千招尽盗
今度の引越し先はどこだと思う?
陝西のはずれ、木々が枯れ果てた山奥にぽつんと佇む粗末な庵。その奥で、一人の老人がぽつりと独りごちた。
もともとは豪華な法衣であっただろう、紅色の襤褸布に身を包んだ白髪の怪人である。
枯れ木のような痩身の持ち主で、顔には古木を思わせる深い皺が刻まれている。一見すれば山中に棲む大隠のようであるが、その顔に浮かんでいるのは気味の悪いニヤニヤ笑いであった。
「華山か、衡山か。あるいは茅山なども趣があって面白かろうな。お前はどう思う?」
老人は誰もいない虚空に向かって問いかけ、「ひっひっひ」と奇怪な笑い声を上げた。
その時、庵の粗末な木扉が凄まじい音を立てて蹴破られた。
日光とともに、身の丈六尺を超える大男が踏み込んでくる。
布衣の上に毛皮を羽織った男の背には、物騒な大刀が吊されていた。
「見つけたぞ、大魔頭」
抜きながら、男が低い声で言った。
男の鋭い眼光が老人に突き刺さる。老人は怯える風もなく、ただニヤリと口端を吊り上げた。
「〈千招尽盗〉だな」
男が低い声で言う。老人はその問いには答えず、ニヤニヤ笑いを浮かべたまま闖入者の顔を穴が空くほど見つめた。
「おお、おお! その刀法の構えには覚えがあるぞ! 河北彭家の小僧だな。こんな山奥まで、何の用じゃ?」
「何用かだと? 知れたこと! 〈千招尽盗〉、武林の公敵たるお前を成敗し、我が門派の、いや武林の無念を晴らすためだ!」
男が叫んだ。
「〈血虎刀〉彭鉄徳が一撃を受けてみよ!」
鋭い踏み込みとともに大刀が振り下ろされる。かすりでもすれば、〈千招尽盗〉の身体は枯れ木のように砕けるであろう。
しかし、〈千招尽盗〉はぬるりと三寸ほど身体をずらし、大刀を紙一重で避けてみせた。
「ひゃひゃひゃ、懐かしい! 五虎断門刀か。百年経っても何も変わっておらぬ。古くさい刀法よ」
驚愕の表情を浮かべる彭鉄徳に、〈千招尽盗〉は耳障りな嘲笑を投げかけた。
激高した彭鉄徳が大刀を振り回し、矢継ぎ早に攻撃を仕掛けたが、〈千招尽盗〉の身体にはかすりもしなかった。
「五虎断門刀の招式はすべて知っておる。当然、その破り方もな。お前の曾祖父から学んだ」
〈千招尽盗〉がそう言った瞬間、彭鉄徳が血を吐いてその場に崩れ落ちた。〈千招尽盗〉は大刀を避けながら、目にもとまらぬ速さで彭鉄徳の経穴を突いていたのである。
「いまのは峨眉派の芙蓉点穴掌か……。おのれ、〈千招尽盗〉……! 数多の武人の技と命を奪い、私利私欲のために悪用する大罪人め……!」
彭鉄徳が呻いた。その顔には死相が浮かんでいた。
「さて、次の引っ越し先はどこになるかのう。おぬしらはどう思う?」
まさに絶命しようとする彭鉄徳を意に介した様子もなく、〈千招尽盗〉は虚空に向かって問いかけた。
「こ、この……狂人め……! 逃げ、ても……無駄だ……」
彭鉄徳が脂汗を流しながら、必死に声を絞り出した。
「すでに名門門派が連合し、この山全域に……天羅地網を敷いている……。お前に、逃げ場などない……!」
しかし彼が言い終えたとき、庵の中には〈千招尽盗〉の姿はなかった。
木々の闇から、狂った老人の哄笑が聞こえてきた。
☆ ☆ ☆
森の中はすぐに戦場と化した。
山道にはすでに、数多の遺体が無惨に転がっている。いずれも名のある武林正派の者たちである。
「西へ向かったぞ! 追え、逃がすな! ここで〈千招尽盗〉を仕留めるのだ!」
そう叫んだのは、長い髭を生やした道士であった。道名を浄虚真人という。〈無極剣〉の異名で知られる、武当派の高手である。
浄虚真人の指さした先には、はたして〈千招尽盗〉の姿があった。
金属をこすり合わせたような不快な笑い声を上げながら、老人は軽功で木々の間を縫うように駆けていく。
「気を付けろ! 〈千招尽盗〉は一度目にした技を盗むという。心してかかれ!」
〈千招尽盗〉——その名の由来は、浄虚真人が語る通りである。武林の闇で悠久の時を生き、千もの技——招式を盗み続けた怪人。半ば武林のお伽噺のように数百年に渡って語られ続けてきた化物である。
浄虚真人の叫びに呼応するように、〈千招尽盗〉の頭上から矢と投槍が降り注ぐ。しかし老人は軽々とかわしてみせた。
だがその直後、豪雨のように降り注ぐ無数の暗器を目にして、〈千招尽盗〉は目を丸くした。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ! つまらぬ技を使う者ばかりかと思ったが、四川唐門の満天花雨ときたか! 古今無双の絶技なれど、かような森の中では真価は発揮できまい」
身に付けた襤褸の袖を振るい、凄まじい内力が込められた暗器の雨を絡め取る。受けきれなかった何本かの暗器が〈千招尽盗〉の身体を貫き、血が流れた。しかし老人は痛痒を感じた様子すら見せなかった。
「ほれ、そこか」
〈千招尽盗〉は襤褸布で絡め取った飛針を次々と投げ返す。強大な内力が込められた飛針は巨木を小枝のように粉砕し、森のあちこちから断末魔の悲鳴が上がった。
「なかなか面白い技であった。だが、少々遊びすぎたな」
受けきれなかった飛針が刺さった傷口の周辺が、どす黒く染まっている。飛針に塗られていた毒の効果であった。毒と暗器の扱いでは江湖で右に出る者はいないという四川唐門が用意した劇毒である。常人であれば三つ数える間に身体が溶けていたであろう。
「引っ越しを急がねばならんな。しかしどうしたものか。のう?」
〈千招尽盗〉が虚空に語りかける。
その背後から、巨大な人影が襲いかかった。巌のような肉体を僧衣に包んだ男である。
「嵩山か」
僧形の男が放った鉄槌のような拳を避けながら、〈千招尽盗〉が呟く。
〈千招尽盗〉に襲いかかったのは、武林の泰山北斗たる嵩山少林寺が誇る十八羅漢が一人、円窮であった。
円窮の拳が空を切り、〈千招尽盗〉の背後にあった巨岩を打ち砕いた。
「坊主は好かぬ」
そう言いながら、〈千招尽盗〉が掌で円窮の腹を打った。
軽く押すような一撃に怪訝な顔をしたのも束の間、円窮は口から血を吐き、その場で砂浴びをする驢馬のようにのたうち回った。〈千招尽盗〉の放った化骨綿掌が、〈那羅延〉の異名を持つ円窮の肉体を内側から破壊したのだ。
次から次へと現れる武林の高手たちを、〈千招尽盗〉はことごとく倒していった。
点蒼派、青城派、衡山派、蛾眉派、崆峒派、海南派、崑崙派、終南派……森の中には名だたる門派の高手たちの死体が積み上げられていく。
その中には、天羅地網を指揮していた武当派の浄虚真人の骸もあった。
「やれやれ、やり過ぎたかのう……」
だが、〈千招尽盗〉も無事ではなかった。身体のあちこちに裂傷を負い、特に深い傷を負った右手は、皮一枚で繋がっているような状態であった。
「愚か者め、調子に乗りおって」
〈千招尽盗〉の口から苦々しい言葉が出た。
「何百年生きても思慮が足らぬ」
そのとき〈千招尽盗〉の視界に、山道を駆けてくる若者の姿が映った。
清冽な気迫をたたえた美丈夫である。抜き払った剣からは、稲妻のような内力が迸っている。
「そこまでだ、大魔頭!」
若者が叫んだ。
この修羅場に駆けつけたこの者の名は、南宮炫耀。安徽の覇者として知られる剣の名門、南宮世家の小家主であった。
南宮炫耀が剣を振り上げた。
天を突かんばかりの内力が噴き上がり、竜巻のような突風が吹き荒れる。
風で巻き上げられた砂や木の葉が、バチバチと音を立てて砕け散った。
その様子を見た〈千招尽盗〉の枯れた唇が、禍々しい弧を描く。
「南宮世家の蒼穹無涯剣! なんと美しいことか!」
まるで知己との久闊を叙すかのように、〈千招尽盗〉は両手を広げて南宮炫耀に近付いていく。
南宮炫耀は恍惚の表情を浮かべる老人に一瞬だけ怪訝な様子を示した。しかしその異様さに本能的な脅威を感じ、迷わず剣を振り下ろした。
〈千招尽盗〉が風のように動いた。
必殺の蒼天無涯剣に半身を吹き飛ばされながら、〈千招尽盗〉は南宮炫耀に抱きつく。
「見つけた」
ひび割れた唇から、随喜の声がこぼれた。
老人の目が妖しく発光する。驚愕する南宮炫耀の視界が、急速に暗転していった。
〈千招尽盗〉の口から、最後の言葉が漏れる。
「——最高の引っ越し先だ」
ドサリ、と老人の肉体が崩れ落ちた。
そして数秒の後、立ち尽くしていた若者はゆっくりと己の両手を見つめ、狂ったように笑い出した。
南宮炫耀——いや、新たな肉体を得た〈千招尽盗〉は屍山血河の中で笑い続ける。
目にした技を盗むと思われていた〈千招尽盗〉の能力——その実は、他者の肉体と記憶を乗っ取る奪舎術であった。
「まったく、どうなることかと思ったぞ」
「結果としては良かったではないか。最高の肉体が手に入った」
「これで二十年は安心出来よう」
「前に肉体を変えたのはいつであったか」
安堵したらしい〈千招尽盗〉の口から、次々に声色の違う独り言が漏れた。
数百年に渡って他者の肉体と記憶を盗み続けてきた〈千招尽盗〉の中では、数十もの高手たちの記憶が結合と分裂を繰り返し、複数の分裂した人格が存在していたのである。
数多の人格の中のどれが、元の〈千招尽盗〉であったのかは、すでに本人も分からない。
もともとの自分が、なぜ武を志したのか。
どのような経緯で奪舎術を身に付けたのか。
なぜ人を殺し続けるのか。
かつては男であったのか、女であったのか。
本当の名は。
もはや何も分からなかった。
すべてを失ったものの笑い声が、屍山血河にこだまする。
☆ ☆ ☆
陝西省の鬱蒼とした山道。夜の帳が降りる中、若き剣士たち三人が焚き火を囲んで野営をしていた。
身に付けている道服には、彼らが華山派に所属することを示す、梅花の紋が刺繍されていた。
ぱちぱちと爆ぜる火の粉が、彼らの緊張した顔を照らす。
「なあ、知っているか?」
一番年かさの男が口を開いた。
「ここはちょうど百年前、伝説の大魔頭〈千招尽盗〉が、南宮世家の天才剣士と相討ちになった場所なんだそうだ」
ほかの二人を怖がらせようと、男は大仰な声で言う。
「聞いたことがあります。蒼穹無涯剣を受けた〈千招尽盗〉は身体を両断されたが、南宮の若君は魔頭の絶技を受け、骨も残らなかったと……」
最も年少の、利発そうな青年が言った。
「ああ。だがな、この話には続きがあるんだ。死んだはずの〈千招尽盗〉の魂魄は、いまだに江湖を彷徨い、優れた技を持つ者の前に立つのだという」
「ほ、ほんとうですか……?」
最年少の剣士がたじろいだ。
「おいおい。真面目なのは良いことだが、師兄のくだらない怪談話に付き合う必要はないんだぞ」
もう一人の別の剣士が苦笑する。
それを見た最年長の剣士が、「つまらないやつだな」と不機嫌そうに唇を尖らせた。
そのときだった。
草叢を分ける足音が響いた。
剣士たちが一斉に立ち上がり、剣の柄に手をかける。
「誰だ!」
焚き火の光の中に現れたのは、襤褸をまとった一人の女であった。
若いのか老いているのか分からない、不思議な顔つきの女だった。虚ろな目して、口元は不気味に歪んでいた。
異様に赤い唇からは、ブツブツと不明瞭な独り言が漏れている。
「そこの御方、どうされましたか。我らは華山派の剣士。怪しい者ではございません。道に迷われたのなら……」
そう言いかけた最年長の剣士の首が、おもちゃのように飛んだ。
「お前に用はない」
女がニヤリと笑った。
「お、おのれ……! 妖怪か!」
そう叫んで剣を抜いた剣士の胴が裂け、上下に両断された身体が音を立てて地に落ちた。
残された最年少の剣士は素早く間合いを取り、剣を構える。
「……江湖の大先輩とお見受けします。なぜこのような非道をなされるのですか? 我らが何か無礼なことをしましたでしょうか?」
最年少の剣士は冷静を繕い、女に尋ねた。顔面は蒼白に染まっている。
「もしや、我が師兄が口にされていた〈千招尽盗〉のお話がお気に障ったのでしょうか?」
思い当たる節はこれしかなかった。
この女はどこかの秘密門派の高手で、その門派は過去に〈千招尽盗〉の被害を受けた。
たまたま通りかかった先で、生意気な若造どもが〈千招尽盗〉を面白おかしく語っているのを聞き、気に障って殺めてしまった……剣士の頭に浮かんでいたのは、そんな筋書きであった。
「千招尽盗?」
女がその言葉に反応した。
「千招……尽盗……」
女が繰り返す。その響きが、魂の底にある何かを刺激したようだった。
「ああ、懐かしい響きだ」
女が恍惚とした表情で言った。
「その言葉が……何であるかは分からぬ……だがなぜか心が躍る……」
女が剣士に歩み寄る。剣士は額に脂汗を浮かべ、剣を構えたまま後ずさる。
「ま、まさか……あなたが……! あなたが〈千招尽盗〉なのですか!」
「……わからぬ」
剣士の問いかけには、女は小首をかしげる。
「わしは華山である。あたしは峨眉である。拙僧は少林である。我は武当、彭家、天魔神教、諸葛、南宮……」
女が歌うように囁いた。
「長い、長い旅をしてきた……」
襤褸布から伸びる白く細い腕が、恐怖に痺れる剣士の首を掴む。
「我は……我は誰だ……? 何者だ……?」
「や、やめ……うぐっ!」
女と剣士の身体が同時に痙攣し、その場に倒れ込む。
須臾の後、立ち上がったのは剣士であった。
剣士は一瞬、拍子抜けしたかのような表情を浮かべた後、ニヤリと笑う。
「分かった、分かったぞ!」
山中に哄笑が響き渡った。
「かつて誰かが言った。我は武林の公敵であると。それは違う。あやつは間違えていた。我は、我こそは……!」
剣士が背をのけぞらせて叫んだ。
「我こそが武林である!」
(了)




