第4話:お隣さんと高級寿司
1万5000円のタクシー通勤。
その快適さに味を占めた俺は、帰りもタクシーを拾って自宅へ戻った。
時刻は午後2時。
いつもならデスクで睡魔と戦いながら、終わらないデバッグ作業をしている時間だ。
だが今の俺は、両手にデパートの紙袋を抱え、昼下がりの住宅街を優雅に歩いている。
「……静かだな」
平日の昼間の住宅街は、驚くほど静寂に包まれていた。
世界って、こんなに静かだったのか。
会社のサーバー室のファンの音と、上司の怒声しか聞こえない世界にいた俺には、この静けさ自体が最高の贅沢に思えた。
ボロ家の門扉を開けようとした、その時だ。
「……あ、佐藤さん?」
隣のアパートの方から、弱々しい声が聞こえた。
振り返ると、フェンス越しに見えるアパートの一階。
そのベランダに、女性が立っていた。
一ノ瀬葵さんだ。
築30年の安アパートに住む、俺のお隣さん。
年齢は俺より少し下、24歳くらいだったはずだ。
「こんにちは、一ノ瀬さん。今日はお休みですか?」
「は、はい……。ちょっと体調を崩してしまって、半休を……」
フェンス越しに見る彼女の顔色は、驚くほど悪かった。
透き通るような白い肌は美しいが、今はそれが病的な青白さに変わっている。
目の下には濃いクマ。
着ている部屋着もヨレヨレで、手には飲みかけのゼリー飲料が握られていた。
(……限界OLだ)
昨日の俺と同じ匂いがする。
彼女が大手広告代理店の下請けか何かで働いていることは、以前、回覧板を回した時に聞いたことがある。
激務で有名な業界だ。
「佐藤さんこそ……今日は、早いんですね」
「ええ、まあ」
一ノ瀬さんが不思議そうに俺を見る。
平日の真昼間から、スーツ姿の男が紙袋を抱えて帰宅。
普通に考えれば「クビになった」か「サボり」だ。
俺はニカっと笑って、事実を告げた。
「会社、辞めてきたんですよ」
「えっ!?」
一ノ瀬さんが目を見開いた。
持っていたゼリー飲料を落としそうになる。
「や、辞めたって……大丈夫なんですか? 次のお仕事とか……」
「大丈夫です。実はですね」
俺は声を潜め、フェンスに身を乗り出した。
ここが重要なポイントだ。
「ダンジョンで稼いだ」とは言えない。かといって、無職と思われて心配されるのも違う。
「ずっとやってた投資が、大当たりしましてね。一生遊んで暮らせるくらい入ったんです」
「と、投資……すごいです……」
一ノ瀬さんは素直に信じたようだ。
彼女の瞳に、少しだけ羨望の色が混じる。
労働からの解放。それは、今の彼女が最も求めているものだろう。
「で、そのお祝いに寿司を買ってきたんですけど……つい買いすぎちゃって」
俺は紙袋の中から、桐箱に入った「極上握り(2人前)」を取り出した。
1人前5000円。
デパ地下の宝石箱だ。
「消費期限が今日中なんで、一人じゃ食べきれないんです。良かったら、手伝ってもらえませんか?」
「えっ、そ、そんな悪いです! こんな高そうなお寿司……」
「捨てちゃうのはもったいないんで。ほら、SDGsってやつですよ」
俺は強引にフェンス越しに桐箱を差し出した。
一ノ瀬さんは躊躇していたが、桐箱から漂う酢飯と磯の香りに、抗えなかったようだ。
彼女のお腹が、グゥ、と可愛らしい音を立てた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
彼女は恥ずかしそうに箱を受け取った。
◇
俺たちは、フェンス越しの即席ランチ会を開催することになった。
俺は庭の縁側に座り、彼女はベランダの椅子に座る。
一ノ瀬さんが、震える手で大トロを口に運ぶ。
「……んっ!」
彼女の目が大きく見開かれた。
「おい……しい……」
「でしょ? 奮発しましたから」
「すごい……口の中で溶けました……。私、こんな美味しいお寿司、初めて……」
一ノ瀬さんの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
大粒の涙だ。
彼女は慌てて手で拭うが、涙は止まらない。
「あ、あれ、ごめんなさい。なんか、美味しくて……安心したら、涙が……」
「いいんですよ。美味しいものは正義ですから」
俺は自分の分のウニを頬張りながら、彼女を見守った。
わかる。その気持ち、痛いほどわかるぞ。
激務で心がすり減っている時に食べる「本物の飯」は、胃袋じゃなくて心に染みるんだよな。
彼女は泣きながら、それでも笑顔で寿司を食べ続けた。
その顔色の悪さが、少しだけ赤みを帯びていくのを見て、俺は奇妙な満足感を覚えていた。
5000万を稼いだ時とは違う、じんわりとした温かい満足感だ。
これが、「余裕」ってやつか。
完食した後、一ノ瀬さんは何度も頭を下げて部屋に戻っていった。
「またお礼します」と言っていたが、その足取りは最初よりずっとしっかりしていた。
「さてと」
俺は庭に残された寿司の空箱を片付け、視線を足元に向けた。
そこには、俺の生活を一変させた穴が口を開けている。
相変わらず、青い光が漏れている。
だが、さっきまでとは少し様子が違っていた。
スライムが出てきていない。
「打ち止めか?」
いや、違う。
穴の奥から、別の何かが転がり出てきた。
コロン。
それは、手のひらサイズの小瓶だった。
ガラスのような透明な容器の中に、淡いピンク色の液体が揺れている。
まるで香水瓶のようだ。
「なんだこれ。スライムじゃないぞ?」
俺はスマホを取り出し、『ダンジョンGO』でスキャンした。
『解析完了』
【名称】聖女の涙
【ランク】A
【効果】
・肉体疲労の完全回復
・外傷、内臓疾患の治癒
・細胞活性化による美容効果(大)
【推定買取価格】5,000,000 JPY
「…………」
俺は二度見した。
ポーション。
ファンタジーの定番アイテムだ。
だが、俺の目が釘付けになったのは、「完全回復」の文字でも「500万円」の金額でもない。
『美容効果(大)』
俺はチラリと、隣のアパートのベランダを見た。
さっきの一ノ瀬さんの顔が浮かぶ。
クマの浮いた、疲れ切った顔。
美味しい寿司で精神は回復したかもしれないが、蓄積した過労や肌荒れは、一朝一夕には治らない。
俺の手の中には、それを一瞬で解決できる「魔法の薬」がある。
「……これ、飲ませたらどうなるんだ?」
買取に出せば500万。
だが、今の俺には5000万の貯金がある。
金には困っていない。
俺の脳裏に、悪魔的なアイデアが浮かんだ。
隣の疲れ切った美人OLに、このポーションを飲ませて、超絶美少女に進化させる。
……それって、最高に面白い育成ゲームなんじゃないか?
「よし」
俺はその小瓶をポケットにねじ込んだ。
明日は、一ノ瀬さんに特製スムージーでも差し入れしてみよう。




