第3話:辞表提出、そして伝説へ
「お客さん、着きましたよ」
運転手さんの声で、俺は車窓から視線を戻した。
目の前にそびえ立つのは、横浜のオフィス街にある雑居ビル。
俺が勤める――いや、今日でオサラバするブラックIT企業のビルだ。
「料金、1万4800円になります」
「あ、カードで」
俺はブラックカード……はまだ持っていないので、普通のカードで支払いを済ませた。
タクシーで、ドア・ツー・ドアの重役出勤。
昨日までの俺なら、金額メーターが上がるたびに寿命が縮む思いがして、途中で降りていただろう。
往復3万円。俺の月給の6分の1が、たった1日の移動で消える計算だ。
だが、今の俺は違う。
1万5000円?
「……安いもんだな」
俺はふっと笑い、タクシーを降りた。
スーツを着ているが、ネクタイは緩めたままだ。
時刻は午前10時すぎ。
定時(9時)をとうに過ぎているが、バスと電車の乗り継ぎ地獄をショートカットした快適さに比べれば、遅刻など些細な問題だ。
自動ドアをくぐり、エレベーターで5階へ。
チン、と扉が開くと、そこにはどんよりとした空気が澱んでいた。
キーボードを叩く音だけが響く、静まり返ったフロア。
死んだ魚のような目をした同僚たち。
ああ、懐かしい。俺もこの「空気」の一部だったんだな。
「おい、佐藤ゥゥゥッ!!!」
フロアの静寂を切り裂く、下品な怒声。
開発部の部長、権田だ。
禿げ上がった頭に脂汗を浮かべ、鬼のような形相でこっちに歩いてくる。
「てめぇ、今何時だと思ってる! 定例会議すっぽかしやがって! 電話にも出ねえし、社会人としての自覚あんのかオラァ!」
権田の唾が飛んでくる。
いつもなら、俺はここで「す、すみません、寝坊して……」と縮こまり、1時間近い説教コースに突入していたはずだ。
権田はそれを楽しんでいる。
部下を恐怖で支配し、自分のストレスを解消する、典型的なパワハラ野郎だ。
だが。
「……臭いな」
「あぁ!?」
俺は鼻をつまみ、権田の顔をまじまじと見た。
こいつ、こんなに小さかったっけ?
口座に5000万ある俺に対し、こいつの年収はたぶん600万くらい。
なんだ、雑魚モンスターじゃないか。
「佐藤、てめぇ……今なんつった?」
「いえ、口臭がキツイなって」
「なっ……!?」
フロアがざわついた。
あの佐藤が、権田部長に口答えしたぞ、と。
「き、貴様……自分がどんな立場かわかってんのか!? ただでさえミスの多いお前を、俺が温情で雇ってやってるんだぞ! 評価下げるぞ! ボーナス無しだぞ!」
権田が顔を真っ赤にして喚き散らす。
評価。ボーナス。
ああ、なんて虚しい響きだろう。
この会社で必死に媚びへつらって、体を壊すまで働いて、貰えるボーナスなんて手取り20万だ。
俺のスライム狩り、5秒の稼ぎにも満たない。
「部長」
「な、なんだ! 謝るなら今のうちだぞ! 土下座して靴を舐めれば……」
「これ」
俺は内ポケットから、一枚の封筒を取り出した。
今朝、コンビニのネットプリントで印刷してきたやつだ。
権田の胸元に、それをペタリと押し付ける。
「退職届です」
「……は?」
権田の動きが止まった。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこのことだ。
「た、退職……? お前、正気か? 今抱えてるプロジェクトどうすんだ! 誰が引き継ぐんだよ!」
「知りませんよ。あなたが考えてください」
「ふ、ふざけるな! 損害賠償請求するぞ! この業界で生きていけなくしてやるからな!」
出た、脅し文句。
前の俺なら震え上がっていただろう。
だが今の俺には、「どうぞご自由に」としか思えない。
「損害賠償? いくらですか? 100万? 200万?」
俺はあえて、憐れむような目を権田に向けた。
「払いますよ、それくらい。小銭なんで」
「なっ……」
「じゃあ、有給消化とか面倒なんで、今日付けで辞めます。引き継ぎ資料はサーバーにあるんで、頑張って解読してください。あのスパゲッティコード、俺以外に読めるかわかりませんが」
俺は踵を返した。
背後で権田が「ま、待て佐藤! おい! 辞めるなんて嘘だよな!?」と叫んでいるのが聞こえる。
急に焦り始めたようだ。
当然だ。この部署の実務は、俺と数人の若手で回している。
一番こき使っていた俺が抜けたら、プロジェクトがどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。
「さようなら、ブラック企業」
俺は一度も振り返らず、手をひらひらと振ってオフィスを出た。
エレベーターホールに向かう途中、同期の田中とすれ違った。
死んだ目をしていた彼が、俺を見て驚愕の表情を浮かべている。
「さ、佐藤……お前、マジで辞めんのか?」
「おう。お前も無理すんなよ」
「でも、次どうすんだよ……」
「ん? まあ、実家の農業を継ぐかな。家庭菜園だけど」
エレベーターに乗り込む。
扉が閉まる瞬間、怒り狂う権田の顔と、羨望の眼差しを向ける同僚たちの姿が見えた。
チン、と音がして1階に到着する。
ビルの外に出ると、突き抜けるような青空が広がっていた。
「…………」
俺は大きく息を吸い込んだ。
排気ガス混じりの都会の空気。
けれど、今まで吸ったどんな空気よりも美味かった。
「終わった……」
いや、始まったんだ。
社畜としての俺は死んだ。
今日から俺は、自由な探索者だ。
スマホを取り出すと、権田からの着信が既に5件入っていた。
俺は迷わず「着信拒否」に設定した。
「さてと」
自由だ。何をしてもいい。
とりあえず、腹が減った。
昨日の夜から興奮しっぱなしで、何も食べていない。
「寿司だな」
それも、スーパーの半額シールがついたやつじゃない。
回らないやつだ。
俺はデパートの地下にある、高級寿司の持ち帰り専門店へ向かうことにした。
一番高い「極上握り(5000円)」を2人前買って帰ろう。
2人前?
ああ、そうだ。
俺の脳裏に、隣のアパートに住む女性――一ノ瀬葵さんの顔が浮かんだ。
いつも深夜のベランダで、コンビニのおにぎりを虚ろな目でかじっている、薄幸の美人OL。
先日も目が死んでいた。昨日までの俺と同じ目だった。
「……お裾分けでもするか」
別に下心があるわけじゃない。
ただ、今の俺には幸福が余っている。
一人で抱え込むには重すぎるほどの幸福が。
だから、少しだけお裾分けするのだ。




