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二人の夜に

 しばらく鏡を見続けた私だったが、ふと、我に返る。

 今日は土曜日。いつもなら1週間分の食料の買い物をする日だ。冷蔵庫はほぼ空になっている。状況はまだ飲み込めないものの、取りあえず近所にあるスーパーに行かなきゃいけない。

 そう思って私は着替えをするためにクローゼットを開けて気付いた。今の私に似合う服がないのだ。昨日まで普通に着ていた服が、どれもこれも地味で野暮ったく見える。

 さんざん引っ掻き回した後、店員に勧められて買ったものの一度も袖を通してないコットン素材の七分袖ワンピースを選ぶ。襟首に付いている同素材のフリルが若作りに見えて敬遠していたのだが、今の姿にはおそろしく似合っていた。


 次は化粧だ。肌にくすみが全く無いから下地とパウダーだけでいいだろう。肌色の下地を塗ると、あまりの塗りやすさに驚いた。目元の皮膚の小皺を伸ばして塗りこむ必要がないのだ。シミもないので、コンシーラーも必要ない。そういえば、私もこのくらいの頃はあまり化粧をしていなかった気がする。

 襟元が開いていて少し肌寒いので、これもクローゼットの奥から引っ張り出した花柄のストールを巻いて外に出る。鍵を掛けていると、階段を上る音がして昨日会った隣人の青年が姿を現した。


「こ、こんにちは……」


 私が挨拶すると、彼は怪訝そうな顔をする。オバサンの一人暮らしの家に若い女性が出入りしているのを不審に思ったようだ。


「あれ、確か隣って……」


「あ、あの、ここ、伯母の家なんです! 伯母は、えぇと……そう、今日から旅行に出ていて、私が留守を預かっているんです!」


「あぁ、そうなんだ」


 私のしどろもどろな説明に、彼は特に疑問を持たず納得してくれたようだ。とたんに口調がくだける。ほっと胸をなで下ろすと、彼が話しかけてくる。


「雨が止んで良かったね。東京の人? ここら辺は初めて?」


「あ、えぇと、はい」


「そう。どこか出掛けるの?」


「あの、近くのスーパーへ……」


 そう言って、じゃあ、と私は彼の横を通り過ぎた。すると、その後ろから彼の声が追いかけてくる。


「この辺初めてなら場所分かりづらいだろ? 案内しようか」


「いや、でも、そんなの悪いし、一人でも大丈夫です」


 私はここに来るのは初めてだと言ったことを後悔した。彼は、俺も買いたいものがあるんだ、と彼は言うと、ちょっと待ってて、荷物置いてくるから、と隣の家の玄関を開ける。

 その時、鞄と一緒にコンビニの袋が一瞬目に入った。彼は買い物をすでに終えているのだ。きっと私のために嘘をついてくれたのだろう。礼儀正しいだけじゃなく、親切な青年でもあるようだ。私はその親切さに好感を持ち、彼の優しい嘘に甘えることにした。


 スーパーに行くまでの途中で、私たちはお互いに自己紹介をしあった。彼の名は森本樹生(もりもとたつき)、20歳の美大生で、進学のために地方から上京してきたそうだ。

 そう言われてみれば、彼のズボンには絵の具ともペンキともつかない汚れが数か所に付いている。今日はランチタイムの終わる昼過ぎまで近くの喫茶店でバイトをしていて、ちょうど帰って来たところらしい。


 私は立花さくらと名乗った。さくらは子供の頃の友人の名前だ。その頃の私は楓という名前が古臭く見え、そのかわいらしい名前をとかく羨ましく思っていた。そのことをふと思い出したのだ。

 年齢は彼と同じ20歳ということにしておいた。多分、そのくらいだろうと思った。

 彼は、お互い植物みたいな名前だな、と笑った。笑うと八重歯が覗き、少年のように見えた。昨日見たときは子供にしか見えなかったのに、今日見ると同年代の男として魅力的に映るから不思議だ。これも私が若返った効能だろうか。


 スーパーに着くころにはすっかり打ち解け、名前で呼び合うまでになっていた。今までの私には考えられなかったほど自然な流れだった。


「さくら、夕飯、何作るの?」


 野菜とにらめっこしていると、樹生がそう尋ねてきた。彼は買い物かごを掴み、荷物持ちを担当している。


「うーん、最初は消化に良いものにしようかと思ったんだけど、今無性にカレーが食べたくなって、悩んでいるところ」


「カレー? いいね、俺の大好物」


「……食べにくる?」


「え、いいの?」


 樹生は散歩に行くと告げた犬のように目を輝かせて喜んだ。揺れる尻尾が見えるようだ。私はクスリと笑った。


「いいわよ、たくさん作るつもりだったし」


「やった。あ、でも、伯母さんの留守宅に勝手に入るのは気が引けるから、うちで一緒に食べない?」


 その言葉に私は感心した。よく気の回る人だ。若い女性が男性の部屋に行くのもいかがなものか、とも思う。だけどその言葉と返事を待つ彼の表情には何の裏も感じられなかった。


「分かった、じゃあ完成したら持っていくね」


 彼は自炊をほとんどしないので台所用品がほとんど無い、というのはここに来るまでに聞いて知っていた。その後、私たちは豚肉にするか牛肉にするかで揉め、結局間を取って合いびき肉にすることで手を打った。


「仲の良いカップルね」


 そんな声が後ろからかすかに聞こえ、私の頬はわずかに熱を帯びる。そうか、周りから見れば私たちはそういう風に見えているんだ……。さりげなく樹生の方を見ると、彼には聞こえていなかったらしく、どうしたの、と聞いてきた。私はなんでもない、と笑って答えた。


 胸の奥がシュワシュワする。こんな気持ちは初めてだった。




 ぴぃ―んぽ――ん。

間の抜けた玄関のベルを押すと、樹生がすぐに顔を覗かせる。


「お待たせしました」


「待ってました。もう、ずっとカレーのいい匂いがして待ちきれなかったんだ」


 樹生はそう言うと持っていた鍋をさりげなく取り上げ、散らかってるけど、と私を招き入れた。

 部屋は私の家と部屋の位置がすべて逆の構造で、美大生らしく木のイーゼルやスケッチブックなどが部屋の隅に置かれている。何の飾り気もないシンプルな私の部屋とは違い、色が溢れたカラフルな部屋だ。かすかに油絵の具の匂いがした。


「ごはんもちょうど炊けたよ。皿、これでいい?」


「あ、うん、大丈夫」


 私はレタスとトマトで手早くサラダを作り、その間に彼がカレーを皿に盛りつける。自分の分は山盛りに盛っているところを見て、さすが若いな、と感心した。

 ベッドの手前にある小さなテーブルに運ぶと、樹生は手を合わせていただきます、と言うと我慢できなくなったかのようにスプーンを掴みカレーを食べ始めた。


「うまっ、なにこれ、超うまい」


 その言葉にほっと胸をなで下ろす。何しろ手料理を誰かに振る舞うのは初めての事だったので、知らず知らずのうちに緊張していたようだ。樹生は私が半分も食べ終わらないうちにおかわり、と言うと、カレーをよそうために立ち上がった。


「まだまだあるからいっぱい食べてね」


「うん、ありがとう。これ、ほんとうまいよ。さくら、料理上手だな」


 そりゃ、20年近くも自炊してればね……と胸の内で呟く。


「そうかな。……きっと余るから明日もカレーになりそうなんだけど……食べる?」


「え、いいの? 食べる食べる」


 樹生の屈託の無い笑顔に、私は釘付けになった。

 そして、気付いたら明日の約束をしてしまっていた。バイトが終わったら連絡する、と彼は言った。


 その夜、私は高鳴る胸の鼓動でなかなか寝付けなかった。明日がこんなに待ち遠しいと思うのも、初めてだった。




 翌日。

 目が覚めると日はすっかり昇り切っていた。昨日といい、今日といい、こんなに寝坊するのは学生の時以来だ。樹生はもうバイトに行ってしまっているだろう。

 今日は何をしようか。そうだ、この姿に似合う服を買おう。私の持っている服はすべて十年選手ばかりで、新しい服が欲しいと思うのも久しぶりだ。

 このまま戻れなかったらどうするんだ、明日からの仕事はどうするのだ、という不安が胸をよぎるが敢えて無視をする。いつまでこの姿でいられるのかは分からないけれど、その時が来るまでは楽しもう、そう思えるまでになっていた。

 楽観的すぎるだろうか。やはり、考え方も今までとは少し違っているのかもしれない。

 テレビを点けると、また台風が接近しているとアナウンサーが言った。そう言えば会社の連中がそんな事を言っていたか。こんなに晴れているのに? と私は食い入るように画面を見つめた。夜中から明け方にかけて東京に最接近するらしい。

 早めに出掛けてすぐに帰って来よう。私はリモコンをテーブルに置き、急いで洗面所へと向かった。




 渋谷の街は思い思いのファッションをした若者で溢れかえっていた。服を買おう、と思ったら、何故だか渋谷が頭に浮かんだのだ。

 マルキューに入ると、そこはたくさんの若い女性と騒音と香水の匂いでむせかえっていた。どの店がいいのか分からないので、適当に入った店で服を選ぶ。

 下着姿にしか見えない店員が近寄ってきて、お似合いですよ、それ今日入ってきたばかりの新作なんです、と言われ手に取っていた服を改めて眺める。オフホワイトのシャツワンピースだ。ウエスト部分に切り替えが入っていて、裾が広がっている。ひざ丈なのも好ましかった。鏡で見るとサイズも問題無いようだ。いつも冴えないグレースーツを着ている反動か、正反対の明るい色の服を選んでしまった自分に少し笑いが込み上げる。


「試着もできますよぉ」


「いえ、いいです。これください」


 私は値段も見ずに決め、支払いを済ませて店を出る。その他にも今の姿に合う下着やアクセサリーも買った。

 今までお金を遣わないようにして生きてきたけれど、買い物とはこんなに楽しいものだったのか。自分にはどんなものが似合うのか、それを身につけた自分があの人の目にどう映るのかを想像すると自然と頬が緩む。

 化粧品売り場では美容部員に化粧をしてもらった。ナチュラルメイクではあるものの、普段は使わないリキッドのアイライナーやマスカラをしてもらうと、さらに目力がアップして華やかではっきりした顔立ちになった。地味な顔だからこそ似合う化粧があるようだ。


 少しでもあの人に見てほしい。かわいいと、思ってほしい。自分の気持ちの変化に驚く。昨日まではただの隣人、それだけだったのに……。


 駅に戻る途中、楽器屋の隣に寂れた文房具屋があったので入ってみた。何気なく店内を見渡し、奥まったところにある油絵の具コーナーに目を留める。そこには数えきれないくらい多くの絵の具が棚に並んでいた。

 何しろ、赤色だけでも何本もあるのだ。アリザリンクレムソン、カーマイン、ローズマダー、ゼラニウムレーキ、カドミウムマルーン、チャイニーズバーミリオン、シェルピンク。ちょっとした色の違いでこうも違うのか。


 すると、棚の横にあるショーケースの中にある絵の具に目が吸い寄せられた。横に置かれた“ラピスラズリ”という商品名の下に書かれている値段を見て、私は目を見開いた。他の絵具とは10倍以上も値段が違うのだ。どうやら、高価なのでショーケースの中に入れているらしい。添えられた色見本を眺めて、店員らしき中年の男性を呼び止めた。


「あの、すみません」


「はい?」


「このケースの中にある絵の具が欲しいんですけど」


「ああ、それね。お客さん、ラッキーだね。貴重なやつだから最後の一個だ。自分用?」


「いえ、贈り物です」


 店員がプレゼント用の袋を取り出したのを見て、私は制止の声を掛ける。


「あ、袋はいいんで……リボンだけ付けてもらえますか」


 私がそうお願いすると、店員は少し考え、カウンターの下から赤いリボンを取り出す。


「あ。ローズマダー」


 私がそう呟くと、男性はにやりと笑い、正解、と言った。

黒いチューブにはその深い紅がとてもよく似合った。

 私は代金を支払い、どうもありがとうございますと言ってから店を出た。風が、強くなって来ていた。




 家に帰ると17時を過ぎていた。意外と買い物や移動に時間を取られてしまったようだ。軽くシャワーを浴び、買ってきた服に着替えた。まるで誂えたかのようにピッタリだった。

 いつ樹生が帰ってきても食べられるように米を炊き、カレーを暖めておこう。ポテトサラダも作ろうか。そう思い、流しで手を洗っている時だった。


「!!」


 自分の手の甲を見て、心臓が止まりそうになるほど驚く。手の甲は若い娘とは思えないほどに張りを失っていた。……元の姿に、戻っている?

 慌てて玄関先の鏡を覗き込む。そこにある若かりし頃の姿を見て、私は安堵の溜息をついた。どうやらまだ手だけらしい。まだ傍目には分からない程度だが、やはり、この姿で居られるのはあと少しのようだ。ずっとこのままかもしれないという淡い期待は打ち砕かれた。


 でも、それでも。お願い、もう少しだけ、このままで……。

私は誰とも知れず祈った―――。



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