないようにちらりと観察してみた。
僕より年下、ナチュラルな茶色の髪を肩に届くか届かないかくらいの長さにした若い女性だ。ああ、そうか。あの大きなボストンバッグは引っ越しのせいかと得心がいく。淡い色のふわっとした服にジーンズという普段着だが、その表情はどこか楽しそうだ。
どうやら同時期の入居者らしい。しかし女性にいきなり声をかけるのは嫌だ。どうせすぐ顔を合わせることになる。放って置こうと決め、しばし時間を潰していた時だった。
「--あ。あの人かな」
窓を気にしていた女性が小さく声をあげたのが聞こえた。コーヒーの最後の一口を飲み干しながら僕もその視線を追う。だがすぐに我が目を疑った。
大きな人影と小さな人影が一人ずつなろう荘の前にいた。小さな人影はポニーテールの女の子らしいと遠目でも分かる。だが大きな人影は--余りに大き過ぎないか?
なろう荘の門と並ぶように立っているから分かるが190センチは優に超えている。日本人離れという表現が頭に浮かんだ。
何やら大きな人影が困ったように頭をかき携帯を取り出した。小さな人影はそんな大きな人影となろう荘を交互に見ている。もう間違いないだろう、あれが入居者だ。荷物を持ち席を立った。
「「お勘定お願いします」」
二人同時にレジに伝票を差し出したのはただの偶然。二人とも左手になろう荘の案内を持っていたのはある種の必然。会計を済ませた僕はばつの悪い思いをしながら一足先に店の外に出た。
「あの~なろう荘にご用のある方ですか?」
やっぱり聞かれた。一対一は特に苦手なので最低1.5メートルは距離を取るようにしつつ、無礼にならない範囲で簡潔に答える。
「そうです。話は後にしましょうか、行きましょう」
「あ、そうですね」
彼女が青霧斎羽という名前であることはこの後すぐに知ることになる。