表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

嵐の夜に

全三話予定です。

「立花さん、お疲れ様ですぅ~」


 昼休憩から戻ってくると、新人の佐倉真奈(さくらまな)がにこやかに近づいてくる。


「お疲れ様。そういえば、朝課長に頼まれていたデータ入力だけど、今日中に終わりそう?」


 そう問いかけると、彼女は待ってましたと言わんばかりに私ににじり寄ってきた。肩まである丁寧にブローされた髪が彼女の動きでさらさらと揺れる。


「それが、どう頑張っても終わりそうになくって……」


「そうなの。でも、今日中にって言われてなかった?」


 今日中ということは残業してでも終わらせなければいけないのが我が社の暗黙のルールだ。


「そうなんですけど、今日は田舎から母が上京して来ていて、どうしても残業出来ないんですよ~」


 そこまで言うと佐倉さんはちらりと私の顔を見上げる。彼女の意図を察して、私はため息をついた。


「……それじゃ、しょうがないわねぇ。残業、代わるわ」


「えっ!本当に?いいんですかぁ~?」


「いいわよ。今夜は特に予定もないし。そのかわり、終業時刻までは精一杯努力すること。いい?」


「もちろんです! わぁ、ありがとうございますっ! 今度必ずお礼しますから~」


 笑顔で礼を言う彼女に、はいはい、期待しないで待ってるわ、と返した。

 今日は金曜日。帰りに家の近くのレンタルショップでDVDでも借りて見ようと思っていたが、どうやらお預けになりそうだ。嬉しそうに去っていく佐倉さんの後ろ姿を見て、私はもう一度溜息をついた。


 私の名前は立花楓(たちばなかえで)、42歳。職業は営業補佐、いわゆるOL。独身、彼氏なし。というか生まれてこの(かた)、異性と関わりがあったことが無い。決して美しくもなく、醜くもなく、目立たず騒がず。至って地味に生きてきた。

 30歳ぐらいまでは結婚結婚と騒いでいた両親は、今ではその話題をタブーだとでも思っているのか、それとも諦めてしまったのか口にも出さなくなった。それでも帰るたびに何か言いたげにしている雰囲気に耐えられず、最近は何かと理由を付けて実家には近寄らないようにしている。


 午後の就業時間が近づくと昼休憩を終えた社員が一人また一人と戻ってくる。そろそろお茶を入れないと。男女雇用均等法が施行されて久しいものの、我が社ではお茶汲みは女がするものだという根強い風潮がある。

 若い女子社員はそれに反感を持っているようだが、私くらいの年齢になるといちいちそんな事で怒ってなんていられない。お茶くらい何度でも淹れてあげますとも。波風を立てないのが一番だ。


「いや~参った、参った。雨が急に降り出して来たよ。こりゃ、帰る頃には大変なことになるかもしれんなぁ」


 私が給湯室に向かおうとすると、すれ違いになった課長が他の社員達にぼやく。社員達は本当ですね、とやや大げさに相槌を打っている。


「しかも、その後すぐに次の台風が来るみたいですよ」


「らしいねぇ。電車が止まらない内に早めに帰った方がいいかもしれんなぁ」


 給湯室に入ると窓から空を見上げた。不満たっぷり、という表現が似合う灰色の空からは、大粒の雨が降っている。


 東京には今、大型の台風が接近していた。




「それでそれで? あんた、枯れバァに残業押し付けたの?」


 終業間際、給湯室から数人の女子社員の話声が聞こえて、私は足を止めた。


「そうそう。母が田舎から上京してきて~って言って」


「上京って、あんた実家都内じゃない」


「だって、今日はどうしてもはずせない合コンなんだもん! 相手、医者だよ!? 残業のせいで行けないなんてありえないでしょ」


「うわ~、こいつ、人に残業押し付けて合コンだって!」


「枯れバァかわいそー」


「いいんだって、どうせ、枯れバァ暇なんだし。今夜は特に予定がないからとか言っちゃってさ。今日もだろって、思わず言っちゃいそうになっちゃった~」


「うわ、ひでえ!」


 そこでひとしきり笑いが起き、その声が廊下にまで響いてくる。

 枯れバァとは密かにつけられた私のあだ名だ。楓が年食って枯れて、枯れバァ。

 密かとは言いつつも、私はそのことを知っている。最初聞いた時はショックを受けたが、もう慣れた。今では自分のことながらうまいネーミングだとすら思う。

 この会社では仕事の出来なんて関係ない。女子社員は若ければ若いほど価値があるのだ。私は数メートル戻ると、わざと足音を立てて給湯室に入って行った。


「あっ、た、立花さん、お疲れ様でーすっ」


「お疲れ様。午後の就業時間が始まってるわよ」


「はいっ、すみません。すぐ行きまーす」


 女子社員達はバツの悪そうな顔をした後ですぐに愛想笑いを浮かべ、我先にと一目散にオフィスに戻って行った。


 ふぅ。私は何度目なのか分からない溜息をもう一度ついた。

どうも、彼女たちとは仲良くなれそうにない。私にとって彼女達は別世界の生き物に見える。やたらと語尾を伸ばすのは今時の流行りなのだろうか? 

 残業や職場の飲み会を平気で断ることも、仕事中に何度も行くトイレ休憩という名のサボリも、私にとっては信じられないことのように思えた。何度か注意したことが原因で、私は彼女達に煙たがられているようだ。一生懸命に仕事を教えようとすればするほど彼女たちの心は離れて行く。


 流しにはさきほどの女子社員の誰かが忘れて行ったのだろう、かわいらしいキャラクターのプリントされた手鏡が開いたまま置かれている。

 私はもう、こんなかわいい手鏡を持つことは許されないわね……。

手鏡を持ち上げて覗くと、そこには冴えない地味な女が疲れた目をして映っていた。


 残業を終えて会社を出ると、そこは混沌とした様相を呈していた。木々が葉どころか枝までも落とし、どこの物とも知れない看板やのぼりがそこかしこに転がっている。何故飛んできたのか分からない、クマのぬいぐるみやビーチボールなんて物もある。社内にいたときも窓を叩きつける激しい雨と風に何度も驚かされたが、夜も更けるにつれて徐々にその勢いが増していくようだ。

 とりあえず最寄りの駅に向かおうと傘を広げたが、数分も経たないうちに吹き荒れる風に折られてしまった。この雨ではコンビニで傘を買い直したとしても結果は同じだろう。

 私は折れた傘を何とか畳んで道の脇にあるごみ箱に捨て、薄手のジャケットの襟を立てるようにして足早に歩く。もちろん、それは何の役にも立たず、すぐさま濡れ鼠になってしまった。


 ようやく駅にたどり着いたものの、この台風で電車は運行休止になっていた。駅前のタクシーには順番を待つ人の長蛇の列。自分の番が来るのを待っていたら日が変わってしまいそうだ。いや、下手すると朝になっているかもしれない。ここから家に歩いて帰ると二時間はかかる。最悪だ……。


「迎えに来てくれたのか」


「だってお父さん、今朝あれだけお母さんに言われてたのに傘持って行かなかったでしょ」


 背後で男性の声がして振り返ると、中年のスーツ姿の男性が若い女の子に話しかけていた。どうやら娘さんが迎えに来てくれたらしい。背中までのウェーブのかかった柔らかそうな髪を持つその子はまるでファッション雑誌から飛び出してきたようなほっそりとした美少女だ。

 大学生くらいだろうか? ぱっちりとした二重、色白にバラ色の頬、小さくて赤い唇。これだけの豪雨だというのに彼女の周りはまるでそれをものともしないかのように穏やかな空気をまとっている。そして、父と娘は仲良く雨の中を歩き出して行った。


 世の中にはあんなにかわいい子がいるのね。眼福だわ。


 私は父娘の後ろ姿をしばらく見つめ、それが見えなくなると、とぼとぼと家に向かって歩き出した。すでに中まで濡れてしまったヒールの低いパンプスが、歩くたびにぐずぐずと音をたてた。


 途中で何度も諦めかけたが、そのたびに自分を奮い立たせ、何とか五体満足で辿り着いたのは、2階建ての安いワンルームのアパートだ。どうせ家は寝るだけだから、とここに移り住んでもうすぐ10年になる。

 早く温かいお風呂に浸かってゆっくりしたい。まだまだ暑い季節だとは言っても、さすがに体が冷え切っていた。


 階段を上り一番奥の部屋に向かうと、ひとつ前のドアの前に居た若い男が傘を振って水を飛ばしていた。隣に住む大学生だ。彼も今帰って来たらしく、こちらには気付いていないようだ。


「わっ……」


「あっ、すみません。大丈夫ですか?」


 傘から飛んだ雫が私にかかり、思わず声を上げた。

男が焦った顔で振り返る。最近の若い子にしては礼儀正しく、アパートですれ違う時は必ず会釈をするので多少好感を持っている子だ。

 少し癖のある茶色い髪、まだ少年の面影が残る整った顔立ち。そして細身の体、青空の写真がプリントされた白のTシャツとブラックデニム。今はその足元をひざ下までまくり上げ、ビーチサンダルのようなものを履いている。雨対策らしい。


「え、ええ……大丈夫よ。もうとっくにずぶ濡れだもの。ちょっとやそっとじゃ、変わらないわ」


 微笑みながら言うと、彼は申し訳なさそうな顔のまま、本当にすみませんでした、と会釈をして、ドアの奥に消えていった。

 それを見送った私の体がぶるっと震え、お風呂お風呂……と自分の腕を擦りながら急いで玄関を開けた。


 真っ暗な部屋の電気を点けると、玄関先に作りつけられた鏡に映る自分の姿が見えた。激しい風雨のせいで髪はざんばら、化粧はドロドロ、服はよれよれ。肌や表情までもが疲れや老いを隠せなくなっている。そのあまりのみっともなさに愕然とした。


 私、こんなにひどかったかしら……。


 脳裏に先ほど駅で出会った美少女の姿が蘇る。きっと今頃は母親が作った夕飯を皆で囲んでいるに違いない。傘を忘れた父親を母親が叱り、肩身の狭くなった父親を娘が笑う。小さい頃、憧れていた幸せな家庭の姿がそこにあった。

 私も大人になればその未来が待っていると思っていたのに。ずいぶん遠くまで来てしまった。私があの子みたいにかわいければ、私があの子みたいに若ければ、今頃は何かが変わっていたかしら……。


 一瞬どうしようもない妄想が浮かび、私は頭を振ってバスルームへ直行した。何だか体が鉛のように重く、身体は冷えているのに顔が熱い。長時間濡れていたので、風邪をひきかけているのかもしれない。私はお風呂から上がって髪を乾かすと、すぐにベッドへと潜り込んだ。それぐらい疲れきっていた。

 窓の外では雨がより一層激しく降り、風も勢いを増して吹き荒れていた。そして近くに落ちたのだろうか、空が真昼のように明るく光ったかと思うと、一際大きくまるで地震のような雷鳴が辺りに轟いた。私はその音をBGMに眠りに落ちた。それぐらい、疲れきっていた。




 明け方、私は高熱にうなされた。やはり風邪を引いてしまったようで、夢の中では今までの記憶が走馬灯のように繰り返し何度も流れた。

 そしてようやく目を覚ますとすでに嵐はどこかへ去って行ったらしく、まだ曇ってはいるものの仄かに明るい日差しがカーテンからこぼれ出ていた。

 枕元に置いてある目覚まし時計を見るともうすでに昼を過ぎている。あれほど怠かった体が何ともなくなっている。まるで熱が最初から出ていなかったかのような爽快な気分だ。


 その時、枕元に放り出していた携帯電話がけたたましく鳴った。


「もしもし」


「楓、あんた昨日の台風大丈夫だったの? すごい雷だったねぇ」


 母親だ。ニュースで見て心配して電話して来たらしい。


「うん、もう大丈夫みたい。こっちはもう晴れてるよ」


「あぁ、そう。良かったなぁ。でも、あんた、声がいつもと違うよ。風邪でもひいたんじゃない?」


「うーん、少し風邪気味だったんだけど、薬飲んだからもう大丈夫」


 母親を心配させないために私はそう誤魔化した。年齢と共にどこまでも心配性になっていく母親にこれ以上余計な心配をかけたくはない。

 その後は母親の愚痴を話半分で聞き、通話を終えるとベッドの上に起き上がった。昨夜飲んだペットボトルに残っていたミネラルウォーターを一気に飲み干す。

 喉が潤ったところで立ち上がり、カーテンと窓を開ける。あれ、長年悩まされていた腰痛が消えている。それに、心なしか視力が回復しているような気がした。それに……髪の毛が、長い。肩までのはずの髪が、何故か胸元まである。


 ……どうして?


 私は、机の上に置いてあった手鏡を持ち上げて覗き込んだ。



 すると、そこには―――知らない女が、映っていた。


「え? 誰なの? ……えっ、私!?」


 私が喋ると、鏡の中の女も喋る。

 一体、私の身に何が起こったのだろうか。熱のせいで夢を見ているのかもしれない。しかし、これが夢でないことは驚きで鏡を強く握りしめてしまった、手の平の痛みで思い知らされた。


 しばらく茫然と鏡の中の自分と見つめ合う。……誰かに似ている。誰だろう。あぁ、昔の私だ。まだ両親と暮らしていた頃の私だった。

 シミもシワもない、水分たっぷりの肌。頬を押すと、押し返すような弾力。髪にも艶があり、豊かな長い髪が背中に波打つ。髪は親元を離れて以来、洗う時間や手間がもったいないという理由で久しく伸ばしていない。


「何が……どうなっているの……?」


 私が呟くと、鏡の中の私も茫然とした顔で私を見返していた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ