魔王への第一歩
役所での表明から一刻(約30分)ほど過ぎたあたりで、ぼく――あ、ちがった――オレはあらかじめ用意していた荷物を取りに家に戻り、そして飛び出した。
「まさか、というべきなのか。やっぱり、というべきなのか……」
本音としては「まさか」の方が色濃い。
勇者という職業は狭き門ではあれど、誰にでも門戸は開けている。努力を惜しまなかった自分がなれなかったのは、少しばかり意外だった。
それでも、「やっぱり」という思いもあるにはある。なにせ本心からして勇者になりなくなかったのだ。疎んでいたといってもいい。そんな不純な気持ちで潜り抜けられないだろうとも思っていたし、なるようになった結果という思いは十分にある。
「二人に知られずに行けるのが、せめてもの救い……かな」
あの両親が存命なら、どうしただろう? 勇者になれなかったぼくを、どう見ただろう? そうして魔王になろうとするオレをどう扱っただろう?
それを知らずにいられるのが、せめてもの救いかもしれなかった。
「よいしょっ、と」
これから世話になる冒険用のバッグを肩にかけ、相棒ともいえる存在の剣を腰に挿す。
――この家はオレが居なくなったらどうなるのだろうと、わずかに首をもたげて、きっと誰とも知らない人の手に渡るか、壊されて村のために役立てられるかだろうと考えてすぐに興味を振り払った。
「ユート!」
「?」
ふと背後から声をかけられ、振り返る。
見慣れた街並み――というには寂れている、生まれ育った村の道の先から、つい先日修道女としての職業を言い渡された幼馴染の姿があった。
一瞬どうするべきか判断に迷い、結局彼女を待つことにする。村にある協会はオレの家とは反対側にあるため、急いで走ってきたのだろう。三つ編みの少女が黒い修道服を乱してオレの前に止まったとき、彼女は息を切らせていた。
「……やあ、ミイ。どうしたんだ?」
「はぁ、はぁ……。どうしたじゃないでしょっ!?」
息も整わないまま大声で叫ばれ、それを予想していたオレは「だねえ……」とひょうひょうと受け流す。
「……もう聞いたのか、早いな」
その言葉にミイは表情を硬くしてオレを睨んだが、それを受け流すことをせずに正面から受け止める。
オレのまっすぐな視線にミイはきゅっと息をのんだが、やがて弱々しい声で伝え聞いたであろう情報を口にした。
「ユート……魔王になるって、本当?」
「オレが嘘をついたことが、今まであったか?」
「あなたから直接聞いた言葉じゃないでしょ。……けど、そういうってことは、本当なのね」
「ああ」
ミイはその言葉を聞いて、どこかあきらめたようだった。
やけにあっさりと納得したことを訝しんだが、たぶんそれとなく察していたのだろう――ぼくが勇者を嫌っていたことに。そして、ぼくがどういう行動を起こそうとしていたのかを。
オレはあっさりと納得してくれたことに安堵しつつ、苦笑気味に肩をすくめてミイをたしなめた。
「……それにしても、いいのか? こんなことしてたら、お前も魔王の一味ってことにされちまうぞ? それに、修道女としての仕事はどうした。さぼったら罰がきついだろう」
「そんな細かいことで魔王に仕立て上げられたりしないわよ。それに、仕事の方は休憩中。だからこんなに早く話が聞けたんだけどね」
そこまで一気に答えると、今度はミイが半眼で睨みつけてきた。
この幼馴染の半眼は、いつも冷たく見えるが――穏やかな優しさを秘めている。
「それに、罰がきついのはあなたでしょう、ユート? 魔王なんて、よくて監獄悪くて天国よ」
「天国じゃなくて地獄だろ、たぶん」
まあ、捕まらずに殺されるであろうことは容易に想像がついた。大体の魔王は、情状酌量がない限り――つまり、何らかのやむおえない理由で職を辞した場合でない限り――不穏分子として根絶やしにするのが一般的だ。
オレの軽口にミイは今度は眉尻を下げて、オレを下から見上げた。
「……どうしても、行くの?」
「ああ、もう決めたからな……。オレは魔王になる」
――そして、勇者を倒す。
その言葉は出なかったが、けれど伝わったかもしれない。
「っ!」
とんっ、と胸に重みがのしかかる。
ミイが抱きついてきたのだと、後になって実感した。こうやって引っ付かれるのは、いつ以来だろう。そして、今度はいつになるだろう?
「…………」
きっと、もうないのだろうなぁ――と思うと、少しだけ後悔が滲んだが、すぐに乾いた。もう決めたのだ。今更揺らいでどうする。
まだ後戻りできるかもしれない今だからこそ、わずかに揺らぐこともできない。
「……ねぇ」
「ん?」
胸の下をわずかにくすぐったく感じつつ、ミイの言葉に耳を傾ける。
ミイはそのまま口をつぐんで、三拍ていどの沈黙をはさみ、口を開いた。
「今日は勇者がこの村にいるわ。まだまだ駆け出しだけど、弱い魔物なら一人でも十分倒せる実力もある。それに、雇われの兵士がいるわ」
「おい……オレにそんなことを教えたら――」
「ダメでしょうね。けど、言いたいの……あなたが魔王でも、わたしはユートに死んでほしくない」
オレは頭を掻くと、そのまま口をつぐんで、ミイの言葉を待った。
「彼らにも噂は届いているかも……だから、気を付けて」
「ああ、わかった。……あと、もしオレにそれを伝えたことがばれたら、オレが脅して話させたことにしろ。いいな?」
オレのせめてもの譲歩にミイはこくりとうなずき、一歩下がった。
その表情はどこか泣きはらしたように赤みが増していて、申し訳なさとやるせなさに身をつままれたが、オレはそのまま立ち去ろうと背を向けようとした。
「ねえ、ユート」
「……まだ何かあるのか」
オレが億劫そうに頭を掻きながら振り返ると、どこかいたずらめいた笑みで、腰を折りながら笑う。
「その『オレ』っていう呼称、魔王になるための心構えなのかもしれないけど――ぜんっぜん似合わないわよ!」
「うぐっ」
たしかにそういう意図を込めた呼称ではあるし、つい先ほど急に変えたものではあるけど――そこまではっきり言われるとさすがに傷つく。
――オレはいつもの調子で言い返そうと、口を開きながら歩き始めた。
「うるさいよ! そう遠くないうちに似合うようになってんだからなっ!」
「どうかなぁー?」
まるで信じていないミイのにやにやした笑顔に何を言ってやろうかと悩むふりをしながら、口はいつもの調子で動き続ける。
――けれど結局はその、いつもの笑顔に見送られて、じゃれ合いの悪口を許しながら、オレは魔王としての第一歩を歩き始めたのだ。