新月巫女と不埒な二角獣
「新月巫女と不埒な二角獣」 結川さや
黒髪の乙女が、夜も更けた小高い丘で泣いていた。涙に濡れた黒曜石のような瞳で、彼女は夜空を睨みつける。分厚い雲が先ほどから月を隠していて、まるで新月の晩であるかのよう。奇しくもそれは、彼女がここ聖園アステールにやってきた一年前、十五の年に名付けられてしまった、有難くない呼び名と同じだった。
「また新月巫女って呼ばれてしまったわ。みんなで私に力がないことを馬鹿にして……ああ、なぜこんな不吉な髪と瞳なんかで生まれてしまったのかしら」
皆と同じ金や茶色の明るい髪であったなら、巫女としての力もすぐに目覚めて、あの清らかで美しい聖獣も自分の言うことを聞いてくれるかもしれないのに――そう嘆くと、オリーブと月桂樹の木立を見下ろす。この広大な聖域は、人々の乱獲により数が減ってしまった貴重な獣、一角獣の飼育と保護のために作られた場所だ。大陸中から集められた他の少女たちと同様に、彼女は一角獣の世話をするための『月巫女』候補生として修練の日々を送っている、のだが。
「今日も私の呼び声に応えてくれた一角獣は一頭もいなかったし……こんなだから新月巫女のネオラなんて揶揄されてしまうのだわ」
再び顔をゆがめた少女――ネオラは、潤んだ瞳を閉じて精神を集中する。
「お願いよ……どうか私の声に応えて。この手でその美しい背を撫でさせておくれ」
どうせうまく行くはずがないとは思いながらも、ネオラは願った。いつものように静寂だけが返ってくる――のかと思いきや、なんと初めて返答があったのだ。予想外の、若い男の低い笑い声、という形で。
「だ、だれっ!?」
弾かれたように振り向き、ネオラは恐慌状態で周囲を見渡した。 くつくつと、喉の奥で笑う声が闇の中に再び響き、ついにネオラは悲鳴を上げようとする。が、一気に距離を詰めたその声の主によって遮られ、こともあろうにそのまま押し倒されてしまったのだ。
「ふ……ううっ」
必死で力を込め、首を振ろうとするが、首はおろか手足も自由に動かせない。大きな何かが上に圧し掛かり、ネオラを捕らえているせいだ。
「恐れるな、麗しの乙女ネオラよ」
囁きと共に、熱い息とふわりとしたものが耳と首筋をくすぐる。その刹那、雲が晴れた。清浄なる月の光があらわにしたモノ――それは、細長く湾曲した角を持つ大きな獣。ただし、聖なる一角獣とは異なり、角は二本。毛並みも白銀ではなく、角と同じ果てしなく深い闇の色をしている。
「あ、ああ……そ、んな、まさか――バ、二角獣!?」
戒めが解かれた一瞬、瞳を見開いたネオラは叫んだ。書物や講義で聞いただけの幻の存在を目にした衝撃で、続く言葉を失う。
「いかにも。我は聖なる一角獣の対極にある存在、二本の角を持つ獣。清浄たる奴らと違い、不道徳の象徴にあるケダモノと忌み嫌われている」
獣はまた喉の奥で笑い、ネオラの驚愕さえも楽しんでいるようだった。夜風がその毛並みを撫でていき、背にあったたてがみが首に流れ落ちる。そこだけが黒と銀のまだらになっていて、鈍く妖しい輝きを放った。咄嗟に助けを呼ぼうとしたネオラに、獣は不敵な声音で続けた。
「無駄だ。例え結界を張ろうが、衛兵を呼ぼうが、我の力は止められぬ 」
(そんな、あの強固な結界を越えて来たと言うの……!?)
聖園が絶対の自信を誇る結界が破られたと知り、呆然としていたネオラは、獣の鼻先が再び下りてきてからやっと我に返った。金の双眸が目と鼻の先で自分を見つめている。
「ああ、愛しき我が闇色の乙女。一目見た時からそなたは我を虜にした。だから呼び声に応えたのだ」
震えるネオラの体に圧し掛かったまま、獣は優しく囁いた。
(だ、だめ……動けない!)
金の瞳に覗き込まれ、指先すらも固まったように動かせなかった。
ネオラの無抵抗をいいことに、髪から耳、うなじを辿って首筋、そして鎖骨へと、獣の鼻先は移動する。熱い舌まで素肌に這わせられ、ネオラはびくりと震え、吐息だけで喘いだ。それを見た獣はついに狂おしげに首をもたげ、月を仰ぐ。次の瞬間、更に信じられないことが目の前で起こった。
(に、人間――!?)
瞬時にして毛並みも角も消え、獣は年若い青年の姿に変わってしまったのだ。上半身は裸で、下半身にだけ黒い皮のズボンとブーツをはいている。浅黒い素肌に流れ落ちる黒と銀のまだらの長髪と金の双眸だけが、獣だった時をほうふつとさせるのみ。
「我が名はアルギュロス。そなたの純潔を頂きに来た。さあ恋人よ、思う存分、朝までと言わず何度でも何日でも楽しもうではないか……!」
がばあっと抱きつかれ、今にも口付けされそうになってはじめて、ネオラの硬直していた体は動いた。
「い、いやああああっ! このケダモノッ!!」
パシーン、と見事な平手の音が響き、青年――アルギュロスは派手に後方へ倒れこんだ。
翌朝、ネオラは泣きじゃくっていた。場所は船の甲板、向かい側に腰掛けているのは青年の姿のままのアルギュロスである。
「どうして私がこんな目に……うっうっ、ひ、ひどいわ……たった一人でこんなケダモノの護送をしろだなんて」
薄布の巫女の衣装でなく、簡易の旅装に身を包んだネオラは、目を真っ赤にして泣き続ける。昨夜、気絶したアルギュロスを衛兵が捕縛したはいいが、彼の存在が聖園全体を穢す前に天界へ護送するように命じられたのだ。それ自体も辛い役目な上に、自身が『穢された』とみなされたことがネオラには悲しくてならなかった。
「泣くな、美しいネオラ。そなたが泣けば我の胸までも痛んでたまらぬのだ。さあ、我が熱い抱擁で慰めて――ぐわあっ」
立ち上がりネオラに迫ろうとしたアルギュロスは、足首に幾重にも巻かれた銀の鎖に阻まれて倒れこむ。稲妻に打たれたように全身をひくひくさせて呻いているのは、鎖に込められた封印の力が彼を罰したせいらしい。ネオラ一人でも安全に護送できるよう聖園側が施した処置だった。ほっと胸を撫で下ろしつつ、アルギュロスを睨みつける。
「慰めるだなんてよく言うわ。そもそも、何もかもあなたのせいじゃないの! あ、あなたが私を襲ったりするから……穢れをはらうために天宮へ行かなくてはいけなくなったんだから!」
天宮におわす最高神――太陽神クリューソスだけが穢れを祓えると古い書物に書かれていたらしく、そう決定されたのだ。
「襲う? たったあの程度のことで……」
もう起き上がって澄ました顔をしていたアルギュロスは、ふん、と鼻を鳴らす。
「我としたことが油断したな。想いも遂げられずこのような戒めを受けた挙句、忌々しくも天界へ連れて行かれるとは。だがそれも一興、たまには美しい乙女とゆっくり空の旅というのも悪くない」
「冗談じゃないわ! よりにもよってあなたなんかと二人きりで……ああ、こんな時じゃなければ、奇跡の天船プロイオンに乗ることのできる幸福を喜べたのに!」
「奇跡の船? ただのけち臭い運搬船ではないか」
美しくきらびやかな純白の船を一言でけなされ、ネオラは目を剥いた。
「まあ! 太陽神様が創られた船に何という暴言……!」
(こんなケダモノをまともに相手している場合ではないわ。とにかく無事に役目を終えて、早く穢れを祓ってもらうことを考えなければ)
ため息をついて立ち上がったネオラは、船の手すりにもたれる。ぐんぐん飛翔していく天船プロイオン。無人の船は二人を乗せ、一昼夜をかけて天界へたどり着く予定だった。たかが一昼夜、されど一昼夜である。封印の鎖があっても、落ち着かないのも無理はないだろう。速度とは裏腹に静かな風が甲板に吹き渡り、ネオラの髪がそよぐ。朝の光を浴びた淡い紅色の薄雲が広がっていく様子は、幻想的ともいえるほどに美しい。その絶景を台無しにする自分の髪色を見て、ネオラはまた瞳を潤ませた。
「私にもっと力があれば……」
そうすればあんな不名誉な呼び名をつけられることもなく、穢れを受けることもなかったかもしれない。うなだれていたネオラは、背後に立っていたアルギュロスに気づいて悲鳴を上げた。
「な、なぜっ!? く、鎖は――」
「ああこれか。あくまで封印の力だからな。動きまでは邪魔されんようだ」
「近寄らないで! あなたなんか……!」
「そなたが無力だとなぜ思う?」
「……え?」
急いで一定の距離を取ったネオラに、予想に反してアルギュロスは近づかず、ただ優しく微笑みかけた。
「そなたには確かに力が存在する。あの時、発したことを忘れたのか?」
「あ、あれはただの平手打ちで……」
「普通の人間ならば、動くことすらできなかったはず。我に気絶するほどの平手を食らわした女はそなたが初めてだ。栄誉に思ってもよいぞ? 美しきネオラ」
朝日を背にしたアルギュロスをそばで見つめて、改めて彼がかなりの美貌の持ち主であることに気づかされた。風にそよぐ黒と銀のまだらの髪は、よく見れば首や背にはりつくように生えていて、それがたてがみであることを思い出させる。
逞しい浅黒い肌を見て、ついどきりとしたネオラは目を逸らした。
「私に力なんて……ただの偶然だわ。それより、何度も変な呼び方をするのはやめて」
「変な呼び方だと?」
「ええ、その……『美しい』とか『麗しい』とか。私はそんなんじゃないもの」
「何を言う。我の心を奪っておいて」
アルギュロスは低く笑い、金の瞳でネオラを深く見つめる。途端、痺れるような痛みがネオラの胸を貫いた。疼くような、甘い痺れだ。
(まただわ、動けないこの感じ)
しまった、と思った時には遅く、アルギュロスの瞳から目が離せなくなる。
「や、めて……」
「まだ話せるか。やはりそなたはあなどれぬな。だがどこにも触れてはおらぬぞ? ただ、見つめているだけだ」
ゆっくりと、鎖の封印に邪魔をされないぎりぎりの距離まで近づいたアルギュロスが、妖しげに囁きかける。言葉通り、彼は視線だけでネオラの動きを封じている。
ネオラを傷つけるような行為以外は、鎖の力では止められないようだった。ネオラはかすかに喘ぎ、視線から逃れようと首を振る。が、それさえもアルギュロスの目には誘っているかのように映ったのだろうか。彼もまた、切なげに吐息をもらす。
「そなたは美しい……ネオラ。例え他の誰が忌み嫌おうとも、我はそなたを一生大切にしよう。優しく抱きしめ、艶やかな黒髪を撫で、愛の言葉を囁こう。そなたが我の愛に満たされるまで、何度でも――」
持ち上げられた手が、触れないままにネオラの頬の輪郭を辿る。まるで本当にその手に撫でられたかのように、ネオラの心臓が高鳴り、瞳は潤んでいく。
(いけない、これでは、本当に……!)
しかしネオラにとっての危機は、アルギュロスにとっても同じであったらしい。耐え切れぬように首を振り、彼は自分から目に見えない壁を乗り越えようとした。
「我が永遠の恋人よ、今すぐにこの激情を受け止めてく――があああっ!」
両腕を広げてネオラをかき抱こうとしたアルギュロスは、またも倒れこんで悶絶するはめになったのだった。
こうして始まった奇妙な空の旅もなんとか半分を越え、また夕闇迫る時刻となった頃。懲りずに何度目かで悶絶していたアルギュロスを見下ろし、ネオラはついに吹き出した。いい加減このやりとりに慣れてきたこともあり、未知なる二角獣が恐ろしく感じられなくなってきたからだった。
「やっと笑ったな。そなたの美しさが引き立つ笑みだ。もっと笑えと言うべきか、それとも笑うなと言うべきか……」
「どうして?」
「当然、他の男に見せたくないからに決まっておろう」
「まあ、太陽神クリューソス様にも?」
「ああ、あれには一番見せたくないな。あやつの女好きは、そなたも知っているだろう」
「またそんな……それに太陽神様も、あなたにだけはそんなこと言われたくないと思うわよ」
くすくすと笑い続けるネオラを、アルギュロスは瞳を細めて見つめる。優しい視線に胸がとくんと音を立てた。今度は、温かな鼓動だった。
「そなたは、なぜ月巫女になろうとするのだ?」
突然訊ねられ、ネオラは戸惑うように瞬きをする。
「なぜって……たった一人の身内だった母さんも亡くなって行く当てもなかったし……私には妙な力があるって、みんなが」
自分をからかった相手が怪我をしたり、ちょっとした言葉が予言のように的中してしまったりして、あちこちたらいまわしにされた先でも気味悪がられて追い出されたのだ。そこへやってきたのが聖園からの使者だった。力の噂を聞きつけたのか、誰かが呼んだのか――ともかくも、それが一年前のこと。
「母には力もなくて、髪も金色だったから、私は父に似たのね。私が生まれる前に亡くなったとしか聞いていないからわからないけれど」
「それで仕方なく巫女を目指したのか」
「最初はそうだったかもしれない。でも、あの園で本物の一角獣を見て、その神々しさと美しさに心を奪われたわ……なぜか、とても懐かしく感じたの」
苦笑が、途中で微笑に変わる。それから、自分がいつのまにか本音で話していたことに気づいた。
(私ったら、どうしてこんな人相手に)
人でもないのだが、今の彼は人にしか見えない。なびくたてがみのような髪を見上げ、ネオラはふと口にした。
「そういえば、あなたの角はどこにあるの?」
「今は隠してある。どうすれば現れるか、知りたいか?」
もったいぶるように訊ねておいて、アルギュロスは端正な顔を傾け、ネオラを見つめた。夕日を浴び、黒と銀の髪が輝く。
「心から愛する相手と結ばれた時、人の姿であっても角は現れる。そして相手も想いを受け入れたら……二本の角は一つとなり、穢れは落ちて我らも聖なる一角獣となる」
「そ、そんな……本当に?」
それでは元来一角獣は二角獣だったとでも言うのだろうか。突拍子もない言葉に眉をひそめると、アルギュロスはふっと笑った。
「さてな。単なる古き言い伝えだ。今までそれほどに愛する相手とは巡り会えなかったから、真偽もわからぬ話だがな」
伏せられた金の瞳がやけに寂しげに見えて、ネオラはあわてて目を逸らす。いつのまにか見つめ合っていたことに気づいたのだ。
「と、とにかくもうすぐ天界に着くわ。何ならその時、言い伝えが真実なのかクリューソス様に聞いてみたらいいじゃない? 教えて下さるかはわからないけれど」
「またクリューソスか。あんな奴に尋ねるくらいなら、真偽などわからずともよいわ」
「どうしてそんなに太陽神様を嫌うの?」
面白くなさそうに言い捨てられ、ネオラが訊ね返そうとした、その時。突然ぐらりと甲板が傾いたかと思うと、船全体ががくがくと揺れ始めたのだ。
「な、何っ!?」
「いかん、天穴に近づいているらしい。このままでは難破するぞ」
天界からの聖なる気の流れと、下界からの不浄の気がぶつかりあうところに発生する天の穴。それは天船プロイオンであっても避けられぬ巨大な渦のようなものだと聞いていた。どうやら初めての空の旅で、滅多に遭遇しない危機に遭ってしまったらしい。
「きゃ……っ」
「ネオラ!」
揺れと共に激しくなった風が、ネオラの華奢な体をさらう。船が難破するより前に、空に投げ出されてしまったネオラは、すさまじい衝撃に気を失っていた。
(温かい……なんだか、とても懐かしいわ)
大きくて温かな腕に包まれている。幼子の頃、母の胸に抱かれた時のような安堵を覚え、心地よくまどろんでいたネオラは、ゆっくりと目を開けた。瞬時にして、それが母とは違う逞しい胸の中だとわかり、息を呑んだ。
「あ……あなた……!? は、離し……っ」
「悪いが、離すことはできぬ。離せばそなたが落ちてしまうからな。頼む、から……じっとしていて、くれ……っ」
「あ、アルギュロス!?」
苦痛に顔をゆがめている彼を見て、封印の鎖のことを思い出す。自分に触れようとしただけでもあれほどの力で苦しんでいたのだ。しっかり抱きしめている状態では、どれほどの痛みに耐えているのか――。
それでも離さず、天船の舳先に片手でつかまって、もう片方の腕にネオラを抱き、アルギュロスは守ってくれていたのだ。舳先から甲板にもつれこむように二人で転がり、なんとか安堵する。
「天穴からは離れた。あと、もう少しの辛抱……」
「アルギュロス!」
力を使い切ったのか、苦痛が限界まで来ていたのか、彼はふっと意識を失う。倒れこんだまま瞼一つ動かさない姿を見て、ネオラはどうしようもない不安に襲われた。
(まさか、このまま死んじゃうなんてことないわよね……!?)
既に太陽は沈み、空も夜の闇に包まれている。また船の守護の力が戻ったのか、風一つない暗い空を飛び続けていると、余計に恐ろしくなった。誰かが死ぬのを見るのはもう嫌だ。先ほどまで温かかった体が、冷たくなっていくのを見るのは――!
気づけば、封印の鎖に手をかけていた。案の定、ネオラが触れても何の反応もない。じゃらじゃらと重い戒めを外してやると、少しだけアルギュロスの息遣いが落ち着いたように見えた。
「しっかりして……お願い」
おそるおそる触れた彼の手はまだ冷たく、ネオラの不安はなくならない。月明かりに照らされながら、気づけばアルギュロスの髪に――いや、たてがみに触れていた。優しく撫でるようにしながら、目を閉じて祈る。
(目を覚まして……死なないで!)
不埒なだけじゃなく、ちゃんと優しく笑ってくれた。皆に忌み嫌われてきた自分を励まし、守ってくれた。彼だけは、この髪と瞳が美しいと言ってくれたのだ。
闇に溶け込むような自身の髪と、アルギュロスのたてがみは、まるで対となるもののよう。
「一角獣でなくてもいい……新月の巫女と呼ばれてもいい。今、消えそうな命を守る力さえ与えられるなら――!」
ああ、自分は何かを、誰かを守りたかったのだ。母の死を乗り越えるために、置かれた場所でそうやって生きてみたかった。なのに、自分にはそれさえも許されないのだろうか。
「アルギュロス……!」
必死の祈りも空しく感じて、ネオラは涙を流した。あふれる滴を拭いもせず、ぐったりしている彼の胸に顔を埋めた。その刹那――、
「そなたの愛の告白、しっかと聞き届けたぞ、ネオラ」
低く優しい声が直接体に響き、あわてて飛び起きる。密着していた体を離そうとしたネオラの手首を、目覚めたアルギュロスがしっかりと掴んでいた。
「あ、あなた……死にそうだったんじゃ」
「鎖のせいで本来の力が使えず少々消耗したが、力が戻れば何ということはない。この通り回復したぞ。それよりそなたの愛の言葉のことだが――」
「あ、あれは愛の言葉なんかじゃないわ」
「本当に?」
いたずらっぽい眼差しにすぐ近くで射抜かれる。目を逸らし、顔を背けても、あっという間に引き寄せられてしまった。まだらのたてがみが月光にきらきらと輝き、思わず顔を上げる。思いのほか真剣なアルギュロスの瞳にどきりとした。
「我の愛の言葉は本物だぞ? そなたとこうして見つめ合うだけで、胸が苦しくなる」
「あ……っ」
手を取られ、アルギュロスの胸に押し付けられる。堅い胸板の下で、脈打つ鼓動が感じられた。
「一目見たあの時から、我はそなたに夢中だ。美しき、新月の乙女――」
金の瞳に吸い寄せられるように、また動けなくなる。そっと頬に大きな手が添えられ、傾けられたアルギュロスの顔が近づいてくる。いつしか闇は薄くなり、朝焼けの光が二人を照らし、ついに影が重なりかけた一瞬にそれは起こった。
「があああっ」
封印の力に止められた時よりも大きな衝撃とひどい苦しみ方でのたうちまわるアルギュロス。驚くネオラを、更にまぶしい光が包み込んだ。ふっとそれが消え、普通の明るさが戻ったのと同時に、朗々とした声が響き渡る。
「賭けは貴様の負けだ、アルギュロス。この不埒者め」
黄金色に輝く、波打つ長髪。同じ色を宿した瞳を細めて雲の中で笑っているのは、豪華な衣装をまとった天界の神々の王たる存在。
「た、太陽神クリューソス様……っ!?」
あわてて膝を折り、深々と叩頭しようとしたネオラを優しく制し、クリューソスは頷く。
「そなたがネオラか。アルギュロスから話は聞いていたぞ? あの女たらしが唯一何年も想い続けている娘で、新月巫女と聖園で呼ばれているという」
「も、申し訳ありません……!」
雲に乗った太陽神になぜだか直々に出迎えられ、不名誉な呼び名まで知られていた驚きと恐怖で震え上がってから、ふと引っかかる。
(え? 今、何年も、って――)
思わず顔を上げたネオラの隣で、悔しげに起き上がったアルギュロスが鼻を鳴らす。
「何が女たらしだ。お前にだけは言われたくないぞ。この万年浮気者めが」
「あ、あなた太陽神様に何てこと……!」
止めようとしたネオラを遮り、アルギュロスは堂々とクリューソスの前に立った。そうして初めて、二人が背の高さも体格も、顔つきに至るまでよく似ていることに気づく。
「久方ぶりだな、弟よ」
「ふん、お前のことなど兄と思ったことはないわ。再会などしたくもなかったというのに」
「それは貴様が二角獣などという、とうに滅んだ種族のふりなどして遊んでいたから自業自得だろう? わたしより先に本気の恋に落ちてしまったのだから、約束通り天界に戻ってきてもらうぞ」
「ぐ……っ、ずるいぞクリューソス! 大体お前は既に妻がある身ではないか!」
「妻とのことは数に入っとらん」
「この浮気者め!」
「うるさい不埒者!」
突然の話の流れと罵りあいに付いて行けず、唖然としていたネオラは、そばで控える女官に静かに耳打ちされた。このアルギュロスこそが太陽神クリューソスの双子の弟、闇を司る夜の神であることを――。
そして案内されたのは、天界の中央にある天宮――の外れに建つ漆黒の『夜の宮』。「どうして嘘なんて吐いたの? ひどいわ。私をからかって、二角獣のふりまでして」
いきなり神様だなんて聞いても、今更言葉遣いや態度まで変えられない。それでも戸惑いが消えず、ネオラは訴えた。
「いや、全部が嘘だったわけではないぞ? どうせ遊ぶなら徹底的に、というのが我の信条でな。本当に二角獣の姿になって力を制限していた。飽きればすぐにやめるつもりだったんだ。まさか、そこで愛しい相手と巡り会うとは思っていなかった」
そこまで笑って話し、アルギュロスはネオラの隣に腰掛けた。ふわり、と寝台が沈み、金の双眸がネオラをすくませる。
「我が闇を作った時、飛び散った力の欠片があった。その名残で時折黒い髪と瞳を持つ人間が生まれ、我は自身の眷属とも思い大切にしてきたのだ。その生き残りであるそなたには、我が永遠に追い求めてやまない清らかな美があった。だから、聖園まで追いかけて見つめていた」
「ずっと、私を……?」
「ほんの幼子であった時から、成長するまで待った。それまで二角獣の姿でいたせいで、戻り方を忘れるくらいに長い間をな」
神々の時ではほんの短い間なのだろうとは思ったものの、信じられない告白にネオラは頬を赤くする。
「さっきの伝承は、神としての自分に戻る方法だ。愛しいネオラよ、試してみてもよいか……?」
「アルギュロス……」
間近で見つめられ、どぎまぎしながら、ネオラはそっと瞳を閉じる。戸惑いは大きく、まだ信じられない。けれどずっと自分を想ってくれていた彼に、心惹かれていたことも事実だったのだ。
そうっと触れられた初めての口付けは優しく、温かく、ネオラの胸を高鳴らせる。
「ああ……全身に力が熱くみなぎっていく。これで神に戻れるのだな。何も気にせず、そなたを妻にできる」
何度も繰り返されるうちに口付けは長く、熱くなっていく。思わず吐息をもらし、初めての甘美な感覚に耐えられぬようにいやいやをしたネオラを、アルギュロスはより強くかき抱いた。
「もう辛抱できぬ。ああネオラ、我の情熱を受け止めてくれ……っ!」
一気に寝台に押し倒し、胸元の紐を解こうとしたアルギュロスにネオラの顔色が変わる。
「い、いやああっ! ケダモノッ!」
力の限りに拒絶の叫びを上げられ、叩かれたアルギュロスは、「ぐわあああっ」と叫んで逆向きに倒れこんだ。ぴくぴくと手足だけが哀れに震えている。
「自分の力の影響で想いを遂げられぬとは。ふふ、ざまあみろアルギュロスめ。そう簡単に貴様だけ幸せにさせるか」
自身の宮でひそかにこの光景を覗き見ているクリューソスが嘲笑う。アルギュロスが二角獣から神に戻れる日は、まだまだ遠い――かもしれない。(了)
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